徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

「戦後横浜に生きる」―奥村泰宏・常盤とよ子写真展を横浜都市発展記念館にて―

2018-11-28 17:00:00 | 日々彷徨



季節は早いもので、とうに立冬を過ぎた。
今年も、残り少なくなってきた。
木枯し一番は、吹いたのか吹かないのか。
温かい日もあれば、肌寒い朝夕もある。
晴れるのか曇るのか、降るのか降らないのか。
このところ、すっきりしない空模様が続いているが・・・。

横浜日本大通りの横浜都市発展記念館(TEL:045-663-2424)で、開館15周年記念企画展が12月24日(月・振替休日)まで開かれている。
1945年(昭和20年)8月の敗戦後、横浜は都心部を中心に、占領軍にいたるところを接収され、数万の兵士たちが駐留する基地の街となった。
この時期の横浜市内を、写真家の奥村泰宏氏(1914年~1995年)常盤とよ子氏(1928年~)夫妻が、広く撮影した。
両氏の撮影した写真の数々は、戦後の横浜に生きる人々の諸相を克明に記録している。
それらは、芸術的価値のみならず、資料的価値の極めて高いものであるといえる。
                  
           
             (昭和戦前期 桜木町通り)

今回の企画展では、奥村、常盤両氏の写真とともに、関連する歴史資料も展示し、戦後横浜の様々なテーマについて紹介している。
大変興味深い写真展である。
横浜をよりよく理解するために、両氏から寄贈された貴重な資料とともに、この写真展の展観をお奨めしたい。

常盤とよ子氏について言えば、当初横浜港に集う人々の情景から、出会いや別れの場面を多く撮影し、1956年頃には社会に進出し始めた女性たちの姿に着目した一連の作品を発表した。
ファッションモデル、ダンサーやヌードモデル、女子プロレスラーといった、当時偏見の目で見られた職業の女性たちを取り上げたことに特徴があった。
このころ最も多く注目を集めたのが、黄金町の赤線地帯を撮影した作品群だった。
昭和21年から昭和33年までの間、横浜市内では戦前に遊郭が存在した南区の真金町、永楽町、周辺に赤線は存在していた。
常盤氏は昭和28年頃から、この地域の撮影を開始し、当初隠し撮りで撮影していたのだが、そこで働く女性たちに声をかけながら撮影する方法へと手法を変え、彼女たちの日常を世に伝える作品を多く生み出したのだった。
写真エッセイ「危険な毒花」が刊行されると、全国的に注目を集めることとなり、戦後女性写真家を代表する一人として、連日メディアに取り上げられることになった。
過ぎ去りし時を思うとき、これらの写真は何を伝えていくだろうか。

記念館では、横浜市の原形が形成された昭和戦前期を中心とした、「都市形成」「市民のくらし」「ヨコハマ文化」の3つの側面から、都市横浜の発展の歩みをたどる常設展が4階に併設されている。
時間があれば、こちらにも是非ついでに足を運んでみるといい。
なつかしのハマに、出逢うことになるだろう。

この写真展は10月6日(土)から開かれており、12月24日(月・振替休日までの異例の長期開催だ。
12月2日(日、16日(日)、22日(土)24日(月・振替休日)の14時から、ただし12月22日(土)は17時から、展示担当者の見どころ解説(45分程度)も予定されている。
別に、毎週末及び祝日の9時30分から16時の間、ワークショップ「昔の遊びを体験しよう」は申し込み不要、参加費無料だ。
意外に知られているようで知られていない、街の小さな博物館といえようか。

次回はフランス映画「おかえり、ブルゴーニュへ」を取り上げます。

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文学散歩「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」―秋深き神奈川近代文学館にて―

2018-10-22 10:30:00 | 日々彷徨

 
 ♬♬
  時には母のない子のように
  だまって海をみつめていたい
  時には母のない子のように
  ひとりで旅に出てみたい
  だけど心はすぐかわる
  母のない子になったなら
  だれにも愛を話せない ♬♬  (作詞 寺山修司)

 異才の人・寺山修司(1935年~1983年)が、47歳でこの世を去ってから早いもので35年が経った。
 寺山修司は、詩歌、演劇、小説、映画、歌謡曲と多岐にわたる広い分野で、表現活動を展開したのだった。
 これまでの人々の常識を覆されるような、従来の枠を超える表現活動は、文字通り異能の才人を思わせるものがある。

 深まりゆく秋のある日、神奈川近代文学館に立ち寄ってみる。
 「寺山修司展」は、11月25日(日)まで開催されている。









第1部では、誕生から高校時代の活躍、華々しい文壇デビューから劇作家になるまでを、そして第2部では、世界各地で称賛された演劇実験室「天井桟敷」の公演や、映画製作、作詞、小説創作、写真、競馬評論に至るまで、あらゆるジャンルを超えた表現活動を‘実験’した寺山修司の歩みを展観できる。
貴重なメッセージを受け取ることのできる展覧会である。

様々な企画や範疇からはみ出して、収まりきることを知らない豊饒な言葉の世界を見る気がする。
彼によれば、映画も演劇も舞踊も、全て文学なのだ。
とくに1960年から70年代にかけて、寺山修司の仕事は世界水準でなければ見ることができないとされる。
大人が成長して子供になるようなところを感じさせる、少し不思議な寺山の才能をここに見ることができる。

昭和の郷愁を感じることもできる。懐かしさがあるのだ。
懐旧である。
人は、たったひとつの人生を生きてきているわけではないと、言われる。
この人の多才をどう分析するのがいいのか、大いに迷うところでもある。
彼の文学や芸術に対する姿勢は、どこまでも多面体で多くの顔を持っていることは否定できない。
そして、どこにいてもいつも孤独だ。
孤独の中に多くの顔を持っているのだ。
俳句をものし、歌人、詩人、小説家、劇作家、演出家にして、競馬評論まで・・・。

人生を生きるには、本当に多くの台詞を要するのに、彼は大いなる一人の役者だった。
詩や演劇の中に、幾つもの可能性を持ち続けてやまなかった寺山修司の軌跡は、決して長いものではなかったことが惜しまれる。
いま、まだその才能が生きていたらと思うと、人生の非情を感じざるを得ない。
神奈川近代文学館(TEL 045-622-6666)での「寺山修司展」は、9月29日()から始まっているが11月25日(日)まで開催中だ。
これからのイベントしては、11月2日(金)3日(土・)の文芸映画を観る会で寺山修司監督「草迷宮」(1979年 フランス)の上映や、11月17日(土)には評論家・三浦雅士氏の講演などが予定されている。
また、慣例となっているギャラリートークは、会期中の毎週金曜日に行われている。
従来の知識人とは全く違った生き方を選び、旺盛な好奇心で巷の歌謡曲やボクシングや競馬まで熱っぽく語る、変わったタイプの寺山ワールドに触れてみるのも一興ではないだろうか。

次回は日本映画「寝ても覚めても」を取り上げます。

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文学散歩「ノンちゃん雲に乗る~本を読むよろこび~」―没後10年石井桃子展 / 神奈川近代文学館にて―

2018-09-03 10:00:00 | 日々彷徨


 あれほど降りしきる蝉しぐれは止んだ。
 代わって、秋の虫すだく音(ね)が合奏を聴かせる9月となった。
 こうなると残暑の戻りはあるとしても、本格的な秋の訪れはそう遠いことではないかも知れない。
 そうだ。
 そして、芸術の秋、読書の秋だ。

 昭和初期から101歳で亡くなるまで、石井桃子は翻訳家、作家として、児童文学の世界に幅広く活躍した。
 没後10年を機に、今回は本展では、その石井桃子の軌跡をたどりつつ、全てに前向きに、女性として自立の道を開いていった彼女の生涯を展観する。

 創作「ノンちゃん雲に乗る」など、現在も多くの作品が読者に読まれている。
 子供の頃にこの作者に出会った人たちは、きっと幸せな子供たちだっただろうなどと思いながら、筆まめだった石井桃子が知人や友人にあてた多くの書簡類を観ていると、とくに敗戦直後宮城県の鶯沢村(現・栗原市)で土地の開墾作業を始めた様子など、慣れない土地で文化の全く違う人々の中にあって、心身の本当の充実を求めながら、どんなにか苦しい日々であっただろうかと察する。

 






その頃、菊池寛らの知遇を得て、石井桃子独自の透徹した人物の見方を醸成していったことがうかがわれる。
農作業は大変だった。
これには真剣に取り組み、その合間では村の女性に裁縫を教え、自ら内職し、夜は執筆するという、朝から晩まで働き通しだったそうだ。
それだけで現代女性の鏡みたいな人だ。
下草を担ぎ、牛の乳を搾り、戦争直後の農場の仕事は、この作家にとって大きな領域を占め、命がけの挑戦でもあったようだ。
そんな中から、よくぞ実り多い、子供たちのための豊かな文学が生まれてきたものである。

没後10年 石井桃子展」は、神奈川近代文学館(TEL 045-622-6666)で9月24日(月、振休)まで開かれている。
本を読む歓びを伝え続け、そのために101年という生涯を全うした女性の展示会だ。
よく働き、よく学び、よく教え、 「東京子ども図書館」こそが、彼女が若い頃から抱いていた夢を実現したものだった。
「東京子ども図書館」は、石井桃子の事業の一環として今も受け継がれている。

「生涯勉強」というべき石井桃子の老年期が、いかに豊かで実り多き時であったとは次の一文も示している。
「・・・いろいろなことがあった。
 戦争前があり、戦争があり、飢えを知り、土地を耕すこともおぼえ、それから、戦争があった。
 それをみな、私のからだが通り抜けてきた。
 細く長い道があった・・・。」 (「かって来た道」より)
本展関連イベントはすでに終了しているものもあるが、9月15日(土)には「評伝 石井桃子」著者・尾崎真理子氏の講演や、毎週金曜日にはギャラリートークなども行われる。

次回は日本映画「きみの鳥はうたえる」を取り上げます。

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―「こよひ逢ふ人みなうつくしき」―生誕140年 与謝野晶子特別展(神奈川近代文学館にて)

2018-03-25 16:00:00 | 日々彷徨


 数日前に、桜の花弁の上にふりしきる雪景色を眺めたばかりだったが、三月もやがて暮れていこうとしている。
 桜は予定よりも早く開花して、もう見事な満開だ。
 そしてこれからしばらくは、春本番である。
  いよいよ、待ちに待っていた 暖かな季節の訪れとなった。
 春風に心地よく誘われて、そんな中での文学散歩だ。

 やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 (みだれ髪)

 神奈川近代文学館「与謝野晶子展」が開催されていて、覗いてみた。
 かの有名な歌集「みだれ髪」が刊行されたのは、1901年(明治34年)8月のことであった。
 2018年は、歌人与謝野晶子(1878年~1942年)の生誕140年にあたる。
 23歳の時の晶子が、恋愛を高らかに謳い上げた第一歌集の誕生は、近代日本の文学界に大きな衝撃を与えたのだった。
 師であった与謝野鉄幹への恋を貫いて結婚し、いまでは情熱の歌人と喧伝され、五男六女を育てた立派な強き母であった。
 その一家の家計はなかなか大変だったそうだ。
 それでも、ほとんど晶子の筆一本が家庭の苦難を誇り高く支えていたというから、これも驚きだ。




晶子は歌人としてのみならず、詩、評論、小説、童話、古典研究など様々な分野で、幅広い執筆活動を行ってきた。
晩年の「改訳源氏物語」などに至るまで、女性ながら、骨太でエネルギッシュな晶子の強いイメージが、この展観には投げかけられている。
明治という時代に、革新的な風潮の最先端を切り拓いて、男性勢力の強い時代をものともせずに、ひたむきでひたすらな勢いを誰もが感じることだろう。
大阪堺の和菓子商の娘として育った晶子は、店の後継者の男児になかなか恵まれなかったなかで、漢学塾などで学びながら、店番の合間を縫っては膨大な父親の蔵書をひもといて、早くも紫式部清少納言を読みふけっていた言われる。

この与謝野晶子展、なかなか内容の濃い興味深い展示で、明治、大正、昭和に続く激しい時代を、一人の女性として、文学者で先駆的な立場で強く生き抜いた彼女の波乱の人生を、数多くの貴重な資料で展観することができる。
記念行事として、4月7日(土)歌人・尾崎佐永子の講演をはじめ、4月14日(土)俳優・竹下景子「新訳源氏物語(与謝野晶子)」の朗読会、また4月21日(土)歌人・三枝昂之、5月5日(土)(祝)歌人・今野寿美の講演となど、さらに会期中の毎週金曜日にはギャラリートークも予定されている。
神奈川近代文学館与謝野晶子展は、3月17日(土)~5月13日(日)まで開催されている。
なお4月15日(日)までは前期展示、4月17日(火)~5月13日(日)は後期展示として入れ替わることになっている。

次回は日本映画「素敵なダイナマイトスキャンダル」を取り上げます。

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文学散歩「没後50年 山本周五郎展」―晩秋の神奈川近代文学館にて―

2017-11-08 16:00:00 | 日々彷徨


 芸術の秋、美術の秋、読書の秋である。
 家庭が貧しく、中学にも進学できなかった山本周五郎は、すぐ隣に住んでいた人の勧めがあって、木挽町(現・銀座7丁目)の質店きねや(山本周五郎商店)の住込み店員となった。
 大正5年、周五郎を名乗る前のまだ本名三十六の時だった。
 店主は山本周五郎と名乗り、文学を志向する周五郎を物心両面にわたって支え、周五郎もまた彼を実の父親以上に敬愛したそうだ。
 そのきねやは関東大震災で焼失、休業となり、質店の奉公を終えて独立した周五郎は、いよいよ文学で身を立てる決心をしたといわれる。

 作家山本周五郎が、今月26日(日)まで神奈川近代文学館で開かれている。
 彼は、「小説にはよき小説とよくない小説があるだけだ」という信念のもと、あらゆる賞を拒んで、読者のため「よき小説」を書くことのみ生涯を捧げた。
 「樅の樹は残った」(1959年)の毎日出版文学賞を辞退し、「青べか物語」(1961年)の文芸春秋読者賞に 選ばれて辞退しており、昭和18年直木賞も辞退している。

 作家山本周五郎展では、市井の人々のささやかな営み、それぞれの人生をひたむきに生きる姿を鮮やかに描き出している。
 彼の人間の心の動きを追求する作品は、今も世代を超えて愛されている。
 いまもテレビや映画でよく観られるではないか。
 彼は、横浜を自分の第二の故郷と呼んで愛したそうだ。
 昭和38年頃、現在はなくなった伊勢佐木町の日活シネマで、大人270円を払って映画のチケットを買う周五郎の写真がいい。

11月12日()には五代路子(女優)、11月28日()には戌井昭人(作家・俳優)両氏の朗読とトークなども予定されている。
また晩年に完成させることのできなかった、未完の「註文の婿」など、未発表作品200字詰めの原稿用紙44枚の原稿も新しく発見され、公開されている。
山本周五郎は、1930年当時看護婦をしていた土生きよえと結婚するが、彼女は戦争末期すい臓がんでこの世を去る。
二男二女がいたが、周五郎の落胆ははかり知れなかった。
その後、近所に住む吉村きんと再婚し、新たな出発をする。
このあと、一家の横浜本牧暮らしが始まったようだ。

この思慮深く、しんの強いきよえ、大らかで天真爛漫のきん、二人の良き妻に支えられて、周五郎自身の人間味あふれる作品の登場人物として反映されていくのだ。
この二人の女性の存在は、周五郎の作品に存在する大輪のようなものとなった。

「・・・いま一と言だけ申し上げます、それは・・・この世には御定法では罰することのできない罰がある、ということでございます。」(「五瓣の椿」より)
この山本周五郎展観は、彼の透徹した人間を凝視する目を培った、人生体験を知るよき機会ともなった。
             次回はアメリカ映画「ノクターナル・アニマルズ」を取り上げます。

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文学散歩 企画展「角野栄子『魔女の宅急便』展」―魔女とおばけと―神奈川近代文学館にて

2017-08-02 16:30:00 | 日々彷徨


 「誰でも魔法をひとつは持っている。」(角野栄子)

 児童文学の世界で幅広く活躍する、角野栄子(1935年~)が書き続けた『魔女の宅急便』は、主人公の魔女キキの成長を見つめながら、様々な人々との出会いの中で、微妙に揺れ動く心情を鮮やかに映し出している。
 幼年童話からファンタジーまで、人気作品を軸に、豊かな想像力とユーモアに支えられた多才な世界を、人生の軌跡とともに紹介している。

 神奈川近代文学館で、角野栄子企画展が9月24日(日)まで開催中だ。
 本展では、長く読み継がれている『魔女の宅急便』『小さなおばけ』シリーズなど、数多くの作品群について、原稿や創作ノート、挿絵原画などを紹介している。
 童心にかえって眺めていると、夢が膨らんできてこの世界観が結構愉しい。

 本展関連イベントとして、9月3日(日)には角野栄子自身による記念講演「おばけも魔女もおもしろい、9月16日()には角野栄子横山真佐子(児童書専門店「こどもの広場」経営者)のトークイベントも行われる。
 また、8月27日、9月3日、10日、17日の各日曜日には、展示館1階エントランスホールでギャラリートークも予定されている。
 この神奈川近代文学館、9月30日()からは特別展として「没後50年 山本周五郎展」の予定だ。

 次回このブログでは日本映画「結婚」を取り上げます。

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文学散歩「生誕120年 宇野千代展―華麗なる女の物語」~神奈川県立近代文学館にて~

2017-06-06 16:00:00 | 日々彷徨


 横浜の港の見える丘公園は、薔薇をはじめ色とりどりの花々が初夏の陽射しの中に咲き競っていた。
 もうすぐ、関東地方の梅雨入りも近い。
 神奈川近代文学館にいく。

 ・・・私は一種の感動に心を奪われ乍ら、もう一度、この桜に万朶の花を咲かせることは出来ないものか、と考えた。(「淡墨桜」より)
 作家宇野千代(1897年~1996年)の生誕120年を機に、7月17日月、祝日まで「宇野千代展」が開催されている。
 雑誌、新聞への投稿を経て、24歳で中央文壇にデビューし、大正末期から昭和初期にかけて新進の女流作家として、華々しい活躍をした人だ。
 戦後10年以上の歳月をかけて完成した「おはん」は、彼女の代表作ともいわれ、いまも高い評価を得ている。

 今回の本展では、千代が、厳しい父に育てられた少女時代から作家としてデビューするまでを序章として、その生涯を五部門で構成している。
 宇野千代には小説のみならず、雑誌編集から着物のデザインまで多彩な活動があり、それらを紹介しつつ、恋多き女としての数々の恋愛遍歴や幅広い交友にあらわれた、千代の人間像に迫っている。







言葉はちょっと悪いかもしれないが、宇野千代の男性遍歴は、彼女の勲章のようなものだ。
尾崎士郎との出会いと別れ、そして東郷青児北原武雄と結婚離婚を繰り返し、作家としての執筆活動も旺盛を極めた。

1910年、岩国高等女学校時代の作文「秋の山に遊ぶ」(毛筆)は、小さな文字で誰にでも読めるような一文に、当時の教師による赤い添削が入っている。
千代は子供のころから成績が良かったらしく、学校で褒美をもらうと、普段は無口な父俊次が、娘を連れてその褒美を周囲に見せて回るのが愉しかったとは、後年の回想である。
そのほか、作品原稿や挿絵原画、自らデザインした着物や愛蔵の品々など約250点の資料によって、その生涯と活動を展観する。
関連イベントしては、6月24日(土)文芸評論家・尾形明子氏講演、6月18日(日)、7月2日(日)16日(日)にはギャラリートーク、また7月14日(金)16日(土)の文芸映画を観る会では日活映画「色ざんげ」(1956年)の上映会なども予定されている。

 この頃 思うんですけどね
  何だか 私 
 死なない やうな
  気が するんですよ
 はははは は
        宇野千代
           満九十歳 (生前最後の著書より)

宇野千代の晩年は、長寿、健康、名声に恵まれてまことに幸せだった(丸谷才一弔辞)そうだ。
潮風に吹かれ、繚乱の花々を満喫し、文学館でひと休みというのも悪くない。

次回はベルギー・ドイツ合作映画「僕とカミンスキーの旅」を取り上げます。

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小さな新名所が誕生! 「鎌倉歴史文化交流館」―鎌倉散策のついでに―

2017-05-23 16:00:00 | 日々彷徨


 風薫る五月、鎌倉に小さいけれど新しい名所が誕生した。
 鎌倉市扇ガ谷に完成し、この15日から一般公開されている。
 鎌倉歴史文化交流館だ。

 鎌倉の古代から現代までの歴史を、約250点の出土品やジオラマ映像などで紹介している。
 晩年を鎌倉で過ごし、日本のシンドラーと称され、第二次世界大戦中にユダヤ人を救った外交官の杉原千畝の展示もある。
 この場所は、「赤尾の豆単」で知られる、以前旺文社創業者の赤尾好夫社長の旧邸宅で、建築設計はイギリスの著名な建築家、ノーマン・フォスター氏が手掛け、元の住宅設計に配慮しながら展示施設として改良したそうだ。

 鉄筋コンクリート造りの本館と別館とから成り、内部は壁で仕切られている。
 玄関から奥へ進んでいくと、外部の風景を取り入れながrら、館内が「暗」から「明」へ次第に明るくなっていくのがわかる。
 中世以来の鎌倉という土地の来歴を踏まえつつ、日本人の価値観に合わせた建築空間が興味深い。
 一部に光ファイバーが組み込まれた人造大理石や、廃テレビ管をを利用したガラスブロックといった特殊な資材が、随所に有効に使われている。
 明るい休憩室でくつろぐのも落ち着ける。
 出土展示品など小規模ではあるが、まだ開館したばかりで、これから図録なども整備していかねばならないと職員は話していた。
 
 JR鎌倉駅から徒歩7分くらい、銭洗弁天の近くだ。
 ここだけのためにわざわざ出かけていくには及ばない。
 鎌倉観光のついでに、立ち寄って見るのがいいかもしれない。
 静かな住宅地の奥にあって、日曜、休日は休館とのことだ。
  TEL:0467-73-8501
 次回は日本映画「たたら侍」を取り上げます。

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文学散歩「生誕150年 正岡子規展ー病牀六尺の宇宙」―神奈川近代文学館にて―

2017-04-09 17:00:00 | 日々彷徨


 日本の春たけなわなれど・・・。
 満開の桜が、花散らしの雨と風に泣いている。

 生誕150年を迎える、近代俳句の祖といわれる、俳人で歌人の正岡子規特別展神奈川近代文学館で開催されている。
 春の文学散歩である。
 正岡子規は、近代日本の黎明期に新しい文学の改革を目ざし、そのわずか35年の生涯において、俳句、短歌はもちろん書画まで、多岐にわたるジャンルで新時代の表現を追求した、稀有な才能の人である。

 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
 この句を知らない人はいないだろう。
 正岡子規(本名・常規)は、結核性の脊椎カリエスに苦しみながら、風景や心情を平明な言葉で伝える俳句や短歌を多く残した。
 ときに病に苦しむ自らを客観的に見つめ、ユーモアさえ交えて・・・。
 一時は政治家を志し、小説にも挑戦したが、そちらの方はかなわなかったようだ。
 病床での子規の口述筆記は、口語体の平明な文章を生むきっかけともなり、俳句の大衆化の流れを作ったといわれる。
 
 特別展は、第1部「明治の青年・子規」、第2部「子規庵からー新しい言葉の創造」、第3部「病牀六尺の宇宙」から成り、10代から最晩年にいたる草稿や書簡など330点の資料が展示されている。


今回、これまで正岡子規の全集に未収録だった書簡一通が見つかり、貴重な資料として展示されている。
故郷、松山に住む叔父の大原恒徳に宛てたもので、病苦との闘いを強いられ続けた日常や人柄の伝わる資料で、明治29年12月1日付、巻紙に毛筆で書かれている。
書簡では、東京の子規宅を大原が訪ねた際に、胃痛のためもてなすことのできなかったことをわび、さらに絣(着物)代を渡し忘れたことに触れ、後で送金する旨のことが書かれている。

子規は病床にあっても、天性の明るさを失わない性格だった。
当時、忌み嫌われていた結核という不治の病にもかかわらず、子規のもとには多くの人々が集い、誰もが元気をもらっていったという。
子規の左脚は曲がったまま伸びなかったので、根岸の指物師に作らせた座机は、立膝を入れる部分が切り抜かれている。
その現物も、彼の生前を偲ばせる。
そして、1902年(明治35年)8月19日に病状悪化で永眠する、その直前の8月18日に揮毫された「絶筆三句」は印象深い。
死を目前にして、なおゆとりさえ見せ、言葉にもユーモアが感じられるではないか。
 「をととひのへちまの水も取らざりき」
 「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」
 「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」   (絶筆三句)
正岡子規34歳、いかにも若すぎる晩年であった。

本展関連行事としては、4月15日(土)俳人・長谷川櫂氏「新しい子規」、5月20日(土)文芸評論家・三枝昂之氏「正岡子規ー文学という夢」などの講演、他にも朗読会、講座、ギャラリートーク(毎週金曜日)など多彩な催しが目白押しだ。
正岡子規の文学と生涯を振り返るとともに、親友夏目漱石をはじめとする多くの文学者たちとの交流も紹介されており、とにかく短い生涯ではあったが最期まで生きることを楽しんだ、人間子規の魅力に十分触れることのできる機会だ。
この特別展、4月25日(火)には一部展示替えが行われる予定で、5月21日(日)まで開催中だ。

次回はフランス、ボスニア・ヘルツェゴビナ合作映画「サラエヴォの銃声」を取り上げます。

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文学散歩「全身小説家・井上光晴展」―神奈川近代文学館にて―

2017-02-07 16:30:00 | 日々彷徨


 早春の昼下がり、横浜の港の見える丘公園は、まだ風が少し冷たかったが明るい日差しがあふれていた。
 作家・井上光晴(1926年~1992年)神奈川近代文学館3月20日(月・祝)まで開催されている。
 井上光晴は、朝鮮戦争、被差別部落、廃炭鉱、原発など、戦後の社会問題をテーマに、人間の真実を追求し続けた。
 その文学に捧げた、生涯と作品が展示されている。

 井上は福岡県久留米の生まれで、長崎県の軍港の街・佐世保や炭鉱の島・崎土で、貧しい少年時代を過ごした。
 作り話が得意だったその頃から、小説家としてはうってつけの天分を覗かせていたといわれる。

 開催展は、井上文学の核となる重要な原風景の紹介に始まり、原発や精神病、高齢化など現代社会にはびこる多様な問題をそのテーマとして掲げており、独特の作品世界を築き上げる過程など、行動する小説家の軌跡をたどる。
 虚実を巧みに織り交ぜた作品の多くは、社会や時代の暗部に鋭く切り込んで、自身が癌で倒れた最期の瞬間まで、小説家であり続けようとした様がうかがわれる。
 その生涯は生き方すべてが小説を書くことと一体化していたことから、長年井上と親しく交わった作家の埴谷雄高は、後輩作家のこの姿を「全身小説家」と名付けて憚らなかった。




本展では、遺族から寄贈された収蔵コレクションを中心に、全身小説家・井上光晴」の実像に迫っている。
ただ、井上は原稿用紙への筆記を苦手として、市販の大学ノートに横書きで作品を執筆し、これを妻の郁子が原稿用紙に清書していた。
1992年5月、66歳で逝くまで壮絶な闘病生活を支えたのは、書くことへの凄まじいまでの執念であった。
作家の執念恐るべしであろう。

各種イベントとしては、2月19日(日)日大教授紅野謙介氏の講演をはじめ、3月4日(土)トークイベント「娘として、小説家として~父・井上光晴」と題する井上荒野(井上光晴長女)と鵜飼哲夫氏(読売新聞論説委員)の対談が予定されている。
また、1994年日本映画監督賞、日本アカデミー賞特別賞を受賞した文芸映画「全身小説家」の上映会が、3月10日(金)、11日(土)展示館2Fホールで催される。
なお、神奈川近代文学館3月25日(土)からは、企画展「生誕150年正岡子規展ー病牀六尺の宇宙」展が予定されている。

本編ブログ次回はルーマニア映画「エリザのために」を取り上げます。

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