徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

川端康成 美しい日本~鎌倉文学館35周年特別展~

2020-12-09 11:08:52 | 日々彷徨


朝夕めっきり冷え込み、冬が駆け足でやってきたようだ。
コロナ禍で、外出を控えめにしていたが、思い切って出かけた。
もうとうに薔薇の季節は終わっていて、久しぶりに静かな鎌倉であった。
訪れた当日の早朝は、幸せなことに、来館者は私一人で、貸し切りのような閲覧者となって、かえってよかったと安堵した。

1935年から鎌倉で暮らし、日本人で初めてノーベル賞を受賞した川端康成(1899年~1972年)の数々の作品をしのびながら、一貫して自身追求してきた日本の伝統美やこの地とゆかりのある深みを感じさせて、ミニ展示なりによくまとまっている。
作品の原稿や愛蔵品、パネル紹介など80点から、故人の紡いだ日本の「美」を感じとることができる。
川端については語り尽くせぬことが多く、ノーベル賞についてはそもそも川端康成と、三島由紀夫の二人が有力候補だったが、師弟の関係にある年長者川端を、三島周辺の反対を押し切って推奨したという話は有名だ。

ノーベル賞受賞式での川端康成の講演は、「美しい日本の私」であった。
当初川端は、「美しい日本と私」というタイトルで講演を予定していたが、「美しい日本の私」となった。
いずれにしても、「抒情の美」を描いて、数々の名作を残した川端は、日本文学の名を高め、世界がそれを認めた証となった。

川端は源氏物語の現代語訳を試みていたが、こちらは果たせぬまま、自死の道を選んだことは残念でならない。
川端展については、これまで文学館などで特別展が幾たびか開かれてきたが、鎌倉文学館で手にした小冊子(図録)などダイジェストしてよくまとまっており、一見に値するだろう。

今年も残り少なくなってきた。
この特別展、12月23日(水)まで。
鎌倉文学館(TEL 0467-23-3911)へは、江ノ電由比ヶ浜駅から徒歩7分だが、私はJR鎌倉駅下車、中央図書館前から裏小路を通り抜け、歩きやすい散歩道から、吉屋信子旧邸の前を通って文学館を訪れた。
勝手知ったいつもの散歩道である。
月曜日は休館、平日、日曜祭日午前9時から入館できる。



 

 

 


文学散歩「中 島 敦 展」―魅せられた旅人の短い生涯―

2019-11-04 12:25:00 | 日々彷徨


 いつしか凶暴な嵐も去り、熟成の秋が大地を覆い始める頃となった。
 過ごしやすい季節である。
 横浜市の県立神奈川近代文学館を訪れる。
 11月24日(日)まで、特別展「中島敦展」が開かれている。
 高校時代の国語の教科書に、名作「山月記」登場したときは、今も思い出すが、不思議な衝撃と感動に胸を打たれたものである。

 今回の特別展は、中島敦の短く起伏に富んだ人生を「旅」としてとらえ、わずか33年の生涯を展観する。
 「山月記」のほかにも「李陵・司馬遷」といった名作を残し、その生涯に遺した作品は20数篇に過ぎない。
 だが、それらの作品の端正な筆致と物語性に富んだ小説などは、今も多くの人々を魅了するものだ。
 特別展では、短かったが転変の多かった中島敦の人生を、彼の直筆の原稿用紙や手紙、写真などを通してその生涯を振り返る。

 中島敦は亡くなったときは無名だったが、神奈川近代文学館(TEL/045-622-6666)では5660点もの膨大な資料を所蔵しているうえに、未定稿や資料は遺族が保管していたものもあって、過去3回も展覧会を開催しているそうだ。






今回の展示について、第一部では少年時代、東京帝大学生時代、横浜高等女学校(現、横浜学園高等学校)教諭時代、第二部では、文字から文学が生まれるという「光と風と夢」など傑作が次々と登場した豊饒の時期、そして第三部では、中島敦の作品が現代文学、漫画、映画などにどのような影響を及ぼしたか、その経緯について紹介している。

中島敦は、横浜では8年間を過ごしているが、南洋庁の国語編修書記としてパラオにも赴任していた。
しかしながら、かねてからの喘息の発作に耐えかねて、転地療養をも考えたが、病状は悪化し1942年12月その短い生涯を閉じる。
彼の33年の足跡を、貴重な資料を多面的に俯瞰出来てよい。
今からだと、11月17日(日)には中央大学教授・山下真史氏の講演が予定されているほか、会期中毎週金曜日にはギャラリートークが行われている。
読書の秋である。
今月9日()まで読書週間だ。
中島敦の珠玉のような作品の数々に触れ、そこからかもし出される知的に構築された世界を、揺るぎのない美しい文章で堪能するのも一興ではなかろうか。

神奈川近代文学館の次回企画展は、「没後50年 獅子文六展」で12月7日(土)から催される。


文学散歩「江藤淳企画展」―初夏の神奈川近代文学館にてー

2019-05-27 08:30:01 | 日々彷徨


 関東の梅雨入りは、関西より一足早かったようだ。
 横浜の港の見える丘公園は、いま薔薇の花の真っ盛りである。
 その賑わいを抜けて、県立神奈川近代文学館 足を延ばしてみる。

 没後20年になる、評論家・江藤淳展が7月15日(月・祝)まで開かれている。
 江藤淳は慶応義塾大学在学時、「三田文学」に発表した「夏目漱石論」で文壇に登場した。
 その後も 「小林秀雄」「成熟と喪失」など文学評論や評伝・史伝など数多くの研究で、戦後の文壇、論壇に大きな影響をもたらしたことで知られている。














今回の企画展では、 「夏目漱石論」の草稿をはじめ、諸家書簡など多数の資料が展示されており、江藤淳の生涯と業績を振り返る企画展となっている。
展示は、江藤淳の前半生と後半生の二部構成でなっており、第一部での「日本の小説はどう変わるか」の座談会で、文学界」1957年8月号に掲載された写真は壮観だ。
山本健吉、福田恒存、伊藤整、高見順、遠藤周作、荒正人、石原慎太郎、野間宏、石川達三、堀田善衛、大岡昇平、中村光夫ら錚々たる面々に入って、新人の江藤淳の姿も見える。
そういえば、この席で、江藤の私小説批判につて高見順が激昂する一幕があったのだ。
江藤は新人ながら動じずに応酬し、このことは文壇の語り草になっている。

小林秀雄江藤について、一目置いていたことは間違いないと思われるし、後年、妻が病死し、そのあとを追うように本人が自死するという最期は悲しいが、新進評論家としての素養は十分あったといえる。
享年67歳(1999年)は、惜しまれる死であった。
鎌倉幕府が開かれたといわれる、鎌倉市西御門に50歳頃から終の棲家で暮らしていて、鎌倉を訪れたときはその前をよく通ったもので、江藤淳が後々まで強い喪失感を抱き続けていた妻・慶子とともに、彼の生涯が偲ばれるのだ。

6月1日()には社会学者・上野千鶴子氏、また6月8日()には作家で評論家の高橋源一郎氏の講演も予定されている。
そのほか、1階エントランスホールでは、6月16日、30日、7月14日のいずれも日曜日にはギャラリートークも開かれる。(無料)
天気がよければ、イギリス館周辺の満開の薔薇を存分に楽しむことができる。

 次回はアメリカ映画「アラジン」を取り上げます。

 


文学散歩「特別展 巨星・松本清張」―春たけなわの神奈川近代文学館にて―

2019-04-06 13:00:00 | 日々彷徨


 満開の桜が、早くも強い風にあおられて散り始めている。
 春はいよいよ本番だ。

 戦後日本を代表する作家・松本清張特別展神奈川近代文学館で5月12日(日)まで開催されている。
 この作家の小説家人生は、40歳を過ぎてから芥川賞受賞を契機に始まったのだ。
 人より遅い作家活動だが、その著作の多さは驚くばかりである。
 日本の国民的作家として、人気も高い。

 (神奈川近代文学館 / 電話 045-622-6666)

 

 

 








松本清張の人生は、多岐にわたって精力的に執筆活動を続けたことだった。
清張は幼少期から、恵まれない環境の中で、刻苦し、家も貧しかったから、尋常高等小学校卒業後から働きづめであった。
仕事に忙殺されて、人生の前途への希望を失うこともしばしばであった。
しかし、凡人とは違い、知的好奇心の旺盛さもあって、文学書を耽読し、考古学・民俗学への関心を深めていき、そのことで後に膨大な作品が次々と生まれていったのだ。
これは凄いことだ。本当に凄い作家だ。

昭和28年(1952年)「或る『小倉日記』伝」芥川賞受賞すると、その旺盛な創作活動は留まるところを知らなかった。
自宅で執筆する清張の背後の押入れには、所狭しと蔵書が溢れている。
苦難の時代をしのばせる写真である。
生涯の後半生にあたる約40年間で、清張は1000編もの作品を遺している。

今回は松本清張生誕110年にあたる特別展で、見応え十分な企画展である。
もともと版下画工でもあった清張は、作家になる前は、広告デザイン界で活躍しており、絵や書にも優れていた。
小説ももちろん、映画化された作品も36作前後あり、とてもそのすべてを読み切ってはいないが、現代を生きる人間へのメッセージははかり知れないものがある。
本展では、約400点の展示資料で清張の人生を展観する。

作品の中でも、傑作の誉れ高く、映画化もされた「砂の器」(1974年野村芳太郎監督作品)は、とりわけ個人的には強い印象を持っている。
「砂の器」は素晴しかったし、もう一度映画館でこそ観たいものだ。
個人的なことだが、この映画が公開された時、今は無くなったが大船オデオン座で観て大きな感動を覚えたものだ。
テレビドラマ化などもされたが、映画化作品にはとても及ばない。
脚色(橋本忍、山田洋次)、音楽(芥川也寸志)、主演(加藤剛)も優れており、人間の宿命を追って、熱く胸に迫る作品であった。
この映画作品は、出来映えも素晴らしく清張自身も大変気に入っていたそうだ。
何とこの映画「砂の器」が、9月20日(金)から横浜TOHOシネマズ上大岡(TEL/050-6868-5053)「午前十時の映画祭」(来年3月で終了)で上映される。
観ていない人には、是非映画館で観ることをお勧めしたい傑作だ。自身をもって言いたい。
なお、松本清張の代表作の中で、新潮文庫のベスト1はこの「砂の器」で、2018年12月現在459万部を記録しているそうだ。

余談が長くなったが、神奈川文学館の関連イベントとしては、4月13日(土)講演会(評論家・保坂正康)、4月28日(日)講演会(作家・阿刀田高)、文芸映画を観る会では「影なき声」(1958年日活)なども予定されている。
また、会期中の毎週金曜日にはギャラリートークも催されている。
本展では、松本清張の多彩な作品世界を紹介するとともに、清張が照らし出した時代を振り返り、現代を生きる我々へのメッセージを探ることになる。
来月、5月から令和といよいよ年号が改まり、また昭和の時代も遠のいてゆくが・・・。
満開の桜も大いに気になるところだが、近年期待の膨らむこの特別展を覗いてみるのも一興かもしれない。

次回はイギリス・スペイン・ドイツ合作映画「マイ・ブックショップ」を取り上げます。


「戦後横浜に生きる」―奥村泰宏・常盤とよ子写真展を横浜都市発展記念館にて―

2018-11-28 17:00:00 | 日々彷徨



季節は早いもので、とうに立冬を過ぎた。
今年も、残り少なくなってきた。
木枯し一番は、吹いたのか吹かないのか。
温かい日もあれば、肌寒い朝夕もある。
晴れるのか曇るのか、降るのか降らないのか。
このところ、すっきりしない空模様が続いているが・・・。

横浜日本大通りの横浜都市発展記念館(TEL:045-663-2424)で、開館15周年記念企画展が12月24日(月・振替休日)まで開かれている。
1945年(昭和20年)8月の敗戦後、横浜は都心部を中心に、占領軍にいたるところを接収され、数万の兵士たちが駐留する基地の街となった。
この時期の横浜市内を、写真家の奥村泰宏氏(1914年~1995年)常盤とよ子氏(1928年~)夫妻が、広く撮影した。
両氏の撮影した写真の数々は、戦後の横浜に生きる人々の諸相を克明に記録している。
それらは、芸術的価値のみならず、資料的価値の極めて高いものであるといえる。
                  
           
             (昭和戦前期 桜木町通り)

今回の企画展では、奥村、常盤両氏の写真とともに、関連する歴史資料も展示し、戦後横浜の様々なテーマについて紹介している。
大変興味深い写真展である。
横浜をよりよく理解するために、両氏から寄贈された貴重な資料とともに、この写真展の展観をお奨めしたい。

常盤とよ子氏について言えば、当初横浜港に集う人々の情景から、出会いや別れの場面を多く撮影し、1956年頃には社会に進出し始めた女性たちの姿に着目した一連の作品を発表した。
ファッションモデル、ダンサーやヌードモデル、女子プロレスラーといった、当時偏見の目で見られた職業の女性たちを取り上げたことに特徴があった。
このころ最も多く注目を集めたのが、黄金町の赤線地帯を撮影した作品群だった。
昭和21年から昭和33年までの間、横浜市内では戦前に遊郭が存在した南区の真金町、永楽町、周辺に赤線は存在していた。
常盤氏は昭和28年頃から、この地域の撮影を開始し、当初隠し撮りで撮影していたのだが、そこで働く女性たちに声をかけながら撮影する方法へと手法を変え、彼女たちの日常を世に伝える作品を多く生み出したのだった。
写真エッセイ「危険な毒花」が刊行されると、全国的に注目を集めることとなり、戦後女性写真家を代表する一人として、連日メディアに取り上げられることになった。
過ぎ去りし時を思うとき、これらの写真は何を伝えていくだろうか。

記念館では、横浜市の原形が形成された昭和戦前期を中心とした、「都市形成」「市民のくらし」「ヨコハマ文化」の3つの側面から、都市横浜の発展の歩みをたどる常設展が4階に併設されている。
時間があれば、こちらにも是非ついでに足を運んでみるといい。
なつかしのハマに、出逢うことになるだろう。

この写真展は10月6日(土)から開かれており、12月24日(月・振替休日までの異例の長期開催だ。
12月2日(日、16日(日)、22日(土)24日(月・振替休日)の14時から、ただし12月22日(土)は17時から、展示担当者の見どころ解説(45分程度)も予定されている。
別に、毎週末及び祝日の9時30分から16時の間、ワークショップ「昔の遊びを体験しよう」は申し込み不要、参加費無料だ。
意外に知られているようで知られていない、街の小さな博物館といえようか。

次回はフランス映画「おかえり、ブルゴーニュへ」を取り上げます。


文学散歩「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」―秋深き神奈川近代文学館にて―

2018-10-22 10:30:00 | 日々彷徨

 
 ♬♬
  時には母のない子のように
  だまって海をみつめていたい
  時には母のない子のように
  ひとりで旅に出てみたい
  だけど心はすぐかわる
  母のない子になったなら
  だれにも愛を話せない ♬♬  (作詞 寺山修司)

 異才の人・寺山修司(1935年~1983年)が、47歳でこの世を去ってから早いもので35年が経った。
 寺山修司は、詩歌、演劇、小説、映画、歌謡曲と多岐にわたる広い分野で、表現活動を展開したのだった。
 これまでの人々の常識を覆されるような、従来の枠を超える表現活動は、文字通り異能の才人を思わせるものがある。

 深まりゆく秋のある日、神奈川近代文学館に立ち寄ってみる。
 「寺山修司展」は、11月25日(日)まで開催されている。









第1部では、誕生から高校時代の活躍、華々しい文壇デビューから劇作家になるまでを、そして第2部では、世界各地で称賛された演劇実験室「天井桟敷」の公演や、映画製作、作詞、小説創作、写真、競馬評論に至るまで、あらゆるジャンルを超えた表現活動を‘実験’した寺山修司の歩みを展観できる。
貴重なメッセージを受け取ることのできる展覧会である。

様々な企画や範疇からはみ出して、収まりきることを知らない豊饒な言葉の世界を見る気がする。
彼によれば、映画も演劇も舞踊も、全て文学なのだ。
とくに1960年から70年代にかけて、寺山修司の仕事は世界水準でなければ見ることができないとされる。
大人が成長して子供になるようなところを感じさせる、少し不思議な寺山の才能をここに見ることができる。

昭和の郷愁を感じることもできる。懐かしさがあるのだ。
懐旧である。
人は、たったひとつの人生を生きてきているわけではないと、言われる。
この人の多才をどう分析するのがいいのか、大いに迷うところでもある。
彼の文学や芸術に対する姿勢は、どこまでも多面体で多くの顔を持っていることは否定できない。
そして、どこにいてもいつも孤独だ。
孤独の中に多くの顔を持っているのだ。
俳句をものし、歌人、詩人、小説家、劇作家、演出家にして、競馬評論まで・・・。

人生を生きるには、本当に多くの台詞を要するのに、彼は大いなる一人の役者だった。
詩や演劇の中に、幾つもの可能性を持ち続けてやまなかった寺山修司の軌跡は、決して長いものではなかったことが惜しまれる。
いま、まだその才能が生きていたらと思うと、人生の非情を感じざるを得ない。
神奈川近代文学館(TEL 045-622-6666)での「寺山修司展」は、9月29日()から始まっているが11月25日(日)まで開催中だ。
これからのイベントしては、11月2日(金)3日(土・)の文芸映画を観る会で寺山修司監督「草迷宮」(1979年 フランス)の上映や、11月17日(土)には評論家・三浦雅士氏の講演などが予定されている。
また、慣例となっているギャラリートークは、会期中の毎週金曜日に行われている。
従来の知識人とは全く違った生き方を選び、旺盛な好奇心で巷の歌謡曲やボクシングや競馬まで熱っぽく語る、変わったタイプの寺山ワールドに触れてみるのも一興ではないだろうか。

次回は日本映画「寝ても覚めても」を取り上げます。


文学散歩「ノンちゃん雲に乗る~本を読むよろこび~」―没後10年石井桃子展 / 神奈川近代文学館にて―

2018-09-03 10:00:00 | 日々彷徨


 あれほど降りしきる蝉しぐれは止んだ。
 代わって、秋の虫すだく音(ね)が合奏を聴かせる9月となった。
 こうなると残暑の戻りはあるとしても、本格的な秋の訪れはそう遠いことではないかも知れない。
 そうだ。
 そして、芸術の秋、読書の秋だ。

 昭和初期から101歳で亡くなるまで、石井桃子は翻訳家、作家として、児童文学の世界に幅広く活躍した。
 没後10年を機に、今回は本展では、その石井桃子の軌跡をたどりつつ、全てに前向きに、女性として自立の道を開いていった彼女の生涯を展観する。

 創作「ノンちゃん雲に乗る」など、現在も多くの作品が読者に読まれている。
 子供の頃にこの作者に出会った人たちは、きっと幸せな子供たちだっただろうなどと思いながら、筆まめだった石井桃子が知人や友人にあてた多くの書簡類を観ていると、とくに敗戦直後宮城県の鶯沢村(現・栗原市)で土地の開墾作業を始めた様子など、慣れない土地で文化の全く違う人々の中にあって、心身の本当の充実を求めながら、どんなにか苦しい日々であっただろうかと察する。

 






その頃、菊池寛らの知遇を得て、石井桃子独自の透徹した人物の見方を醸成していったことがうかがわれる。
農作業は大変だった。
これには真剣に取り組み、その合間では村の女性に裁縫を教え、自ら内職し、夜は執筆するという、朝から晩まで働き通しだったそうだ。
それだけで現代女性の鏡みたいな人だ。
下草を担ぎ、牛の乳を搾り、戦争直後の農場の仕事は、この作家にとって大きな領域を占め、命がけの挑戦でもあったようだ。
そんな中から、よくぞ実り多い、子供たちのための豊かな文学が生まれてきたものである。

没後10年 石井桃子展」は、神奈川近代文学館(TEL 045-622-6666)で9月24日(月、振休)まで開かれている。
本を読む歓びを伝え続け、そのために101年という生涯を全うした女性の展示会だ。
よく働き、よく学び、よく教え、 「東京子ども図書館」こそが、彼女が若い頃から抱いていた夢を実現したものだった。
「東京子ども図書館」は、石井桃子の事業の一環として今も受け継がれている。

「生涯勉強」というべき石井桃子の老年期が、いかに豊かで実り多き時であったとは次の一文も示している。
「・・・いろいろなことがあった。
 戦争前があり、戦争があり、飢えを知り、土地を耕すこともおぼえ、それから、戦争があった。
 それをみな、私のからだが通り抜けてきた。
 細く長い道があった・・・。」 (「かって来た道」より)
本展関連イベントはすでに終了しているものもあるが、9月15日(土)には「評伝 石井桃子」著者・尾崎真理子氏の講演や、毎週金曜日にはギャラリートークなども行われる。

次回は日本映画「きみの鳥はうたえる」を取り上げます。


―「こよひ逢ふ人みなうつくしき」―生誕140年 与謝野晶子特別展(神奈川近代文学館にて)

2018-03-25 16:00:00 | 日々彷徨


 数日前に、桜の花弁の上にふりしきる雪景色を眺めたばかりだったが、三月もやがて暮れていこうとしている。
 桜は予定よりも早く開花して、もう見事な満開だ。
 そしてこれからしばらくは、春本番である。
  いよいよ、待ちに待っていた 暖かな季節の訪れとなった。
 春風に心地よく誘われて、そんな中での文学散歩だ。

 やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 (みだれ髪)

 神奈川近代文学館「与謝野晶子展」が開催されていて、覗いてみた。
 かの有名な歌集「みだれ髪」が刊行されたのは、1901年(明治34年)8月のことであった。
 2018年は、歌人与謝野晶子(1878年~1942年)の生誕140年にあたる。
 23歳の時の晶子が、恋愛を高らかに謳い上げた第一歌集の誕生は、近代日本の文学界に大きな衝撃を与えたのだった。
 師であった与謝野鉄幹への恋を貫いて結婚し、いまでは情熱の歌人と喧伝され、五男六女を育てた立派な強き母であった。
 その一家の家計はなかなか大変だったそうだ。
 それでも、ほとんど晶子の筆一本が家庭の苦難を誇り高く支えていたというから、これも驚きだ。




晶子は歌人としてのみならず、詩、評論、小説、童話、古典研究など様々な分野で、幅広い執筆活動を行ってきた。
晩年の「改訳源氏物語」などに至るまで、女性ながら、骨太でエネルギッシュな晶子の強いイメージが、この展観には投げかけられている。
明治という時代に、革新的な風潮の最先端を切り拓いて、男性勢力の強い時代をものともせずに、ひたむきでひたすらな勢いを誰もが感じることだろう。
大阪堺の和菓子商の娘として育った晶子は、店の後継者の男児になかなか恵まれなかったなかで、漢学塾などで学びながら、店番の合間を縫っては膨大な父親の蔵書をひもといて、早くも紫式部清少納言を読みふけっていた言われる。

この与謝野晶子展、なかなか内容の濃い興味深い展示で、明治、大正、昭和に続く激しい時代を、一人の女性として、文学者で先駆的な立場で強く生き抜いた彼女の波乱の人生を、数多くの貴重な資料で展観することができる。
記念行事として、4月7日(土)歌人・尾崎佐永子の講演をはじめ、4月14日(土)俳優・竹下景子「新訳源氏物語(与謝野晶子)」の朗読会、また4月21日(土)歌人・三枝昂之、5月5日(土)(祝)歌人・今野寿美の講演となど、さらに会期中の毎週金曜日にはギャラリートークも予定されている。
神奈川近代文学館与謝野晶子展は、3月17日(土)~5月13日(日)まで開催されている。
なお4月15日(日)までは前期展示、4月17日(火)~5月13日(日)は後期展示として入れ替わることになっている。

次回は日本映画「素敵なダイナマイトスキャンダル」を取り上げます。


文学散歩「没後50年 山本周五郎展」―晩秋の神奈川近代文学館にて―

2017-11-08 16:00:00 | 日々彷徨


 芸術の秋、美術の秋、読書の秋である。
 家庭が貧しく、中学にも進学できなかった山本周五郎は、すぐ隣に住んでいた人の勧めがあって、木挽町(現・銀座7丁目)の質店きねや(山本周五郎商店)の住込み店員となった。
 大正5年、周五郎を名乗る前のまだ本名三十六の時だった。
 店主は山本周五郎と名乗り、文学を志向する周五郎を物心両面にわたって支え、周五郎もまた彼を実の父親以上に敬愛したそうだ。
 そのきねやは関東大震災で焼失、休業となり、質店の奉公を終えて独立した周五郎は、いよいよ文学で身を立てる決心をしたといわれる。

 作家山本周五郎が、今月26日(日)まで神奈川近代文学館で開かれている。
 彼は、「小説にはよき小説とよくない小説があるだけだ」という信念のもと、あらゆる賞を拒んで、読者のため「よき小説」を書くことのみ生涯を捧げた。
 「樅の樹は残った」(1959年)の毎日出版文学賞を辞退し、「青べか物語」(1961年)の文芸春秋読者賞に 選ばれて辞退しており、昭和18年直木賞も辞退している。

 作家山本周五郎展では、市井の人々のささやかな営み、それぞれの人生をひたむきに生きる姿を鮮やかに描き出している。
 彼の人間の心の動きを追求する作品は、今も世代を超えて愛されている。
 いまもテレビや映画でよく観られるではないか。
 彼は、横浜を自分の第二の故郷と呼んで愛したそうだ。
 昭和38年頃、現在はなくなった伊勢佐木町の日活シネマで、大人270円を払って映画のチケットを買う周五郎の写真がいい。

11月12日()には五代路子(女優)、11月28日()には戌井昭人(作家・俳優)両氏の朗読とトークなども予定されている。
また晩年に完成させることのできなかった、未完の「註文の婿」など、未発表作品200字詰めの原稿用紙44枚の原稿も新しく発見され、公開されている。
山本周五郎は、1930年当時看護婦をしていた土生きよえと結婚するが、彼女は戦争末期すい臓がんでこの世を去る。
二男二女がいたが、周五郎の落胆ははかり知れなかった。
その後、近所に住む吉村きんと再婚し、新たな出発をする。
このあと、一家の横浜本牧暮らしが始まったようだ。

この思慮深く、しんの強いきよえ、大らかで天真爛漫のきん、二人の良き妻に支えられて、周五郎自身の人間味あふれる作品の登場人物として反映されていくのだ。
この二人の女性の存在は、周五郎の作品に存在する大輪のようなものとなった。

「・・・いま一と言だけ申し上げます、それは・・・この世には御定法では罰することのできない罰がある、ということでございます。」(「五瓣の椿」より)
この山本周五郎展観は、彼の透徹した人間を凝視する目を培った、人生体験を知るよき機会ともなった。
             次回はアメリカ映画「ノクターナル・アニマルズ」を取り上げます。


文学散歩 企画展「角野栄子『魔女の宅急便』展」―魔女とおばけと―神奈川近代文学館にて

2017-08-02 16:30:00 | 日々彷徨


 「誰でも魔法をひとつは持っている。」(角野栄子)

 児童文学の世界で幅広く活躍する、角野栄子(1935年~)が書き続けた『魔女の宅急便』は、主人公の魔女キキの成長を見つめながら、様々な人々との出会いの中で、微妙に揺れ動く心情を鮮やかに映し出している。
 幼年童話からファンタジーまで、人気作品を軸に、豊かな想像力とユーモアに支えられた多才な世界を、人生の軌跡とともに紹介している。

 神奈川近代文学館で、角野栄子企画展が9月24日(日)まで開催中だ。
 本展では、長く読み継がれている『魔女の宅急便』『小さなおばけ』シリーズなど、数多くの作品群について、原稿や創作ノート、挿絵原画などを紹介している。
 童心にかえって眺めていると、夢が膨らんできてこの世界観が結構愉しい。

 本展関連イベントとして、9月3日(日)には角野栄子自身による記念講演「おばけも魔女もおもしろい、9月16日()には角野栄子横山真佐子(児童書専門店「こどもの広場」経営者)のトークイベントも行われる。
 また、8月27日、9月3日、10日、17日の各日曜日には、展示館1階エントランスホールでギャラリートークも予定されている。
 この神奈川近代文学館、9月30日()からは特別展として「没後50年 山本周五郎展」の予定だ。

 次回このブログでは日本映画「結婚」を取り上げます。