徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「エレジー」―繊細な演出が光る―

2009-01-30 16:00:00 | 映画

イサベル・コイシェ監督の、アメリカ映画「エレジー」を観る。
どこかせつなく、知的な官能に彩られた作品だ。
コイシェ監督はスペイン人映画作家だが、女性ならではの繊細な演出に注目だ。
心がかきむしられるような、男と女の物語を、その激しい情動と心の揺らめきの中に格調高く描いている。

―からだから、こころから、あなたを消せない。
もう一度、愛したい―。
切ない、年の差を越えたラブストーリーである。
ヒロインのペネロペ・クルスは、そういえば、スペイン映画「ボルベール」では、地中海のような明るい性格の女性を演じてアカデミー賞にノミネートされた。
相手役のベン・キングズレーは、「ガンジー」アカデミー賞主演男優賞を受賞した。
今回の作品の中で、ペネロペの美貌とベンの滋味深さは特筆ものだ。

コンスエラ・カスティーリョ(ペネロペ・クルス)は美しすぎた。
その優雅で洗練された美しさは、人を黙らせる何かがあった。
デヴィッド・ケペシュ(ベン・キングズレー)には魅力があった。
その自信に満ち溢れた態度には、人を圧倒する何かがあった。
そんな二人が恋におちた。
二人は、大学の教授と学生だった。
デヴィッドは、ちょっとした有名人だ。

はじめてコンスエラに触れたとき、デヴィッドは彼女を芸術品のように扱った。
彼は言った。
 「きみは、素晴らしい芸術品だ」
三十歳以上の、年の差のある二人だった。

しかし、激しい男女の駆け引きの末に、コンスエラは疲れ果て、彼のもとを離れていく。
そして、孤独な二年が過ぎた頃、彼女はデヴィッドに突然電話で、自らの想いを伝える。
 ・・・わたしには、あなたが必要なの。
デヴィッドの人生に、再びコンスエラが戻って来る。
だが、彼女はある切迫した想いを抱えていた。
コンスエラの、完璧なまでに美しい体は病に冒され、デヴィッドは彼女の願いをきいて、美しさの絶頂にあったコンスエラをカメラに収める。

それは、二人の人生を大きく変える再会となった・・・。
そして、未来を恐れる彼のもとから、彼女は再び去っていった。
しかし、真実の愛を自分の中に見出したデヴィッドは、愛するという恐れを忘れ、コンスエラのもとに駆けつける・・・。

この映画は、老いとの折り合いを考える世代から見れば、最も悲しく、しかし最も希望を持たせてくれる作品だろう。
物語の行く手に、どのような結果が待っていようとも、人は何歳になっても恋におちることが出来るものだ。
そういう想いを抱かせるに十分な物語の構成で、恋には、始めから年齢差というものなどありはしなかった。
恋は、それがときに狂気と言われても、常に初恋ということか。

ペネロペ・クルスベン・キングズレー、この二人の演技が素晴らしい。
男は、急に子供のようになってしまい、自分のコントロールに戸惑っている。
女は、切ない愛にもだえ、揺れる。
一方が耐えるとき、一方が近づいて来る。
愛は、お互いが対等で出逢わなければ、スムーズに行かないものだ。

若い女性とのスリリングな付き合いは、たとえ退屈な男の日常を忘れる小旅行のようなものでも、少しの間でも、自身の肉体の衰えを隠蔽してくれる。
心は、誰も奪うことはできない。
洗練された大人の関係とは、こういうことか。

この作品には、静かな愛情の中に、確かないたわりがある。
それは、慈愛にも似ている。
女の方も、年上の男をいたわっている。
「死の病」が、二人をより強く結びつける。
男は父親のようにも見える。

デヴィッドという男は、彼女を失うことにつながりかねない行動をとってしまうのだが、(そのことが恋愛の幼さか?)それでも全く世界の違う二人が出逢って、関係を築けたことは、この物語を愛の物語として何の違和感もなく昇華させた、コイシェ監督の力量ではなかろうか。
もう十分に大人の映画だ。

年齢を重ね、分別あるはずの初老を迎えても、人は激しい情熱に苛まれることがある。
それが、愛であればなおさらだ。
相手への想いが、抑えようとすれば理性と抗い、想いと逆の行動をとることもある。
・・・老いて朽ちてゆく男と、病に冒された女、二人の感じる孤独の果てに光明が・・・?
愛おしさとせつなさの漂う、胸の熱くなるラストである。

このアメリカ映画「エレジーは、心の機微や葛藤を丹念に描き、繊細で官能的なラブストーリーに仕上がっている。
この‘官能’は、あくまでも上質で美しい。
イサベル・コイシェ監督という人は、ヴェネツィア国際映画祭で審査員をつとめたこともあり、次作では日本を舞台にした映画を撮っており、菊地凛子らが出演しているというから、こちらも楽しみだ。 


映画「レボリューショナリーロード」―幸せのあとさき―

2009-01-28 20:00:00 | 映画

それは、誰もが逃れることのできない、運命の愛だったのか。
あなたの最愛のひとは、果たして今でもあなたを愛していますか・・・。

アカデミー賞作品賞にも輝いた空前のヒット作「タイタニック」(97)から、レオナルド・ディカプリオケイト・ウィンスレットという、映画史上にその名を残したカップルが誕生して早くも11年、華も実もある大人のスターの再共演だ。

舞台は、高度成長期1950年代のニューヨーク郊外ということになっている。
“レボリューショナリーロード”と名づけられた新興住宅街に住む、ウィスラー夫妻の物語である。

映画「アメリカン・ビューティー」(99)で、アカデミー賞作品賞と監督賞を手にした、サム・メンデス監督の作品だ。
私生活では、サム・メンデス夫人でもあるウィンスレットとは、この作品でも初のコラボレーションということになる。
ディカプリオは、ウィンスレットとは友人同士というから、知性派、実力派の三人がタッグを組んで大人の愛の表現を実現した格好だ。
さて、その出来ばえは・・・、となるとどうだろうか。

アメリカ・コネチカット州・・・。
エイプリル(ケイト・ウィンスレット)とフランク(レオナルド・ディカプリオ)のウィラー夫妻は、二人の可愛い子供に恵まれ、美しい家に暮らし、誰もが憧れる理想のカップルだった。
フランクは、ここから毎日ニューヨークの大会社に通勤し、その間エイプルは、こじんまりとした可愛い白い家で、愛くるしい二人の子供の面倒を見ていた。

あるパーティー会場で、二人は初めて出会った。
フランクは彼女の輝くような美しさに、エイプリルは彼の個性豊かなきらめきに惹かれ、人生が素晴らしいものになると信じて結婚した。
誰もがうらやむ、家族の生活であった。

しかし、実は二人の心中にはそれぞれ静かにしまいこまれていた思いがあった。
フランクには漠然と抱いていたヨーロッパで成功する野望が、エイプルには夢みていた女優の道が・・・。
その後も、はた目には理想的な夫婦、家族であり続けたが、7年間の結婚生活中胸に秘めた思いは、徐々に二人の関係を蝕んでいたのだった・・・。

そんなある時、それぞれの‘輝かしい未来’と‘完全な自己実現’のため、エイプルはひとつの計画を提案する。
それは、このいま住んでいる家を引き払い、パリで暮らそうというものだった。
「本当は生きていなかった、これまでの歳月を取り戻すために」二人は、その大きな賭けに出ることを決意する。

・・・そして、やがて訪れる葛藤・・・。
大きな渦の中で、二人の運命が試される賭けでもあった。
そのことが、理想とはかけ離れた、愛が燃え尽きるまでの、崩壊の序曲であるとも知らずに・・・。

この作品に見えるのは、誰かを愛する余裕すら残さなかった妻の不幸かも知れない。
美しい妻エイプルが、楽々と手に入れた常識どおりの幸せは、自分が本当に望むこととは違うことに、気づいていなかったし、考えもしなかったことなのだ。
これを、人間の勝手なエゴイズムと言ってしまえばそれまでだ。

真面目に働き、一度だけの自分の浮気まで妻に告白する夫に、妻は顔色ひとつ変えない。
夫婦の考え方の違いが次第に露呈され、いさかい、ののしりあいはエスカレートしていくあたり、通俗的な筋立てに見えて、どうも感心できない。
パリへの移住は結局実現しないのだが、思いつきも唐突だし、妻エイプルの変節、心の動きもにわかには理解しがたいところで、メンデス監督は、もう一歩も二歩も踏み込んで欲しかった。
それに、案外あっけない結末の幕切れも、フランクならずともがっかりだ。
せっかく素晴らしい演技者を揃えていて、最も重要な女の心の変節の過程を十分に描ききったとは言えない。
とくにこの作品の後半の部分は、濃密なドラマであるだけに、通俗に流れず、女の心の痛み、男の心の惨めな本質にもっと迫ってよかったのだ。
作品の芯(核)がゆるい。

人は誰でも、いつの時代にも自分らしく生きたいと願っている。
それは、夫婦とて同じだ。
世界中に共通する普遍的なテーマだろう。
サム・メンデス監督のアメリカ映画「レボリューショナリーロード 燃え尽きるまでは、エモーショナルだが、決して甘やかなものではなく、壊れやすい結婚生活を描いている。
・・・夢と理想を追い求めていたはずのフランクの前に、予期せぬ衝撃の出来事が待ち受けていたのだった・・・。


私腹を肥やしたのは誰か?―漢字能力検定―

2009-01-26 18:35:00 | 雑感

あの「今年の漢字」を主催しているのが、問題の「日本漢字能力検定協会」というところだそうだ。
検定事業は、利益を上げることは認められていない。
この協会は、過去5年間で、何と約20億円もの利益を上げていたことがわかった。

検定ブームの波に乗って、2007年度は270万人もの受験志願者が殺到したそうだ。
検定料は5000円から1500円と言われているが、そんなに儲かるのか。
財団法人が、ボロ儲けではないのか。

そもそも、この検定料は一体何に使われているのだろうか。
漢字検定というと、何か格好いいが、非営利で無料でやると言うわけにはいかないのか。
受験して、資格を取ると何ほどのメリットがあるものなのだろう。
公益法人が、こんなカネ儲けにうつつを抜かしているとは・・・!

理事長が代表をつとめる広告会社に、3年間で8億円近い業務委託費を支払っていたことが明らかになったが、そのことも一切報告されていなかったらしい。
この漢字検定の任意団体を設立したのが、この理事長だと言われる。

誤読の名人(!!)たる麻生総理の影響で、漢字ブームに一段と拍車がかかって、‘漢字本’が売れに売れた。
おまけに、この不始末である。
対応の鈍かった文部科学省が、緊急立ち入り検査をすることを決めたが、どうなることか。
公益法人だから、当然税制優遇措置もある。
いずれずさんな経理の実体が明らかにされようが、一体誰が私腹を肥やしているのだろうか。


私腹を肥やしたのは誰か―漢字能力検定―

2009-01-26 18:04:10 | 雑感

あの「今年の漢字」を主催しているのが、問題の「日本漢字能力検定協会」というところだそうだ。
検定事業は、利益を上げることは認められていない。
この協会は、過去5年間で、何と約20億円もの利益を上げていたことがわかった。

検定ブームの波に乗って、2007年度は270万人もの受験志願者が殺到したそうだ。
検定料は5000円から1500円と言われているが、そんなに儲かるのか。
財団法人が、ボロ儲けではないのか。

そもそも、この検定料は一体何に使われているのだろうか。
漢字検定というと、何か格好いいが、非営利で無料でやると言うわけにはいかないのか。
受験して、資格を取ると何ほどのメリットがあるものなのだろう。
公益法人が、こんなカネ儲けにうつつを抜かしているとは・・・!

理事長が代表をつとめる広告会社に、3年間で8億円近い業務委託費を支払っていたことが明らかになったが、そのことも一切報告されていなかったらしい。
この漢字検定の任意団体を設立したのが、この理事長だと言われる。

誤読の名人(!!)たる麻生総理の影響で、漢字ブームに一段と拍車がかかって、‘漢字本’が売れに売れた。
おまけに、この不始末である。
対応の鈍かった文部科学省が、緊急立ち入り検査をすることを決めたが、どうなることか。
公益法人だから、当然税制優遇措置もある。
いずれずさんな経理の実体が明らかにされようが、一体誰が私腹を肥やしているのだろうか。


映画「天安門、恋人たち」―終わらないあの日の恋―

2009-01-24 23:56:01 | 映画

1989年、6月・・・。
・・・自由を求める炎の中で、私はあなたに夢中だった・・・。
中国とフランスの合作映画だ。
中国のロウ・イエ監督が、激動の中国現代史を背景に描いた、恋人たちの心の軌跡である。


忘れもしない、中国天安門事件・・・。
欧米では、「天安門の虐殺」とまで言われる。
発表では、死者1万人とも2万人とも知れず、自由と民主主義を求める学生、市民が、戦車まで繰り出した中国政府の人民解放軍の軍隊によって、弾圧、強襲、そして虐殺された「天安門事件」である。

この作品は、上映されるとすぐ大きな物議を醸した。
それは、中国国内でさえ公にその話題を取り上げることも出来ない、絶対的なタブーであるこの天安門事件が,作中で扱われていたからだ。

この事件を、制圧された民衆、学生たちの視点から描いたことが、中国映画史上初の挑戦となった。
この作品は、カンヌ国際映画祭に出品、上映され、惜しくも賞を逸したが、会場を震撼させるに十分な問題作となった。
それは、過激なシーンを含めて、中国政府の許可のないままに国際映画祭に出品されたということで、中国国内での上映禁止と、監督の5年間の表現活動禁止という処分まで言い渡されたのだった。

著しい経済成長をとげ、北京オリンピック開催でも世界の注目を集める中で、その激動の現代史は、ある一組の男女のせつない愛の軌跡と重なるのだ。

中国東北地方から北京の大学に入学した、美しい娘ユー・ホン(ハオ・レイ)は、運命の恋人チョウ・ウェイ(グオ・シャオドン)と出会う。
折りしも、学生たちの間には、自由と民主化を求める嵐が吹き荒れていた。
そんな熱気のなかで、二人は狂おしいまでに愛し合った・・・。

しかし、1989年6月の天安門事件を境に、恋人たちは離ればなれとなってしまう。
チョウ・ウェイはベルリンへ脱出、ユー・ホンは武漢、重慶へと中国各地を転々としながら、いくつかの仕事、新しい恋人を持って、10年に渡る歳月が流れたが、心の中では、お互いを忘れることの出来ない二人であった。

帰国したチョウ・ウェイは大学時代の友人に遭遇し、ユー・ホンの居所を知り、彼女に会いに行く。
思い続けた相手との再会に、言葉少なに荒れた海辺に立ちつくすふたり・・・。
自由への幻想とともに、心にしまった青春時代の激しい恋・・・。
しかし、それは再び燃え上がることはなく、ふたりはまたそれぞれの現在の生活へと帰って行くのであった。

すれ違い、遠く離れ、また近づいていく恋人たちの姿を、中国社会が激しく揺れ動いた80年代末から、2000年代初頭を背景に描いている。
変革の嵐が吹きすさぶ時代の、残像だ。
一見、トルストイの物語を読むような感じである。

海辺で再会した二人・・・。
酒を買いに行ったユー・ホンを置き去りにして、車で去ってゆくチョウ・ウェイは彼女にとっての幻影のようであった。
幻影は消えゆくのみである。

映画に語られる青春の喪失感に、普遍的な共感を覚えるが、ヒロインのユー・ホンが何とも愛おしく見えてならない。
ドラマは少し長く感じるが、全編にわたって、リアリティたっぷりの力作ではある。
ロウ・イエ監督中国・フランス合作映画天安門、恋人たちは、心の中に青春の残り火をくすぶらせながら、新しい時代を生きようともがく主人公の静かな気迫が、切ないまでに伝わってくる作品だ。


  ~ 『中国映画の全貌in横浜黄金町』 ~
 横浜市中区のシネマジャック&ベティにて、1月24日(土)~2月20日(金)まで開催中。
 ―中国・香港傑作映画24作品一挙上映中―


―映画を‘観る’視覚障碍者たち―

2009-01-22 16:00:00 | 日々彷徨

視覚障碍のある人たちが、映画を楽しんでいることをご存知でしょうか。
もちろん、ご存知の人も多いと思います。
生まれながらにして、或いは生後何らかの理由で視覚障碍があって、目の不自由な人たちでも、晴眼者(目の見える人)と同じように、映画を観ているのです。
正確に言うと、観ていると言うより、映画を‘聴いて’楽しんでいるのですね。
そうです。ちょうどラジオドラマを楽しむように・・・。

目の不自由な人たちにとって、映画の映像が見えない、字幕が読めないという事実は、映画を鑑賞する上で、とても大きなバリアとなっています。
でも、たとえば目が見えていた頃に、映画を楽しんでいた人たちは、失明後も、以前と同じように、映画を何とか楽しみたいと思っています。

映画に興味を持っている、視覚障碍者の人たちは、実は沢山いるのです。
「映画は、頭でなく心で伝えるもの・・・」とは、黒澤明監督の言葉です。
その心さえあれば、誰でもが映画は観られるはずで、「見えることがすべてではない」と、視覚障碍者も一緒に楽しむ映画鑑賞を推進している、ボランティア団体シティ・ライツまであります。
この人たちは、映画を通じた、障碍のない、新しいコミュニケーションの場づくりをめざしているわけです。

テレビの副音声に似た、映画の視覚的な情報を補うナレーションが、目の不自由な人たちの助けとなります。
つまり、映画の音や台詞を聴き、映像を想像しながら楽しみます。
その想像をより鮮明にするのが、「音声ガイド」と言われているものなのですが、最近この「音声ガイド」を取り入れる映画館も見られるようになり、視覚障碍者の人たちに喜ばれています。

会話と会話の間に入る解説、登場人物の動き、場所、情景を、簡潔なナレーションを挿入することで、鑑賞者はFMラジオのイヤホーンでそれを聴き、想像の世界で、映画をより一層楽しむことができるわけなのです。

外国映画の、吹き替えのない字幕スーパーでは、ボランティアたちがにわか声優となって、各俳優の役割を分担し、台詞を本物の俳優そっくりに、「音声ガイド」でよく分かるように演じることさえあります。

実は、先日その現場に居合わせる機会があって、映画を楽しむ視覚障碍者たちの明るい笑顔に接し、そうした人たちのいること、そのおかげでどんなにか目の不自由な人たちが映画の鑑賞に福音となっていることを知った次第です。
勿論、ボランティアの人たちには、人知れぬ苦労があります。
カメラワークひとつとっても、編集効果などで表現される映像演出も、専門用語やどうやって撮っているのかをナレーションするのではなく、どう表現したらよいのかを考えて言葉にするのだという、大変なご苦労もあるのでした。

要は、視覚障碍者の人たちが何を求めているか。
大切なことは、見えない人の立場に立って、説明の出来るコミュニケーション力が必要なことで、現場で働くガイドの人たちには頭が下がりました・・・。
上映館での視覚障碍者たちは、「俺たちだって、映画を楽しんでるんだぞ」という気概にあふれていました。
これからも、 「音声ガイド」に携わる人たちの、善意の輪が少しずつでも広まっていくのではないでしょうか。


 ~閑 話 休 題~
1月24日(土)から2月20日(金)まで、 「中国映画の全貌in横浜黄金町」が、横浜市中区のシネマ・ジャック&ベティ(045-243-9800)開催され、中国、香港の傑作映画24作品を集めて一挙上映されます。
見逃していた旧作や、懐かしい名画「宋家の三姉妹」「古井戸」「天安門、恋人たち」「小さな花」、大作「項羽と劉邦」「阿片戦争」などの作品とも再会できそうです。
大変ユニークで、面白そうな企画です。


映画「戦場のレクイエム」―骨太の人間ドラマ―

2009-01-20 13:30:00 | 映画

中華人民共和国建国前夜、60年前に、一体何が起きたのか。
この映画は、「女帝[エンペラー]」知られる中国の巨匠フォン・シャオガン監督の渾身の一作である。
中国戦争映画史上で最高といわれる、17億円を投じて製作された壮絶なドラマだ。

1948年、新中国建設をめぐって、毛沢東率いる共産党の人民解放軍と、蒋介石率いる国民党軍との間で、激しい戦闘が繰り広げられていた。
それは、抗日戦線に続いた解放戦線期最大の戦役だった。
1937年7月の蘆溝橋事変に始まる日中8年戦争が終わり、1945年8月日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏して3年後の、中国の内戦である。

人民解放軍の第9連隊長グー・ズーティ(チャン・ハンユー)は、47人の部下とともに最前線にいた。
激戦の中で、ただ一人生き残ったグーは、仲間の多くの死は、自分が撤退命令(集合ラッパ)を聞き逃したためだったとの自責の念にとらわれる。
混乱の中で、47人の遺体は行方不明となり、第9連隊は忘れ去られるが、グーは仲間の名誉を取り戻そうと、長い困難な闘いへと身を投じる・・・。

1949年の中華人民共和国の建国まで、二次に渡り、延べ14年に及んだ国共内戦は、同じ民族同士が血を流し合い、多くの悲劇を生み出した。
これまでは、あまり映画化されることのなかった内戦の実体を、この作品は真正面から描いている。
戦争を美化することなく、ひたすら残酷さを活写し、その中で翻弄された一兵士を通して、戦争の持つ非情さがあますところなく描き出される。

グー・ズーティは信望のあつい指揮官だったが、自分の判断の誤りが、仲間を多く死に追いやったのではないかという罪の意識にとらわれている。
部隊の再編で、第9連隊の全滅は記録から消し去られ、英雄として当然認められるはずの47人の部下たちは、全員が不名誉な失踪者扱いにされてしまっていたのだった。

グーは、悔恨と怒りから、仲間の名誉を取り戻すために、命を捧げようと決意する。
自身も視力を失い、周囲から白眼視されながら、10年の歳月を経て、ついにその目的を果たすことになるのだが、その姿が感動を呼ぶ。

原作は、わずかに3ページほどの史実に基づいた短編小説だそうだ。
フォン・シャオガン監督は、戦死した仲間の遺体を必死で探す主人公の、骨太の人間ドラマを作り上げた。
当然、リアルな戦争描写は不可欠だ。
戦争の場面は、迫力満点で、もう圧巻の一言につきる。

冒頭から、観客は15分に及ぶ激しい戦闘シーンの中にたたきこまれる。
繰り返される死闘の中で、兵士一人一人が命を落としていく壮絶な場面には、凄みすら漂い、戦場のただならぬ恐怖と緊迫感をみなぎらせている。
これは、本当に凄い!

フォン・シャオガン監督の、この最新の一作戦場のレクイエムは、同じ民族同士の戦争という悲劇の中に、一人の兵士の贖罪を描いた作品だが、「歴史」と「犠牲」をテーマにしたかったという、彼の製作意図は十分にうかがえる大作だ。
中国アカデミー賞と言われる、金鶏百花映画祭で、最優秀作品賞と最優秀監督賞など四賞を受賞した。
・・・戦争からは、悲劇しか生まれない・・・。


映画「僕は君のために蝶になる」―ゴースト・ロマンスだが―

2009-01-18 09:00:00 | 映画
ジョニー・トー監督のこの映画は、香港で製作されたラブストーリーだ。
ハードボイルド派の監督が、初の‘女性映画’に挑戦した作品だ。
“トー版『ゴースト/ニューヨクの幻』”とも言われる作品なのだが・・・。

タイトルでもあり、キーワードでもある、この作品に登場する蝶は、“復活”の意味を持った死者の魂の象徴である。
現世に思いを残した男たちの、復活の話だからだ。

大学中の人気者アトン(ヴィック・チョウ)に、エンジャ(リー・ビンビン)は密かに想いを寄せていた。
アトンにはすでに恋人がいたが、いつしか二人は惹かれあうようになっていく。
しかし、幸せな時もつかの間、些細な口論がきっかけで、アトンが事故に遭遇し帰らぬ人となってしまう。

三年後、法律事務所で働くエンジャは、周囲に心を閉ざし、精神安定剤に頼る日々を送っていた。
そんなある夜、アトンが昔のままの姿で目の前に現れる。
はじめは戸惑うエンジャだったが、毎夜の逢瀬を重ねるうちに、次第に彼を心待ちにするようになっていく。
そして、今まで知らなかったアトンの過去、秘められた想いが次第に明らかにされていくのだった・・・。

どこか切なく、やさしい愛の奇跡だ。
だが、どうも少女コミックのような感じがしないでもない。
いい大人が、叶うことのなかった幸せな未来、伝えられなかった大切な言葉を、もう一度夢の中に求めて、死してなお愛する人に寄り添い続けるナイーブな愛を描いている。
亡霊となって、愛する人にめぐり逢うという、おとぎ話みたいなロマンなのだが、ドラマとしては少々飽き足りない。

シリアスな描き方はまだいいとしても、どうもまどろこしい。
話としてもありふれている。よくある話だ。
精神的に傷を負った女性を演じるリー・ビンビンは、非常に難しい役柄ではなかっただろうか。
‘囚われ’から抜け出せない過去と向き合い、新たな人生を取り戻すために、彼女は再スタートする。

恋愛というのは、誰にでも、その昔の経験や後悔の中に、心残りや幸せな思い出、傷や悲しみがあるものだ。
そういう意味では、このジョニー・トー監督
僕は君のために蝶になるは、とくに傷を持つ女性の心を癒してくれる作品なのかも知れない。

過去は変えることができない。
でも、想い出や記憶は変えられる。
過去に起きたことは、記憶の中で修正されることもある。
人生を重ねるとともに、過去への見方は変わるものだ。
簡単に言えば、失恋の直後はとても辛いものだが、それも月日がたつとその悲しみも薄れてくる。
そのように、自分の考え方は変えられるものだ。
事実は変えられなくても、人は変わり続ける。
そう言いたいのだろう。

この作品の主人公たちも、苦しみの中から答えを探し求め、完全とは言えないまでも、それなりの答えを得る・・・。
海辺で、沖を行く船を見つめる男と女のラストシーンは、そんな意味をしみじみと思わせるものではあるが・・・。
作品のテーマは理解できなくはないが、ドラマとしての掘り下げも浅く(?)、物語性にもいささか不満の残る映画だった。

政治家とスキャンダル―矜持はどこへ―

2009-01-16 07:30:00 | 雑感

先日、自他共にクリーンを標榜していた、横浜市の中田宏市長のスキャンダルが大々的に報じられた。
それから幾日もたっていないが、今度は鴻池官房副長官のスキャンダルである。

鴻池官房副長官は、麻生派で、総理の盟友と言われている。
週刊誌の報道を、新聞、テレビが追いかけ、民主党が辞任要求までする騒ぎになった。
まあ、そこまで騒がなくてもという気はする。

こともあろうに、参議院議員宿舎に、40代の人妻を数回にわたって宿泊させたというものだ。
この女性は、超一流企業勤務の夫人で、宿舎のカードキーで自由に出入りしたようだ。

河村官房長官の事情聴取に対しても、鴻池氏は事実関係を一部認め、肝心のことは否定しているようだ。
この種の報道がしばしばそうであるように、当事者のみが知る真実は闇の中だ。
宿舎に誰が出入りしようが自由だし、そのこと自体をを問題視することもない。
この問題は、与党も野党も神経質になっていて、事実関係を明らかにするように当人に求めたが、当の本人は、報道カメラの前から顔を隠すように逃げまどっていた。
政治家とは、こうも見苦しいか。

鴻池副長官は、これはまずいと思ってか、時間がたってから、どうやら不承不承臨んだ記者会見でも、記事に書かれた事実関係につては否定したが、どちらの言い分が正しいのか。
本当のところはよくわからない。

個人のことに関知するすることなどないだろうが、自宅ならぬ議員宿舎から、家族でない女性が朝帰りをすることが問題なのだ。
後朝(きぬぎぬ)の別れなどと、きれいごとではすまされない。
通常国会開会中のことである。

古今東西、いにしえの頃より、「政治」はときに「性事」と結びつき、一種の‘伝統’みたいに喧伝されてきた。
鴻池氏はどうか知らないが、賢明な政治家であればあるほど、国家や政治のことを考え、心身ともにくたくたに疲れ果てて、政治一色の世界から、別の‘異色’の世界を見たくなるものらしい。
わからないではない。
「公職」は「好色」と書かれることもある。(?!)
でも、こうした出来事は、しばしば政治家の辞任に発展したケースもあり、命取りともなりかねない。
もちろん聖人君子である必要はないが、時と場所をわきまえよ、ということだろう。

・・・寒い日々が続いている。
ふと、どこからともなく、何の脈絡もなく清らかな歌声が聞こえてきた。
吉永小百合の歌う、「寒い朝」であった・・・。


映画「そして、私たちは愛に帰る」―それは無償の愛―

2009-01-14 19:00:00 | 映画

親と子は、そばに居ながらにしても心をつなぎ合えない。
一番近い、他人なのかも知れない。
ドイツとトルコ、2000キロの距離を越えて、三組の親子がさすらう、再生と希望のドラマだ。
彼らは、運命のままにめぐり逢い、別れ、再びつながってゆく。

ファティ・アキン監督の、ドイツ・トルコ合作というめずらしい作品である。
カンヌ国際映画祭最優秀脚本賞、ベルリン映画祭金熊賞(グランプリ)、全キリスト協会賞など、数多くの映画賞に輝く。
ドラマの構成とストーリーの展開は、東洋と西洋の交わる国トルコを舞台に、その光と影も描かれる。
1960年代、ドイツは多くの移民をトルコから受け入れ、現在では270万人ものトルコ人に対する差別が社会問題化している側面がある。
あまり知ることの出来ない、トルコの抱える社会問題が、登場人物たちの生活を背景に描かれる。

人間の根本を支えているのは、本当は家族の愛と絆なのだ。
人は、誰もが幸せになるために生まれてくるのだろう。
愛することは、許すことであり、許すことは愛することなのだ。

映画の中で描かれる、二人の女性の不慮の死はともにドラマティックで、やや唐突な感じがしないでもない。
だが、そのことが、このドラマの展開に大きく欠かせないものとなっている。
どうにもならない愛もあれば、慈愛にあふれた無償の愛もある。

父親と息子、母親と娘、異国の人間同士の愛が、国境を越えても変わることはない。
すれ違い、出逢い、惹かれあい、反発し合い、触れ合っては別れ、別れてはめぐり逢う。
運命のいたずらか、ドラマというものは何と切ないものかと思わせる。
このファティ・アキン監督作品「そして、私たちは愛に帰るは、きわめて簡潔なスタイルで語られているものの、愛と憎しみの交錯するこのドラマは、名優たちの演技と、トルコ系ドイツ人監督の手腕が高く評価されてよい。

ハンブルグに住む大学教授ネジャット(バーキ・ダヴラク)の老父アリ(トゥンジェル・クルティズは、ブレーメンで一人暮らしだったが、同郷の娼婦イェテル(ヌルセル・キョセと知り合い、一緒に暮らし始める。
ところが、アリは過ってイェテルを死なせてしまう。

ネジャットは、イェテルが故郷トルコに残してきた娘アイテン(ヌルギュル・イェシルチャイに会うために、イスタンブールに向かう。
そのアイテンは、反政府活動家として警察に追われ、出稼ぎでドイツへ渡った母を頼って、偽造パスポートで出国し、ドイツ人学生ロッテ(パトリシア・ジオクロースカ)と知り合った・・・。

ネジャットとアリ、アリと出稼ぎ娼婦となったイェテル、トルコを逃れた娘アイテン、そしてロッテとロッテの母スザンヌ(ハンナ・シグラ)・・・。
三組の親子のすれ違いは、人生の旅路のさすらいとなって、“愛”そして“喪失から生まれる希望”を見出すまで、「幸せと不幸せ」「生と死」が背中合わせに存在する人生の不思議を綴っていくのだ・・・。

・・・罪を償い、出所したのち強制送還されたアリが、トルコのアタチュルク空港に降り立つ。
同じ頃、スザンヌもドイツからトルコへ渡ってくる。
ロッテの遺品を引き取るためだ。
イスタンブールのホテルで、一人酒をあおり、号泣するスザンヌ・・・。
狂おしいまでの、愛の裏返し・・・。

複雑に入り組んだ物語を、全てここに簡潔に書き綴るのは困難だ。
ただ、それぞれの異なる背景を持つ三組の親子の交錯する人生の中で、反発し合いながらも、なお強く結びつく父と息子、母と娘の絆が印象的だ。
たとえ、取り返しのつかない過ちを犯したとしても、すべてを受け入れ、憎しみを超えて許そうとする深い愛が、人間を信じる心と希望をもたらすのだ。
この映画には、ひたひたとさざ波のように打ち寄せてくるものがある。
これは、何なのだろう。