真実は深く、そして美しく眠っている。
愛する者さえも気づかない、哀しい秘密を知ったとき、本当のやさしさが見えてくるという・・・。
新人アンドレア・モライヨーリ監督のこのイタリア映画は、本格実力派の作品として評価が高いといわれる。
北イタリアの、のどかな小さな村が舞台である。
緑の風景の涼やかさが、目にしみるようだ。
その森に囲まれた湖のほとりで、美しい少女アンナ(アレッシア・ビオヴァン)の死体が発見される。
全裸の遺体には、上着がかけてあり、苦しみの表情はなかった。
ただちに捜索が始まる。
ひたひたと高まりゆく、新鮮で静かなサスペンス・・・。
新任のベテラン刑事サンツィオ(トニ・セルヴィッロ)が、湖岸をゆっくりと歩いている。
捜査とともに、殺されたアンナをめぐる人々の姿が浮かび上がる。
アンナを異常なまでに溺愛していた父親、彼女の秘密を知らされていなかった恋人、父親違いの姉、知的障害の息子に激しい愛憎を向ける半身不随の父親ら・・・。
アンナは、ベビーシッターをしていた幼児の死を機に、夢中になっていたアイスホッケーをやめた。
その子の両親は離別し、アンナの絡むしこりのようなものを抱えている。
親子夫婦の葛藤、愛する者を失うことの悲しみ、それらがスクリーンに溢れる。
捜査担当のサンツィオ自身、若年性認知症の妻と思春期の娘を抱えている。
とても、無関心ではいられない。
アンナは、それらの苦しみを何もかも引き受けるように、死に至ったのだ。
こんな小さな村では、どんなことでもすぐに知れ渡ってしまうものだ。
誰もが、秘密などないと思っていた。
しかし、子供を素直に愛せない苦しみや、一方的な偏った愛、間違った両親のもとに生まれてきたと感じる悲しみなど、ひとりひとりが心の奥底に抱える思いは、家族でさえも気づかずにいた現実に茫然とする。
一見、何事もないかのように過ぎてゆく日々の中で、サンツィオを含めた誰もが、一番身近な人にも言えない悩みを抱えて生きていた。
そして、ついに犯人にたどり着いたときに語られる、アンナが貫き通した深い愛と強い信念は、みんなの心の痛みをゆるやかに溶かしていく・・・。
緑濃い風景、静かなサスペンス、快活で美しい少女の悲しい勇気、それらが一緒になって、不思議な感動を呼ぶ作品だ。
登場する、すべての俳優も個性的だ。
原作は、ノルウェー出身のミステリーの女王といわれる、カリン・フォッスムという人だ。
この作品「湖のほとりで」は、イタリア本国では、小さな劇場での公開から、口こみで240館以上に広がり大ヒットとなったといわれるが、日本では難しいのではないか。
このドラマでは、短い出演時間の中で、出演者ひとりひとりが重要な役どころを演じ、普通の人々が抱える日常の苦悩と葛藤を表現している。
この作品が、単なる犯人探しといったドラマではなく、彼らの、日常生活の中での家族のありかたと、心理描写に共感する部分が、本国の観客には受け入れられたということだろうか。
作中の台詞がたったひとつしかない、少女アンナの生前生きてきた環境、取り巻く人々と病める自分との、相関関係の描き方はどうも簡単にすぎる(?!)きらいがある。
いわゆる、世の常なる推理ドラマとは、異質のドラマとして観たほうがいい。
もちろん、説明不足のところもないわけではなく、人間関係が十分描ききれているともいえない。
いかにも渋いつくりだが、映像詩の趣きもあって、上質な雰囲気を漂わせた映画だ。
イタリアアカデミー賞10部門を受賞し、ヴェネチア国際映画祭でも各賞受賞に輝いた。
アラサー女性の、人生リスタートを描いたドタバタ喜劇である。
何も考えずに生きてきた、31歳子持ちの女性のドラマだ。
その人生再スタートのきっかけが、お弁当だそうだ。
大いに楽天的、あけっぴろげな、あれやこれやの騒動劇なのだ。
入江喜和の漫画を映画化したのは、「いつか読書する日」の緒方明監督だ。
永井小巻(小西真奈美)は、下町育ちで、31歳の主婦だ。
生活力のない、年下のダメ亭主・範朋(岡田義徳)に愛想をつかし、離婚届を突きつけ、娘ののんちゃん(佐々木りお)とともに、母・原フミヨ(倍賞美津子)のいる実家へ出戻った。
のんちゃんを幼稚園に入れ、まずは仕事探しをはじめるが、長年主婦で、キャリアなし、職なし、お金なし、おまけに社会常識もないときている。
そんな小巻に、社会は甘くない。
受ける面接は次々と断られ、かつての同級生であり、のんちゃんの幼稚園の先生の紹介で、自給2000円で水商売のバイトをはじめても、早々にセクハラにあい、喧嘩の末にやめてしまった。
なけなしの貯金は底をつき、日々の生活は苦しくなるばかりだ。
小巻は、自暴自棄だ。
さらに、範朋が現われ、離婚には絶対に応じないと主張する。
一方で、小巻は、初恋の同級生と16年ぶりに再会し、互いに惹かれあっていくのだったが・・・。
そんな小巻の唯一の才能は、お弁当作りだ。
娘のために作ったのり弁が、幼稚園で大評判になり、大人たちにもお弁当を作るようになっていく。
自分の道を切り開きたい小巻は、以前立ち寄ったことがあり、サバの味噌煮の味に大感激した小料理屋の主人(岸部一徳)に、弟子入りを懇願する。
小巻は、主人の店舗を昼間だけ貸してもらうことになり、お弁当屋の開業に向けて人生の再スタートを切ることになった。
さて・・・?
お弁当から伝わる、温もりや喜びはよいとしても、いささかドタバタと騒々しい。
小西真奈美が、アラサー女性の心もとなさを丸ごと感じさせて好演、女の辛さみたいなものも伝わってくる。
でも、かなり気負いすぎの感がしないでもない。
彼女が、初恋の同級生と再会して、彼の家でいい雰囲気になっているところへ、突然父親が入ってきたりして、この場面はせっかくのムード台無しで、思わず噴き出してしまった。
しかし、いかにも漫画的な出来すぎのキャラクターがそろって、台詞で言われていることの論理にわかりにくいところもある。
いろいろドタバタやっても、決定性がなく、運命が見えてこない。
タイトルに名前が出ているのんちゃんに、子役なりの面白い芝居を引き出す場面もない。
30歳前後の女性が、見事な弁当の技を持っているあたりも驚きだ。
何も考えず生きてきたアラサー女だというけれど、彼女の作るのり弁は五重にもなっていて、かなり凝ったものだが、そんなにうまくできるものなのか。
緒方明監督の映画「のんちゃんのり弁」は、ドラマの展開に荒削りなところもあるが、人間のひたむきさ、可笑しさ、愛しさを描いた一応ハートフルな作品だ。
ラストシーンは、お弁当屋さん開店のシーンで終わるのだが、ドラマのこの先は、そのまま安易な生活の救済にはつながらないような予感もする。
小料理屋主人役の岸部一徳がいい。
分別ある大人たちは、みんなしっかり生きている。
それなのに、小巻をめぐる30がらみの夫や幼なじみも、どうも総じてだらしがない。
余談だが、この映画の製作会社(ムービーアイ・エンタテインメント)は、8月はじめに負債総額42億円で破産申請し、事実上倒産してしまったそうだ。
小西真奈美主演のこの作品は、一時お蔵入りが噂され、彼女もかなり落ち込んでいたそうだ。
結局は、別の配給会社で公開されることになって、ひと安心したいきさつがある。
でも、出演者やスタッフのギャラは支払われたのだろうか。
もしかして、タダ働き(?)ではないかと心配するむきもある。
洋画の配給に強いとされる、このムービーアイという会社は、最近の洋画不況の荒波にもまれ続け、赤字作品が続いていたようだ。
ヒロインの小西真奈美が、のり弁を持って(?)作品宣伝のために東奔西走なんていうことも・・・。
映画会社倒産の後遺症で、彼女には多くの応援と同情の声が寄せられているそうだ。
八ッ場(やんば)ダムの由来を調べてみると、狭い谷で猟をする場所を矢場(やば→やんば)と言ったり、谷川の流れの急なところを谷場(やば→やんば)と言ったとか、八つの猟場を八つ場またはやん場と呼んだとか・・・。
諸説紛々で、いずれもさだかではないようだ。
「やば」より「やんば」の方が発音しやすいから、「やんば」と呼ばれるようになったのではないかとも言われている。
それはさておき、その揺れる八ッ場ダムが膠着状態だ。
国交省と地元住民が、話し合いのための、同じテーブルに着くのはいつのことになるのか。
その日はくるのだろうか。
「ダム工事中止」についての、あるテレビの世論調査の結果を見た。
それによると、「支持する」は33%、「支持しない」は34%、「わからない」が33%だった。
この数字は、何を物語るか。
ダムは本当に必要か。
そのことが、公共工事見直しの一歩になると国交相は言う。
公共工事より、人、生命、子供を大切にするのか。
それとも、ここまで進めてしまったコンクリート工事を大事にするのか。
政府主導の実現というのは、国民(住民)との対話は欠かせない。
ムダなダム工事の中止は当然としても、それを実行する手順などは何も決まっていない。
国民にも知らされていない。
両者の言い分はもっともだ。
国民の暮らしをよくしようとするからには、民主主義はプロセスが大切なはずだ。
八ッ場ダム建設に反対する、地元民の反発をどう見るか。
群馬県というと、町議、代議士、知事まで、自民党でなければ政治家ではないというお国柄ではないか。
八ッ場ダム地元の温泉街の観光協会会長は、今年の7月、ある大新聞のインタビューで、「ダムの建設をやめてもかまわない」と明言した人だ。
それなのに、総選挙の後で態度を一変、ダム建設推進派に変わった。
どうしてだ。何ゆえの変節か。
何か、圧力があったのか、勘ぐられても仕方がない。
国民を欺いてはいけない。
え~ッと思うような、仰天の情報がある。
国交省の職員が、ダム建設を落札している企業37社に、52人も天下りしているのだ。
さらに、7つの公益法人に25人、随意契約者へも大勢が天下っていて、何と57社に99人、合計176人もがこのダムを食い物にしているというのだ!
当然、受注企業の中には、自民党に献金しているところもある。
地元民の、ダム中止への反発を煽って、民主党の公約なんぞ立ち往生させるというなら、ダム工事は存続だ。
民主党政権には大打撃だろうし、何やら怪しげな思惑が見え隠れする。
ダム建設推進派と別に、建設中止派もいることを忘れてはいないか。
中止派の住民は、前原国交相と会って話し合いの場を持ちたかったらしいのだが、推進派にもみ消された。
中止派が、町長ら推進派の強い圧力に屈し、村八分を恐れたか。
そこには、不気味な静謐が漂っている。
マスコミも、これらの動静は全く報道しようとはしない。
何故だろうか。
いま、新聞、テレビの報道を100%うのみにすることはできない。
裏で、何が動いているのか。
176人もの天下りは、何を意味するのか。
前自民政権の、大いなる負の遺産を前に、民主政権は重責を担っている。
どうしたって、改革が必要なのだ。
変りゆこうとするもの、変わるべきものがある・・・、だから政権交代なのだ。
船出したばかりの民主党政権だが、はじめは試行錯誤の繰り返しだ。
それを、批判的にあげつらう報道の多い中で、いかにして国民目線に沿って報道していくことができるか。
報道は、いつも、公正に真実を伝えてくれているのだろうか?
群馬県長野原町の町役場には、24日夕方から25日朝にかけて、「八ッ場ダムを中止しろ」のコールが、鳴りっぱなしだったというではないか。
電話は、一夜だけで約500本あって、もうパンク状態だったそうだ。
ダム建設中止か。継続か。(いや、ムダ建設なら中止の方がよいが)
ダム工事などの公共工事に限らず、このような住民騒動は、ほかにも各地で起こりうることだろう。
それも、また当然だ。
表と裏、上と下、180度の転換だ。
私たちが、実質、初めて経験する政権交代とは何だ。
平成維新、これが、まさに政権交代なのだ。
利水、治水の両面でも、このダムが不要不急であることに異論はない。
完成させようとすれば、莫大な費用がかかり、すでに予定事業費の7割のお金が使われている。
だからといって、不必要なものに、さらなる費用を注ぎ込むのか。
総事業費4600億円は、利子を含めたら2倍に膨らむのだ。
ああ、この壮大なムダ遣い。(?!)
幸い、ダム本体の工事には着手していないのだから、止められるならいましかない。
しかも、地元の思いを汲んで、見直すか、継続するかを決めなければならない。
前原国交相は、国民との約束を履行すべく、建設中止を明言した。
それでも、地元の理解が得られるまで、廃止手続きは進めないとしている。
前原氏は、地元住民に説明を尽くしたいとしているが、地元では‘白紙’の状態での意見交換を求めていて、はじめに中止ありきでは話にならないと言って、譲る気配はない。
一体、どうなるのか。
八ッ場ダムには、60年近い歴史がある。
ダム建設にさんざん反対していた住民たちが、疲れきって、やむなく建設を受け入たのだ。
それは、耐え難い苦渋の決断であった。
そこまでして、水が必要だったのか。
しかし、長い年月の間に、いろいろと状況は変わってきた・・・。
半世紀以上をかけても、ダムは完成にいたっていない。
この公共工事は、誰のためになされたのだろうか。
政権がかわって、工事中止は決まったのだ。
これまでに、何故ダム建設を止めようという発想は出てこなかったのだろうか。
生活をまもるために、泣く泣くダム工事を受け入れた人たちこそ、公共工事という名のもとでの悲しき犠牲者だ。
ここにいたるまで費やされた事業費が、たとえ捨て金になったとしても、この工事は中止されるべきではないだろうか。
これは、公共工事を見直すための、大きなモデルとも言える。
高い授業料となって、他の地域のずさんな建設事業も止まるだろうし、八ッ場ダムの経験が生かされることを祈りたい。
ムダな工事は、止めるべきである。
政府は、住民の生活を守る観点から、十分な説明責任を果たすとともに、一日も早く住民の生活の再建策を講じるべきだ。
国土と住民の心を荒廃させ、疲弊させることのない、真摯な対応こそ急務だ。
個人的にも、吾妻渓谷のあの美しい景観を、残してほしいと思っている。
国や市が住民の生活再建や補償に乗り出しても、一度人生を否定された思いをつのらせている地元住民の心は、容易に癒されるものではない。
将来に展望のない生活を強いてきたのは、ほかならぬ政治の責任だ。
嗚呼!
友愛の民主政権が、この一件、どういう結論を引き出すのか。
とくと拝見したい。
ロバート・ルケティック監督のアメリカ映画だ。
映画になりにくい(?)ドラマを、あえて大胆かつ勇気を持って描いた作品だ。
日本でも、「恋愛脳」などの本が話題を呼んで、男女の思考のズレに関心が集まっている。
この作品は、男女の行動心理の違いに注目し、数々の本音バトルを臆面もなく盛り込んでいる。
したがって、かつてほとんど誰もが踏み込まなかった、‘斬新な’切り口のラブストーリーということになるのかも・・・。
美人で賢く、TVプロデューサーとして仕事も完璧、だけど全く男性にもてないアビー(キャサリン・ハイグル)は、結婚適齢期を過ぎても、恋愛とは縁がない。
完璧すぎる自分に似合う、完璧な男を求めるあまり、理想の男性と出会えないのだ。
その彼女の前に、ようやく現われた理想の男性は、ハンサムな医者のコリン(エリック・ウィンター)だった。
アビーの隣りの家に引っ越してきたばかりで、ルックスはいいし、人柄も誠実だ。
彼女は、急速にコリンに惹かれるのだが、なかなかデートのきっかけがつかめない。
そんなアビーに、恋愛指南をすることになったのが、テレビの恋愛カウンセラーとして人気上昇中のマイク(ジェラルド・バトラー)だった。
下品で、Hな男の本音トークが売りだ。
そこで、視聴率獲得のため、アビーは、自分の番組で彼を起用する。
マイクは、アビーの理想の恋愛観は、女が頭で描いたもので、男の本音がわかっていないと、彼女を厳しく批判する。
マイクは、彼女に、自分の言う通りにすれば、絶対にコリンをゲットできると断言する。
自身に溢れたその言葉を信じて、アビーは思い切って変身することを決意する。
マイクの、「女は見た目が大事」と主張するアドバイスにしたがって、彼女は髪型からドレス、下着までこだわり、美しく(!)生まれ変わって、見事コリンの心をとらえるのだが・・・。
ヒロインのアビーは、嫌々ながら、男目線のアドバイスにしたがって変身をとげる。
映画は、女性向けというよりは、マイクのキャラクターを通して、男性も楽しめるように意図されている感じがする。
女性心理がわからないと同じように、男性心理もわからない。
それは、当然だ。
男と女は、生まれつき違う生き物で、永遠にすれ違うものなのだから・・・、とこの映画は教えているようだ。
会話、行動、深層心理、すべてがズレている。
テレビドラマだったら許されない、大胆な放送禁止用語もぽんぽん飛び出す始末で、小気味よいテンポで、映画は一気に終盤へ。
会話の妙もあるけれど、七変化の女性ファッションなども楽しめるとあって、面白おかしい。
あきれるほどで、よくここまでやるものだ。
このあたり、キャサリン・ハイグルのコメディ・センスというべきか。
彼女は、決して飛びぬけた美人とは思わないが、羞恥心を脱ぎ捨てて、体当たりの演技はなかなかで、いまどきの日本の女優さんにはとても出来そうにない芸当だ。
一歩間違えると、かなり下品なシーンになりかねないが、彼女の持ち前の明るさとキュートな一面が、エロティシズムとは無縁の場面にうまく仕上げている。
だから、きわどい台詞が飛び出しても、男女の会話はさほど下品を感じさせず、しっかと笑いになっている。
ロバート・ルケティック監督のアメリカ映画「男と女の不都合な真実」は、男性の心理を知ることが、恋に勝つ早道だと説いているようだ。
それだからこそ、はじめは反発しあっている男女でも、紆余曲折を経て、惹かれあっていくことになる。
わかりきっているが、理想と現実は違うもの・・・、思わぬハプニングも手伝って、この作品は、女性の恋心をとことんくすぐってくれるのではないか。
これ以上のことは、ここでは触れない方がよさそうだ。
国民の大いなる期待を担って、鳩山新政権が始動した。
先月30日の総選挙で当選した、衆院議員の8月分の歳費が、480人全員に支給されたそうだ。
8月の在任期間は、投開票のあった、30日と31日のたった2日間だ(!)。
それで、歳費と文書交通費の名目で、合わせて何と230万1000円が満額支払われたのだ。
これ、日給計算にすると、1日では115万円、全議員分で約11億円という途方もない巨額な支出だ。
こんなムダ遣いが、堂々とまかり通っているなんて、どう考えたっておかしい。
とてもとても、一般社会常識では考えられない。
確かに、歳費というのは、法律で一人当たり月130万1000円と規定されている。
8月の在任期間は僅か2日間だ。
「日割り」なら1日あたり14万円だが、「日割り計算」などという制度は国会にはない。
だもんだから、たとえ1日でも2日でも、満額支給なのだそうだ。
その2日間といったって、実際は挨拶回りなどに忙しく、勤務実態ゼロの議員が大半だ。
これじゃあ、丸儲けだ。
また、政治活動(電話、交通費など)に支給される事実上の「歳費」と呼ばれる、月100万円の文書交通費が別途支給されるのだ。
こういう議員歳費の問題は、2年前の参院選の時も問題になった。
あの時は、投票日が7月29日だったから、たった3日間なのに全額支給はおかしいと、批判の声があがった。
しかし、議員たちは与野党で無視してしまった。
国民には、納得できない。
返納については、公選法が禁じる寄付行為として認められていないというから、一体どうなっているのか。
法律上、日割り計算できないというなら、法律を変えればいいだけなのだ。
議員自らのことなので、自分たちに有利なように、日割りや返納といった制度の導入に、あまり意欲的ではないのだ。
これこそ、全く「ムダ遣い」もいいところだ。
これまで、民主党はムダ遣いの削減、撤廃を叫び続けてきたのだから、身近なところから改革してもらいたいものだ。
そうでないと、国民の理解は得られないだろう。
八ッ場ダムをはじめ、全国の143のダムの見直しも当然のことながら、「ムダ遣いをなくそう」を合言葉に、歴代二位タイで世論の支持率71%という高さを誇る(?)、鳩山政権の一挙手一投足に、いま国民の誰もが熱い視線を投げている。
民主党、どうするか。
まず、隗より始めよだ。
赤レンガの舗道に、銀杏の実が落ちている。
振り仰いだ青空には、うろこ雲が・・・。
秋を実感する、この頃だ。
テレビドラマの脚本家で知られる、大森美香監督の初めての長編映画を観た。
映画「プール」は、タイのチェンマイを舞台に設定している。
小さなプールのまわりに集まる、5人の男女の6日間の物語だ。
原作は、漫画家の桜沢エリカで、映画化を前提に書き下ろした新作だそうだが・・・。
全編、静かな落ち着きを漂わせた作品はいいのだが、どうも中身がよく見えてこない。
何故、チェンマイなのか。
何故、そこのゲストハウスで母親は働いているのか。
4年前、祖母と娘さよ(伽奈)のもとを離れ、チェンマイで、母京子(小林聡美)は働きはじめた。
さよは、その母を訪ねて、ひとりチェンマイを訪れる。
迎えに現われたのは母ではなく、母の仕事を手伝う市尾(加瀬亮)だった。
小さなプールのあるゲストハウスには、ビー(シッティチャイ・コンピラ)という名前のタイ人の子供と、オーナーの菊子(もたいまさこ)がいた。
さよは、ひさびさに会った母が、初めて会う人たちと楽しそうに暮らしているのを見て、どうしても、それを素直に受け入れることができない。
ビーには、行方不明の母親がいて、会いたいと思っていた。
市尾は、母親探しを手伝うが、なかなかうまくいかず、優しさがいつも裏目に出てしまうのだ。
菊子は余命宣告を受けていた。
ここでは、誰もが、相手を思いやりながら生活しているように見える。
彼らとの出会いで、さよは自分の心が開いていくのを感じている。
4日目の夜、さよと京子は、市尾の作った鍋をかこむ・・・。
どうして、自分を残してタイへ行ってしまったのか、さよは、これまでずっと聞きたかった自分の気持ちを、率直に母にぶつけるのだった。
・・・誰もが、自由に生きているように見える。
そうした人たちの素朴な交流の中で、さよはやがて日本へ帰る日を迎える。
この作品、どうもまだるっこい。
何が言いたいのだ。
京子は、どうやら娘や老母を置いて、何の理由かよくわからないが、日本を飛び出したらしい。
母親はひょうひょうとしていて、何を考えているのかよくわからない。
映画の中に、説明らしい説明も、描写らしい描写も一切ない。
説明的な言葉や映像を、極力排している。
そうなのだ。
勝手に解釈してくれということのようだ。
登場人物たちの過去に何があったか、回想も描写もない。
彼らの会話(台詞)から想像するのだから、覚束ない。
それが狙いの作品だとしたら、ずいぶんと身勝手な映画だ。
この種の作品で、観客の想像に任せるとは・・・。
ひとつの小さなプールに、水がたたえられている。
プールの傍らにソファーがあって、いつも誰かがいる。
犬が寄ってきて、餌をやる。
誰かと誰ががそこで顔を合わせる。
空気が澄んでいるから、「とてもいい空気ね」と空を見上げ、「美味しいわね」と言って、鍋料理をほおばる・・・。
場面が変わったら変わったで、とりとめのない(?)会話が、お互い同士で延々と交わされる。
こういう場面を観ているほうは、もうあきあきしてくる。
だからどうした?それからどうした?そしてどうなったのさ?エトセトラ・・・。
プールを取り巻くように暮らしている、この映画の登場人物たちは、何故ここにいるのか、そんなことも誰ひとりとして語られることはない。
説明なくして見えるものは、何なのか。
大森監督は、京子の人物像を、常識からかけ離れた母親として描いているのだろう。
娘の養育を放り出して、一向に反省の気配もない。
わけありの母親を登場させて、台詞も、いまひとつぴんと響くものが感じられない。
とにかく、まるで肝心の中身がない(?!)といったら怒られるだろうか。
人物が、風景の中に立っているだけで、どうしてすべてが解るというのか。
「チェンマイを舞台に、小林聡美の映画を撮ってみたい」
ただ、それだけのことなのか。
今回の大森作品には、はっきり言って失望である・・・。
天下に臨む安土の山に、未曾有の巨城を建てる・・・。
山本兼一の歴史小説をもとに、田中光敏監督が映画化した。
波乱の戦国時代のドラマである。
戦の時代に、戦のない話というのもめずらしい。
天正4年(1576年)、甲斐の武田勢を破った織田信長(椎名桔平)が、琵琶湖を臨む安土山に、前代未聞の巨大な城を築くことを宣言した。
「安土の山ひとつ、丸ごと城にせよ。天主は五重、3年で建てろ」
信長の厳命を受けて、築城に挑んだ宮大工・岡部又右衛門(西田敏行)の物語だ。
翌年の天正5年、築城工事が始まる。
名もなき幾万もの民が集まり、安土の地は活気ずく。
又右衛門門下の番匠(大工)たちも、次々と仕事に当たり始める。
彼は、妻の田鶴(大竹しのぶ)や、娘の凛(福田沙紀)、大工たちの支えを得ながら、徐々に築城を進めていく。
しかし、空前絶後の巨大建築の完成までには、多くの困難が待ち受けていた。
時には危険をも顧みずに、理想の材木を探しに、又右衛門は武田領の木曾にまで探索に出かけた。
まずは、城の天主を支える親柱には、二尺五寸(約75cm)角の檜が必要なのだ。
それほど大きな檜といったら、樹齢2000年以上だ。
一方国元では、新たな戦乱の暗雲が立ちこめ、又右衛門の帰還を待つ大工たちを苦難に巻き込み、さらに妻の田鶴にも病魔が迫っていた。
やがて、勃発する悲劇的な争い、頼りにしていた仲間たちの死・・・。
又右衛門の、苦闘は続く。
石工の清兵衛(夏八木勲)とともに、蛇石(巨大な岩塊)運搬の指揮をとっていたところ、信長を狙う乱破の奇襲に見舞われたのだった・・・。
巨大な蛇石は転がり落ち、火薬がくすぶる大地は、死屍累々の惨状であった。
嘆き悲しむ番匠たち、民衆のために、作業は一時休止される。
又右衛門は、落胆と悲しみに打ちひしがれて、地下蔵に横たわっていた。
その姿を見て、信長は、「作事はお前たちの戦場だ。戦に死はつきもの、情けは不要じゃ」と一喝し、直ちに作業の再開を命じるのだった。
・・・このあとも、新たな事件が相次いで発生するのだが、天正7年(1579年)安土城は完成した。
そして信長は、安土城の天主に移り住んだ。
しかし、そのわずか3年後、本能寺の変で織田信長は自刃した。
さらにその2週間後に、何者かによって、安土城は炎上する。
出演はほかに、緒方直人、水野美紀、笹野高史らで、美術監督には西岡善信が当たった。
安土城は、完成後3年で焼失したので、詳細は謎だそうだ。
ただでさえ壮大な事業であろう、この城の建築総工費は、いまのお金にして1000億円に相当し、当時の大工、職人ら100万人以上を動員した大プロジェクトであった。
その<奇跡の城>も、現在は石垣だけが残されている。
信長が、天下統一を前に取りかかった一大事業が、安土城の築城だった。
五層七重の天主が聳え立つ姿は、さぞやと思われる。
この天主を住まいとしたのは、後にも先にも信長ひとりだそうだ。
化け物のような威容を誇る城郭の、その存在そのものが作品の核をなしている。
田中光敏監督のこの作品「火天の城」は、奇想天外な信長の構想を、実際の建物として実現した宮大工の話で、あくまで築城完成までのドラマである。
そのドラマの中での、人々の思いとか、苦難、軋轢については、どうも通り一遍にしか描かれていない。
欲を言えば、そのあたりの悲喜交々が、もっと突っ込んで描かれてもよかったのではないか。
少し、物足りない。
まあ、大がかりなセットなど、贅を尽くした撮影には、本物志向の迫力も感じられて楽しめる。
大工棟梁丸かぶりの、主演西田敏行の演技は、風格を感じさせる。
完成した安土城や、琵琶湖の風景には、個人的にはあまり好きではないCGも使われているが、田中監督にとっては、これが初めての戦国物となった。
壮大な、群像劇だ。
それはそれで結構なことだ。
希望と理想に(?)向かって、だけれども・・・。
好きな人と出会いたい。
素敵なデートもしてみたい。やっぱり、人並み(?)に・・・。
でも、お金がない。
結婚だってしたいができない、そういう若い男性が多い。
実際に、増えているのも確かだ。
若者の生活にゆとりがない。
ワーキングプアだ。
生活が楽ではないから、お金もたまらない。
石川啄木の心境だ。
「お金がなかったら、結婚などしないほうがいい。いや、してはいけない」
顰蹙をかうような、ずいぶんとひどいことを言った総理大臣がいた。
そして、自分はお金があったから結婚できたが、時期だけは人より遅かったと・・・。
何を、とんちんかんなことを言っているのだ。
あるお年寄りの話を聞くと、そんな馬鹿な話はない、自分たちは金もなかったが、それでも家庭をもてたし、今では孫たちも元気一杯だと一笑に付した。
何でもありの、今の豊かな社会から見れば、あの懐かしい歌の文句ではないけれど、空っぽの三畳一間で愛を育んだ若者たちもいたのだ。
お金なんかなかった。
でも結婚したし、それが出来た。
結婚式をやらない、またやっても地味婚で済ませてお金をかけない。
そういうスタイルだって、近年多いではないか。
人間、やってできないということはない。
確かに、上質な幸福というのは難しいかもしれない。
何も、上質である必要はない。
お金がなくて、貧しくても、幸せはあるものだと先人たちは語る。
豊かさに目がくらんでいると、小さな幸せさえも、手に入らない。
そんな気がする。
幸せになるつもりで結婚しても、すぐ離婚するカップルも多いことだし、結婚と離婚を、ゲームのように繰り返す男女のいかに多いことか。
人生、生涯独身だって、考えようで案外幸せかも知れない。
しかし、沢山の兄弟や友人に恵まれている場合はともかく、たった一人で晩年を迎えるのは寂しいものだ。
妻や夫に先立たれて、残された男や女たちは、周囲に誰かがいても、よかれあしかれ孤独なもの・・・、きっと誰か、何か支えを求めたくなることだってあるだろう。
これだけは、言える。
どんなにきれいごとを言っても、人は、所詮ひとりでは生きてはゆけないものだ。
ただ、結婚となると、出会いも必要だし、お金はないよりあったほうがいい。
でも、お金がすべてだと思い込んでしまうと、先が見えなくなる。
いま、働こうにも仕事さえ見つからない。
こんな雇用情勢の中では、生活する、生きていくだけで精いっぱいなのだ。
何と、かなり若い女性の路上生活者が、急速に増えているといわれる。
男性も女性も、生きにくい世の中だ。
世界的不況とはいえ、どうしてこんなことになってきたのだろう。
日本で、100歳以上のお年寄りが4万人に達したときいた。
これは、驚きだ。
生きにくい世の中で、少子高齢化だけはどんどん進んでいる!
できれば、戦争のない平和な世に生まれ、健全に育ち、心豊かに生き、いつまでも安心して等しく幸せでいられるような、そんな社会を誰もが願っている。
お金がなくたって、結婚できるような・・・。
さんざん聴かされて、いささか陳腐な話かもしれないが、誰かが言っていた。
「人間、生きるのに、そんなに幸せになれなくたっていいと、自分で思うことだ」とも・・・。
孫文というと、1800年代から1900年代初めにかけて、激動の時代を駆け抜けた男のイメージが強い。
中国、アジアのあるべき理想を高らかに謳い上げた、世界的な革命家・・・。
2000年続いた、皇帝政治による専制政治に終止符が打たれ、アジアの共和制国家・中華民国建国にいたった。
1911年の辛亥革命だった。
それから100年経とうとするいま、孫文の唱えた理念は、本当の花を咲かせようとしているのか。
新作、デレク・チウ監督の中国映画だ。
孫文の愛と闘いの日々を描く。
ここでは、歴史の表舞台に立つ孫文ではなく、革命前夜の冬の時代に、初めて焦点をあてている。
作品は、叙事詩風で、ゆるやかなテンポで綴られている。
孫文には、清国の暗殺者の影が、いつもつきまとっている。
激動の時代を牽引した、どんな指導者にも、様々な苦難の時代があったようだ。
孫文の‘100年後’の今の時代に、彼は何を予見し、どんな夢を描いていたのか。
1910年、孫文(ウィンストン・チャオ)は9回目の武装決起に失敗し、清朝政府は、多額の懸賞金をかけて、彼の命をねらっていた。
孫文は、やむなく亡命の地、英領マラヤ(現マレーシア)のペナンで、革命資金の調達を続けようとしていた。
度々の革命失敗による、苦境と失意の日々であった。
そんな中、若い時から常に彼に付き従っていた女性、チェン・ツイフェン(ウー・ユエ)と再会する。
彼は、彼女とのつかの間の愛を確認する。
そして、孫文は、自分に対する暗殺予告の渦中で、革命の命運をかけた演説にのぞんでいく。
異国の地にあっても、中国人としての誇りを失わず、決して理想をあきらめてはいけないと説く、彼の熱い言葉に、革命の支援者が次々と名乗りをあげていった・・・。
しかし、時代の激しいうねりは、容赦なく彼らに襲いかかり、孫文とチェン・ツイフェンの二人を、別離の運命へといざなっていくのだった。
孫文に影のように寄り添う、チェン・ツイフェン役の中国のウー・ユエがいい。
革命家を陰で支える女性像を、ときに可憐に、ときに力強く演じていて、好演だ。
マレーシア出身で歌手としても活躍中のアンジェリカ・リーらが、孫文を取り巻く激動のドラマに彩りを添えている。
ドラマは、清朝を倒した1911年の、辛亥革命の1年前の孫文の姿を、それもペナンに到着してからその地を離れるまでの、7月から12月までが舞台となっている。
この時期、孫文の指揮していた革命そのものが最も低迷していて、難しい局面を迎えていたとされる。
また、彼の活動の歴史記録の最も少ない時期といわれる。
しかし、逆境にあったこの時こそ、孫文にとって大きな革命への力が貯えられていった。
孫文の革命は、実在するチェン・ツイフェンの革命でもあった。
革命の陰に、女ありである。
革命なくして孫文はなく、孫文を愛することは、すなわち革命を愛することだった。
孫文の革命は彼女の革命であり、孫文の苦しみもまた彼女の苦しみであった、ということだ。
この映画では、孫文に付き従った20年間の軌跡の、ほんの一部分しか観られない。
中国映画「孫文 100年先を見た男」は、革命家を描くドラマとしては、どちらかというと静謐なドラマである。
冒頭の部分で、凄まじい記録フィルムが登場するところは、一瞬目を奪われるが・・・。
孫文がのちに唱えた「三民主義」(民族、民権、民生)の真髄は、力で相手に接するのではなく、それぞれの民族が自国の歴史や文化に誇りを持ち、他国を思いやることが、世界の調和をもたらすと説いている。
この思想が、最後には革命を成功させたのだった。
苦しいときこそ煌きを失わず、自己だけでなく他者を思いやる気持ち、調和のこころを、ひとりひとりのレベルで持つことの大切さを、孫文は訴えている。
現代のような、先の見えない混迷の時代だからこそ、孫文の生き様は大きな希望をもたらしてくれるのかも知れない。
孫文は、自分の死を前にして、こう漏らしたそうだ・・・。
「革命、いまだならず」と。
理想の世界の実現には、まだ遠い未来への道のりが残されていたのだった。
天下為公・・・、天下は、為政者のためにあるのではなく、公であるとは、人が人らしく生きることを意味する。
孫文が、好んで揮毫したと言われる。
現代にも通じる、言葉ではないだろうか。