徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「ブライト・スター」―いちばん美しい恋の詩(うた)―

2010-08-30 04:00:00 | 映画
儚くも美しい、愛の物語だ。
25年という、あまりにも短い生涯であった。
イギリス後期ロマン派の詩人、ジョン・キーツの生涯唯一の純愛を描いた作品だ。
美しいものは、とこしえに歓びである――
「ピアノ・レッスン」ジェーン・カンピオン監督の、イギリス・オーストラリア合作映画だ。

人が人を愛し始めること、愛していくこと、それは、実は解き難い命題だ。
この映画は、たった二年余りの短い恋を、二人の恋人に振り分けて、彼らの人生の林に入り、キーツが愛したひとりの女性ファニーの側から、見つめたドラマである。

1818年、詩人としての才能を世に認められ始めたとはいえ、22歳のジョン・キーツ(ベン・ウィショー)は、詩集を出版したものの、いまはまだ貧しい身の上であった。
ロンドン郊外のハムステッドで、親友であり編集者のチャールズ・ブラウン(ポール・シュナイダーの家に身を寄せていた。
ここでキーツは、ブラウン家の隣人、ブローン家の長女ファニー(アビー・コニッシュ)と出会う。
キーツは詩集を出したばかりで、その評判はあまり芳しくなかったが、ファニーはその彼の詩に感動し、詩作のレッスンを受けることになる。

キーツは、ファニーの輝くばかりの美しさに、次第に惹かれてゆく。
色とりどりの野の花が咲き乱れ、春の木漏れ日の中で、キーツはファニーへの愛を詩にする。
ところが、そのキーツの人となりを認めてはいても、身分の違い、貧しい詩人とのいざ結婚となるとファニーの母は反対だ・・・。
キーツの弟の死や、彼の詩への酷評に傷つくキーツを、優しく包み込んでくれるファニーの純粋な恋は、キーツを詩人として成長させ、イギリス文壇からの評価も高まっていく。

詩作に励むために、ブラウンとワイト島に出かけていたキーツがハムステッドに戻ってくる。
彼は、吹雪の中で喀血した。
すでに、結核に冒されていたのだった。
日々弱っていくキーツに、ファニーは寄り添い、詩集の出版は続くのだが、二人の幸せな時間は長くは続かなかった・・・。

二人の純粋な愛から紡ぎだされた詩は、キーツの死後さらに評価が高まり、世界で最も美しい詩として、現在も語り継がれている。
彼は、詩人としては5年という短命だったが、後年その才能はシェイクスピアと比較されるほどに称えられた。

1819年、「輝く星よ」でキーツはファニーに呼びかける。
 「輝く星よ その誠実なきらめきは 夜空に高く孤独を知らぬ」
描かれる風景の美しさとともに、彼によって語られる「言葉」の美しさは印象的だ。
ジェーン・カンピオン監督映画「ブライト・スターは、監督自ら脚本を書いたが、女性らしい繊細なタッチで、キーツの短い人生と純愛を、あたたかな眼差しで優しく見守るようなドラマに仕上げている。

ドラマのはかなさも手伝って、作品がいとも甘やかで、とろりとするような感触に少し辟易する。(少しどころではないか)
キーツの詩というのは、教科書に取り上げられるほどイギリスでは有名で、この作品もまた、フェルメールの絵画のような映像美を紡ぎだして、しっとりと情熱的だ。
夢のような甘美と繊細は、やや執拗なまでに・・・。

映画「ハナミズキ」―夢は叶えられるためにある―

2010-08-25 22:00:00 | 映画

土井裕泰監督の、遠距離恋愛を描いたピュアなラブストーリーだ。
女性の自立という視点から、若者たちの10年の歳月を綴る。
10年という時の流れの中で、人はいかに生きたか。
いかに変わったか。
あるいは、変わらないものは何か。
それが、愛か。
そこには、様々な小さな「奇跡」も生まれる・・・。

海外で働くことを夢みて、平沢紗枝(新垣結衣)は勉学に励んでいた。
彼女は幼い頃に父を亡くし、北海道で母の良子(薬師丸ひろ子)と二人で暮らしていた。
つつましく暮らす家の庭には、ハナミズキが大きく育っていた。
自分の病状から、娘の成長を見届けることができないと悟った父(ARATA)が、幼い娘への思いを込めて植えたものであった。

紗枝は高校生になって、東京の大学への進学を目指していた。
彼女は、ふとしたことから、別の高校に通う木内康平(生田斗真)と偶然出会い、恋に落ちた。
紗枝は、その康平に励まされながら、大学に合格し、進学した。
そして、紗枝は東京へ、康平は北海道に残り、猟師の仕事を続けていた。
こうして、二人の遠距離恋愛が始まる。

夢に一歩ずつ近づき、華やかな都会暮らしで、だんだん美しくなってゆく紗枝の姿は・・・。
故郷に残った康平の心に、小波が立ち始めていた。
そんな時、紗枝の前に、同じような夢を抱いて前向きに生きている、大学の先輩・北見(向井理)が現れたのだった・・・。

10年という歳月の流れを、北海道、東京、ニューヨーク、カナダを舞台に、描いている。
時が流れていくその間には、いろいろな出会いや別れ、家庭環境や状況の変化もあり、紗枝と公平の二人は、不器用なすれ違いを繰り返したりもする。
それは、お互いのことを想うあまりでもあった。

二人が高校を卒業してから、一緒に過ごした時間は少なく、おそらくは数日しかなかった。
あとは、互いを想いながらの、いわゆる遠距離恋愛の日々であった。
10年の歳月は、決して軽くはない。
それぞれの人生に見えてくるものには、悲しみもあれば歓びもある。
ぎごちない高校生の二人が、別れと再会を重ねつつ、二十台の後半にさしかかって、大人としての落ち着きも出てくる。
変わったこと、変わらないこと・・・。
二人は、お互いがたとえ傷つくことになったとしても、自らを決断する意志だけは、確かに持ち続けていたのだった。

決して、いたずらに運命に翻弄されているのではない。
ドラマは、ピュアな時の流れを刻みながら、ロケ地の風景の移り変わりとかかわりあうように、彼らがともに過ごした歳月をすがすがしく綴っていく。
主題歌「ハナミズキ」(一青 窈)の優しい響きも、この愛おしい純愛映画にはよく似合うようだ。
作品は、ややもするとドラマの冗長さが目立ち、やたらと偶然の多いメロドラマになってしまっていることは気がかりだ。
この種の物語としてはきわめて平凡で、自然と先の展開が読めてきてしまうあたり、どうも構成に幼さも残る。

人の運命は、いつどこでどう変わっていくものか、誰にも分からない。
わからないのが人生だ。
土井裕泰監督作品「ハナミズキは、将来の人生設計がまるで違う、異質の二人の間の距離、その距離の壁に立ちはだかる、あるひとつの青春の愛を描いていて、あくまでもすがすがしい。
ただこの映画、特別に新味を感じる作品とまでは言いがたく、真夏の炎暑の中の清涼剤としてなら・・・、といったところだろうか。


所在不明の高齢者は何処に―家族の絆も、行政も―

2010-08-22 09:00:00 | 寸評

厳しい残暑が続いている。
朝に夕に、降り止まぬ蝉時雨・・・。
それも、心なしか元気がないようにも聞こえる。

いま、日本に100歳以上の高齢者は4万391人もいるといわれる。
さらに、これを65歳以上で見てみると2900万人にもなる。
100歳以上の高齢者の内、行方不明者は、わかっているだけでも281人いるといわれる。
1000人に7人が行方不明者だ。

実の子供でさえも、親の存在を知らない。
生死すら知らない。
そんな馬鹿げたことが、当たり前のようになっている。
どんな事情があるにせよ、親をほっとけるものだろうか。
人は、ひとりでは生きてゆけない。
誰もが支えあって生きている。
子が親を敬い、親を心配し、面倒を見るというのは自然だし、当然のことだとは、107歳で天寿を全うした、あのきんさんの息子さん(79歳)の言葉である。

近年、家族関係の希薄が話題になる。
子供や親族に迷惑をかけられないと、人知れず自ら姿を消すケースもある。
周囲の人間の無関心や冷たさもあろうが、本人自身も人との関わりを避けていたとすれば、自己責任もある。

金さんは、生前よくこう言っていた。
 「年寄りはね、みなさんに可愛がってもらわなければだめ・・・」
人と人との関わりは、生きていくのに欠かせない。
人と関わることで、疲れたり、迷惑をかけたりかけられたり、仲たがいするすることだってあるかも知れない。
それでも、人から離れず、人と関わることは大切だ。

よくおしゃべりをして、昔からの先人の知恵を教えるのが年寄りの務めだと、元気なお年寄りは言うのだ。
そのためには、親、兄弟、親戚、近所付き合いを大事にすることだ。
何かあれば、お互いに助け合う。
ひとりの方が気楽だとはいうけれど、本当はひとりくらい淋しいものはないはずだ。
ひとりでいなくなる人は、本当に寄る辺のない人なのだ。
家族とは、本来あたたかく、ありがたい存在だ。
だから、できるだけ身近にいてほしいし、いてあげたい。

それなのに、100歳以上の高齢者の所在や生死がわからないなんて・・・。
神戸では、847人の内、何と105人以上ものお年寄りの所在がわからずに、困った困ったとわめいている。
国内最高齢の113歳を上回る、114歳以上が書類上は18人もいるのに、お役所は確認作業すらしていなかったのだ。
これは、どうしたことか。
仰天の調査結果(報告)が、各地で続々と判明している始末である。

市役所や区役所は、住民票を管理しているだけで、何もチェックしていないし、本人の生死の確認作業もしていない。
それで、担当職員は平然と言うのだ。
 「一体、どこへ行ってしまったのでしょうかねえ?」だって・・・。

お役人は、住民についてはサービスの対象と見ていないのか。
所在もつかめないで、住民サービスができるわけがない。
デスクで書類とにらめっこしていたって、何がわかるというのか。
“足”で調べなくてどうするのか。
国勢調査にしても、アルバイト(?)まかせだ。
自らは動こうとせず、親方日の丸で、すべてが上から目線だ。

住民票といえば、地方行政の基本の「き」だ。
いかにずさんな仕事をしているか。
高齢者はどんどん増え続ける。
その中には、どこにいるかもわからぬ人も含まれる。
すべての役所がそうだとは言わないが、神戸の場合など、老人をほったらかしのまま仕事もしていなかったということではないか。
行政の根幹を揺るがす問題で、担当職員は民間なら全員辞職ものだ。
公務員は、「公務」を全うしてこそ公務員なのだ。

警察庁には、行方不明で亡くなった人の資料が、1万7000人分もあるそうだ。
その中から、あるいは身元のわかる人も出てくるかもしれない。
おざなりの調査では、問題は解決しない。
家族の所在も知らなくてどうするか。
捜索願いも出ていない。
そこに浮かび上がってくるものは、何か。
寄る辺なき家庭の崩壊と、周囲との関係も断ち切られた、孤独な人たちの存在だ。

人と人との絆、家庭の絆のいかに希薄なことか。
個人個人が、いまこそ何が出来るかを考えるべきだ。
といっても、いまの世の中、誰もが自分のことを考えるだけで精一杯だ。
わかっていても、他人のことまで気配りをしている余裕すらない。
誰が、こんな世の中にしてしまったのか。

行政の、明らかな怠慢は許しがたい。
一方で、地域のネットワーク構築を掲げて、高齢者の見回りを制度化して頑張っている住民活動もある。
行政があまりにも頼りないからだ。
行政が行き届かない点もあるだろう。限界もあるかも知れない。
そこをどうするか。

これは東京都の例だが、08年度だけで、65歳以上の高齢者の孤独死は2111人であった。
この頃、近所に救急車が停まったりすると、もしやと気になってならない。
連日の猛暑で、熱中症で倒れる高齢者もあとを絶たない。
豊かな生活を送ることのできる人は別格として、電気、ガス、電話もなく、貧窮、劣悪な環境で、生活保護からも見放された、孤独な高齢者たちが大勢いるのが現実だ。
やがて、高齢行方不明者の予備軍となって、どこかに消えていくことになるのだろうか・・・。


映画「樺太1945年夏 氷雪の門」―よみがえる幻の名作―

2010-08-19 07:15:00 | 映画
現在の、ロシア領サハリンと呼ばれるかつての樺太・・・。
1945年8月15日の終戦の混乱の中で、この地で多くの日本人が亡くなった。
この年の8月6日、9日と、広島と長崎に原爆が投下された。
同じ日に、ソ連は「日ソ不可侵条約」を一方的に破り、満州に、そして樺太に侵攻したのだ。

故村山三男監督映画「樺太1945年夏 氷雪の門は、ソ連の侵攻作戦のただなかで、最後まで通信連絡を取り、若い生命をなげうった、電話交換手9人の乙女たちの悲劇を描いた、真実のドラマだ。
この作品では、1974年製作当時で5億数千万円を超える超大作として話題を集めた。

しかし、劇場公開時、ソ連大使館の圧力によって、公開中止となり波紋を呼んだ。
そして、唯一残された一本のフィルムが、36年という時を経て、2010年デジタル処理を施され、ついに劇場公開となって、陽の目を見たのだった。
いわば、幻の名作である。

この作品をおいて、日本映画の中で樺太を扱った映画はない。
樺太と沖縄は、ともに戦場となり、多くの民間人が戦争に巻き込まれたが、沖縄戦と違って、樺太戦というのはほとんど知られていない。
沖縄戦の犠牲となったのは、ひめゆり部隊であった。
この作品に描かれる、真岡郵便局の電話交換手の女性たちの悲劇は、あまり知られていない。
しかも、これは「終戦後」に行われた戦闘であった・・・。

1945年夏、樺太西海岸にある真岡町・・・。
太平洋戦争はすでに終結を迎えようとし、戦禍を浴びない樺太は、緊張の中にも平和な日々が続いていた。

しかし、ソ連が日本への進撃を開始していた。
真岡郵便局で働く電話交換嬢たちは、ソ連軍の侵攻と、急を告げる人々の緊迫した会話を、胸の張り裂ける思いで聞いていた。

8月15日終戦後、ソ連が樺太に侵攻、8月20日真岡町の沿岸にソ連艦隊が現れ、艦砲射撃を開始した。
町は、突然戦場と化した。
逃げまどう人々、鳴り止まない電話・・・。

でも、彼女たちは、最後まで職場を離れようとはしなかった。
そこには、班長の関根律子(二木てるみ)をはじめ、取り残された9人の乙女たちがいた。
たった一本残った、電話回線から聞こえてきた声は・・・。
 「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら・・・」

史実によれば、ソ連軍が真岡に上陸したのは8月20日であった。
日本軍は、停戦交渉のために派遣された軍使が射殺され、やむなく郊外で自衛戦闘を開始した。
8月22日には知取というところで、停戦協定が成立した。
それにもにもかかわらず、ソ連軍は南下作戦を続行したのだった!
南の沖縄だけでなく、北の樺太では終戦記念日である8月15日を過ぎても、ソ連軍の執拗な戦闘は続いていたわけだ。
このことを映画化して公開することなど、ソ連軍が待ったをかけた理由は明白だ。

作品の製作に携わった監督、プロデューサーをはじめ、メインスタッフのほとんどは鬼籍に入り、出演者には故人となった島田正吾ら、あまたの有名人が名を連ねている。
忘れ去られようとしていた史実が、ここにある。
当時、文部省選定、日本PTA全国協など各種団体の推薦も受けていたこの作品の、貴重な一本のフィルムが、再び産声をあげたのだ。

(北海道の稚内に、失われた樺太をはるかに望んで、厳しい風土に耐えて生き抜いた、樺太民島と乙女たちの悲劇を象徴するかのように、いまも建つ二本の塔と女人像がある。
それは、「氷雪の門」と言われている。)
戦争への怒りと、平和への願いをこめて・・・
残念ながら、この地を訪れたことはまだない。

映画「キャタピラー」―忘れるな、これが戦争なのだ!―

2010-08-16 18:57:24 | 映画
異色の反戦映画である。
戦争とは、人間が人間に、犯され、切り刻まれ、焼かれることだ。
この映画は、そう主張する。
忘れるな、これが戦争なのだと・・・。
さすがに、若松孝二監督ならではの究極の反戦映画だ。

戦争に、正義などない。ない。
いま、人々は、太平洋戦争をはじめとする「戦争」の意味や本質を忘れつつある。
戦争体験の世代はもちろん、戦争を知らない世代も、そのことを知るべきではないか。
この作品は、太平洋戦争末期、四肢を失った傷痍軍人と銃後の妻の、残酷で痛烈な物語だ。
これは、若松監督の怒りだ。

巨大なキノコ雲の、あるいは振り注ぐ焼夷弾の、あるいは大量虐殺の、その下に潰される前、灯りのともった小さな家々に、多くの人間がいた・・・。
そこへ、勲章をぶら下げ、軍神となって傷痍軍人が帰還した。

手も足も、四肢を戦争で失い、頭と胴体だけの姿で・・・。
家庭は、最後の戦場となった。
妻のシゲ子(寺島しのぶ)は、夫の久蔵(大西信満)の介護をしなければならなかった。
口もきけず、耳も聞こえず、身動きのできない体だった。

男の口に粥を流し込み、糞尿の世話をし、男の下半身にまたがり、銃後の妻の日々は過ぎていく。
食べて、寝て、食べて、寝て・・・。
季節だけは、確実に過ぎていく。
秋から冬、そして冬から春へ――

この作品で、主演の寺島しのぶはベルリン国際映画祭で、日本人として田中絹代以来何と35年ぶりに最優秀女優賞(銀熊賞)に輝いた。
彼女の体当たりの演技が、きわめて高い評価を得た。
寺島しのぶは、若松監督のオファーを受けて、この作品の製作にあたって、「マネージャーも、衣裳も、メイクもいない。化粧もしないで、素顔で演技をしてほしい」といわれ、その要請にきっちりと応えたのだった。
二人は、年齢も性格も全く違うはずだが、表現しようとするものに対する姿勢に変りはない。

寺島しのぶは、映画がつまらないのは、監督と俳優の責任だということをよくわきまえている。
まさかの授賞式には、不在のヒロインに代わって、若松監督が舞台に立って、彼女のメッセージを代読したのだった。
日本に、日常感の溢れる女優は大勢いるが、彼女のように、劇的空間で演技力を発揮できる女優は少ないように思われる。

二人の夫婦に焦点を絞った脚本(黒沢久子、出口出)も、よく推敲されている。
女性の情念の描き方もそうだけれど、妻と夫との支配関係の変化も面白く描かれている気がするのだ。
さらに、シゲ子が、卵を久蔵の口に無理やり押し付けるシーンで、その後ハッとなって久蔵を抱きしめるところは、女の中の強い母性を感じさせる場面だ。

「キャタピラー」の、本当の意味を知っていますか。
本当の意味は、もうひとつの意味だということを・・・。
そして、戦争とは何なのか。
国家のために、人が人を殺すということは、何なのか。
それが、この映画の叫びだ。
全体に若松イズムが横溢していて、戦争の悲惨を通じて、人間を深く洞察しようとする作品だ。
しかし、この若松イズムは、ややもすると独善先行の嫌いがあり、一歩間違えるととんだ茶番劇になりかねない、大きな危険をもあわせ孕んでいる。
だが、冒険と挑戦なくして、いい作品も生まれないものだ。
この若松孝二監督作品「キャタピラーは、必見の一作ともいえるだろう。

映画のエンドロールで歌われる、元ちとせの主題歌が、悲しく、訴えかけるように、切々と胸の底に響く。
     戸をたたくのはあたしあたし
     平和な世界に どうかしてちょうだい
     炎が子どもを焼かないように
     あまいあめだまがしゃぶれるように
     炎が子どもを焼かないように
     あまいあめだまがしゃぶれるように (「死んだ女の子」の一節より)
 ―― 戦争の20世紀を経て、しかし、いまもなお、世界は同じ過ちを繰り返し続けている・・・。
愚かな人類の犯した、同じ愚かな過ちをである。

文学散歩 「人魚がくれたさくら貝」―長崎源之助展―

2010-08-12 04:00:00 | 日々彷徨

立秋を過ぎて、なお厳しい残暑が続いている。
夾竹桃の紅が、炎天に燃えている。
秘めやかな、女の情念のように・・・。
そんな暑い日の、文学散歩だ。

横浜の下町に生まれ育った児童文学者・長崎源之助(1924~)は、時代に翻弄されながら賢明に生きる庶民や、生き生きと元気に遊びまわる子供たちの姿を描き続けた。
彼は、そのなかで平和の大切さ、命の尊さを伝えている
この長崎源之助展は、8月7日(土)から9月26日(日)まで、神奈川近代文学館で開かれている

この人の作品は、「つりばしわたれ」など、多くの小学校教科書でも収録され、それらとともに育った子供たちも多いはずだ。
横浜では、「やまびこ子供会」や「よこはま文庫の会」、自宅にまでも「豆の木文庫」などを開設し、児童文学の世界で多彩な活躍をした。
これらの活動などを紹介する展観だ。

最近作「汽笛」が注目を集めているが、その原稿からも彼の几帳面さがうかがわれ、石倉欣二の原画とともに、どこかほのぼのとした温かさを感じさせる。
彼は自分の文庫を称して、「本のある遊び場」といったが、そこでは読書会から読み聞かせ、「子供市」などの行事を活発に行った。
平成13年には、30周年記念行事も催されたが、「文庫」はすでに公開を終えた。

・・・サチコは、夏休みにひとりで、九州のおばあさんのところへいきました。
そこで、気の弱いテツジと友だちになります。
テツジはサチコに、さくら貝をあげようと思いますが・・・。(「人魚のくれたさくら貝」)

戦争の悲惨をありのままに描いていた彼は、この作品では、それまでの作品とは異なる、子供の恋愛的な感情を、ロマンティックなメルヘンのかたちで描いている。
心に沁みるような作品である。
青い季節というのだろうか、感受性の豊かな少年と少女を、実にヴィヴィッドにとらえながら構成されたストーリーを、素直にあるがままに、温かい眼差しで綴っている。
近頃の、幼児虐待を忘れさせてくれるような、これは大人たちから見れば郷愁であり、子供時代への讃歌だ。
しかも、子供たち同志が、人の心を大切に想う、いたわりのこもった切れない絆で、確かにつながっているのだ。
長崎源之助展を観て、「人魚のくれたさくら貝」を読み直してみて、そう思った。

 8月15日(日) 「つりばしわたれ」など作品を読む・語る会
 8月22日(日) 「紙芝居がはじまるよ!」
 8月28日(土) 「絵本であそぼ」(絵本の読み聞かせ会)
 9月 5日(日) 記念講座「長崎源之助文学の魅力」(西本鶏介氏)
 などの、関連イベントが催される。


映画「ソルト」―大胆不敵なスパイアクション―

2010-08-09 11:15:00 | 映画
社会派フィリップ・ノイス監督の、スパイ映画だ。
一種の空しさをも感じさせるハードボイルド・・・、凄まじい女スパイ(?!)の活躍を描いたエンターテインメントだ。
冷戦時代に存在したとされる、エリート・スパイ養成所の伝説をもとにしたサスペンスで、主演のアンジェリーナ・ジョリーは、この主人公役のために、身体を絞り、撮影には、ケガまで負うほどの過酷なアクションに挑戦している。

イブリン・ソルト(アンジェリーナ・ジョリー)は、米中央情報局(CIA)の工作員だ。
北朝鮮で逮捕されるが、人質交換で帰国する。
・・・その2年後、ロシアから初老の亡命者がCIAに送られてくる。
彼は、スパイ養成機関の教官を名乗り、何十年も前にアメリカに潜入させた、ソルトという名前のスパイがいることを打ち明ける・・・。

ソルトは、旧ソ連の国家保安委員会(KGB)で、少女期から特訓を受けたエリート情報部員だった。
彼女は、並外れた工作能力を持ち、ロシア大統領の暗殺まで首謀し、さらに巨大で危険な計画にかかわっていくのだ。
その同姓同名のソルトに、二重スパイの嫌疑がかけられるというのだから、話はややこしい。

ロシアのスパイだという疑いをかけられ、一転CIAから追われる身となったソルトは、「私はハメられた」と、身の潔白を主張しつつ、自分に張りめぐらされた包囲網をすり抜けて逃亡する。
この逃亡者ヒロインの超人ぶりは、もうハチャメチャだ。
大型トレーラーの屋根に次々と飛び移り、ヘリコプターからハドソン川に飛び込むなど、飛んで、殴って、撃って、撃って、撃ちまくるという、ハードアクションの連続である。
血みどろの顔で、手錠を嵌めたままで、黒幕らしき相手との格闘が続くのだから、次に何が起こるのか予測もできないし、とにかく全く目を離せない。

アンジェリーナ・ジョリーの、目をカッと見開いて、頬をそぎ落としたクールな無表情が、凄みたっぷりだ。
冷酷に、非情に、彼女の前に現れる人間たちを、手当たり次第に始末(?!)していく。
そこには陰惨な裏切りがあり、殺しの連鎖が続く。
女性スパイとCIA分析官の、二つの顔が、あたかも観客までも欺くかのように――

善なのか悪なのか。
それさえもよくわからない、ミステリアスさである。
映画では、一見正体不明の女を演じながら、ストーリーは二転三転し、観客を翻弄する。
アクションシーン満載、彼女の多彩な変装も見ものだ。
フィリップ・ノイス監督アメリカ映画「ソルトは、もちろんドラマはフィクションだから、かなりな無理筋もあるし、度肝を抜くような無茶苦茶な設定も、この作品には許されるか。
この夏の酷暑を吹き飛ばすには、うってつけの娯楽映画である。

救われなかった幼い命―鬼母と行政のネグレクト―

2010-08-07 08:00:00 | 寸評

胸がかきむしられそうだ。
悲しくも、痛ましい。
大都会の真ん中で起きた、1歳と3歳の幼児(姉弟)虐待事件のことだ。

お腹が空いていたことだろう。
辛かっただろう。
苦しかっただろう。
悲しかっただろう。

多くの住民が近くにいながら、誰も幼い命を救うことができなかった。
こんなことがあっていいのだろうか。
子供の泣き叫ぶ声を聞いた人は、ひとりではない。
児童相談所へも、早朝、夜間と数回にわたって通報があったそうだ。
だが、様子を調べにきた職員は異変に気づかず、何事もなかったかのように戻ってしまった。
それも、5回も家庭訪問をしていて、何も気づかなかったのか。
呆れた話だ。

平成20年4月に、改正児童虐待防止法が施行された。
これによって、緊急の場合、家の中を強制的に立ち入り調査をすることが可能になっていた。
たまたま訪問した時には、子供の泣き声もしなかったので、不審に思わなかったらしい。
何としたことか。
もちろん、マンションの部屋に誰が住んでいるのかも把握できなかった。
それで、十分な調査をしたといえるのか。

子供が泣いているときはまだいい。
泣き止んだときこそ怖い。
そこを、どうして一歩踏み込もうとしなかったのか。
こうした事件が起きないようにするために、児童相談所はあるのだし、法改正まで行われたのだ。
まるで、子供の使いである。
もう、度し難い怠慢といわれても仕方がない。
これが、行政か。

育児放棄を示すネグレクトがあったにもかかわらず、行政は責任ある踏み込んだ対応を怠ったのだ。
そのことが、最悪の事態を招いてしまった。
昨年の児童虐待に関する相談件数は、4万件以上(!)にものぼった。
そのうち、虐待の疑われる家庭に強制立ち入りをしたのは、たった1件しかなかったというのだ。
これが、何を意味するか・・・。

児童相談所の職員は、いかなる事情があるにせよ、もっと積極的で真摯な対応をすべきだ。
もはや、人手が足りないとか、余裕がないとか言っている場合ではない。
児童虐待などの疑いのあったとき、いかにすばやく対応すべきかが問われる。
この事件があって、政府も地方自治体も重い(?)腰をあげたが、やることが遅すぎる。
やろうとすれば出来ることだ。それをやらないだけだ。
そんな行政でどうするのか。

この世に生を受けながら、子供たちが、安心して明るく平等に生きられる社会でなくてはならない。
そして、子供が唯一頼れるのはいつも母親だ。
母親がいなければ、幼い子供は生きる術がない。
子供を生きがいにして、身を賭して頑張っている母親もいる。
行政はもちろんのこと、そうした母親をまわりから支援し、助け合うような組織も場合によっては必要だ。
そうでないと、ネグレクト(育児放棄、責務怠慢)による悲劇は繰り返されることになる。


映画「オーケストラ!」―笑って泣ける、見事な演出の冴え―

2010-08-04 11:00:00 | 映画

笑って、泣ける・・・。
感動のクラシック音楽映画だ。
ラデュ・ミヘイレアニュ監督のこのフランス映画は、実に語り口が巧みだ。
ありえないと思われる話を、鮮やかに綴っていくドラマの進行にもひきつけられる。
一言で言えば、かなりドタバタ劇とも見えるが、寄せ集めの楽団が起こす奇跡の物語だ。

アンドレイ(アレクセイ・グシュコフ)は、ボリショイ交響楽団の劇場の掃除人だ。
30年前は、この楽団の天才指揮者であった。
ところが、政府のユダヤ人排斥政策で、コンサート中に解雇されてしまったのだ。
この楽団から、当時多くのユダヤ人音楽家が追放され、ロシア人のアンドレイはこの政策に反対していた。
彼は、いつかは復帰したいという夢をつないでいた。

ある日、偶然パリ・シャトレ劇場から、アンドレイはコンサート依頼のファックスを手に入れた。
彼は、解雇された楽団員仲間を集めて、ボリショイ交響楽団になりすまし、パリ公演を思いつく。
しかし、彼はかつての栄光を取り戻すことのほかに、ある悲しい史実を胸に秘めながら、また別の思惑を持っていた・・・。

彼は、落ちぶれたかつての仲間たちを集めた。
タクシーの運転手、蚤の市の業者、果てはポルノ映画のアフレコまで、様々な仕事で生計を立てている彼らのほとんどが、アンドレイの誘いに応じた。
曲は、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲で、アンドレイは、ソリストに売り出し中の美人アンヌ・マリー(メラニー・ロラン)を指名する。
こうして、寄せ集めの楽団が結成され、パリへと旅立った。

パリでの、この偽楽団の行状振りが軽快なテンポで語られる。
この30年の政治状況や、音楽をめぐっての皮肉たっぷりなセリフのやりとりには、抱腹絶倒だ。
そして、アンドレイの苦労が続く中で、いよいよぶっつけ本番のコンサートが始まる。

登場人物の思惑が様々に絡み合い、終盤のクライマックスを迎える。
それまでのコミカルなシーンは一変し、一気に芸術的な雰囲気となっても、観客は飲み込まれていく。
チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲ニ長調が、高らかに演奏される。
このシーンは圧巻である。

ソリストが、何故アンヌ・マリーだったのか。
曲目が、何故ヴァイオリン協奏曲だったのか。
アンドレイのこだわりは何だったのか。
はじめ出演を渋っていたアンヌは、チェロ奏者サーシャ(ドミトリー・ナザロフ)が、「コンサートの日に、両親が見つかるかも・・・」と口走った一言が聞き捨てならなかったことから、ソリストの彼女は、ヴァイオリンを手にぶっつけ本番でオーケストラの舞台に立ったのだ。
終盤、アンヌ本人も知らなかった、秘められた過去が次第に明らかにされていく中で、すべての疑問が解けていくのであった。
そうして、鳴り止まぬ拍手喝采の中で、この映画は見事なラストを迎えるのである。
素晴らしい、ドラマティックなラストだ。
このラストのために作られたような、ドラマだ。
メラニー・ロランの、透明感溢れる美しさがいい。

破天荒だが、情熱的な音楽映画としてはよくできている。
突飛なギャグの軽い笑いを超えて、社会風刺も効いている。
チャイコフスキーの音楽にも、悲痛なまでの激しいうねりや絡みがあって、この映画の場合主人公たちの心の中に、渦巻く激情が悲しく美しく伝わってゆく。
音楽に人生の意味を盛り込んでいるとも取れる、そのドラマ作りが上手い。
フランス映画「オーケストラ!における、ラデュ・ミヘイレアニュ監督の演出は断然冴えている。
まことに、感動的な映画だ。


映画「闇の列車、光の旅」―運命の旅路の果てに―

2010-08-01 12:00:00 | 映画

人は、何故命を賭けて国境を越えようとするのだろうか。
中米ホンジュラス、メキシコからアメリカへ――
この物語では、不法移民という問題を通して、国境を目指す、少年と少女の魂の触れ合いが描かれている。

キャリー・ジョージ・フクナガ監督の、アメリカ・メキシコ合作のロードムービーである。
サンダンス映画祭監督賞ほか、いくつもの映画賞を受賞した作品だ。
先進国の抱えている、「不法移民」の問題は、21世紀の現代でも様々な厳しい現実をのぞかせている。
ここに描かれるのは、衝撃の真実だ。

中米ホンジュラスに住むサイラ(パウリーナ・ガイタン)のもとに、長い間別居していた父が戻ってきた。
アメリカから強制送還された父には、どうしても実現させねばならないことがあった。
それは、サイラを連れてもう一度アメリカに行き、向こうにいる家族と一緒に暮らすことであった。

サイラは、迷ったあげく、豊かさを求めて、父と叔父とともにグアテマラとメキシコを経由して、アメリカのニュージャージー州を目指すことになった。
しかし、それは長く危険な旅路であった。
移民たちがひしめき合う列車の屋根の上で、サイラはカスペル(エドガー・フロレス)という少年と運命の出会いをした。
彼は、強盗目的で乗り込んだギャングの一員だった。
だが、サイラに暴行を加えようとするギャングのリーダーを殺し、サイラを救ったのだ。

裏切り者として追われる身となったカスペルと、彼に信頼と淡い恋心を寄せるサイラは、行動を共にすることになった。
国境警備隊の目をかいくぐり、組織の待ち伏せを交わしながら、二人は命がけで国境を目指すのだった。
いろいろな困難があっても、サイラとカスペルはそれを乗り越えようとする。
いつしか、二人の間にはかけがえのない絆が結ばれていたのだった・・・。

しかし、衝撃の結末を迎えるとき、一筋の光が差し込むのだが、それはどんな困難が立ちはだかっても、生き抜くことの強さと美しさを感じさせてやまない。
ドラマで描かれるギャング団には抵抗があるが、いまや世界中に十数万人とも膨れ上がった、少年ギャングたちのごくありふれた日常だときいても、にわかには理解しにくい。
でも、それが現実なのだ。
内戦があり、戦争孤児が生まれ、不況と貧困、暴力による支配が生み出した、現実社会の縮図だ。

人の命が犬の餌ほどの価値しかない!
そんな絶望の淵に追い込まれる若者がいる。
さらに、十代にも満たない幼い子供をも誘惑し、ギャングの優秀な殺し屋に育てるのだ。
こうして、いまもなお次世代ギャングが増え続けている。
もはや、これは架空の物語などではない。

そして、危険を冒してまでも、豊かさを求める違法移民はあとを絶たない。
このドラマでは、それまで見ず知らずの関係にあった二人が、同じ列車で北上することで運命を共有する。
貧困を背景として、暴力の突出と違法移民・・・、それだけでドキュメンタリータッチの社会派ドラマとも思える。

それにしても、本物の走る列車の屋根の上での集団撮影は、ハラハラの連続である。
この映画「闇の列車、光の旅」では、不法移民と旅を共にするリサーチで、移民たちの過酷な現実、無邪気な少年を凶暴な殺人者に変貌させてしまう、実在のギャング組織をえがいてる。
確かに衝劇的なリアリティには目を見張るが、観る側からすると、少年と少女の心の奥にまでもっと入り込んで欲しかったという気がする。

この、日系アメリカ人監督の作品となる長編デビュー作は、かなり粗削りな面も多いが、鮮烈な切れ味は、次作に十分な期待を持たせるものだ。
気鋭の映画監督の描く、中米移民の不幸な現実は、平和や豊かさとは無縁の世界で今も起きていることだ。
ドラマの中には、中南米の‘いま’が息づいている・・・。