徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「苦役列車」―愛すべきダメ男のほろ苦きひとつの青春―

2012-07-30 09:30:00 | 映画


 西村賢太芥川賞受賞作を、「マイ・バック・ページ」山下敦弘監督が映画化した。
 原作者本人を思わせる若者の、屈折した青春像に、悲しさと可笑しさがにじむ。
 若者は友ナシ、金ナシ、女ナシで、それでも愛すべき(?)ロクデナシの、いわば小さなモンスターだ。

 原作をシリアスに捉えると、社会の底辺を生きている人の話になるが、映画は、いまおかしんじの脚本によるところが大きい。
 どうにもひねくれた青春を綴って、それでも世間からはみ出しながらも、たくましく生きていく。
 ゆがんだ青春には、それなりのエネルギーだってあるのだ。
 ダメ男だが、憎めない。
 そんな男の物語だ。







     
1980年代、19歳の北町貫多(森山未来)は、明日のない生活を送っていた。
日雇い労働者で、なけなしの金はすぐに酒に消え、三畳、風呂なし、トイレ共同の安アパートの家賃も滞納はかさむばかりだ。
大家は、払えないなら出て行ってくれとせっつく。

そんな貫太が職場で、新入りの専門学校生、日下部正二(高良健吾)と知り合った。
中学を出ただけの貫多は、ひたすら他人を避け、ひとりぼっちで過ごし、ただただ読書に没頭してきた。
日下部は、貫多にとって、初めて「友達」と呼べるかもしれない存在となった。

貫多には、かねてから恋い焦がれる女の子がいた。
いつも行きつけの古本屋で、店番をしている桜井康子(前田敦子)だった。
読書好きな康子には、貫多にとって理想的な存在だ。
その彼女への思いを日下部に話すと、世なれた日下部は上手く仲介して、貫多は康子と一応「友達」となった。
しかし貫多にとって、「友達」とは・・・?
自分の人生に突然降ってきた、新しい出逢いに大いに戸惑いながらも、19歳の男の子らしい日々を送るのだが・・・。

貫多は、友達となった康子に握手を求めると、思わずその手をペロッとなめてみたり、ゴミ溜のようなアパートに住んでいて、誰が見たって、どうにもみっともない男なのだ。
原作はシリアスで暗い物語だが、映画はまた違って、主人公の未来への希望を抱かせる一面を見せる。
西村賢太という人物がいる。
それを虚構化した貫多がいる。
その先に映画の貫多がいる。
気の小さい、人間サイズのモンスターと山下監督の言うように、結局は貫多という男の自業自得の物語だ。

人と人とのコミュニケーションにしても、男女の恋愛にしても、いつだって、どんな時だって、本来欠かせないプロセスがあるものだ。
そのプロセスが、全部抜け落ちている感覚が、この作品にはある。
原作には劇的な要素が欠けていても、脚本ではしっかりと古本屋で働く康子を登場させ、貫多は康子に恋をする。
このぐらいないと、映画の貫多もやりきれない(!?)からか。
そのせっかくの康子役は、ないよりはあった方がいいが、つかみどころのない人物像で、描かれ方もひどく不十分だ。
でも、康子の登場は、映画だけのオリジナルなのだけれど、真冬の海に下着のままで飛び込むシーン、失意の貫多が土砂降りの中で康子に会い、やるせない気持ちをぶつけるリアルなシーンなど、前田敦子の演技は体当たりだ。
彼女も頑張っていて、そこだけは輝いて見えるが・・・。

この作品の舞台となった1986年という年は、ソ連のチェルノブイリ原発で爆発事故のあった年で、劇中で康子の通っていた銭湯も、当時大人の料金は260円の時代だった。
映画の衣装も、80年代の雰囲気を忠実に再現している。
いまの時代、ほとんどがデジタル撮影になっているが、この作品「苦役列車」は、山下監督の強い要望でスーパー16(ミリ)によるフィルム撮影を行った。
その質感をそのままデータに取り込み、最終的にデジタル仕上げをするという技術を導入した。
映画の時代感が濃厚に匂う画質は、そのせいかもしれない。
こういった青春映画は、日本映画の得意とするところだ。
リアルと虚構の合間を描いた作品として、ちょっと面白い。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「星の旅人たち」―生きる歓びと新しい自分との出会いを求めて―

2012-07-27 03:30:00 | 映画


 人は巡礼の旅に出る。
 目ざすは世界遺産のサンティアゴ・デ・コンポステーラで、そこは“星の草原”と呼ばれている。
 エルサレムやローマと並ぶ、キリスト教三大聖地にひとつだ。
 聖地まで800キロメートル・・・。
 何と遠いことか。
 世界から、年間20万人が、この地を目指して巡礼の旅に訪れる。

 それは、未知なる自分自身との邂逅の旅であった。
 人は、人生を選べない。ただ、生きるのみである。
 アメリカ・スペイン合作の、エミリオ・エステヴェス監督によるこの作品は、実の父親を主演に迎え、愛情あふれる家族の物語として祖父に捧げた・・・。






       
カリフォルニア州の眼科医トム・エイブリー(マーティン・シーン)のもとに、突然一人息子ダニエル(エミリオ・エステヴェス)の訃報が届く。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の初日に、ピレネー山脈で嵐に巻き込まれ、不慮の死を遂げたというのだ。
ダニエルは、、妻の死後父親とは疎遠になっていた。
ダニエルは何を想い、、旅に出る決意をしたのか。
トムは、その真実を探るべく、亡き息子のバックパックを背に、サンティアゴ・デ・コンポステーラへと旅立つ・・・。

その旅の途中で、旅を共有する見知らぬ巡礼者たちと出逢い、別れを繰り返すが、互いに励まし合い、語り合い、それぞれの宿願を果たすべく、聖地での再会を誓う。
トムの喪失感を埋めるのもまた、旅をともにすることになった初対面の友人たちだ。
オランダ人のヨスト(ヨリック・ヴァン・ヴァーヘニング)はダイエットを、カナダ人のサラ(デボラ・カーラ・アンガー)は禁煙を誓い、アイルランド人のジャック(ジェームズ・ネスビット)は作家としてスランプ脱出を願って、巡礼の旅に出た。
はじめはすんなりとなじめなかったトムも、やがて彼らとの間に芽生える温かな親密感によって、息子を喪った心の痛みを、穏やかに癒やしていくのだった・・・。

トムは、荼毘に付された一人息子の遺灰をリュックに収め、彼が志半ばで断念せざるを得なかった旅を継ぐ決意をする。
60歳を超える老体に鞭うって、、800キロに及ぶ長旅は、決して容易ではない。
そして、ひたすら歩み続ける人生の“道”の果てに、人はいままで知らなかった自分を発見し、さらに進むべき道を見出し、現代生活では決して満たされることのない、確かな魂の充足を感じるのである。

巡礼ときくと、どちらかというと禁欲的なイメージに囚われがちだが、その道のりは、経験しなければ味わえない、至福の旅なのであった。
ドラマの中、トムはヨストと旅の同伴者となるが、道すがらトムが息子の遺灰を巻いていることを知り、それまで陽気だったヨストもさすがに衝撃を受ける場面が印象的だ。
かつて、夫からドメスティックバイオレンスの被害を受けていて、離婚して赤ん坊だった娘を手離したことを打ち明けるサラの言うセリフが効いている。
「世の中、嫌な奴ばかりだ。敢えて敵を作ることはない」
トムの息子は40歳だが、でも彼にとってはそれでも子供(ベイビー)だ。
サラはサラで、自分が重い過去を背負っている。
みんな、誰もがそうなのだ。

映画の最後、800キロの巡礼の旅の終わりで、登場人物たちは、‘変化’するために、何故こんなに壮大な旅に出る必要があったかに気づく。
ひたすら歩き続けるロードムービーであり、このアメリカ・スペイン合作映画「星の旅人たち」は、主人公マーティンエミリオ・エステヴェス監督の共有する感受性へのオマージュなのだ。
静かな瞑想のような、どこまでも心優しい、物語だ。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「ヘルタースケルター」―極彩色の虚飾と虚栄にまみれた女の終着駅―

2012-07-24 16:00:00 | 映画


 女が、ドラマという虚構の世界の階段を上っていく。
 原作は、高い人気を誇る岡崎京子の伝説的コミックだ。
 フォトグラファーの蜷川実花監督が映画化した。
 毒々しく、けばけばしさは半端なものではない。

 全身整形によって、誰もが羨む美しさとスタイルを手にして、トップモデルへと上り詰めた女性が、欲望と背徳に満ち溢れた芸能界で、様々な事件を引き起こしていく。
 女の強欲をとことん見せつけて、その冒険の果てにたどり着く世界とは、どんな世界なのか。
 醜悪なまでに女の美しさにこだわり続けるヒロインは、現在の美しい自分に対する誇りと、過去の醜い自分の虚像を演じて、ゴージャスだが、スキャンダラスで、実に蘞(えぐ)い。

 一時はお蔵入りの可能性さえあった作品だが、映画の方はふたを開けてみれば、望外のヒットとなっていて、客の入りは絶好調だそうである。
 ヒロインを演じる、尻エリカのスキャンダルが妙な追い風となっている。
 興業収入は、このままいくと20億円までいきそうな勢いだ。

 





  

           

沢尻エリカは、自分が買って出るほど、はじめからこの作品への出演に熱心だったそうで、公開まではスッタモンダあったとかで、ヒットの裏で芸能界にたくさんの敵を作ってしまったと喧伝されている。
共演者たちは彼女に振り回さされ、公開前のジャパンプレミア試写会出席を、勝手にドタキャンしたため、今や総スカン、四面楚歌だとまで報じられている。
いわくつきの作品だ。
                         
    

りりこ(沢尻エリカ)は、完璧なスタイルと美貌を持った、人気NO.1のモデルだ。
だが、彼女の美貌は、全身が整形美容で作られたものだった。
整形を繰り返すたびに、彼女は副作用に苦しめられていた。
しかし、りりこは日本中の人気者でありながら、後輩のこずえ(水原希子)にNO.1の地位を奪われまいと、必死になっていた。

りりこはそのため、自身が、精神的に異常なまでに不安定になっていた。
マネージャーの羽田美和子(寺島しのぶ)が、自分に心酔しているのを知っていて、彼女の恋人までも利用し、こずえをおとしいれようとたくらむのだった・・・。

人々を魅了する主人公も、いろいろ人には言えない秘密を抱えていた。
底なしの欲望が渦巻く世界を描いて、いまさらのように、女の業(ごう)が凄い。
蜷川実花監督は、7年の歳月をかけてこの「ヘルタースケルター」の待望の映画化を見たが、演出はエネルギッシュで刺激的で、あたり憚らぬ大胆さにむしろ呆れるばかりである。
このドラマは、尻エリカのはまり役だろうし、体当たりの演技にカッコの良さは感じるものの、中身はハチャメチャだ。
キャスティングはなかなかで、わき役陣にもベテランを揃えたが、今いち彼らの持ち味を生かし切れていない。
美容整形の世界の闇を暴こうとする、検事役の大森南朋もとってつけたような中途半端な存在で、ドラマ的な意味をなしていない。

映画だからまだしも、放送禁止用語まであからさまに飛び出したり、ふざけ過ぎ、遊び過ぎの、ギタギタとしたドラマ展開には不快感も大きいが、それがまた痛快感(?!)ともなって、可笑しな受け方をしている。
だから、映画ってわからないものだ。
沢尻エリカは怪物だ。
りりこのツケまつげが、ふとムカデのように見えたりして、薄気味悪くもあるが、美と名声と金と欲にまみれて、女の業というものの凄絶さを実写で観ているわけで、所詮はマンガの世界である。

映画の演出方法をめぐっては、沢尻エリカは、芸能界復帰の恩人でもある蜷川実花監督とも衝突した言われている。
それにしても、女優のスキャンダルが、怖いもの見たさで追い風を呼び、お蔵入りといわれていた作品が大ヒットだとは・・・!
いやいや、この作品、映画の質を論じる対象ではない。
不快だが痛快、いや痛快だが不快・・・、これは、どう見てもそんなC級のエンターテインメントだ。
     [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点


映画「ブラック・ブレッド」―大人たちの隠してきた過去と現実を少年が知った時―

2012-07-21 23:00:00 | 映画


 この映画の時代、タイトルに使われている“ブラック・ブレッド”(黒いパン)とは、小麦、大麦、トウモロコシ、キビ、どんぐりの粉末を混ぜて作られたもので、貧しい人々や庶民の間で食され、“貧者のパン”と呼ばれていたそうだ。

 この作品は、当時スペイン内戦が引き起こした、道徳観の荒廃を主軸に据えている。
 巨匠ペドロ・アルモドバルを押しのけて、映画賞を総なめした。
 アグスティー・ビジャロンガ監督の、スペイン映画だ。
 子供の目から見た、ダークファンタジーとして描かれる作品の多い中で、この映画はリアリティが強調された作品として注目される。









       
スペイン内戦の傷跡が残る、カタルーニャ・・・。

その山の中の小さな村で、11歳の少年アンドレウ(フランセスク・クルメ)は、血まみれになった親子の遺体を発見する。
アンドレウの父と同志の、ディオニスとその息子のクレットだった。
クレットが最期に遺したのは、「ビトルリウア」という謎めいた言葉だった。
それは、子供たちの間で噂されている、洞窟に潜む翼を持った怪物の名だった。

警察では、当時は事故とみなしていたが、やがて、アンドレウの父ファリオル(ルジェ・カザマジョ)の容疑がかけられることになった。
母フロレンシア(ノラ・ナバス)は働きに出ていて、安住のために、祖母役に引き取られることになったアンドレウは、その家で、事故で左手を失った従妹のヌリア(マリナ・コマス)らとともに、新しい学校に通い始める。
アンドレウは、そこで、大人たちが隠し続ける惨たらしい現実に直面する。

金がすべてだと言い放った教師や、その教師と関係を持った従妹、裸で森をさまよう美しい青年、生きるために嘘を積み重ねて暮らしてきた村の人々、そして、語り継がれる洞窟の怪物ビトルリウアの伝説・・・。
黒く深い森の中で、一体何があったのか。
事実のすべてを知り、すべての謎が解けたとき、アンドレウはある決断をするのであった。

黒いパンと白いパンに象徴される格差社会は、スペイン内戦に起因しており、このドラマの背景をを知る大きな手掛かりとなる。
自分たちの都合の悪いことをひた隠す村人たち、その謎を少年が解き明かしていく、一種のミステリーともいえる。
真実を知らなかったのは子供たちで、大人たちは知っていたという話は、閉塞的な社会ではどこにだってある。
偽善で固められた大人たちの世界を、子供の視野で冷ややかに見つめる。
ドラマの撮影のスタイルは、古典的で、過去の出来事や人物が重要な要素となる作品だが、少年を進行役とすることで、観る者は可能な限り、一人称の視点で見られるような展開となっている。

このドラマは、人物の相関関係もそうなのだが、やや説明の足りない描写も散見され、ちょっと見には、わかり難い場面もある。
大人たちの嘘が、少年の心を悪魔のように凍らせていくといえば、大げさかもしれない。
アグスティー・ビジャロンガ監督スペイン映画「ブラック・ブレッド」は、人間の持つ欲望と心の闇を炙り出し、真実と嘘が交錯する緊張感に満ちている、ミステリアスなドラマだ。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「私が、生きる肌」―愛に狂わされ亡き妻そっくりの美女を作り上げた天才医師―

2012-07-19 23:00:00 | 映画


 スペインの巨匠、ペドロ・アルモドバル監督の、独創性に富んだ問題作だ。
 それは、神に背く禁断の世界である。
 めくるめく感情と色彩美で紡がれる、映像の世界を展開する。
 異色のキャラクターで登場する人物の、鬼気迫る存在感に唸らせられる。
 何とも、おぞましく狂った物語なのである。

 事故の火傷で死ぬ妻がいる。
 レイプの犠牲となる娘がいる。
 そして、“完璧な肌”を創る禁断の実験に没頭する天才医師と、囚われの身の美しいヒロイン・・・。
 ・・・やがて、明かされる人造美女の正体は・・・?
 これを、人はそれでも愛と呼ぶのであろうか。
 それは、謎めいたひとりの女性とともに幕を開ける。




         
2012年、トレド・・・。

のどかな風景が広がる郊外に、ロベル・レガル(アントニオ・バンデラス)の大邸宅がひっそりと建っている。
世界的な形成外科医であるロベルは、最先端のバイオ・テクノロジーを駆使した、人工皮膚開発の権威でもあった。
邸宅の一室には、肌色のボディストッキングに身を包んだ美女ベラ・クルス(エレナ・アナヤ)が幽閉されている。
ベラは、ロベルの亡き妻ガルと同じ顔を持っている。
ロベルは、“ガル”と名付けた人工皮膚をいかにして開発したのか。

・・・すべては、6年前のある恐ろしい事件にさかのぼる。
ロベルのもうひとつの生き甲斐は、愛娘ノルマ(ブランカ・スアレス)の存在だった。
母親の自殺現場を目撃したトラウマゆえに、ノルマは精神的な病を患っていたが、少しずつ回復し、妖精のような純真な少女に成長した。
ところが、知人の結婚式のパーティーに出席した夜、父子は思わぬ悲劇に見舞われる。
ある青年に、会場の外に連れ出されたノルマが、発作を起こして気絶し、こともあろうに、父親ロベルに襲われたと錯覚してしまったのだ。
その青年は、母親の営む服飾店で働く平凡な若者ビセンテ(ジャン・コルネット)だったが、ロベルは彼への復讐を決意する。

間もなくノルマは、母親の後を追うように病院で自殺し、失意と怒りに打ち震えるロベルは、ビセンテを地下室に監禁し、狂気じみた行動に出る。
ロベルは、薬物で眠らせたビセンテを手術台に拘束し、何と、性転換手術を実施する。
さらに、まだ開発途上の“ガル”を彼の全身に移植し、顔までも今は亡き妻そっくりに整形していった。
かくして、禁断の実験のモルモットとなったビセンテは、ベラ・クルスという新しい女性名を与えられ、ロベルの歪んだ愛の結晶として生まれ変わったのであったが・・・。

かつて、非業の死をとげた最愛の妻を救えるはずだった“完璧な肌”を創造することが、ロベルの夢だったのだ。
あらゆる良心の呵責を失ったロベルは、監禁したビセンテを実験台にして、開発中の人工皮膚を移植し、今は亡き妻そっくりの美女に仕上げていったのだ。
やがて明かされる、人体実験のサンプルとなった人造美女の正体に、私たちは、ペドロ・アルモドバル監督の異常な独創世界に驚かされるのである。
設定も奇想天外なら、展開も意外性に富み、ドラマは衝撃的な結末へと導かれる。
復讐と情念が交錯し、残酷さに彩られた狂気と憤怒が、スクリーンを一杯にする。
アルモドバル監督は、この作品ではじめペネロペ・クルスを起用しようとしたらしいが、ここはエレナ・アラヤで正解だった。

確かに、卑俗的な言い方をすれば、この映画の世界は実に禍禍しいものがある。
あきれる場面と感心の場面と、思わずため息の出る映画だ。
しかし、ペドロ・アルモドバル監督のこのスペイン映画「私が、生きる肌」は、物語にしても、何とも言えない不思議な力強さがある。
おそらくは、かつて誰も見たことのない、驚愕の作品に違いない。
これを、崇高な愛の奇跡とみるか、狂気に満ち満ちた悪魔の映画とみるか。
それは、あくまでも観客の自由である。
作品は、エキセントリックで倒錯的エロスとバイオレンスに、エッセンス豊かな語り口が融合した、映画作家としてのアルモドバルの集大成と見ることができる。
その挑戦心と冒険心は、特筆すべきものがある。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「オレンジと太陽」―知られざる児童移民の過酷な真実―

2012-07-17 21:00:00 | 映画


 どうやら、関東地方の梅雨も明けたようだ。
 これからは、一段と日射しの強い、本格的な夏の日が続くことになる。

 映画は、名匠ケン・ローチを父に持つ、新鋭ジム・ローチ監督が、これまでのドラマやドキュメンタリーから、満を持して映画デビューを飾った作品だ。
 イギリス・オーストラリア合作映画だ。
 イギリスが、1970年代まで実際に行っていた“児童移民”にスポットを当てる。
 その真実を明らかにした、実在の女性がいた。
 その女性の物語でもある。

 ジム・ローチ監督は、先行きの見えない暗闇のような状況の中でも、人間の魂は強く輝くことができると語っている。
 イギリス・オーストラリア両国を揺るがした、衝撃的な実話である。
 彼は、声を大にするのではなく、静かだが、しかし揺るぎなく、歴史に埋もれた真実に光を当て、傷ついた人々に寄せる優しい視線で、ドキュメンタリ-タッチのこの作品を完成させた。

          
イギリス・ノッティンガムで、ソーシャルワーカーとして働くマーガレット(エミリー・ワトソン)は、ある日、シャーロット(フェデレイ・ホームズ)と名乗る、見も知らぬ女性に、「私が誰なのか調べてほしい」と訴えられる。

幼い頃、施設に預けられた彼女は、4歳の時に、沢山の子供たちとともに、船でオーストラリアに送られ、自分がどこの生まれなのか、母親がどこにいるかも判らないのだという。
最初は、その話が信じられなかったマーガレットだったが、ある出来事を契機に調査を始める。

やがて、マーガレットは、シャーロットのような子供たちが数千人にも上り、中には、親は死んだとの偽りを信じて、船に乗った子供たちもいたことを知る。
そして、その強制的な“児童移民”が、実は、ひそかに政府によって行なわれていたことを、知るのである・・・。
      
19世紀から、ごく最近の1970年代まで、イギリスは、施設に預けられた子供たちを、福祉の名のもとにオーストラリアに送っていたのだ。
しかし、そこで子供たちを待っていたのは、過酷な労働や虐待であった。
親の許可も得ないまま、移民させられた子供たちの数は、13万人にも上るそうだ。
罪もないのに、楽しかるべき団欒が失われたのである。
「ゆりかごから墓場まで」のイギリスで、信じがたい事実である。
この作品は、この真実を明らかにした、マーガレット・ハンフリーズ原作「からのゆりかご―大英帝国の迷い子たち」による。
彼女は、この児童移民によって海を渡った人々の家族を粘り強く捜し出し、数千の家族を再び結びあわせたといわれる。

マーガレットの活躍によって、2009年11月にオーストラリア首相が、2010年2月にはイギリス首相が、事実を認め、正式に謝罪した。
驚愕の事実である。
児童移民の恐ろしさと、それを乗り越えた善意の人々の力強さが伝わってくる。
何故、そんなことが起こったのか。
傷ついた心が復活する。勇気の物語だ。

下は3歳から、14歳までの白人の子供たちが、二度とイギリスへは戻らないという想定のもと、家族の了承もなく、遥か遠い国へ送られ、その多くは過酷な環境に置かれ、悲惨な虐待を受けたのだった。
イギリス・オーストラリア合作のこの映画「オレンジと太陽」の主人公、マーガレット・ハンフリーズは、1987年に児童移民トラストを設立し、イギリスとオーストラリア両国に事務所を構え、元児童移民家族を結びあわせる活動を続けている。
マーガレットの長年の活動が実り、この映画の撮影中、両国労相が事実と認め、謝罪をした。

本来、福祉政策という名のもとに行なわれていた、この非人道的な行為が、一人のソーシャルワーカーの手によって、とんでもない政府ぐるみのスキャンダルとして暴かれることになったのだ。
過去の記憶を語り始める人、国家の犯罪、正義を求める人々の勇気と真実が、心に突き刺さる残像で迫ってくる。
「私は誰なのだろう?」
そんな素朴な疑問が、これだけの重い映画を作り上げた。
ジム・ローチ監督、名匠を父に持つと、やはり違うものか。
長編劇映画、それも社会派の作品でのデビューとしてはなかなかだし、力量確かな監督で、次回作も期待できそうだ。
子供たちが送られた先の、生活の実態が、実写で語られていないことだけは残念だが、考えさせられることの多い、優れた作品である。
映画は最後に、ハンフリーズ夫妻は今もこの調査活動を続けていると、字幕で結んでいる。    
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


詭弁とまやかしと裏切りの民主政権―その終わりの始まり―

2012-07-15 12:00:00 | 雑感

どうやら、梅雨明けが遅れているようだ。
それでも、昼となく夜となく、降るような蝉時雨である。
そして、その向こうから、重々しい響きとともに聞こえてくるものが・・・。
それは、犬の遠吠えか。
いや、狼の咆哮か。
そうでもない。
では、悪魔の呻きか。
それは、ときに「ゾウゼイ、ゾウゼイ」、またときに「サイカドウ、サイカドウ」と叫んでいるように聞こえる。

民主政権の落城の日が、刻々と迫っている。
政権は、不支持が5割を超えたらもたないといわれる。
野田内閣についての、最近のある世論調査では、支持21%に対し、不支持は60%近くで、これは過去最高だ。
ジリ貧政権の、崩壊の予兆である。

毎週金曜日の夕方、官邸を取り囲む、脱原発を叫ぶデモの参加者は、主催者発表で15万人ともいわれている。
まるで、日本の「アラブの春」である。
それも、毎週確実に続々増え続けている。
一般市民や、子供を連れた母親の姿も・・・。
日本中で、いまのままだと国も生活も滅茶苦茶になるという危機感の、これは率直な現われだ。
国民は怒っているのだ。
怒りの叫びが、首相の耳には入らないのか。

大飯原発を再稼働させた日本の政府は、福島をもう忘れたのか。
大江健三郎氏は、そこに起こったことをなかったことにする、政権の傲慢があるのではないかと論じている。
福島原発を、「人災」とした責任はどこにあるのか。
国は反省したのか。何故、謝罪しないのか。
国民の命をどう考えているのか。
命がなければ、生活もない。

2011年3月を境に、世界は以前の日常と変わってしまった。
それを取り戻すことは、もうできなくなってしまった。
脱原発は、やろうとさえすれば、今すぐにもできる。
それをしようとはせず、再稼働へと舵を切った。
世論に抗い、堂々と(!)背を向ける。
再稼働反対は、全国民の6割近くもあったのに、それさえも無視して・・・。
民の声が届かないのか。

消費税増税法案も、しかりである。
世論が望んでいないのだから、やめてくれと懇願しているのに、敢えて強行する。
いずれにせよ、法案は成立だ。
冗談ではない。
民意無視、世論無視の民主政権は、どっちを向いて突き進んでいるのか。
デフレ長期化の中で、狂気の大増税とは!
消費税だけではない。
10月には地球温暖化対策税、来年1月には所得税増税、個人住民税増税、所得税復興増税と、大増税目白押しのオンパレードだ。
冗談ではない。

小さな商店や中小零細企業は、どんどん倒産に追い込まれていく。
今でさえも消費税を滞納していて、払えないであえいでいるのに・・・。
「消費税増税なんて、とてもやっていけません」と嘆く商店主に、税務署は「じゃあ、そんな商売やめちぇばいい」と、答えたという。
何とまあ!いやはや・・・。
大増税については、大多数の国民が反対しているのに、野田首相は、何が何でも命がけで強行するのだと・・・。
これは、いったい何なのだ。

脱原発しかり、増税しかりなのである。
国民の生活が第一を唱えながら、マニフェストに違反し、ことごとく国民との約束を反古にした野田政権の主張が、正論かどうか、そんなことは子供だってわかる。
2009年9月、やっと政権交代を成し遂げた民主党に、国民は大いなる期待を抱いたが、この、民意に従わなかった現民主党執行部がしたことは、国民への造反でなくて何だというのか。、
よく考えてみると、処分される造反議員を間違えていないか。
いまのような民主党に、国民が政権を託した覚えはない。
公約を守ろうとした人材は、多くが党外に去り、党に残っても発言の機会を失った。

繰り返し言わせてもらうが、消費税増税は国民に対する背信行為だ。
この政権公約を順守しなかったことが、民主党分裂の引き金になった。
今の民主党は、自民党とのコピーでしかない。
何が三党合意だ。
何のことはない。
疑似大連立、そのものではないか。

新聞は、政府広報誌に成り下がり、国民の知りたい真実の情報を流そうとはせず、どこまでも政権政党寄りの記事ばかりではないか。
もう、うんざりする。
新聞て、何なのだ。
テレビもまた、然りである。
いい加減にしてもらいたい。

この国難の時、政治は何をしなければならないか。
無為のままに、いたずらに時だけが虚しく過ぎていく。
詭弁ばかりを弄し、まやかしで国民をだまし続けた、裏切りの民主政権の落城が近い。
民主党は、一党をまとめることもできず、分裂し、政党としての存在意識を失くしてしまって、自ら瓦解しはじめたのだ。
この政党は、もはや消えゆく運命だ。
国民の生活は、これからどうなっていくのだろう。
とても、心配だ。
寄木細工で作ったような、自民政権のコピーもどきの、あまりにも幼稚な政権の、確実な終わりの始まりである。
これだけ国民を裏切って、そんな政党に未来はあるはずがない。


映画「ファウスト」―人間と悪魔が繰り広げる人生のロマンと愛の伝説―

2012-07-12 22:30:01 | 映画


 文豪ゲーテが60年かけた大作を下地に、アレクサンドル・ソクーロフ監督が映画化した。
 ミステリアスで壮大な、魂の物語である。
 ヴェネチア国際映画祭で、審査員の満場一致で、グランプリ(金獅子賞)受賞した。

 人生に迷い、生きる意味を探していたファウストが、悪魔と契約までして手に入れたいと望んだ愛があった。
 その愛が導く運命とは、どんなものだったのか。
 ゲーテの、この韻文による長篇の原作は、実在したとされる魔術師ファウストの伝説で、地上の快楽を手に入れる代わりに、悪魔に己が魂を売り渡す契約をする。
 人は、誰かのために生きることで、今日を楽しみ、明日を待ち遠しく思うのだ。
 しかし、この作品は、アレクサンドル・ソクーロフ監督によって、原作の持つ荘重さや雄大さとは異なり、むしろ卑小でグロテスクな世界を演出することとなってしまったようだが・・・。

 映画の冒頭は、死人の血みどろの内臓を取り出しながら、どこに人間の魂が宿っているのかと、わめいている。
 本来の、学問の追及が狂気に至る、このシーンの不気味さにどこまで耐えうるか・・・。
     
神秘的な森に囲まれた、19世紀のドイツの町・・・。
あらゆる地上の学問を探求したファウスト博士(ヨハネス・ツァイラー)は、研究を続けるために、悪魔とうわさされる高利貸しミュラー(アントン・アダシンスキーを訪れる。
生きる意味を教えようと囁く、ミュラーに導かれたファウストは、純粋無垢なマルガレーテ(イゾルダ・ディシャウク)と出会う。
一目で、心奪われるファウストであったが、ミュラーの策略によって、彼女の兄を誤って殺してしまうのだ。

それでも、彼女の愛を手に入れるために、ファウストは、自らの魂をミュラーに差し出す契約を結ぶ。
悪魔に翻弄されるファウストと、マルガレーテの愛の行方はどうなるのか。
ファウストが、自ら見出した生きる意味とは何であったのか。

ゲーテ名作「ファウスト」を、アレクサンドル・ソクーロフ監督は、斬新な演出とかなり自由な解釈で、結構気ままに(?!)描いている。
メフィスト役の男の気味悪さは、小さな尻尾があったり、妖怪めいていて、いつもファウストにまとわりついている。
その舞台となる、小さな町全体もあやかしの巷のようである。
貧しい人々、ほこりっぽい道、吹く風の流れの中で、「人生は空しい」と嘆くファウストも、マルガレーテに出会うまでは確かにそうだった。

高利貸しのミュラーが魔法を操り、メフィストの役割を演じてファウストを連れまわすのだが、どこにも群衆がいる。雑踏がある。
その中に、ファウストは迷い込んでいく。
ファウストが、悪魔の囁きから耳をそむけて、ひとり荒野を歩き始める終章・・・。
舞台劇を見ているような感じもする。
しかも、重々しいセリフの応酬とともに、人間と悪魔の絶妙な駆け引きはしばしば幻想を招く。
マルガレーテ役の新星イゾルダ・ディシャウクは、フェルメールの絵画を想わせる美しさで、無垢な愛を演じている。
水際にたたずむ彼女に駆け寄ったファウストは、そのまま一緒に泉へと身を投じる。
あの驚くような、しかしあまりにも自然(!?)な映像に、やっとの思いで念願かなったファウストは、当然のごとく、魂を売った代償を甘んじて受け入れるのだ。
マルガレーテは、どこに行ったのか。

理想を追いながら人生に虚しさを感じるファウスト、お金と誘惑で人間の弱さにつけこむミュラー、そしてマルガレーテの美と愛・・・。
運命に翻弄される3人のこの人生ドラマは、「生きる」とは何かを真摯に見つめさせ、時と空間を自在に行き来する、有機的なスケール感にあふれている。
魂を売るとは、どういうことであろうか。
現実と幻想といささか怪異の世界に、生きていることの意味を問うこの作品「ファウスト」は、圧倒的な迫力を持って迫ってくる。
アレクサンドル・ソクーロフ監督の描くロシア映画「ファウスト」(台詞はドイツ語)の世界は、異形の世界だが、しかし、見方を変えれば、もしかすると、現代社会もこんな風に見えるかも知れない。
いや、そう考えるのは少々飛躍しすぎか。
特異にして夢幻に満ちた、詩劇であり群像劇であり、やはり文学作品という趣きが強い。
俳優陣は、いずれもなかなかの芸達者で、それぞれのメイク、キャラクターに存在感がある。
悪魔を演じる、アントン・アダシンスキーの怪演はとくに見ものだ。

ただし、原作を自由に翻案したとはいえ、ドラマの中での、目を背けたくなるようなグロテスクは、いかがなものか。
    [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「ただ君だけ」―運命に導かれるように無償の愛に生きて―

2012-07-09 23:00:00 | 映画


 韓国歴史ドラマ(テレビ)「トンイ」で力強いヒロインを演じた、ハン・ヒョジュ主演作品だ。
 本作では、清楚な透明感で登場し、さらに一皮むけたハン・ヒョジュが実にいい。
 ソン・イルゴン監督韓国映画は、チャップリン「街に灯」をモチーフに作り上げた、ひと味変わったラブストーリーだ。

 暗い過去を持ち、心を閉ざしたボクサー崩れの男と、視力を失いつつも明るく生きようとする女性が出逢い、愛を育んでいく姿が丁寧に描かれる。
 君の瞳に、明日を届けたい。
 数多く公開される韓国映画の中でも、ひときわピュアな、胸の熱くなる物語である。








     
チョルミン(ソ・ジソブ)は、かつては将来を期待されたボクサーだった。

でもいまは、昼間はミネラルウォーターの配達、夜は駐車場で働いていた。
ある雨の夜、料金所でひとりテレビを見ていると、若い女性が現れる。
人懐こい笑顔で話しかける、その女性ジョンハ(ハン・ヒョジュ)は、目が不自由なために、チョルミンを以前働いていた老人と勘違いしていたのだ。
別人と気が付き、杖をつきながら立ち去ろうとする彼女に、チョルミンは雨宿りしていくように勧めた。
それ以来、二人は毎晩のように一緒にテレビを見るようになる。
ドラマを見て無邪気に笑い、「主人公の心が見える」と涙するジョンハに、戸惑いながらも、チョルミンは少しずつ惹かれていく。

しばらくして、チョルミンは自分の過去を彼女に語る。
彼は、ボクシングをやめた後は、借金の取り立て屋として働いていたが、傷害事件を起こし、一時期刑務所に入っていたのだった。
ある日、自宅で職場の上司から襲われそうになったジョンハは、通りかかったチョルミンに助けられるが、会社は退職せざるを得なくなり、そんな彼女を励まそうと、チョルミンは子犬をプレゼントする。
そして、チョルミンはジョンハとの未来を想い、ボクシングへの再挑戦を考え始めるのだったが、彼女の両親の墓参りに同行した時、自分とジョンハの過去に忌まわしい接点があったことを知る。

・・・数年前、ジョンハが失明し、両親を亡くした日のことであった。
チョルミンが借金取り立てのために追い詰めた男が、焼身飛び降り自殺を図り、落下してきた男を避けようとしたトラックが、ジョンハの車に衝突したのだ。
チョルミンは罪の意識に苛まれる一方で、ジョンハの視力は急速に悪化し、1カ月以内に完全に失明すると医師から宣告される。
チョルミンは、彼女の角膜移植手術費用を捻出するため、昔の仲間に海外での格闘技試合出場を依頼し、別人になりすますと試合の地タイへ旅立つ。
だが、それはジョンハの手術当日であった・・・。

チョルミンは、二人の運命の絆を知って、ジョンハのために激しい非合法の格闘技の世界に身を投じていく。
ソ・ジソブの、鍛え上げた体で挑む格闘シーンも生々しいが、彼の悲しげな瞳とハン・ヒョジュの澄んだ眼差しが、実に印象的である。
何台もの車が同時に衝突する、ジョンハの交通事故のシーンは、数度のシュミレーションを重ねて完璧に作り上げられたそうで、なかなかリアルで緊張感のある場面だ。
チョルミンとジョンハの過去の接点についても、この種のドラマに、偶然がつきものなのは、まあ仕方のないところだ。
ひとり駐車場の狭い部屋で寂しく夜を過ごすチョルミンのもとへ、突然花のように愛くるしいジョンハが現れ、チョルミンが少しずつ心を開いていくところから、男女の愛の普遍の始まりをを予感させる物語だ。
主役二人のキャラクターを存分に生かした撮影、照明はもちろん、チョン・ドアン特殊効果監督の、アクションとラブストーリーという、全く異なる特性を持つシーンをひとつの映画で融合させた、細やかな演出効果もバッチリだ。

韓国映画「ただ君だけ」は、都市ソウルを舞台に、社会の片隅で生きる男と女を描いているが、ソン・イルゴン監督は、これまでアート系の作品で作家性を高く評価されてきた。
その彼が、この作品では一転して、男女の愛というテーマに挑んだ。
それも、無償の献身的愛のかたちとなれば、それがどんなに非現実的であろうとも、感動を呼ぶことになる。

ジョンハの目が見えないで、チョルミンを覚えていた盲導犬が、彼を見てジョンハの前で吠えるのだが、彼女はすぐに気付かない。
ここは、胸にぐっとくるようなよくできたシーンだが、このときめきのもどかしさも、折込済みだったに違いない。
そして、傷を負って言葉を発せられなくなったチョルミンが、水辺にひとりたたずむシーン、その姿をはっきりと視界に捉えられるようになったジョンハ・・・。
そうだ。ドラマは、いつだって感動のシーンを用意することを忘れない。
とくに鋭い切れ味があるというものではないけれど、韓国王道を行くラブストーリーの中では、この作品はひと味違った作品だ。
若者のみならず、大人の鑑賞にも耐えうる、清澄感を湛えた、嫌みのないよい映画である。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「ムサン日記~白い犬」―非情な社会に幸福を求める男の孤独―

2012-07-07 17:00:00 | 映画


 ムサンからソウルへ脱北した青年の、憧れと孤独を描く。
 パク・ジョンボム監督(主演)の、韓国映画だ。
 青年の拾った白い犬は、何を見ていたか。

 この映画の主人公は、パク・ジョンボム監督の大学時代の後輩がモデルだ。
 チャン・スンチョルというその青年は、映画の中のスンチョルと同様に、北朝鮮のムサンから国境を越えてきた。
 パク・ジョンボム監督スンチョルは不思議とウマが合い、共同生活を始めるほどの親友となった。
 彼はまた、監督とともに映画への夢を追った仲間だったという。
 そのスンチョルは胃がんの宣告を受け、夢半ばにして逝った。
 パク・ジョンボム監督の長編映画を期待していたが、その完成作品を観ることはなかった。
 主人公スンチョルの人生を描くこのドラマは、彼へ追悼も込めて、生まれた。


     
北朝鮮の、中国との国境に接する街ムサンから、青年スンチョル(パク・ジョンボム)は韓国にやって来た。

しかし、大都会ソウルの現実は厳しい。
「125」から始まる住民登録番号で、脱北者と分かると、定職にも就くことができない。
脱北仲間は、生きるために、危ない仕事に手を染める中で、スンチョルは不器用に、ただ黙々とポスター貼りをする日々を送っていた。
自分の身を守るかのように、おかっぱの髪形や服装も昔のままだった。

スンチョルの孤独を癒やしてくれるのは、拾った白い犬だけだったし、彼は唯一の心のよりどころとして教会を訪れるようになった。
その教会の聖歌隊で、白い制服を着て歌う、天使のようなスギョン(カン・ウンジン)に憧れを抱く。
スギョンは、普段はカラオケ・バーで働いていた。
スンチョルは、ぎごちない様子でみんなの中に溶け込むように、賛美歌を歌い始める。
変わりゆく自分自身に戸惑いながらも、スンチョルはスギョンと一緒のカラオケ・バーで働くようになり、そんな生活を楽しく思っていた。
スギョンは、スンチョルの連れ歩く白い犬のペックを可愛がった。
しかし、そのペックが・・・。

髪を切り、スーツを着たスンチョルの後姿は、しかしいつも孤独であった。
この映画のラストシーンは、悲痛だ。
カメラはそこでもスンチョルの顔に迫ることはなく、主人公の悲しみに寄り添うように、ただ後姿を見つめている。
そこには、全く言葉はない・・・。

韓国映画「ムサン~白い犬」は、いつも、スンチョルの背中を撮り続けている。
そこに、ひりひりするような、鬱屈した人間の孤独が浮かび上がる。
そして、彼の内なる心に隠された、癒やされようのない悲しみに、どこまでも寄り添うかのようだ。
韓国にいる脱北者は、韓国に来ても心から楽しめないのだ。
苦しい北の状況を思えば、自分だけが国を捨てたことに罪悪感を感じているのだ。
スンチョルは無口である。
無口なスンチョルの背中は、しかしそれが逆に、彼の孤独を多弁に物語っている。
ドラマに登場する白い犬は、北朝鮮にも韓国にも、そのどちらにも居場所のない、スンチョルの象徴のように見える。

この作品の主人公は、泣くこともない。叫ぶこともない。怒りもない。
黙したままである。
・・・その男の、言いようのない、無抵抗の抵抗の姿のみが、静かに浮かび上がる。
どこまでも、パク・ジョンボム監督の自作自演の映画である。
しかし、作品としては、どうもやや雑な感じが気にかかる。
主人公の孤独を深追いするあまりの、動きの少ない静の場面では、長回しの不要なシーンもかなり混在し、もっと削ぎ落としてすっきり編集されてよい。
その方が、この作品の完成度は、さらに高まったのではないだろうか。
   [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点