徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「それでも恋するバルセロナ」―女、その上級な生きものたち―

2009-06-30 18:00:01 | 映画

恋で人生が変わるか。
人生には、しばしば想定外のドラマがある。
ひと夏の、情熱のヴァカンスを描いて、夏の陽光のように明るい作品だ。

ウディ・アレン監督の新作は、今回ニューヨークやロンドンを離れて、スペインのバルセロナを舞台に選んだ。
アメリカ・スペイン合作の、大人のロマンティック・コメディだ。
アレン監督というと、辛辣な台詞や、ひねりの効いた会話の応酬が身上とされる。
この作品では、第三者のナレーションが、登場人物の個性、心情、状況の変化を迅速かつ簡潔に伝えている。
主題歌のように流れる歌「バルセロナ」も、心地よくマッチしていて、軽やかに物語を語る。

官能的というよりは、思わず笑いに乗せられる可笑しさもあって、女にとっての幸せとは何だろうといった想いが、こうしたリアルなドラマを創り上げたのだろう。
明かるく、壮快で、一見どろどろした話に見えても、どこか楽しさの満喫できる作品になっている。
ストーリー性が強く、情熱的な空気をいっぱいに吸い込んで、濃厚でコミカルな味わい十分だ。
洗練された知性というよりは、奔放な感情そのものが素直に流れている。
ありえないような(?)ハプニングも、それがドラマであれば、許される面白さというものだ。

親友クリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)とヴィッキー(レベッカ・ホール)は、ひと夏を過ごすために、アメリカからバルセロナにやって来た。
ふたりは、ガウディの建築やミロの絵画を見て、観光を楽しんでいた。
そんなとき、深夜のレストランで、画家のフアン・アントニオ(ハビエル・バルデム)と出逢った。
ふたりは、同時に彼に惹かれていった・・・。

かくして、三角関係が生まれ、さらにはそこに画家の元妻マリア・エレーナ(ペネロペ・クルスが舞い戻ってきて、複雑怪奇な四角関係へと発展していくのだ。
三人の女と一人の男・・・、恋し、恋され、入り乱れ、四人の関係は予想だにしない怒涛のドラマを展開する。

恋愛体質の情熱的なクリスティーナは、恋人と別れたばかりで、人生に何を求めているのか解らない。
ヴィッキーは、考え方も保守的で現実的で、婚約者がいる。
激情的なマリア・エレーナは、天才肌のアーティストで、夫をナイフで刺したことで泥沼離婚した。
この三人の中心にいる男フアン・アントニオは、セクシーで野生的な男だが、欲望にも忠実だ。

クリスティーナが一目で恋に落ちる一方で、ヴィッキーも少しずつ戸惑いながらも、彼に惹かれていく。
ヴィッキーの悩みと裏腹に、順調に付き合いだしたクリスティーナとフアン・アントニオ・・・。
そこに、アントニオの元妻マリア・エレーナまで現われて・・・。
さあ、それからが大変なのだ。

出逢いから恋に落ちる、そんな当たり前の設定も勿論だが、登場人物のそれぞれの夏が終わり、必ずしもハッピーエンドになっていないところは、いかにもウディ・アレン監督らしいといえるか。
アメリカ・スペイン合作映画「それでも恋するバルセロナは、1935年生まれのウディ・アレン監督の描く、リアルな大人の恋物語である。

物語の後半近くなってから、ようやく登場するペネロペ・クルスは、この作品でアカデミー賞助演女優賞を受賞した。
難しい役どころをこなして、さすがの演技力に納得だ。
「ボルベール(帰郷)」「エレジー」でもお目にかかった、地中海の輝ける‘女優’ペネロペ・クルスは際立っている。
この作品には不可欠の女性として、登場している。
彼女は、いまや立派な地球規模の女優として成長したようだ。

スペインのバルセロナの街の美しさも、このドラマを盛り上げている。
小気味のいいテンポ、キザでストレートだが嫌味のない会話、快活なリズムのB.G.M..そして、あくまでも明るく華やいだ女たちのラブ・ヴァカンス・・・。
まあまあ、キュートな一面もあって、洒脱な一作といえるだろうか。
ゴールデン・グローブ賞作品賞受賞作だ。


記録映画「マン・オン・ワイヤー」―史上、最も美しい犯罪―

2009-06-28 20:30:00 | 映画

これは、驚嘆の映画だ。
本当にあった話である。
世情の騒然とした60年代の直後、世界は一時退屈で不毛のイメージがあった。
その70年代を思い起こさせるドキュメンタリーだ。
ニューヨークの、いまはなき世界貿易センター(ワールド・トレード・センター)、この二つのタワーの間に、細いワイヤーロープを張って、命綱なしの綱渡りに挑戦した、フランス人青年の実話である。

1974年8月7日の朝、大道芸人フィリップ・プティは、高さ411メートル、地上110階建ての巨大な建物の間にワイヤーを通して、その上を往き来するのだ。
時は、ニクソン米大統領が辞任に追い込まれる前の日だった。
フィリップ・プティは、何と一時間以上もその綱の上を歩き、走り、果ては寝そべったり,ひざまづいたりした。
人々は、誰もが度肝を抜いた。
多くの人々が驚きと喜びをもって、それを見守った。

まさに、信じられないような出来事が本当に起こったのだ!
人は、これを「史上、最も美しい犯罪」と呼んだ。
東京タワーよりはるかにはるかに高い、センタービルの天辺に張られたワイヤーの上で、綱渡りをするのだ。
人間離れした、奇跡である。
それは、狂気と紙一重の、不可能への挑戦であった。
人間が、天界に近づこうとしている。
それは、アクロバットを超えた、厳粛な儀式であり、神への祈りのようにも見えた。
危険きわまりのない、極度の緊張のなかで、フィリップ・プティは笑顔さえ見せる。

仲間や幼なじみ、恋人までが彼に協力を惜しまない。
フィリップ・プティは、これまでも、パリのノートルダム寺院の上で綱渡りを披露したこともあるそうだ。
今回も、この天上的な行為の前に、周到な準備は欠かせなかった。
勿論許可が降りるはずもないから、ひっそり侵入する。不法侵入だ。
それだけで犯罪だ。
しかし、プティの行為は、もう法律の外にあった。

映画は、当時の記録フィルムと、現在の再現映像を組み合わせて、アカデミー賞ドキュメンタリー部門に輝いた。
イギリスのジェームズ・マーシュ監督は、これが長編3作目で、貴重な映像も多く使用されている。
あえて劇中では、2001年9月11日の同時多発テロには触れなかったが、全米の映画賞のほぼ全てを受賞し、それらの映画賞ではその点を評する声も高かったようだ。

ドキュメンタリー映画「マン・オン・ワイヤーは、いやいやどうして不思議なくらい繊細で、ひそやかな感動が残る秀作だ。
舗道に立って、空を見上げる驚きの人たち・・・、天空にかすんで見えるプティの姿がはっきりと、しかしそれは、とても小さく、神々しく輝いているもののように見えた。

これは現代のおとぎ話だ。
人は、いかなるときもチャレンジ精神を、そして友情の尊さ、夢を持つことの大切さを失ってはならない。
観ているものの心を大きく揺さぶるのは、不可能さえも可能にする極限の精神力だ。
地上411メートル、聞いただけでも目もくらむ高さである。
もう言葉が出ない。ため息だけだ。
死と隣り合わせの、これこそが、本当に人生を賭けた綱渡りだ。
美しき自由の伝説、その何という素晴らしさか!


沈みゆく泥舟―政権交代のない国のどうしようもない情けなさ―

2009-06-26 20:00:00 | 雑感

独裁政権にも等しい(?)自民党が、‘崩壊前夜’を迎えて、右往左往している。
日替わりメニューのように、連日ドタバタ、ギクシャク、ハチャメチャなゴタゴタ騒ぎだ。
国民は、もう呆れかえっている。

一体、何ですか。
迂回献金疑惑が、民主党の小沢前代表に向けられていると思ったら、現内閣の与謝野馨大臣に続いて、今度は5大臣を兼務する佐藤勉総務相にも、怪しい献金が浮上した。
談合企業から、1000万円以上のカネを受け取っていたそうだ。
さらには、舛添厚労相にも与謝野疑惑が飛び火しそうな、何とも妙な雲行きとなってきた。
とどまるところを知らぬ、疑惑の連鎖である。

麻生総理は、解散は自分の手でやると力んでいたが、内閣の方がその前に瓦解しないか。
佐藤総務相は、事態の重大さに気がついたのか、慌てて献金を返すなどと言い出したが、返せばそれで済むというものではないだろう。
指摘されても、把握していない、知らない、よく調べてみたい・・・などと、そんな言いわけが通用するだろうか。
大臣を任命した、麻生総理の責任は重大だ。
佐藤総務相といえば、日歯連事件の時も、国会で確か献金疑惑が追及されたいわくつきの大臣だ。

ほかにも、河村官房長官、金子国交相、中川前財務相らが怪しげな献金を返還している。
人気の舛添厚労相も、与謝野大臣側に迂回献金した、オリエント交易との親密な関係が疑われているのだ。

立て続けに、疑惑炸裂で、2大臣は合わせて8つのポストを兼務しているから、ほかの大臣の疑惑が出てきたら、内閣の機能は心肺停止に陥るだろう。
自民党は、衆議院解散前に、内部から崩壊していく・・・ことになるかも知れない。

茨城県医師連では、すでに1256人が、自民党離党届を出したと言われる。
ドロ舟が沈む前に、下船しないと大変なことになる。
それに気づいた多くの自民党員は、いま大慌てだ。

・・・戦後、腐敗した自民党政権の下で、人々は生きてきた。
それも60年といえば、ずいぶんと長い歳月だ。
ほとんど、自民独裁政権の下で・・・。
これで、本当に民主主義国家なのだろうか?

いま、その政権交代の時が来ようとしている。
しかし、それとて、多くの国民が望んでいるとはいえ、これまで営々と築かれてきた自民政権と、それに群がる巨大な勢力の妨害なしとは言えない。
実現には、革命的な(!)エネルギーも必要だ。
とても、簡単にことが運ぶとは思えない。

もし、本格的な政権交代となれば、戦後64年で初めてのことだ。
これまで、政権交代と聞いても、絶望に近かった。
海外の先進国や民主主義の国では、政権交代は当たり前のことなのに、ここに来てやっと日本も政権交代に手が届くところに来たのだ。
半世紀以上もかかって、やっとである。
初めて、現実味を帯びた話になってきたのだから、情けない話だ。

それだけに、権力側も、焦燥と不安は大変なものがあるはずだ。
何と言ったって、役所、警察、税務署、農協、銀行、民間企業、それにメディアまでもが、自民党政権の‘王国’という構図の中で支配されてきたのだから・・・。
その生活基盤が、がらりと一変する(?!)政権交代が起きようとしている。
だからこそ、いまの自民政権を手離したら大変なことになると思っている、権力側の人間が大勢いる。
メディアだって、権力の一部だ。
大いなる危機感を持っているはずだから、自民党寄りのどんな報道だってする。
これも怖い。
一夜にして、世論が一変するようなことだって不思議ではない。
マスメディアによって、世論がいいように操作されてしまうのだ!
正直なところ、総選挙のその日まで、何が起きるかわからない。予想もつかない。

それでも、世論を無視してはいけない。
藤原正彦氏は、その著書「国家の品格」の中で、民主国家では、現実として世論こそ正義だと言っている。
かくなるうえは、一日も早く解散、総選挙を行って、民意を問うて欲しいものです。


仰天!三文芝居―なめられた自民党―

2009-06-24 20:00:01 | 雑感
自民党の古賀選対委員長が、宮崎県の東国原知事に、総選挙への立候補を要請した。
古賀氏は、沖縄県での戦没者追悼の式典予定を変更してまで、知事との会談を優先した。
いまや、政権を死守しようする、自民党の焦りである。
それは、万策尽きた窮余の策といえば、少しは聞こえはいいが、もうこうなったら、なりふり構わぬ自民党の毎度使い古された姑息な戦略(?)だ。

古賀氏は、知事の誠実さと自民党にはないエネルギーが欲しいと、甘い言葉で熱く語りかけたが、知事は自分を総裁にしてくれたらと、仰天条件を提示した。
古賀氏のラブコールに、とんでもない厳しい条件がついた。
古賀氏は、去年から知事が国政に色気を持っていることを察して、東国原氏に秋波を送ってきた。
世論調査でも、麻生内閣の惨憺たる支持率を見て、出馬要請に動いたのだった。
世論の支持ねらいのためなら、いまとなっては何でもやろうとする、追い詰められた自民党の姿だ。
こうなったら、やぶれかぶれだ。

東国原知事は、「総裁候補」の他にも、国と地方との税源配分を等分にするなどを、自民党のマニフェスト(政権公約)に盛り込むことを、立候補の条件としてあげていた。
与党内には、選挙協力はともかく、出馬要請までは知らなかったという議員もいて、一部には困惑の表情も見える。
「総裁候補」を条件として突きつけられた自民党は、足元を見られて憤りを隠せない。
自民党の値打ちも下がったものだ。
もはや賞味期限の切れた自民党、ずいぶんとなめられたものではないか。
知事が、総裁になるための、自民総裁選の規程を知らぬわけはないだろう。
でも、仮に総裁になったって、自民党が野党になってしまえば、首相になどなれるわけがない。

まあ、こんなことは前代未聞の要求だ。
お笑いさんのやりそうなことで、まともに付き合っていられない。
どこか、場末の大衆演芸場で願いたい。
ネタとしてはどうか知らないが・・・。

・・・国政は県政とは違うものだ。
知事は、自分が自民党には利用されたくないと思っていたはずだし、しかし本音はまんざらでもないといったところで、なにやら国政への意欲もちらつかせる。
自分を高く売りつけて、返事の出来ないことをぶつけたりする。
よくある手だ。
本当に出馬する意思があったら、これまた仰天(!)だが・・・。
たとえどうなろうと、国民は、いや県民も成り行きをじいっと見ている。
そして、きっと正しい判断を下すことだろう。

東国原知事だって、まだ一期目も終えていない。
それなのに、自民党を救うために、知事の職を捨てられるというのか。
また、そんなことが、県民はもちろん国民に理解されるだろうか。
知事の資質はともかく、国会議員としてふさわしいかどうかは、また別の問題だ。

知事の直談判に、古賀氏も直接の結論は出さなかった(出せるわけもない)が、苦渋の笑みを浮かべていた。
それでも、その夜ふたりだけで再び会ったりして、何をひそひそ話し合ったのか。
麻生総理は、コメントする立場にないとして、戸惑いを見せながらも、明らかに不快の色は隠せなかった。
それはそうだろう。

自民党は、野党になるかもしれないのだから必死だ。
背に腹は変えられない、
恥も外聞もない。あの手この手で、何でもやる。
お笑い芸人に、自民党が笑われている。馬鹿にされているのも知らないで・・・。
いきなり、総裁だなどと、とんだ揶揄(?)に振り回されたのは自民党だけではない。
テレビ局までが、知事ことお笑い芸人を登場させて、言いたい放題言わせて、こぞってはしゃぎまくっているから可笑しい。
これは、何なのですか。
どっちもどっちだ。
これが、日本ですか。
馬鹿馬鹿しい。あきれた三文芝居だ。
貧すれば鈍するとはよく言ったものだ。
ここまでこけにされたら、自民党は解党した方がいいと思うが、どげんですか?

映画「愛を読むひと」―忘れえぬ青春の残像―

2009-06-21 04:00:01 | 映画
答えのない愛・・・、それを名作に込めて読んだ。
当時無名だったドイツの作家・ベルンハルト・シュリンクが、1995年に発表した作品は、アメリカでも200万部、全世界で500万部を超えるベストセラーとなったそうだ。

突然訪れた、年上の女性との恋・・・。
20年後、何故彼は本を朗読し、彼女に“声”を送り続けたのか。
少年の恋は、やがて無償の恋へと変わって・・・。

スティーヴン・ダルドリー監督の、アメリカ・ドイツ合作映画だ。
偶然出会った少年と、年上の女との、30年に渡る長い歳月の物語である。
この作品で、陰翳のある年上の女を演じるケイト・ウィンスレットは、アメリカ・イギリスの両アカデミー主演女優賞を受賞した。
映画「タイタニック」(97年)では、情熱的なヒロインを演じたウィンスレットが、今回はくすんだ市井の女として登場する。
女優とは、かくも変身するものか。

1958年、ドイツ・・・。
15歳の少年マイケル(デヴィッド・クロス)は、学校の帰りに具合が悪くなって、ハンナ(ウィンスレット)に介抱される。
3ヵ月後、病から回復したマイケルは、一人暮らしのハンナのアパートに花束を持ってその時のお礼に行く。
そっけない口調で、愛想笑いも一切しないハンナだが、マイケルは大人の女性の成熟した魅力にひきつけられる。

翌日もまた、ハンナの部屋を訪ねるマイケル・・・。
石炭運びをして汚れたマイケルを風呂に入れ、ハンナは裸になって彼を抱きしめる。
21歳も年上の女性との初体験に、少年のおののきとともに歓びを、スティーヴン・ダルドリー監督までが初々しい眼差しで見つめている。

ハンナは、路面電車の車掌をしていた。
少年はハンナに夢中になり、やがて彼女は愛のあとに彼に「本を読んで」と求める。
次第にわかってくることだが、ハンナは文盲で、質素な暮らしの経験しかない。
マイケルは、古今の名作を読み聞かせる。
親密になったふたりは、一泊の自転車旅行に出かけたりして、素朴で幸福な日々が続く。
そんなさなかに、ハンナが突然姿を消した・・・。
前半、ひそやかで、滴り落ちるような官能に満ちた愛が、静かに、激しく描写される。
この映画のクライマックスだろうか。

1966年、法科の学生となったマイケルは、ゼミで実際の裁判を傍聴する。
それは、第二次大戦中の戦争犯罪を裁くものだった。
そこで、マイケルは、ナチスの強制収容所で看守をしていたとして、被告人となったハンナを再び見るはめになる。
このあたりは、ドイツ現代史と重なって、痛ましい愛の物語を構成する。

物語は、76年、80年とさらに続く。
時は流れ、弁護士となったマイケル(レイフ・ファインズ)は、獄中のハンナに、自ら名作を朗読して吹き込んだテープを送り続ける。
彼が、年老いたハンナと再会したとき、彼女とはじめて会ってから20年近くの歳月が過ぎようとしていた。
マイケルは、ハンナが心と身体に残していった傷跡に向き合うため、そして、ハンナ自身の無数の傷を癒すため、ある決意をしたのだったが・・・。

ハンナが犯した罪への怒り、彼女を助けられなかった悔恨、消えない愛の記憶・・・、さまざまな想いに引き裂かれながら、マイケルは朗読を続けるのだった。
ハンナとマイケルの老い・・・、それでも、具体的な言葉を発しなくても、観客にじわじわと伝わってくるものがある。
この映画のテーマの中には、ユダヤ人がナチに抱く姿勢が宿る。
ある意味では、無知で無学であることが罪を生むことをしみじみと感じさせる作品だ。

ハンナは貧しい階層の娘として育ち、ナチスの親衛隊になっても、「しごと」がしたかったのだろう。
彼女は、だから裁判長から罪を責められたとき、思わず「あなたなら、どうしましたか?」と逆質問するくだりがある。
それに対して、裁判長は何も答えようとはしない。
そうなのだ。明快な答えなどあるはずがないのだ。
ハンナは、確かにこのドラマでは加害者だ。罪人なのだ。
しかし、同時に過酷なこの時代の被害者でもあるのだ。
文字の読めないハンナ、それだけに罪を負った女を見捨てられないマイケルの気持ちが痛いほど解る。

ナチズムを支えたものは、何だったのか。
ハンナのような女もいた。
何という、歴史の残酷と悲惨か。
ハンナは、平和な時代になっても、自分の犯した罪を忘れることはなかった。
その秘密を、自分を慕う少年にさえも言うことが出来なかった。
そこに、彼女の“原罪”があったのだ。

場面の転換、切り替えにやや唐突なところもあるが、全体的に、比較的よくまとめている方だ。
スティーヴン・ダルドリー監督の、この作品愛を読むひとは、ケイト・ウィンスレッの演技がひときわ光る一作だ。
あの「タイタニック」から12年、彼女は、一回りも二回りも女優として大きく成長した。
慈愛の底にほの見える傲慢、強くしかし悲しい孤絶の心、さすがと思わせる心理描写も見事で、観て全く損はない。
心優しい女性が、この作品を観るときは、ハンカチを忘れずに用意されるように・・・。

大政奉還と党首討論―見たまま、感じたまま―

2009-06-18 17:12:00 | 雑感

驚きの言葉が、突然飛び出した。
鳩山前総務相の更迭を受けて、麻生内閣の支持率が17%まで急落した。
惨憺たる結果だ。
有権者は、今の内閣に完全にNO!を突きつけたのだ。

先頃開かれた自民党の代議士会で、若手の議員から、厳しい言葉が飛んだ。
主旨はこうだ。
今回の「鳩の乱」で、自民党は決定的に国民の信頼を失った。
そのことを憂え、自民党はこの際政権の「大政奉還」を決断して、国民の懐へ戻れというものだ。
それは、麻生総理の面前での、痛烈な一撃だった。
こともあろうに、政権与党の中から、大政奉還とは・・・。

これは、単なる「退陣要求」ではないとの説明まであった。
当然、民主党への政権移譲を求めたと受け取れる発言だ。
このとき、場内は騒然となったそうだ。
それはそうだろう。
麻生総理に向けられた、何と、身内からの強烈なパンチだ。

身内からの、麻生降ろしの一撃は、自民党再建への思いがこうした表現になったのかもしれない。
発言者の若手議員は、麻生総理の面前で涙さえ浮かべていたという。
当の麻生総理、そう言われて緊張感のあることをどこまで理解できたのか、
 「言葉の意味が、正直解らなかった」そうだ・・・。
え~っ、トホホ・・・、何てこった!

麻生総理と民主党の鳩山代表の、二度目の党首討論を見た。
日本郵政の社長人事についての説明は、話にもならない。
 「判断がぶれる。判断ができない。総理の器としていかがなものか」
鳩山代表の論理は、明快だ。
消費税増税についても、徹底的な無駄遣いをなくすことが大前提だと述べた。
二大政党の今回の対立軸は、どうやらこの辺にあるようだ。

今回の党首討論で、まず感じたのは、やはり麻生総理の上から目線だった。
庶民目線で鳩山代表が話しているのを、官房長官からは、お涙頂戴はよくないとの揶揄の声もあがったが、国民には解りやすい話だった。

日本郵政の闇(怪)は、とてつもなく深そうだ。
鳩山代表は、党首討論の席上で、民主党政権になったら西川社長を辞めさせると、はっきり断言した。
そうだ。やればいいのだ。
国民の財産をもてあそぶ「郵政民営化の闇」こそ、その全貌を国民の前に明らかにしなければいけない。
巨悪を、許してはいけない。

討論の時間が、あと一分しかないという時になって、麻生総理は、いきなり安全保障と第七艦隊の話を切り出した。
何なのだ。この唐突さは・・・。
場内も、一体何のこっちゃと、一瞬どよめいた。
唖然とした。

討論の時間はもっとあった方がいいし、突っ込んだ討論なら、テーマを決めて毎週でもやってもらいたい。
今回の、本格的な討論の続きは、選挙戦でということになるのだろう。
一日も早く総選挙を行って、有権者の賢明な判断で、決着をつけてもらいたい。
・・・来るべき世の中に、国民ひとりひとりの期待が高まっている。

党首討論の終了の瞬間、麻生総理の目は宙を泳ぎ、もうヤル気がないかのように見えた。
それは、「もはやこれまで」というあきらめだろうか。
そして、周囲からは、こんなささやきまで聞こえてきて・・・。
 「もう、終わったな」・・・。
総理退陣は、秒読みに入ったのか。
終わりの始まりなのか。
いずれにしても、もう3ヶ月以内に総選挙が行われることは間違いない。

梅雨のさなか、いま紫陽花が美しい。
・・・永田町は、ここにきてにわかに、与党の議員たちが、ガサゴソ、ドタバタ、忙しく右往左往しはじめた。
何を慌てているのだ。
さあ、大変だ。
いよいよ、『その時』が、確実に近づいてきたからか。


映画「サガンー悲しみよ こんにちはー」―その波乱万丈の人生―

2009-06-16 11:00:00 | 映画
「年下のひと」ディアーヌ・キュリス監督の、フランス映画である。
18歳にして早熟な才能を発揮した、フランソワーズ・サガンのドラマティックな半生を綴っている。
若くして、有り余る富と名声を手に入れ、贅沢で自由奔放な人生を送りながら、孤独、絶望、裏切り、別れ・・・、浪費のあげく破綻、病魔に倒れるまで、その69年の生涯で、彼女が人生の最期に見たものは何だったのだろうか。

同名の小説「悲しみよ こんにちは」(Bonjour tristesseで、サガンが作家デビューしたとき、たちまち22カ国で翻訳され、印税5億フラン(約364億円)を稼ぎ出したというのだから、凄い。
サルトルブリジッド・バルドーらとの華麗な交友関係など、スキャンダラスな私生活が常に注目の的となった。
その一方で、次々と発表される小説はヒットし、映画監督や戯曲の執筆までも活動の幅を広げた。

サガンというペンネームは、マルセル・プルースト「失われた時を求めて」の登場人物から決めたものだ。
自然や周囲の人物に対する彼女の感受性は、生涯を通じて愛読、私淑していたルーストの影響があるようだ。
彼女の発表する作品群は、生きることの喜びや悲しみ、ときめきやせつなさ、やるせなさを、絵画や音楽のように感じさせていつもみずみずしい。
そのみずみずしさは、しばしば倦怠とか、虚無といった言葉で表されることもある。
ただ、文学的な評価となると、どうか。
小説「悲しみよ こんにちは」は、ノーベル賞作家モーリャックからは「魅力的な小悪魔」と驚嘆され、サガンの才能のきらめきをうかがわせるものであった。
タイトルは同じでも、映画の方は、小説とはもちろん異質なものだ。

18歳の少女の小説がベストセラーとなり、サガン旋風が巻き起こる。
フランソワーズ(シルヴィ・テステュー)は、一躍名声の人となった。
有名人となったサガンに、さまざまな人間が集まって来た。
夜ごと、パーティーに繰り出してはお祭り騒ぎを楽しんだ。
カジノで、ギャンブル三昧のバカンスを過ごしたときは、ルーレットで800万フランの大金を獲得したこともあった。
ノルマンディーを気に入った彼女は、借りていた別荘を、即その金で購入した。

サガンの人気は、アメリカでも沸騰した。
ニューヨークで、フランス人の編集者ギイ・シェレール(ドゥニ・ポダリデス)と恋におちるが、やがて離婚する。
そんななかで、交通事故を起こし、一命を取り止めたものの、痛み止めのモルヒネのせいで、生涯にわたり薬物中毒とたたかうはめになる。

その後も、サガンは複数の男性と恋の遍歴を経験する。
ハンサムなアメリカ人・ボブ・ウェストホフ(ウィリアム・ミラー)との結婚では、一人息子ドニにめぐまれるが、この結婚も長くは続かなかった。

浪費を続けるサガンの支出は、いつのまにか収入を上回り、税金の未納額と借金が膨らんでいった。
そして・・・、優しかった父の死、自身もミッテラン大統領に同行し、コロンビアで高山病にかかり生死の境をさまよったり、コカイン所持・使用で有罪の判決を受けたり、親友をガンで失い、旧友で最愛の‘親友’ジャック・シャゾ(ピエール・パルマード)も程なく世を去って、次々と降りかかる不幸の中で、サガンはやがて病床に伏すことになった・・・。

ヒロインを演じるシルヴィ・テステュー「エディット・ピアフ~愛の讃歌~」のピアフのときもそうだったが、本物のサガンを思わせる出来ぶりで、役柄にぴったりなのは感心した。
サガンは、個人の自由を奔放なまでに謳歌した。
フランス映画「サガン-悲しみよ こんにちは-」は、作家としてのサガンより、一女性としてのサガンを描いている。
サガンのセリフには、「自由」という言葉がよく使われる。
彼女の不幸は、自暴自棄と言ってしまえばそれまでだが、それを彼女は自由の代償と自認していたのだろう。

「鳩の乱」―悲憤慷慨、これにて御免!―

2009-06-13 09:00:00 | 雑感

正しいことが、通用しない。
それが、いまの日本の政治だ。
総理大臣は間違っている。
政府に、尋問の筋これあり。
鳩山総務相は、西郷隆盛の言葉を引用してこのように断じて、大臣の職を辞し、潔く閣外へ去った。

その根は深い。
日本郵政の西川社長が、2400億円で建設した『かんぽの宿』を109億円で売却しようとした。
それも、一般競争入札ではなく、企画コンペというやりかたで、入札の経緯については非常に不透明であった。
国民にも、十分納得のいく説明はなされなかった。
情報公開まで渋った。
西川社長のやってきたことは、説明がつかないのだ。

郵政民営化に群がった連中がいる。
その深い闇とは、一体何なのだ。
知られてまずいものにフタをする。そのために、社長続投にしがみつく。
国民の税金を掠め取ろうとしたのは、一体誰だ。

麻生総理の盟友とされた鳩山総務相、さらにもう一人、平沼赳夫元経産相までもが首相に、日本のために、西川社長をクビにしなければ駄目だと言って迫った。
しかし、伴食宰相は首をたてにふることはなかった。
側近の意見に耳をかさず、国民の声を無視して、いまや政権の体をなしていない総理の座に居座って、それでも居心地がよいのだろうか。

『かんぽの宿』不当売却を問題なしとした、第三者委員会を設置したのは日本郵政だ。
郵政内部に設けた委員会では、お手盛り以外の何ものでもない。
チェック機関は、外部に設けなければ何の意味もないではないか。

何故、人事権のある総務相が辞意に追いやられて、任命される側の日本郵政社長が続投となるのか。
そして、何故西川氏でなければならないのか。
かんぽ問題の不祥事を、何故固守、固持するのか。
郵政利権に群がる郵政族たち・・・。
無明の闇に、がさごそと蠢く魑魅魍魎の群れ・・・。
何を求めて、群れ集まるのか。
・・・その辺りの根は深い。

鳩山氏は、終始一貫して自身の信念を貫いた。
目立ちたがりのパフォーマンスだと、批判する人もいる。
それなら、それでいいではないか。
チャラチャラして、しょっちゅう発言がブレて、物事の判断も決断もできずに、威張りくさっている伴食宰相よりは、信念を貫くだけでもはるかにましだ。
それにひきかえ、政府与党の、あられもないオタオタぶりは、一体どうしたというのだ。
麻生政権の内部の乱れは、目をおおうばかりだ。

今回の鳩山氏の姿勢について、Gooニュース畑によれば、賛同できるかどうかを問うたところ、何と70%もの人々が「賛同できる」と答えているのだ。
ここでも、麻生総理にNO!がつきつけられているのだ。
その是非はともかく、郵政民営化が声高に叫ばれてから早くも4年、その実態は、一部の利権のために、国民の財産が好きなように何者かにおもちゃにされている。
この「郵政の怪」を、誰が納得できるというのだろうか。

民主党の、小沢前代表の政治資金にからむ説明責任どころか、「郵政の怪」の方がとてつもなく巨大な疑惑があるのではないか。
いや、きっと何かがある。
その闇を、白日の下にさらし出してもらいたい。
だからこそ、鳩山総務相は、麻生総理は間違っていると、自信を持ってはっきりと断じたのだ。

世の中、、正しいことが通用しない。
政治の世界では、それがいまや当たり前なのか・・・。
だとしたら、悲しむべきことだ。
いよいよ、麻生政権の末期が近づいている。


映画「ハゲタカ」―近未来を暗示するのか―

2009-06-11 05:00:00 | 映画

ハゲタカとは、コンドルやイヌワシの俗称で、転じて、瀕死の企業を買収し、高い利益を上げる投資ファンドの総称として用いられている。
要するに、カネの力にまかせて、弱者を飲み込むアレだ・・・。

2007年に、NHKで放送された同名のドラマは、‘失われた10年’と言われた、バブル崩壊後の日本が舞台だった。
それは、きわめて斬新で、ついこの前にも再放送されたけれど、その画面に食い入るように釘付けになった。

時を同じくして、世界の経済が未曾有の危機を迎える。
まさに、このドラマに呼応するかのように・・・。
この映画は、いわばそのテレビドラマのパートⅡで、その出来は思った以上で、素晴らしいの一言につきる。
実力派キャストをしたがえ、テレビドラマを演出した大友啓史監督が、極限の人間ドラマに仕上げた。

こんな日本に誰がしたのか。
何のために働くのか。
何のために戦うのか。
混迷と不安の時代・・・、日本人が見失いかけた答えが、ここにあるかも知れない。
現実社会で起きている、金融危機問題を盛り込んで、その巧みな構成には今回も釘付けになった。

企業買収ビジネスは、企業の再生を意味するものでなくてはならない。
「ハゲタカ」は、企業再生というビジョンを通して、登場人物たちの“心の再生”を描く。
単なる経済ドラマの枠に収まるものではない。
人間の再生と救済(?)の物語として、胸にずしんと来る感動作だ。

この作品を観るのに、とくに新しい金融や経済の知識なんて必要はない。
そんなものは解らなくても、ぐいぐい引き込まれていく。
真山仁の原作を得て、林宏司の脚本が冴える。

日本を代表する、ある自動車会社の落日が近い。
巨額資本を背景に、その乗っ取りをたくらむのは、赤いハゲタカ劉一華(玉山鉄二)だ。
それを、阻止しようと立ち上がる鷲津政彦(大森南朋)・・・。
この両者の凄まじい攻防に、派遣工の悲哀をからめて、単なるヒーローものとは一味も二味も違ったドラマになっている。
世界の、暗澹たる近未来を暗示しているような、展開だ。

野望、裏切り、挫折、そして希望・・・。
人間の背負った業や哀しみを描きつつ、映画「ハゲタカ」ワールドはさらなるクライマックスへとのぼりつめていくのだ。
激しい買収決戦の果てに、彼らの見たものは何だったのか。

出演者は、他に柴田恭平、中尾彬、遠藤憲一らの豪華陣だ。
「ハゲタカ」とともに、日本の経済を見つめなおす好機だろう。
ドラマは、どこまでも重厚で、リアルだ。
スクリーンに映らない部分まで、徹底したリサーチを重ねて、作品のリアリティを追求している。
物語の主役の一人である劉を、もう一段骨太の人物に描いてもよかったかも知れない。
シャープな存在感が光る。
伏線は、やや難解だが、いくつも絡み合う展開の中で、NHKの大友監督の腕は冴えている。
実にうまくまとめあげている。
この人、来年の大河ドラマ「龍馬伝」も演出する、NHKのエースだ。

救世主なのか。破壊者なのか。
ドラマの中で、火花を散らす男たち・・・。
劉と鷲津が向かい合うシーン・・・。
短いが、印象的なセリフだ。
 「お前は、誰なんだ?」
 「俺は、あんただ」
・・・そして、ふたりの勝負は・・・?

大友啓史監督映画「ハゲタカのラストシーン、鷲津がひとり荒涼とした大地に立つ。
その先に見えたものは、何だったのだろうか。
これから、一体何が起きようとしているのだろうか。


映画「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」―幻影に憑依される魂?―

2009-06-08 21:00:00 | 映画

心や肉体の傷、魂の救済、生への許し・・・といった、キリスト教的なテーマをふんだんに盛り込んで、まさに男たちの身体を張った演技を徹底的に見せつける。
その痛苦な恐怖が、びんびんと伝わってくる、人間アートのような世界だ。
一編のドラマとして観ると、シナリオはしっかり出来ているとはとても思えない。
無理や矛盾、説明、描写不足も目立つ。
監督自身、その点は、観客各自の想像に委ねると言っているのだから、勝手なものだ。
物語を筋立てて追っていると、混乱する。
これは、もう感性で観る映画だが、芸術ともかけ離れた、独りよがりな作品だ。

ベトナムで生まれ、フランス育ちの俊英監督の、しかし独善的とも見える演出に、観客は肺腑をえぐられる思いだ。
一体、何なのだ。

数年前、刑事だったクライン(ジョシュ・ハートネット)は、己の芸術のために、猟奇的な殺人を犯し続けた現代美術家ハスフォード(イライアス・コティーズ)を射殺した。
だが、クラインをいまも追いつめているのは犯人を殺した罪の意識だけではない。
ハスフォードは、クラインの肉体に宿るある‘サイン’を残し、彼の深層心理に忘れがたい恐怖と苦痛をめぐる‘哲学’を刻印したのだ。
以後、彼は猟奇殺人犯の幻影に憑依され、精神を病み、警察を辞め、現在は探偵として生きていた。

その彼に、ある大富豪から奇妙な依頼が届く。
その指令とは、現在行方不明となっている、富豪の息子シタオ(木村拓哉)を見つけ出すことだった。
クラインは、ロサンゼルスから、シタオが生活していたというフィリピン、ミンダナオ島に飛ぶ。
そこで、先にシタオの消息をつかんでいた初老の探偵から、シタオの死と復活を聞かされる。
クラインは、半信半疑のまま香港に向かった。

香港では、刑事時代の仲間であったジョー・メンジー(ショーン・ユー)の協力を得て、クラインはシタオの捜索を開始する。
間もなく、クラインは香港マフィアの凄まじいチェイスにまきこまれ、その最終地点でシタオを見つける糸口をつかんだ。

・・・シタオは、他人の傷を自分が引き受ける、特殊な才能を身につけていた。
そのシタオは、やがて、彼の父の遣いであるクラインと出会うことになるのだが・・・。
出演は、他にイ・ビョンホン、トラン・ヌー・イェン・ケーら豪華なメンバーが揃っている。

トラン・アン・ユン監督作品「アイ・カム・ウィズ・ザ・レインは、アーティスティックなスリラーのようで、さて本当は何を言いたかったのか。
時制をまでも撹乱して、多彩な暗喩を導くサスペンス(?)で、ロードムービーのような色彩感覚もときにサイケデリックで、度肝を抜かれる作品だが・・・。

木村拓哉のキャスティングは、仰天の役どころで、誰もがその意外性に驚く。
まさか、こんな役までやるとは思わなかっただろう。
血まみれの裸身、虫の這いずりまわる肉体・・・、思わず目を背けたくなるようなシーンを、これでもかこれでもかと見せつけるとは・・・。
意欲は買えるとしても、何とも後味の悪い映画になってしまったことか。
いやはや、ずいぶんとグロテスクに仕上げたものだ!
なお、ユン監督の次回作は、村上冬樹の小説「ノルウェイの森」だそうだ。