徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

外見で不合格!―県立高校入試―

2008-10-31 11:00:00 | 寸評
真面目な生徒は、見た目で分かる?!
そんなことはないだろう。
逸脱した、合否判定の基準が問題だ。

金髪やスカート丈など、見た目で受験生を不合格にしていた。
入試の選考基準にも定めていなかった。
高校の、内部告発で分かった。

いい学校にしたかった。
真面目な生徒を採用したかった。
それが理由だ。
分からないではない。

それにしても、学力試験では合格圏内だった22人の受験生が、不合格になった。
教育委員会の選考基準は、調査書と面接、学力検査だということで、身なりや態度は基準には含まれていない。

それなのに、この学校では、受験生の態度は勿論、服装など少しでもだらしなかったり、化粧していたり、胸ボタンがはずれている、ズボンを引きずっている、爪が長いなどの理由で、合否を判定していたようだ。
とんでもない話です。

校長は、不適正とは認識しながら、合否判定を行っていた。
生徒指導の先生への負担軽減が目的で、学力よりも、真面目な生徒を採っていきたいとの思いが強かったそうだ。
このことについて、教員の間でも異論は出なかったらしい。

この学校は、偏差値が30台後半で、中退する生徒が年間100人を超える、いわゆる“課題校”だそうで・・・。
まあ、不良マンガさながらに、教員は生徒による校内暴力や不登校、バイクの暴走行為に悩まされてきていた。
だから、性格や品性を外見に頼ったのか。

生徒には、命の大切さも教えている。
かつては、定員割れの不人気校だったそうだが、近隣校との編統合が決まった04年以降、受験志願者が増え、何と今年は3.5倍の高倍率だった。
学校が、生徒を選べるようになって、驕りのようなものが出たのかも知れない。
だからといって、勝手に、事前の相談もなく、こうしたことが行われていい筈はない。
タレント・山瀬まみが、かって在籍していた高校だそうだ。

当然のことながら、このことで、校長は更迭された。
今春不合格になった10人を含む、合計22人については、入学希望者がいれば、受け入れる方針だ。
これも当然の話だ。

ルールも明示しないで、外見だけで選ぶのはおかしい。
茶髪や、身なりのだらしない高校生をよく見かけるが、とくに問題児とも思えない。
身なりがしっかりした子でも、問題を抱えた子はいる。
様々な問題を抱えた生徒を受け入れることに、学校教育の課題があるのではないだろうか。
ただし、人は誰でも、見た目は身なりがよくないよりはよい方がいいのでは?
これ、一般論ですが・・・。

映画「東南角部屋二階の女」―若者たちの戸惑い―

2008-10-29 20:00:00 | 映画
世の中がままならない。だから、信じることを、ゆっくり生きていく。
こんな世の中だから、逃げ出したい若者たちがいる。
一方で、時世に惑わされない老人がいる。
近くにある、確かなものを見逃してきた若者たちに、普段は接点のない、人生の先輩たちとの出会いが訪れる。
寓話的で、童話のような、ある種の頼りなさを描いた作品だ。

亡父の借金を抱える野上(西島秀俊)は、祖父の反次郎(高橋昌也)の土地を売って、返済にあて、家付き娘でももらって出直そうかと、会社を辞める。
(この会社を辞めるというのも、少々理解しにくいのだが・・・)
祖父の土地には、祖父を世話する藤子(香川京子)が所有する、古びたアパートが建っている。
そこへ、野上にならって、ともに会社を辞めた後輩(加瀬亮)と、野上と見合いをしたフリーの仕事をしている涼子(竹花梓)が偶然のように集まって来る。
アパートは、取り壊し寸前だ。

社会のどこにも属することなく、漠然とした不安と焦りを感じながら、ひとつの古めかしいアパートに集まって来た三人・・・。
その三人の心に、やがて暖かな陽だまりが出来ていく・・・。

80年生まれの池田千尋監督は、時代の気分を象徴する若者たちを、優しい眼差しで見つめる。
・・・真剣に生きることをさけている若者たちと、日常を丹念に生きている表舞台から退いた人たち・・・。
同じ場所と時間を共有し、同じ想いを胸に抱くまでの、短いがゆるやかな時の流れを描いている。
つまり、分かりやすく言うと、‘過去’にこだわらない若者たちと、‘過去’に生きる老人たちの、それぞれの想いを紡ぎだすお話なのだ。

ただ、道具立ても古めかしい。
時代染みた古い建物、老人たちの愛のかたち(?)、どのシーンも丁寧に描かれてはいるのだが・・・。
しかし、インパクトがない。
登場人物の掘り下げも浅い。
彼らの、目的、性格、信念もはっきりしない。
若者たちの息使いが、まるで伝わって来ない。
いや、もしかしてそのあいまいな彼らの戸惑い自体を描きたかったのか。
暗示や省略が多い。
全体に、淡々とした描写が続き、繊細な演出を試みながら、極論すると何かが物足りないのだ。

東京芸術大学大学院映像研究科を卒業したばかりの、27歳の若き池田千尋監督が、ベテラン俳優陣の力を借りて、世に問うた一作である。
優等生の、卒業記念制作作品のような・・・、そんな気がしないでもない。
ともあれ、映画「東南角部屋二階の女は、微妙な味わいのある作品とはなっている。
まだ、これからを嘱望される、女性新人監督の次作に期待したい。

映画「ブーリン家の姉妹」―愛と陰謀のドラマ―

2008-10-27 21:00:00 | 映画

愛は、分からない。
・・・姉妹の絆は、愛と権力によって引き裂かれる。
愛と復讐の狭間で、揺れる心・・・。
この作品は、光と影に生きた女たちの、史実にもとずく物語だ。
舞台は16世紀のイングランド、国王ヘンリー8世の治世下で、400年以上も語り継がれてきたという“結婚秘話”だ。
イギリスのジャスティン・チャドウィック監督による、英米合作映画だ。
イングランドということもあるが、ヨーロッパ色の強い、いかにも映画らしい映画と言えそうだ。

21世紀のいま聞いても、あまりにもスキャンダラスな物語なのだが・・・。
ヘンリー8世とアン・ブリーンの結婚にいたるまでの物語の裏には、アンと妹のメアリー二人の姉妹の驚くべき秘密が隠されていたのだった。
・・・陰謀渦巻く宮廷で、王を巡る運命に翻弄される姉妹の、歴史を揺るがしたドラマである。

国王ヘンリー8世(エリック・バナ)は6人の王妃がいたが、そのうち2人までも処刑したことで有名だ。
王女メアリーにはめぐまれたものの、跡継ぎになる男の子は生まれない。
そこに、新興貴族として登場したブリーン家の家長トーマスは、さらに一族の地位を固めようと、長女のアン(ナタリー・ポートマン)を王のもとに差し出すのだ。
ところが、王が気に入ったのは、清純で気立てのいい妹メアリー(スカーレット・ヨハンソンの方であった。
しかし、メアリーはすでに結婚していて、幸福な人生を過ごそうとしていた。

アンの美貌、知性豊かな振る舞いに、王は魅せられるが、結婚したばかりで夫のいるメアリーにより以上の魅力を感じてしまうから、話はたいそう厄介なことになる・・・。
王の権力は絶対だ。
妹メアリーは王の愛人に、複雑な思いの姉アンはフランスに渡る。

メアリーは男の子を生むことで、ブーリン家に繁栄をもたらすが、離婚の出来ないカトリックの掟がある。
愛人の子は、愛人の子でしかない。
しかも、体調を崩したメアリーに、王の興味は次第に失せていく。
急遽、家族の意向でフランスから呼び戻されるアン・・・。
いまや、洗練された美しさで宮廷に現れたアンに、王は目を見張る。
正式な結婚を望むアンは、王に結婚を迫る・・・。
あくまでも、望むのは<王妃の座>
なのである。

妹は姉を裏切り、姉は王を奪い返すことになる。
姉は、のちの女王となるエリザベスを生むが、不幸な人生を送ることになる。
・・・断頭台の露と消える、悲劇の王妃アンと、知られざる妹メアリー、ブーリン家の二人の姉妹の間で繰り広げられる、熾烈で華麗なバトルが見ものである。

時代に、そして権力に翻弄されながらも、女性としての生き方を、自らの判断で貫こうとした姉妹の軋轢、葛藤は実にきめ細かく描かれる。
勿論、史実や原作と異なる部分はあるが、イングランドの歴史が解りやすい。

ナタリー・ポートマン、スカーレット・ヨハンソンの二人の演技が光っている。
それぞれの性格を見事に演じて秀逸だ。
素晴らしいのは、イギリスの歴史的建造物や自然の映像の美しさで、まるで絵葉書でも見ているようだ。
それに、音楽もいい。
映画「ブーリン家の姉妹は、重厚な歴史ドラマの趣きを見せて、十分楽しめる見応えのある作品だ。


読まない?読めない?―今どき総理大臣―

2008-10-25 07:00:00 | 寸評

どうやら、本当らしい。
国会でも、「新聞は努めて読まないようにしている」と、大威張りで答弁した。
一国のトップが、恥も外聞もなく(?)言い切ったのだ。
実際、麻生総理は、ほとんど新聞を読んでいないと言われる。
それでも、マンガとなると、週に10冊以上も軽く読んでいるいるそうだ。
そんなことで、社会や経済の動きがよく理解できるのだろうか。

新聞は、情報の宝庫だ。
その行間からは、世間の動き、空気、におい、ため息を嗅ぎ取ることが出来る。
新聞を読まないで、国民の暮らしや、世情をどうして解るのだろうか。

庶民派をアピールするために、商店街のスーパーを視察するパフォーマンス・・・。
かたや、夜になれば、一流ホテルで、豪華ディナーにバーのはしごを満喫する。

選挙より景気対策が大事と、「冒頭解散」を豪語しながら、総理の座を離れる気配もない。
国民を無視して、一日でも長く権力の座にありたいという魂胆がみえみえだ。
国民の信を問わぬ内閣・・・、いつまで続くのか。

新聞を読まないのではでなくて、読めないのではないかという声がある。
そうかも知れない。(?!)
読むというのは、記事を読むこともそうだが、記事の行間、背景(裏)を読み解くことだ。
当然、読解力、理解力がなくては出来ない。
それでなくて、どうして庶民の生活が解るだろうか。

幼い子供に、新聞記事を読み聞かせ、やさしく解説しているという母親の記事を読んだ。
ああ、とても、いいことだと感じ入った。
子供は、「新聞を読まないし、読まないようにしている」という総理大臣の言葉を、どうとらえるだろうか。
そんなことを豪語していて、よほど己の美徳とでも思っているのだろうか。

庶民感覚とかけ離れていると言われて、セレブ飲食の総理は逆にブチ切れて、記者団の前でイライラを爆発させた。
あまりみっともいいものではない。
公明党の幹部議員でさえも、「はしゃぎすぎだ。あれでは、まるで悪がきが調子に乗っている」と非難した。
金持ちだから、つかの間庶民派を気取ったところで、そういう化けの皮はすぐにはがれる。
この景気の悪いときに、一国のトップの言動は、反感を買わない方がおかしいのだ。

吉田茂の孫で、麻生セメントの御曹司として生まれて来て、自分は一般庶民とは違うのだという帝王学を受けてきたこの方に、庶民を演じきることなど容易ではない。
庶民なんか、実は大嫌いなのではないか。
マンガ好きの、大衆的な男だからと、一体誰が持ち上げたのだろう。

本人が「安い」と豪語(?)する一流ホテルの会員制バーは、何と入会金52万5000円、年会費12万6000円、それにセクシー系美女が給仕をする・・・、のだそうだ。
会員制といっても、選ばれしごく一部のセレブだけで、誰でもというわけにはいかないようだ。
この「安い」は、とても庶民の感覚ではない。ケタが違うのだ。
庶民など、まず足を踏み入れことも出来ない。
高価な酒に加えて、サービス料もつくから、2、3人で連れ立って飲めば軽く10万円は下らないという。
「飲む」だけの会員になるのに、初年度で65万円はかかる。
庶民派バーとはえらい違いだ。
「お金はあるから、自分で払っている」と言うが、庶民派をアピールする説得力は全くない。
マンガ読みでは人後に落ちない総理大臣、庶民の「空気」はどこまで読み込むことが出来るというのか。

景気は、すぐにはよくはならないだろうし、まだまだ最悪にまで落ちて、未曾有の事態が到来するのではないか。
これからの、国民生活が心配だ。
世界的にも、大不況の様相を呈しているおり、解散風もそっちのけで、毎晩のように、夜の豪遊で高い酒をあおっている総理大臣の姿を、庶民はますます覚めた目で見ている・・・。


映画「P.S.アイラヴユー」ーよくある少女小説のようなー

2008-10-23 07:00:00 | 映画

この作品は、2002年、まだ弱冠21歳のアイルランドの女性作家セシリア・アハーンが書いた純愛小説が原作だ。
世界中の女性たちの共感を呼び、500万部以上のベストセラーとなった。
しかも、彼女の処女作だというから、この勢いには驚く。
・・・でも、映画は大人の世界であっても、この作品は少女小説の世界のように見えてならない。

リチャード・ラグラヴェネーズ監督の、アメリカ映画である。
死んでしまった夫から、ある日、届き始めた“消印のない”十通の手紙・・・。
それが、すべての始まりであった。
女の人生に、奇跡を起こすのだろうか。

陽気で、歌の大好きな、アイルランド人の夫ジェリー(ジェラルド・バトラー)と、つつましくも幸福な人生が続くと信じていたホリー(ヒラリー・スワンク)だった。
しかし、そのジェリーが脳腫瘍で急死、ホリーは失意のどん底から抜け出せず、家にこもるようになった。
愛する者を失った悲しみと、残された者は続いていく人生をどう生きればよいのか・・・。
それでも、愛とは持続するものなのだろうか。

そんな彼女のもとに、贈り物が届いた。
それは、ホリーが引きこもることまで見通していた夫が遺した、カセットテープに吹き込まれた、バースデイ・メッセージであった・・・。
「友達と外に繰り出せ」「セクシーな服を着て次の手紙を待て」・・・、次々と届く消印のない手紙に従うホリーは、友情と家族の愛に支えられ、徐々に生きる勇気を取り戻してゆく。

それでも、親友たちが新たな人生を歩みだすなかで、ホリーはひとり取り残されたような、突然の孤独感に襲われる。
この世界で、自分はひとりぼっち・・・。仕事も、友達も、人生も、もうどうでもいい。
ジェリーのいない人生なんて・・・。
どうにもならない寂しさを、ホリーは母にぶつける。夫はもうこの世にはいない。
手紙は、永遠には続かない。
そして、ついに最後の手紙がホリーのもとに届けられる。
ホリーにとって、そこからが本当の人生のはじまりなのであった・・・。

この作品、愛と笑いとニューヨークというが、ジョークひとつとっても、くどく、騒々しい。
夫婦が大喧嘩をしたと思ったら、急転直下ベッドシーンになったりと、ハチャメチャに慌しいのも気になる。
ヒロインは、主婦でなくなってから何を仕事にしているのだろう。よく分からない。
つとめて明るい作品をを目指したのだろうが、ずいぶん賑やかなドラマだ。
もとはと言えば、21歳の若い女性の書いた物語だ。それも、一応は大人の物語だ。
悲しみも、笑いも、苦しみも、通りいっぺんに過ぎない。
いや、まさしくそう見える。
あるべき感動は希薄で、貴重な時間が失われてしまって、心の底に残るものとてなかった。
作品の、あの騒々しさは一体何だったのだろう。

はじめから、さしたる期待もしていなかったが・・・。
それにしても、この映画「P.S.アイラヴユーに主演のヒラりー・スワンクという女優は、二度もアカデミー賞主演女優賞を受賞しているのだが、このキャスティング、果たして、本当にこれでよかったのだろうか。
・・・黄昏の秋風の中で、ふとそんな小さな疑念が凡庸な脳裏をよぎった。


映画「譜めくりの女」ー憧れと絶望ー

2008-10-21 07:00:00 | 映画

何やら、危険な香りがする。
ピアニストに近ずく美しい女・・・、彼女は何のために現れたのか。

ドゥニ・デルクール監督のこのフランス映画は、ピアニストへの夢を絶たれた少女の夢を軸に、憧れと絶望、時を経て立場が逆転した二人の女性の愛憎を、クラシック音楽の演奏という舞台を背景に描いた作品である。
デルクール監督は、ヴィオラ奏者でもあり、ここでは、一曲のクラシック音楽さながらにドラマを仕立てた。
全編を通して、きめの細かい、情感豊かな演出が感じられる。

物静かな少女メラニー(デボラ・フランソワ)の夢は、ピアニストになることだった。
しかし、コンセルヴァトワールの実技試験で、審査員で人気ピアニストのアリアーヌ(カトリーヌ・フロ)が取った無神経な態度に激しく動揺し、ピアニストへの夢を封印する。

・・・十数年後、妖しいまでに美しく成長したメラニーは、自ら慕い、ひそかに憎しみ続けたアリアーヌと再会するのだ。
そうとは知らないアリアーヌは、メラニーに、自分の演奏会の鍵を握る“譜めくり”を依頼し、次第に信頼を寄せていく。
・・・あなたがいないと、だめになる・・・。

譜めくりとは、ピアノニストの横で、曲の進行にしたがって楽譜をめくる役回りで、決して目立たぬ存在ながら、演奏の出来を大きく左右する大切な役だ。
当然譜面は読めるし、譜面をめくるタイミングは早すぎても遅すぎても、演奏に影響を与える可能性も大いにある。
観客は、
そのような微妙な危険がひそんでいることに気づかない。
だから、言いかえれば、彼女はピアニストを陰で支配しうる立場だった。

メラニーは、アリアーヌの演奏を成功させ、彼女を支配するのは自分であることを確信する。
彼女は、次第にアリアーヌの心をもてあそぶかのように振舞い始める。
そして、アリアーヌの三重奏団のチェリストの謎の怪我、息子が隠す秘密、演奏直前の失踪と、メラニーが来てから次々と起こる出来事に、信頼と不安がないまぜになり、アリアーヌの精神状態はますます不安定となっていく。
メラニーは、やがて、少女の頃から憧れながらも、ひそかに憎しみ続けたアリアーヌに向け、「ある計画」を実行に移すのだった・・・。

フランス映画「譜めくりの女は、女の憎悪と羨望が交錯し、一見言葉の少ない心理劇の様相を呈している。
幕開けから、メラニーは潜在的に危険な雰囲気を漂わせ、彼女の表情を抑えた行動は、観ている者にも、静謐な恐怖となって伝わってくる。
ドラマは淡々と描かれているように見える。でも、決してそうではない。
気の抜けない不協和音は、最後までこの作品を蔽っている。
そこは、敢えて抑制の聞いた演出ともとれるのだが、やや物足りなさも感じる。
この作品のために書き下ろされたという音楽が、冒頭から独特なトーンと緊張感をかもしだしている。
カンヌ映画祭の「ある視点」部門の公式上映では、かなり高い評価を得た作品だ。


映画「美しすぎる母」ー愛憎の果てにー

2008-10-19 12:00:00 | 映画
何故、母親は息子に殺されたのだろうか。
この作品は、実際にあった息子による母親殺害事件を映画化したものだ。
事件は、1972年11月、プラスチックを発明したアメリカの大富豪ベークランド家で起こったものであり、母親を包丁で刺し殺した息子アントニーはそのとき25歳であった。

貧しい家に育ったバーバラ(ジュリアン・ムーア)は、大富豪ベークランド家の跡継ぎであるブルックス(スティーヴン・ディレイン)と結婚する。
一人息子アントニー(エディ・レッドメイン)を授かり、憧れの上流階級での幸せを実感する日々であった。
だが、数年後、夫のブルックスは若く美しい女と一緒になるために、バーバラから離れてゆく。
居場所を失ったバーバラは、アントニーとともに、ニューヨク、パリ、カダケス、マジョルカ島、そしてロンドンへとあてなく彷徨う。

それは、世間から取り残された二人だけの生活であった。
その生活は、何かが少しずつ狂い始め、幸せだった彼女の人生は残酷に堕ちて行く。
愛の対象であった夫を失くして、バーバラの愛はアントニーへの比重を強めていくのだ。
息子アントニーも、父の代わりに母を愛し、守ろうと強く意識するようになる。
しかし、日常生活の中で、小さな感情の綻びはやがて亀裂となり、埋めることの出来ない大きな溝へ育っていく。

母子の会話、他人とのコミュニケーションを介しての母子の行き違い・・・、全てを求めた“母”と彼女の愛に翻弄された息子の間に、正気でない空気がふくらみ、それはアントニーの狂気へと発展する。
・・・そして、その愛憎の果てに、悲劇的な破滅を迎える。

愛と憎しみは紙一重と言うけれど、考えると怖い話だ。
「僕は、母を殺した」・・・時代の闇に埋もれた衝撃のスキャンダルだ。
優美さと暴力性という組み合わせのドラマだ。
ただ、この映画の結末は少々あっけない。拍子抜けの気がしないでもない。
トム・ケイリン監督による、スペイン、フランス、アメリカ合作映画「美しすぎる母は、愛する息子に殺される母親の悲劇である。

映画「その土曜日、7時58分」ー最大の誤算!ー

2008-10-17 07:00:00 | 映画

アメリカ映画、シドニー・ルメット監督のこの最新作は、スリリングで重厚な人間ドラマだ。
ここで語られるのは、家族の崩壊劇であると同時に、身内に起こる心理劇でもある。

いままで楽をしてもうけて来た兄弟が、金でつまずき、安易に犯罪に手を染める数奇な運命を、親子の因果関係を絡めて描いている。
現在84歳のシドニー・ルメット監督は、まことに緊迫したドラマを作り上げた。

ニューヨークで、大きな不動産会社の会計士を任されている、アンディ(フィリップ・シーモア・ホフマンは、一見誰もがうらやむような優雅な暮らしをしていた。
アンディは、離婚され娘の教育費も払えない弟ハンク(イーサン・ホーク)に、危険な企てを持ちかける。
それは、自分の両親が地道に営む宝石店に強盗に入ることだった。
盗む宝石には保険がかけられていて、盗品を闇でさばけば、誰一人として損をする者はいないという筋書きであった。

しかし、犯行を実行に移した、その土曜日、7時58分、最悪の事態が待ち受けていた。
いや、それこそは最大の誤算であった。
兄弟の考えた犯行のシナリオは、完全に狂ってしまったのだ・・・。

最悪の誤算をきっかけに、次々と家族の闇が暴かれていく。
妻の裏切り、親子の確執・・・、行き場を失った運命の二人は、もう元にはもどれない・・・。
誰をも傷つけるはずのなかった完全犯罪は、たったひとつの誤算のために、悲劇の連鎖へと姿を変えて、一気にクライマックスへ突き進む。


シドニー・ルメット監督の演出は冴えている。
何が、彼らを駆り立てたのか。
人物の、重層的な掘り下げ方がうまい。シャープである。
全く先を読むことの出来ない緊迫した展開、登場人物の意外な人柄と心情、それらがフラッシュバックの手法で、次第に明らかにされていく。
この作品のストーリーは、時系列や視点が、断片的に入れ替わりながら語られる。
斬新で、巧みな構成である。
ドラマの終盤は、まさに暗澹とするしかない展開で、この映画の<重さ>がひしひしと伝わってくる。
複雑に入り組んだカットバックの連鎖は、ドラマが進むにつれて、アンディ、ハンク、そして父親チャールズの心理的な葛藤や、置かれている立場を徐々に解き明かしていくことになる。
心理描写にまで、ミステリー手法が昇華されている。

ねじれた兄弟関係の修復に立ち上がる厳父チャールズ(アルバート・フィニー)の、いぶし銀の演技が光っている。
アルバート・フィニーはこう語っている。
 「ほんの一秒ですべてが変わる。人生で何が起きるかは、誰にも分からない」と。


アメリカ映画「その土曜日、7時58分は、人間の持つ脆さと弱さが容赦なくあぶり出されて、なかなか見応えのある作品となっている。
ニューヨーク批評家協会賞をはじめ、6つの映画賞に輝く。


映画「最後の初恋」ー大人の恋のときめきー

2008-10-15 20:00:00 | 映画

愛とは何だろう。
深い愛がなければ、おそらく深い喪失もない。
「きみに読む物語」で知られる、ニコラス・スパークスの小説を原作に得た、ジョージ・C・ウルフ監督の作品だ。

人生に迷いながらも、走り続けたことで出逢える恋がある・・・。
人生の挫折を経験し、自信をなくした中年男女のラヴストーリーである。

幸せな結婚をしたはずなのに、気がつけば夫は家を出て行き、思春期の娘は反抗ばかりしている。
自分の選んだ人生に裏切られ、日々の暮らしにさえ疲れ果てて、エイドリアン(ダイアン・レインは、小さなホテルを5日間手伝ってほしいという親友の頼みを引き受ける。

ノースカロライナの、アウター・バンクスにある小さな町、ロダンテ・・・。
季節はずれのリゾート地の客は、たった一人だった。
ポール・フラナー(リチャード・ギア)と名乗る外科医だった。
最初は、横柄で不器用に見えたポールも、実はある悩みを抱え、この町で答えを見つけようとしていた。
お互いの事情を知るうちに、共感と反発が交じり合い、やがてそれがときめきに変わっていく二人であった。

そして、3日目の夜・・・。
町を襲った嵐が、二人の人生を強く激しく結びつける。
嵐が過ぎ去って、彼らはそれぞれの人生に帰っていく。
しかし、別れたその日が愛の始まりであった。
嵐の夜をきっかけに、もう当たり前のように燃える大人同士の恋があった。

再会の約束を抱きしめて、エイドリアンは、自分らしい人生を歩み始めようとしていた。
だが、時に運命は、幸せを得たものに、残酷な試練を与えることも知らないで・・・。


人生も半ばを過ぎたとき、男と女は、さらなる新しい人生をはじめることが出来るだろうか。
過去に幾度か共演もしているダイアン・レインリチャード・ギアも、息の合ったところを見せている。
二人の5日間の恋は、やがて強く深い愛へと変わっていく。
細やかな演技も息づかいも、解らぬではない。
人生における、もっと苦悩の葛藤はなかったのか。あったとしたら、この描き方は甘っちょろい。
甘い恋だけが人生ではない。
熟年男女の、恋の裏側にあるものをもっと抉り出して欲しかったのだ。
ドラマの展開が予想できてしまうような、ありきたりの(?)ストーリーはどうも・・・。
新味を感じさせるものは、何もない。
何のことない、これでは、よくある古色蒼然としたメロドラマだ。

確かに、幾つになっても恋はできる。
愛を犠牲にしても、するべきことがある。
「人は、何かを始めるのに、遅すぎるということはない」
アメリカ映画「最後の初恋は、そんなメッセージを発信しているのかも知れない。


映画「トウキョウソナタ」ー揺らぐ日本の家族ー

2008-10-13 10:00:00 | 映画
 (10月14日 記事一部追加)
ごく普通に生活していた筈なのに、いつのまにかばらばらの不協和音しか奏でられなくなった家族・・・。
もう一度一緒に、ひとつの旋律を鳴らせる日は来るのだろうか。

黒沢清監督は、この作品の中で、現代の日本の家族を正面から取り上げた。
どこにでもいそうな四人の家族に起きる、様々な事件の積み重ねを通じて、親と子、人と人とのつながりを大きく見つめなおした意欲作だ。
原案となったのは、かつて日本に住んでいた経験のある、オーストラリア出身の脚本家マックス・マニックが執筆した日本の家族についての物語だそうで、これに黒沢監督が大きく手を加えて肉付けをしたのだそうだ。

ドラマは、リアルでシニカルだ。
どこかに温かさもある。悲哀もある。
混沌として、閉塞感の漂う時代、この四人家族の日常は、日本や世界の状況と決して無縁ではない。
リストラ、失業、就職難、学校、教育の問題、そして戦争・・・。
誰もが、外部の大きな力に翻弄されながら生きている。

映画は、リストラされた父親(香川照之)の失業から始まる。
都心で、妻(小泉今日子)と二人の息子と暮らしている彼は、家族にそのことを話せない。
突然、米軍に入隊すると言い出して家を出る長男、家族に内緒でピアノを習い始める次男、子供たちの生き方に異を唱える頑固な父親、そんな家族をまとめようとする母にも異変が起き始めていた。
平穏に暮らしていた筈の家族に、さざなみが立ち始める・・・。

夫はハローワークに通いつめ、ついにそれでもやっと、ショッピングモールの清掃員の仕事に就く。
妻は、夫が会社に行っていると思っている。
彼は、通路でスーツ姿から作業着に着替え、トイレ掃除もやる。
一日の終わりには、またスーツに着替え、何事もなかったかのように家路につく。
そのショッピングモールで、ある時彼は妻とばったり出会ってしまうのだ。
 「あなた、こんなところで何をしてるんですか?」
妻と鉢合わせになった夫は、慌てて逃げていく。
笑うに笑えぬシーンとはこれか。
可笑しいが、しみじみと悲しい。

・・・そうして起こる家庭崩壊を追いながら、現代の日本の抱える社会問題を浮き彫りにする。
家族の日常を淡々と綴りながら、ブラックな笑いとサスペンスフルな展開で観る者を引き付ける。

登場人物たちは、自分なりの判断で、何事も出来る範囲でことに当たる。
どちらかと言うと、父親の権威が崩壊しているいまの時代、真面目に生きようとすればするほど、その行動は喜劇に転じ、悲しくさえ見えてくるのだ。
黒沢監督の、乾いた演出の効果だろうか。
カンヌ映画祭での上映は、外国人の観客から終始笑いが起きていたという。

よりどころとなる母親(小泉今日子)もまた、途中で強盗(役所広司)によって外に連れ出されてしまう。
母親は、人生の途中で家族とのつながりを失ってしまっている。
強盗に連れ出された母親にとって、信じられるのはもう自分ひとりでしかなくなっている。
(このシーンはかなり長々と続くのだが、作品にとって本当に意味があったのか疑問だ。)
不協和音が流れる中で始まったこの家族の物語は、無事ピアノを習うことが出来た次男が、ドビュッシーの「月の光」を演奏する場面で終わる・・・。

黒沢清監督トウキョウソナタは、2008年カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門審査員賞受賞作品だ。
作品は、ところどころやや荒削りな部分もあるが、制作の意欲は十分伝わってくる。
家族を構成する父、母、子供たちが、惰性だけでつながっていて、今や血のつながりというような言葉は意味を持たなくなってしまった。(?)
映画は、家族の崩壊と再生を描き、家族という共同体の持つ価値観についても問いかけている。