人が人を恐怖で支配する。
そんなことがありうるだろうか。
人間の持つ理不尽さを、 「トウキョウソナタ」(08)、「岸辺の旅」(15)の黒沢清監督が、文字通りクリーピーな(気味の悪い)肌触りで描き上げた作品だ。
日本文学大賞新人賞を受賞した前川裕の小説が原作で、実際の事件を思い出させるような題材は、謎解きやリアリティにこだわらない展開や映像で、観客をひきつける。
映像の明暗、色彩、カメラの動きも緻密に計算され、ドラマに充満する不穏なムードが恐怖を駆り立てる。
普段の日常が、ある日突然戦慄の衝撃に変わる・・・。
主人公の高倉(西島秀俊)は、犯罪心理学者だ。
高倉は元刑事だったが、ある連続殺人事件での思いがけない行動がきっかけで、痛手を負って退職し、いまは教授として大学の教壇に立っている。
そこへ、かつての部下で刑事の野上(東出昌大)が訪れ、6年前に起きた一家失踪事件の生き残りである長女早紀(川口春菜)の聞き取り調査を依頼する。
一方高倉は、妻の康子(竹内結子)と郊外の新居に引っ越したばかりで、隣家の主人西野(香川照之)とその娘澪(藤野涼子)と親しくなるが、妻は顔を見せたことがない。
中学生の澪は普通に通学しているが、高倉は西野の言動には不自然な薄気味の悪さを覚える。
そしてやがて、失踪事件と西野の間に奇妙な接点が浮かび上がってきて、高倉は、西野が6年前の事件に関係しているのではないかという疑いを持ち始めたのだった・・・。
異様で怪しい隣人、サイコパス(精神病質者)の香川照之の怪演が気味悪いほどで、その言動、立ち居振る舞いの一挙一動を自在に演じる。
西島秀俊の方はまだ真っ当で、この二人の対決を軸に、おどろおどろした戦慄の画面が展開する。
観ている方は、ハラハラドキドキの連続だ。
そうした中で、西野と高倉の妻康子との距離感が縮まっていき、そのことに夫の高倉が気が付いたときは、もうすでに何かが始まっていた。
不穏な風が吹き、主人公と隣人との対決の時が近づいてくる。
西島、香川、竹内の演技のアンサンブルが、奇妙な緊張関係を生み出している。
何かがざわつき、わくわくするとともにどきどきする。
人間の精神と肉体は、もろくて壊れやすいものだ。
得体のしれぬ恐怖と、その恐怖をあおる獰猛な繊細さ・・・、黒沢清監督の映画「クリーピー 偽りの隣人」は、一家失踪事件のミステリーが、怪しい隣人との闘いへと転じていくドラマにぞくぞくさせられる。
夫婦に迫りくる奇妙な男の深い闇は、身の毛のよだつようなドラマとなって展開し、ラストシーンでの竹内結子の演技がこの映画のハイライトだ。
それは、康子のやむことのない恐怖の絶頂として・・・。
しかし、この部分がいささか描写不足と取られなくもないし、脚本の唐突さや無理筋も感じられる。
そう、何だか物語全編が唐突過ぎるのも否めない。
加害者も被害者も、このドラマでは精神状態がまともではない。
それでいて、荒唐無稽を通り越した面白さも十分で、最後まで緊張の糸が切れないサスペンス・ミステリーだ。
ここで取り扱われているドラマは、もちろん映画の中でしか起こりえない、非日常のフィクションなのだが、
これこそ黒沢清流の作品の面白さか。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はアメリカ・ドイツ合作のドキュメンタリー映画「シチズンフォー スノーデンの暴露」を取り上げます。
1971年の大ヒット作「小さな恋のメロディ」の挿入歌として知られる、ビージーズの名曲「若葉のころ」の旋律に乗せて描かれる、台湾発のラブストーリーだ。
俊英ジョウ・グータイ監督は、母と娘、二世代にわたる“17歳の恋”を鮮やかに描き出している。
この長編映画が彼の初監督作品である。
・・・記憶の中のきみは17歳のまま、今も“若葉のころ”を思い出す・・・。
台北に住む17歳の女子高校生バイ(ルゥルゥ・チェン)は、離婚した母と祖母の二人暮らしである。
バイは学園生活を明るく満喫していたが、親友ウエン(シャオ・ユーウェイ)と男友達との関係に頭を痛めていた。
そんなある日、母のワン(アリッサ・チア)が交通事故で意識不明の重体となった。
バイは悲しみに暮れるが、ふと母のパソコンから、偶然初恋の相手リン(リッチー・レン)に宛てた未送信のメールを発見する。
そこには、自分と同じく17歳だった頃の思い出が、切々と綴られていた。
バイは、遠く過ぎ去った日の母の青春に、思いをはせる。
そして、母に代わって「会いたい」とリンにメールを送るのだった・・・。
これより遡ること30年前、1982年・・・。
ワン(ルゥルゥ・チェン二役)とリンは、高校の英語スピーチコンテストで優勝を争ったことから、お互いに意識しあう存在となる。
コンテストで惜しくも二位に甘んじたリンは、ある日英語教師から、ビージーズの「若葉のころ」の歌詞を中国語に翻訳するようにと課題を出される。
リンはこれをチャンスとばかり、ワンへの思いを言葉に託し、「若葉のころ」のレコードと一緒に、訳した歌詞を彼女に渡した。
その数日後、リンが“ある事件”を起こし、二人は離れ離れになってしまったのだった・・・。
音楽と映像に誘われて、いつの間にか、心の疼く純愛の世界に引き込まれていく。
・・・病院で、ベッドに横たわったままの母親のパソコンから、未送信メールを見つけるのだが、それは30年ぶりに見かけた男に向けて綴られている。
台北に住む17歳の高校生バイは、悩んだ末に母に代わってそれを男へ送信したのだ。
身も心も疲れている中年男のもとに、そのメールは届けられる。
差出人の名前は高校時代の同窓生で、恋心をきちんと伝えられないまま、ある事件を起こし、手の届かない存在となってしまった彼女であった。
揺れ動く女子高校生と母親の、二つの青春が時を経て交錯する。
懐かしいメロディと五月の陽光・・・、ふとした偶然から生まれた追憶・・・。
初恋相手と生き写しのような娘との出会いだって・・・。
それが、たとえ夢想であってもよいではないか。
本当は届かなかったメールなのかも知れない。
ずみずしい画面と新人女優、それが甘い名曲に乗って運ばれてくる。
人気アーティストのビデオクリップを手がけてきた、アジアMV界のジョウ・グータイ監督の「若葉のころ」は、音楽と映像のコラボレーションのよく効いた、郷愁の映画だ。
純愛といっても、もうひと押し深いドラマを期待したが、物足りなさの残る作品だ。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
次回は日本映画「クリーピー 偽りの隣人」を取り上げます。
これは語られるべき物語である。
「扉をたたく人」(2007年)のアメリカのトム・マッカーシー監督の最新作だ。
この作品では、ペンの力で巨悪に立ち向かう記者と新聞のあるべき姿を描いた。
記者生命にかけて、権力に屈せず、正義を貫いた衝撃の実話を実名で映画化した。
期待されるようなサプライズは少なく、映画としては地味な作品で、社会派ドラマの快作である。
新聞と正義とは、そしてジャーナリズムの勝利とは何であろ か。
2001年、アメリカ東海岸マサチューセッツ州ボストン・・・。
ボストン・グローブ紙の調査報道班「スポットライト」の、ロビー(マイケル・キートン)、サーシャ(レイチェル・マクアダムス)、マイク(マーク・ラファロ)らは、ある神父による児童への性的虐待事件の取材に着手する。
それは、1976年に端を発し、現在に至る、地元カトリック教会のゲーガン神父らによる少年の性的虐待を探るよう提案された事件だった。
この事件は、ゲーガンらが30年もの間に80人もの児童に虐待を加えたとする疑惑だったが、カトリック教会は全面否定していた。
教会は地元の権威であり、道徳の象徴でもある。
事件を蒸し返すのは、タブーへの兆戦だ。
記者たちは資料を積み重ね、あの手この手で口の重い当事者に当たる。
記事になるかならぬかわからないネタを追う地道な取材は、人々にも周りにも根気と覚悟が必要だ。
グローブ紙の読者の53%はカトリック信者だから、反発は必至だ。
かくして、記者たちのチームは個々の神父を糾弾するのではなく、教会の組織ぐるみの隠蔽システムを暴くという方針を、社内会議で確認した。
彼らがスクープの正念場を迎えるとき、9月11日に同時多発テロが勃発したことで、取材の一部中断を余儀なくされる。
それでもチームは、教会の罪を裏付ける決定的な証拠を追い詰め、立ちはだかる権力に屈することなく、一丸となって闘い続けるのだった。
そうして2002年1月、全米を震撼させる「世紀のスクープ」が、グローブ紙の一面を飾る運命の日がやって来る。
数十人の神父が児童に性的虐待を行い、教会が組織ぐるみで隠蔽したという大スキャンダルである。
記者たちと教会側とのせめぎ合いは、活劇調的な盛り上がりを見せる。
派手なチェイスや、悪役との対決もない。だが、緊張感だけは持続する。
余計な装飾、あるいはそれらしきものを極端なまでに排して、映画は正攻法でぐいぐい突き進んでいく。
現場の映像を地道に積み重ねて、臨場感を演出しながら物語はきわめてわかりやすい。
権力と責任との間には、ジャーナリズムが必要だ。
ジャーナリズムを支持する人々は、この作品を支持するだろう。
それが映画の持つ力だ。
演じる俳優たちのアンサンブルが演技の妙だ。
真実味を増し、人間性に富んでいる。
決してハリウッドらしい派手な作品ではない。
記者たちは、ヒーローとして描かれているわけではない。
チームの一人がこの事件をめぐって、過去の大きな間違いを犯したことが明らかにされ、事件に対する取材活動は彼らにとって贖罪でもあったということは、いとも簡単に共犯者になりうるということだ。
聡明な人間だってミスを犯すこともある。
記者たちの地道な取材で、次第に事実が明らかにされ、教会の暗部が暴かれていくのだが、このあたり、マイケル・キートンやマーク・ラファロの滋味ある演技が素晴らしい。
人間的に温かい人たちが登場している。
人物像を伝えるには力のある俳優ばかりで、余分な言葉や映像は不要だ。
個性豊かな俳優たちが揃って、ドラマはじっくり見せるかと思えば、ハイテンポの演出に変じたり、序盤から中盤、後半へと、映画作品の構成の巧みさは一工夫も二工夫も見られ、最後までじっくりと見せる。
アカデミー賞作品賞、脚本賞受賞作品だ。
トム・マッカーシー監督のアメリカ映画「スポットライト 世紀のスクープ」は、過剰なサスペンスもなく、それでいて画面には緊迫感が溢れ、シングルでストレートなドラマがどこまでも知的に展開する。
権力を監視し、隠された真相に迫るスクープの舞台裏は、ジャーナリズム本来の理想と現実を生々しく描き出して、頼もしい。
どこの国を問わず、自由の国日本でも権力の乱用は目に余りある。
それを抑止し、変えていくのはジャーナリズムだ。
巷間伝えられているような、テレビや新聞などのマスコミの、不偏不党で自由な報道に対して権力による言論統制があるかのごとき介入がなされ、真実の隠蔽と言論への弾圧ともとられかねない事象を、しばしば見聞するのは、大変残念なことだ。
現憲法のもとにあって、この国ではそんなことはあってはならないし、決して許されるべきではない。
それでこそが、本当の意味での言論の自由なのである。
詭弁はおろか、虚言妄言が平然とまかり通る、魑魅魍魎の世の中にしてはならない。
人は、常に真実を語れ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回は台湾映画「若葉のころ」を取り上げます。
梅雨晴れの日であった。
2012年10月にリニューアルオープンした、東京ステーションギャラリーへ足を運んだ。
ゆったりとした館内で、ノーベル文学賞作家であり、日本近代文学の巨匠として知られる川端康成のコレクションを展観する。
そ してさらに今回は、2014年7月神奈川県鎌倉の川端邸で見つかった、川端康成の初恋の相手伊藤初代から川端にあてた手紙十通なども展示されている。
川端文学に大きな影響を与えたといわれるだけに、大変興味深い。
川端康成が、みずから素晴らしい美術品を数多く収集していたことは有名な話で、そのほぼ全貌に触れることのできるまたとない機会だ。
とくに、国宝三点を含む東京での公開は14年ぶりのことだ。
本展は、第一章「川端コレクション モダニズムへの憧憬」、第二章「川端文学 文壇デビュー」、第三章「川端コレクション 伝統美への憧憬」、第四章「川端文学 『雪国』以降」と続き、全125作品のコレクションの展示と解説から、文豪川端康成の透徹した美学を感じとることができる。
「知識もなく、私はただ見てゐる。
好きか、好きでないか、惹かれるのか、惹かれないのか、よいか、よくないか。」(川端康成)
川端は、他人の評価や美術史的な価値などには一切無頓着で、美術に対してこのような姿勢で向き合っていた。
コレクションの範囲も広く、土偶や埴輪から、仏像、近世の文人画、書、近代の絵画、彫刻、工芸、さらには現代アートに至るまで多岐にわたり、自分の好みに応じて正直に、美術品を収集し、いつも身近に置いて飽かず眺めていた。
川端のモダニズムへの憧憬を思わせるものとして展示されている、ロダンの「女の手」は、おそらく晩年の川端の傑作「片腕」のモチーフとなったのではないかと、ふと思った。
小説「片腕」は、女の手が、ひとりで動いて、語りかける、前衛的な幻想小説で、非常に印象深い作品だ。
川端康成は、文学作品の中にも多くの美術品を登場させていて、小説の本質的な部分に関わるようなモチーフとしても取り扱われている。
彼の伝的な美に対する審美眼は確かなもので、江戸時代の浦上玉堂の傑作「凍雲篩雪図」など、今回も国宝級三点もの美術品が展示されている。
川端文学の、深淵な美意識の世界に分け入っていくような気持ちにさせられる。
川端の死後、文豪の遺品は財団法人川端康成記念会が保存、管理している。
特定の一般公開の施設はなく、各地の美術館や博物館に貸し出して、展示している。
こんな機会にめぐり合せてよかったと思っている。
川端は、欲しいと思った美術品は、莫大な借金までもして決して値切らず買ったそうだ。
「凍雲篩雪図」についても、絵が売りに出ていると聞いて、即座に買う決心をしたと思われる。
しかし金が足りなかった。
川端は朝日新聞社に借金を申し出て、それで名画を手に入れたことが伝説として残っている。
1949年頃の話である。
戦後間もない頃のことで、銀行員の月給が3000円の時代に、浦上玉堂の絵は27万円もしたといわれる。
この絵がのちに国宝に指定されたのは、川端が入手してから十数年後の1965年頃だったという。
いやぁ、凄い審美眼ですね。
いま鑑定したら、幾らの値がつくだろうか。
このような話は、川端のコレクションのそれぞれについて当てはまることだと思われる。
とにかく、まだ文豪とは呼ばれなかった頃の川端だが、夫人は康成の借金買いにはいつもこぼしていたようで、彼の買い物癖たるや半端ではなかったそうだ。
そして、今回もうひとつ注目されるべきは、川端文学に大きな影響を与えたといわれる、初恋の相手伊籐初代の手紙や、川端の未投函の恋文、さらには芥川賞を懇願する太宰治の手紙など、文学史上の貴重な資料も紹介されていることだ。
このほど、川端康成記念会理事の水原園博氏によって、川端の初恋を追ったエッセイ「川端康成と伊藤初代」(求龍堂)が刊行され、川端悲恋の理由がここに明かされる。
川端22歳、初代15歳の時二人は婚約しながら、わずか1ヵ月後、急転する運命に儚くもこの恋は破れた。
婚約者の伊藤初代は、若き日の川端が、行きつけのカフェで働いていた初代を見初めたのがきっかけで、この恋は突然別れを告げられ、あっけなく終わった。
初代についての詳しい話については、詳述すると長くなるので省略するが、彼女は小学校3年までの学力で、幼くして母を亡くして奉公に出され、文字も十分に書ける女性ではなく、薄倖なな面影を残している。
展示されている手紙にも、彼女の精一杯の心境がにじみ出ている。
のちに川端によって、「非常」「篝火」「南方の火」など初恋をモチーフにした作品が書かれたのは、この時の川端の実際の経験に裏打ちされている。
今後、川端文学論考が今まで以上に静かな盛り上がりを見せることだろう。
川端康成は、自分に送られてきた書簡などは、終生大切に保管しており、その数数万通ともいわれ、今回の伊藤初代の書簡ともども、文学研究者の垂涎の的となっている。
このような機会は、またいつあるかわからない。
非常に意義深い、展覧会だ。
東京ステーションギャラリー(TEL:03-3212-2485)での開催は、6月19日(日)まで。
次回はアメリカ映画「スポットライト 世紀のスクープ」を取りあげます。
全編ワンカットで140分という、究極の長回し手法で通し撮影を実践した、ドイツ映画だ。
ゼバスチャン・シッパー監督の試みは、カメラが移動しながら切れ目のないワンショットでという技法だ。
これが見事にドラマに嵌まっているのには、恐れ入る。
驚きの実験的映画である。
しかし、この衝撃の映像が行き着く果てに拡がる光景は、希望か、それとも絶望か。
それは、観客の目が確かめるクライム・サスペンスだ。
今更のように、映画の魔力って凄いなあと、その点では感心させられる一作だ。
眩い光がフラッシュする地下のクラブ・・・。
ひとりの若い女性が、激しいダンスに身を委ねている。
3カ月前に母国スペインのマドリードを後にして、単身ベルリンにやって来たヴィクトリア(ライア・コスタ)だ。
ヴィクトリアは、夜明け前の路上で地元の若者4人組に声をかけられる。
スキンヘッドのボクサー(フランツ・ロゴウスクキー)、ひげ面のブリンカー(ブラック・イーイット)、童顔のブース(マックス・マウフ)、そしておしゃべり好きなリーダー格のゾンネ(フレデリック・ラウ)は、一見チンピラ風だが悪人ではないように見える。
ヴィクトリアはドイツ語がしゃべれないため、ぎごちない英語で会話を交わした彼女たちは、コンビニでビールを調達して、あるビルの屋上に駆け上がる。
そこでの他愛もなく愉快なひとときは、異国の都会で孤独を感じていたヴィクトリアにとって、久しぶりに温もりに満ちた時間だった。
やがて、ヴィクトリアはアルバイト先のカフェで仮眠をとるため、ゾンネに店まで送ってもらう。
ゾンネにせがまれ、店内に置かれたピアノを弾き始めるヴィクトリア・・・。
ゾンネはその見事な演奏に感嘆するが、つらい記憶が脳裏をよぎったヴィクトリアは浮かない顔をしている。
そうなのだ。
16年以上も、毎日厳しいレッスンに明け暮れただけに、壁にぶち当たってピアニストになる夢を捨てたことを告白する。
それを聞いて優しく励ますゾンネだったが、いつしか二人の間には親密な感情が流れ出していた。
しかしそのことは、裏社会の危険な仕事に巻き込まれ、取り返しのつかない悪夢の始まりでもあったのだ・・・。
ドイツ、ベルリン・・・。
夜の社会の片隅で、若者たちが出会い、犯罪に巻き込まれていく物語で、とくに目新しいものではない。
都市でオール・ロケと、完全なリアルタイムの進行で描かれる映像は、臨場感いっぱいだ。
物語はシンプルで、でも一人の女性が一夜に経験する出来事としては、かなり濃密だ。
ヴィクトリアとゾンネの周りに親密な空気が生まれ、自転車や自動車、ビルのエレベーターや階段などで、命がけのサスペンスが持続する。
カメラは執拗なまでに、それをとらえようと追いかける。
ドラマは脚本らしいものはなく、セリフなどはどこをとってもアドリブ(即興)で、徹底したリアリズムが全編を蔽っている。
劇中、ホテルの場面で、従業員の姿が見えないなど不可思議なシーンも散見され、ドラマのつながりにやや息苦しさが残る。
主演女優のコスタの出ずっぱりの熱演は、文句なしの圧巻である。
ただ、彼女の心理状態にまで入り込んで、克明な描写がないのはさびしい。
ゼバスチャン・シッパー監督のドイツ映画「ヴィクトリア」のラスト、普通の少女が悲しみを背負ったヒロインとなって、夜明けの街を歩いていくシーンを目にすると、主人公の恋と冒険を見守った時間が、妙に愛おしく思えてくるものである。
作品の中身にはあまり共感できなくても、男女の出会いから別れまでを2時間ちょっとで見せるサスペンスフルなドラマの展開を、固唾をのんで見守った。
ベルリン映画祭銀熊賞受賞作品である。
ドイツ人監督とスペインの新進女優の、驚きのコラボレーションから生まれた映画だ。
実験的な手法には、素直に拍手を送りたい。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
タイ映画史上で名作とされる「フェーンチャン ぼくの恋人」(2003年)で知られる、ニティワット・タラトーン監督が、幸せ気分たっぷりの作品を織り上げた。
首都バンコクのみで、約100万人を動員したヒット作だ。
タイに実在する水上学校の先生の実話と、忘れ物の日記を読んで、会ったこともない女性に恋をした男性の実話をもとに描かれる、心温まる恋愛物語である。
スマト-トフォンやネット全盛の時代に、こんなにももどかしく、切ないドラマがあったのだ。
レスリングに明け暮れていたダメ少年、ソーン(スクリット・ウィセートケーオ)がやっと見つけた仕事は、山奥の湖の上につくられた水上小学校の教員だった。
携帯電話もつながらず、電気も水道もなく、最初の生徒さえ見つからない。
僻地での生活は不便なことばかりで、どうしてよいのか途方に暮れてしまう。
そんな時に、ソーンが見つけたのが、前任者の女性教師エーン(チャーマーン・ブンヤサック)の残した一冊の日記帳だった。
その日記に書かれていた、エーンの七転八倒の記録を読んで、ソーンは学ぶことと生徒を指導していくことに気を取り直していくうちに、まだ見ぬエーンに心惹かれてゆくのだった。
一方のエーンには恋人ヌイ(スコラワット・カナロット)がいたが、喧嘩ばかりして、おまけに彼が過ちを犯していたことを許せないでいた。
そのヌイがエーンに会いに来て、心から過去のことを謝罪するというので、彼女はヌイを受け入れる。
エーンはソーンのことが気になっていたが、ヌイと町への帰省をしようと決めた彼女は、日記帳にソーンにあてたメッセージを綴るのだった。
そして、ソーンとエーンは・・・。
水上学校で悪戦苦闘する現在のソーン、そしてエーンの日記に綴られた過去の悪戦苦闘の様子を、映画は交互に描きだしていく。
現在と過去が、手書きの日記によってつながれる。
でもこれがすれ違いなのだ。
現代ではもはや描かれなくなった貴重なラブストーリーで、この手法はもともとこの手の物語の王道ではなかたか。
エーンは優秀な教師だったようだが、ソーンはダメ教師で、どちらも都会出身だし、人里離れた漁村の暮らしは馴染まない。
まだ会ったことのない二人の行く末に、いやでも観客の関心は注がれる。
水上学校を辞めたあと、エーンはどこに行ったのだろう。
ソーンは、彼女にいつか出会えるのだろうか。
日記を通じて心惹かれるというところがミソで、エーンはエーンで、ソーンが自分の日記を読んでいたことを知るわけで、見も知らぬお互いが文通をしているような感じだ。
かつて、ペンフレンドというのが流行った時期もあった。
文通しかしていなかった相手が、お互いに会う瞬間がスリリングだった。
それも、遠い昔の話になってしまったか。
この作品に描かれる、タイの子供たちとの交流も微笑ましく、のどかでちょっぴり切ないラブストーリーは、ぼろぼろになった日記帳をきっかけにして、エーンの過ごした過去とソーンの現在をつなぐ。
時を超えて、二人の思いが共鳴していく過程が何とももどかしく、懐かしく、美しい風景とともにむねにキュンと来るようなシーンも・・・。
日記を通してのドラマの展開はなかなかで、観客の気をそらさない脚本の巧みさがある。
メロドラマにありがちな、すれ違いとじれったさは相変わらずだが、ここでは許されるだろう。
女性教師エーンの日記に書かれた喜びや葛藤に触れて、ソーンが共感していく過程がよく描かれている。
タイ映画「すれ違いのダイアリーズ」は、老いにも若きにもそこはかとない感動を与えてくれる。
ラストシーンは鮮明で、心地よい古風さで愛おしい奇跡のような物語だ。
いい映画だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はドイツ映画「ヴィクトリア」を取り上げます。
すべてを失っても、人生はそっと寄り添ってくれる。
そうか。そう信じたいものだ。
極寒の北欧から届けられた、ちょっと風変わりな人情物語である。
ノルウェーのグンナル・ヴィケネ監督は、絶妙なテンポと独特のユーモアたっぷりに、心温まるドラマを作り上げた。
そこには、ままならない人生の可笑しさと悲しみがにじみ、でもほっこりとした余情が何とも心地よい。
ハロルド(ビョルン・スンクェスト)は、ノルウェーで40年以上にわたって、小さいけれど誇り高い家具店を営んできた。
しかし、すぐ隣りに世界的に有名チェーン「IKEA」(イケア)の大型家具ショップがオープンしたことで、ハロルドの店は閉店に追い込まれる。
さらに、最愛の妻を失い、怒りを募らせたハロルドが思いついたのは、自分がスウェーデンに行き、イケアの創業者イングヴァル・カンプラード(ビヨルン・グラナート)を誘拐して、復讐することだった。
ハロルドは、途中で出会った少女エバ(ファンニ・ケッテル)を巻き込んで、極寒の地での珍道中が幕を開ける・・・。
全てを失って自暴自棄になる、主人公ハロルドを演じるビョルン・スンクェストは、ノルウェーを代表する名優だ。
実在のイケア創業者を誘拐するという型破りな物語には、狼狽したり、感心させられたりする。
ハロルドは伝統を重視する男だし、カンプラードは常に利便性を追求する男だ。
まるで対照的な二人の人生が交叉するとき、何が起きるか。
行きあたりばったりの珍道中の途中で、初老の男二人が何故か裸で抱き合うことになるのにはびっくりだ。
思わず吹き出してしまった。
ハロルドとカンプラードが、凍った湖で、割れた氷の間に落ちるシーンがある。
主演の二人が、本当に湖に落ちてバタついている場面だ。
圧巻のシーンである。
このシーンは、普通なら慌てて大騒ぎになるはずなのに、そばにいたエバは笑いながらスマートフォンで写真を撮ったりしている。
この大らかさ(!?)といい、この余裕は一体何なのだ。
北欧人ならではの余裕というのか。
北欧では、凍った湖や海の上を好んで散歩する人が多く、春先になって氷が割れて落ちる人がニュースで報じられることは、めずらしくないそうだ。
そんな、北欧ならではのショットさえ、この映画ではユーモラスなのだ。
イケア創業者は存命だそうで、実名で描かれた作品ながら、このドラマでは、立場を超えた二人の男の奇妙な交流が、滑稽かつ大胆に展開する。
面白い作品だ。
ヴィケネ監督は、カンプラード氏本人の出演も考えたといわれるが、御年80歳、現地は氷点下30度ということで、本人はさすがにあきらめたといういきさつがある。
ノルウェー映画「ハロルドが笑うその日まで」は、いかにも北欧らしいハートフルなストーリーで、まずまずバランスのよくとれた悲喜劇といえるかもしれない。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
次回はタイ映画「すれ違いのダイアリーズ」を取り上げます。