人はいつだって夢を抱いて、その夢をかなえるために頑張っている。
その夢は、かなわない夢かもしれない。
でもあきらめずに、もがき続ける。
気鋭若手の吉田恵輔監督が、そんな一人の女と男の挑戦と葛藤を描いたオリジナル作品だ。
この作品は、監督自身の実体験がもとになっている。
苦しんでいる自分に捧げる映画の感じだとは、本人の弁・・・。
ロマンティックな青春映画のようにも見えるが、恋愛も大した事件も起きない。
地味な作品ではあるが、どきりとするほどリアルな作品でもある。
夢をあきらめることの難しさや痛みを、皮膚感覚で伝えようとする。
このドラマでは、生ま生ましい演技がユーモラスで、面白おかしく生きている。
学生時代からシナリオライターを目指している馬淵みち代(麻生久美子)は、友人のマツモトキヨコ(山田真歩)を誘ってシナリオスクールに通うが、なかなか芽が出ない。
そこで出会った超自信過剰の年下男の天童義美(安田章大)は、みち代にひと目ぼれ・・・。
その天童は、大きなことばかり言って一度も作品を書いたことがない、
みち代の応募作品は入選することもなく、つくづくと才能のなさを自覚する。
が、これで最後だともう一度シナリオコンクールに挑戦する。
一方でみち代に恋をして、彼女のひたむきな夢を追いかける姿に刺激された天童は、初めて自分自身を見つめペンをとる。
そして、反発しあっていた二人の距離は縮まっているように見えたが・・・。
みち代は、「夢をかなえるのは難しいが、夢をあきらめるのも難しい」と、泣きながら心情を吐露する場面は5分間にも及ぶ長まわしで、ちょっと胸にくるシーンだ・・・。
アドリブのように飛び出す、みち代や天童の台詞が、何ともユーモラスで自然体でよろしい。
吉田監督自身は10年間もがき苦しんだが、これでもうあきらめようとして撮った作品がビデオ会社に採用され、その後「純喫茶磯辺」などオリジナル作品を発表して高い評価を受けたのだった。
来年には、原作ものも公開されるそうだ。
この作品、劇的な盛り上がりはない。
言葉使い、掛け合いの呼吸、間合い、対人関係の探り合いなど、ドキッとするほど生々しい部分もあり、とくに監督の分身を演じた麻生久美子の演技が実に素直で、心の痛みが伝わってくるほどだ。
いまどき、世の中のダメ人間を上から目線で一瞥するのではなく、弱さや愚かさに共感しそっと寄り添うという、人間肯定の姿勢は貴重なものだ。
誰もが、社会で夢を実現できるわけではない。多くの人たちは、頑張ったからといって理想通りにはいかない。
吉田監督ならではの小世界が、ほろ苦く温かくて心地よい。
人間の弱さをえぐり、弱いものが寄り添うという、まあ人生なんてなかなかシナリオ通りにうまくはいかないものだ。
吉田恵輔監督の映画「ばしゃ馬さんとビッグマウス」は、普通の人たちの、あきらめるにもあきらめきれない切なさを、温かい視点で描いており、小品ながら好感度抜群だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
新鋭アダム・ウィンガード監督の、鋭いキレのあるスリラー映画だ。
この人、新世代スリラー監督としての呼び声も高く、いまハリウッドでも注目されている若手監督の一人だ。
各国の映画祭でも、観客を沸かせた興奮の作品がこれだ。
人里離れた一軒家で、主人公が謎の侵入者に襲撃される。
逃げ場のない密室で、次から次へと起こる襲撃、しかも突如として現れるのは、動物の面をつけたアニマルマスク集団だ。
この不気味な設定と定番の音響効果が、いやがうえにも見えない恐怖感をあおり、日常の中に潜む異常を物語る。
ドラマは冒頭から、家族さえ予期しなかった結末へと、一気に突き進んでいく。
定年退職したばかりの父ポール(ロブ・モラン)と療養中の母オーブリー(バーバラ・クランプトン)の、結婚35周年を祝うため、デーヴィソン一家が新緑の別荘に集まることになった。
そこに集まってきた、家族とその恋人達10人が揃って、晩餐会が始まる。
和やかにスタートしたように見えた晩餐会で、突然窓ガラスの割れる音が・・・。
そこへ飛び込んできて、彼らに襲いかかったのは、羊、狐といった動物たちのマスクをつけた、正体不明の軍団であった。
正体もわからず、理由のわからないまま、なすすべもなく襲われていくデーヴィソン家の人々・・・。
そして、まさに絶体絶命のピンチに陥ったその時、アニマル集団も、そして家族すらも予想しなかったことが起こる。
誤算、予想外、想定外と、いくつものサプライズが、家族全員の運命を大きく変え、誰もが予期しなかった結末へと突き進んでいく・・・。
とくに目新しい作劇ではないが、いやはや、なかなか凝った怖ろしい演出だ。
二階の寝室に、何ものかが侵入したところから矢継ぎ早に、連続殺人事件が起きる。
別荘とその周辺という、限定された舞台を最大限に生かして、観客の予想を裏切りながら、ドラマは実にテンポよく進む。
あっと驚くような展開を随所に挟み込みながらの、演出手腕は大したものだ。
しかも、皮肉と風刺をたっぷり効かせながら、思う存分楽しませてくれる。
実行犯はともかく、真犯人は何故ここまでやらなければならなかったのか。
肝心の動機は、財産相続をめぐる争いにあったようだが、詳しくは触れていない。
しかし、このドラマの恐怖に笑いも交えた、切れ味鋭いスリルとサスペンスは満点に近い。
観客は、最終最後まではらはらどきどきの連続でテンポもよく、気を抜く間もない。
アダム・ウィンガード監督によるアメリカ映画「サプライズ」は、迫真の恐怖に満ちたスリラー映画だ。
最後まで楽しめる、十分見応えのある一作だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
2011年3月11日14時18分、東日本大震災は起きた。
その被災地である宮城県南三陸町出身の男女を主人公に、大震災を挟んだそれぞれの人生の断面を、長編第5作目になる奥田瑛二監督が映像化した。
奥田監督は、「長い散歩」でモントリオール世界映画祭のグランプリを受賞し、前作「風の外側」から5年目の作品になる。
震災被災地である故郷に帰ることのできない、許されない青春の断面は、心まで冷え切った若者たちの姿を情感を込めて綴ったものだ。
切なさを超えて生きるとは、どういうことだろうか。
ある日、夫が病に倒れ、保険外交員をしていた今日子(安藤サクラ)は、営業成績不振から顧客に体を許し、それが家族に知れて家を追い出された。
今は、東京の街中で自分の前に現れた男(和田聰宏)と同居を始め、体を売る仕事をしている。
男は今日子の心の隙間に寄生し、次第に寄り添い始める。
一方、大学進学を目指して浪人生活を送っていた、南三陸町の修一(柄本佑)は暴力的な父から母を守ろうとして事件を起こし、少年刑務所に服役した。
出所後彼は、東京の小さな町工場に住み込みで勤務し、新たな生活を始めようとしていた。
そこで修一は、自分と同じように、悲しく辛い過去を持つピアニストの友人(和音匠)や、彼を支える少女(小篠恵奈)と出会う・・・。
この作品、いまの閉塞感の漂う日本を憂える意欲的なドラマである。
奥田監督ならではの野心作だ。
同居中の男に言われるがままの生活を送るしかない今日子を演じる安藤サクラと、町工場で働く青年役の柄本佑は実生活では夫婦だし、その二人がこの作品で初共演し(実際は別演だが)、劇中ではほとんど交わることのない他人を演じることで、何か、より観客に訴えかける映画に仕上がっているようだ。
修一を支えていく少女役の小篠恵奈も好演だし、何と作家の高橋源一郎までが出演しているのには驚いた。
この映画は、今日子の物語ともうひとつの修一の物語で、二人はすれ違うだけの物語だ。
物語は平行して描かれるが、二人が登場する最終場面、ラーメン食堂のシーンでも彼らは目を合わせることもない。
冒頭からラストまで関わりはなく、観ている側はまたちょっと焦れったいような・・・。
それぞれが震災前と震災後の人生を語っていくことで、ドラマに広がりを持たせている。
大震災のあとさき、その中にいる人、外にいる人、誰もが悲しみを共有し、切なさを超えて生きていこうとしている。
とても寡黙な物語である。
奥田監督は震災直後に現地を訪れ、「これは撮らねばならない」との思いをあらたに、2012年2月から南三陸町のシーンの撮影を開始した。
東日本大震災で南三陸町は壊滅的な被害を受けたが、修一も今日子も故郷には戻らない。
行方不明の母を探さないことに決めた修一は、大学受験の道を選択し、一方震災をきっかけに予想外の形で不幸な同棲生活を終わらせた今日子も、東京での今後の生き方を模索する。
そうした二人のドラマに、家庭内暴力やいじめ、セクハラといった社会問題を詰め込んで、何か詰め込みすぎかとも思われるが、二人のそれぞれの人生に一抹の希望を暗示させるドラマだ。
奥田監督の思惑通り、社会の病巣を捉えることが出来たかどうかはともかく、過去を振り切った修一と泥沼の同棲生活から抜け出せない今日子の人生には、どうしようもない切なさが漂っていたが・・・。
震災で変わる、ある男女の人生の軌跡を描いて、この奥田監督の「今日子と修一の場合」は、妙味あるヒューマンドラマとなった。
それにしても、やたらと目についたラーメンをすするシーンの何と多いことか。
悲しく辛いときのラーメン、それも支那そばといった方が似合いそうなインスタントでも、人を慰める力でもあるのかしらと・・・。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
テレビドラマ化された伊吹有喜の人気小説を、「ふがいない僕は空を見た」(2012年)のタナダユキ監督が映画化した。
娘と父という、人間同士の絆の大切さを描いたヒューマンドラマだ。
この作品では、新しい形の家族愛を呈示しながら、それぞれの登場人物の思いや葛藤を、抑制のきいた演出と音楽でスクリーンに綴っている。
人々の善意が通じる、温かいドラマである。
大切な人々との永遠の別れを描きながら、それを切なく悲しい物語にするのではなく、どこかユーモラスで、幸せのありかたとは何だろうかと思わせるような、人と人のつながりの重さが、あらためて問われる作品だ。
笑いと涙が、心にしみるような・・・。
誰の人生にも、大切な家族との永遠の別れがある。
熱田家の母・乙美(執行佐智子)は、あまりにも突然逝ってしまった。
夫の良平(石橋蓮司)はどうしていいかわからず、途方に暮れた。
悩める娘百合子(永作博美)は、女として聴きたいことがいっぱいあったのだが、母はもういない。
彼女は、夫浩之(原田泰造)との離婚を決意して、実家に戻って来ていた。
そんな折り、熱田家に派手な服装をした少女イモ(二階堂ふみ)と、日系ブラジル人青年ハル(岡田将生)が現れる。
生前乙美に頼まれ、残された家族の面倒を見に来たというイモは、乙美が、とある「レシピ」を書き残していたことを伝える。
それは、自分がいなくなっても、残された家族がちゃんと暮らしていけるようにと、料理や掃除など日々の暮らしにまつわる知恵や、健康や美容に関するアドバイスが、楽しいイラスト付きで書かれた“暮らしのレシピカード”だった。
父と娘はそのレシピに従って、少しずつ暮らしの立て直しを始める。
その中の1ページに、「自分の四十九日には大宴会をして欲しい」という、生前の乙美の希望が書かれてあった。
イモとハルに背中を押されて、父と娘はそのレシピにいざなわれ、奇妙な共同生活の中で、“大宴会”の準備にととりかかるのだった・・・。
ドラマでは、生前の乙美を慕う人たちが現われ、次第に賑やかとなり、最後は本当に大宴会で盛り上がる。
そこに、登場人物たちのそれぞれの陰影が描かれ、レシピを人生の処方箋に重ね、それぞれが明日への希望を見つけていく。
継母への複雑な思いを、永作博美が細やかに好演している。
頑固で口下手で不器用だけれど、気持ちだけは熱い父親役の石橋蓮司も・・・。
四十九日の大宴会を開く疑似家族が、人々に示す善意がじんわりと伝わってくる。
タナダユキ監督の映画「四十九日のレシピ」は、何でもない毎日の雑事を、心を込めて母親が家族に遺した“レシピ”にささやかで大きな愛を託して、作品の出来上がりは悪くない。
故人を見送る、四十九日の悲しいイメージとは裏腹に、くすっと笑いを誘うようなところがいい。
女性が心の底に持つ、結構どっしりとした包容力のようなものも伝わってくるが、エピソードに込められた感傷は涙を誘う演出か。
小品ながら、鑑賞後の余韻は清々しい。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
恐怖の報復が破滅を呼ぶ。
謎と驚きの中で、ただならぬ殺害と官能の匂い立つヴィジュアル・ワールドを、最後まで飽きさせずに見せる。
観客を大胆に挑発するハリウッド・エンターテインメントは、このドラマの中にいくつもの驚愕の瞬間を仕掛けているのだ。
女の魔性と純真、男の切なさと愚かさ、異色のキャラクターがこのドラマをどこまでスリリングにに展開させるか。
リドリー・スコット監督による、アメリカ映画である。
青年弁護士カウンセラー(マイケル・ファスベンダー)は、恋人ローラとの結婚を決意し、人生の絶頂を迎えようとしていた。
一方で、友人の実業家ライナー(ハビエル・バルデム)とともに、危険なビジネスを始める。
カウンセラーとライナーのビジネスには、裏社会のブローカー、ウェストリー(ブラッド・ピット)も一枚噛んでいた。
ウェストリーはカウンセラーに、取引相手であるメキシコ人組織の恐ろしさについて語り聞かせていた。
ライナーは派手好きな男で、自分の豪邸に、謎めいた妖艶な美女マルキナ(キャメロン・ディアス)を、愛人として住まわせていた。
ビジネスというのは、メキシコ国境地帯での麻薬密輸だったが、金欲しさにこのビジネスに手を染めたカウンセラーの周りには、大物ディーラーや胡散臭いコーディネーターといった曲者連中が集まってきて、密輸の企てにトラブルが発生する。
そして、輝かしい未来を夢見たセレブリティたちを、否応なく危険な事態に巻き込み、彼らの虚飾に満ちた日常を揺るがしていく。
しかし彼らは、自分たちがこの世の闇に渦巻く「悪の法則」に魅入られ、もはや逃れようのない戦慄の罠に絡め取られてしまったことに、気づいていなかった・・・。
下手に欲を出したために、美男美女たちが、巨大な悪の罠にはめられてしまうという、怖い、陰惨なお話である。
危ういまでにスキャンダラスに、息詰まる心理サスペンスが、眩い陽射しと漆黒の闇が鮮烈なコントラストをなす、アメリカ南西部を舞台に繰り広げられる。
センセーショナルな謎と驚きに満ちたドラマだ。
登場人物たちの偶然と運命、罪と罰、そして生と死が濃密なスリルとともに交錯する。
アーティスティックに研ぎ澄まされた、映像もいい。
さあ、黒幕は一体誰なのか。
最後に明かされる、あまりにも衝撃的な真実に触れたとき、抗うすべのない者は、その罠に囚われの身となってしまうのだ。
アメリカは都市伝説の本場だそうだ。
カウンセラーに降りかかる報復は、身に覚えのない事件からのそれで、闇の組織から何も知らされず、何の釈明も認められない。
周囲の人間が、一人また一人と消されてゆく。
やがて、最愛の恋人までも・・・。
これらは、ひょっとして日常の世界と隣り合わせではないか。
キャメロン・ディアスは全身に豹柄のタトゥーをまとって、美しい猛獣をペットにしている。
異様な妖艶さと底知れなさも、この映画を、一種奇怪なものに見せている。
描写、展開は強烈で、ラストの衝撃的結末まで、スリルたっぷり一気である。
生と死が交錯し、出来心から裏ビジネスにのめりこんだばかりに、逃れることのできない罠に嵌まりこむ、クライム・サスペンスと言おうか。
コーマック・マッカーシーの、オリジナル・サスペンスドラマの脚本は非常によくできており、格調い台詞を次から次へと繰り出し、文句のつけようのない出来はさすがある。
それに、錚錚たる俳優陣の登場だけでも、一見の価値はありそうだ。
リドリー・スコット監督のアメリカ映画「悪の法則」は、、観客を挑発するかのように、人間の闇をえぐって見飽きない一作である。
ただし、よく出来ているようでも、部分的に描写不足の場面もないわけではなく、あっけないラストなど気になるところだ。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
美しさは、時としてぞっとするような怖ろしさに通じる。
この人は誰なのか。何が起きたのか。
それは何故、どうして?
人気の推理作家、今邑彩の原作を得て、古澤健監督は戦慄の物語をスクリーンに解き放った。
表なのか。裏なのか。
本音か。虚言なのか。
恐怖におののく者と恐怖を仕掛ける者、二人の女優の美しい微笑が恐怖の微笑みに変わる瞬間、背筋が凍りつくようだ。
美しさの陰に潜む、人間の本質をえぐりだし、深層心理を炙り出すドラマだ。
いやはや、女優たちのバトルとも思える、火花を散らす競演が見ものである。
突然の交通事故に遭った派遣社員の萩尾春海(北川景子)は、入院先で看護師の西村麗子(深田恭子)と知り合い、意気投合した。
二人は、春海の退院後ルームシェアをして共同生活を始めた。
面倒見のいい麗子は、春海に代わって事故を起こした加害者の工藤謙介(高良健吾)と、彼の友人で保険会社に勤める長谷川伸一(尾上寛之)との交渉も引き受ける。
そんな麗子の優しさにすっかり気を許す春海だったが、彼女は一人きりなのに誰かと会話していたり、会話の途中でいきなり口調が変わったり、次第に麗子の奇怪な行動が目につくようになる。
そんな麗子の変化に対する春海の思いは、周辺で次々と起こる不可解な事件とともに、やがて、大きな恐怖のどん底へと突き落とされるのだった。
そして、すべての真実が明らかになったとき、春海は想像すらできない驚愕の事実を知ることになる・・・。
知り合ったばかりの他人に、簡単に気を許してしまった結果、悲劇は起こる。
ストーリーや人物は、このドラマでは複雑に分裂と結合を繰り返し、見る者を迷宮へと誘い込む。
日常の嘘が、どこまで本物なのか。
狂気を加速させる麗子と狂気に翻弄される春海の、北川、深田の緊張感たっぷりだ。
二人の演技は、それぞれの内面描写にまで入り込み、このドラマをサスペンスに構築している。
複雑に絡み合う人間関係を、ドラマティックにミステリアスに描くためのミラーの効果もよく考えられているし、映り込んだその先にいるのは表の顔なのか裏の顔なのか、いや自分自身なのか。
そして、麗子にはもうひとつの別人格があることが、実は徐々に明らかにされていくのだが、この謎ときには、主軸となる時間軸にフラッシュバックが入り込み、観ているものは驚きとともに納得する。
画面を真ん中で二つに切ったり、台詞や口調を変えたり、人間が別人格になったり、また元の人格に戻ったり、幻想的なセットや音響効果など、こまやかな演出にもかなり凝っていて、おやっと思うような多くの伏線が張り巡らされているのを、注意していないと見落としてしまいそうだ。
多重人格を見事に演じ分けなければならない深田恭子と、クライマックスへ向けて何もかもひっくり返すような、驚愕の真実を表現しなければならない北川景子二人の説得力ある演技は見応え十分だ。
恐怖と戦慄の物語である。
映像化には、かなりの苦労の跡もうかがわれる。
古澤健監督の作品「ルームメイト」は、どんでん返しがさらなるどんでん返しを招き、クライマックスに怖ろしいシーンが用意されているあたり、思わずえ~っ!と驚くばかりだ。
恐怖といささかの快感に、仰天の最後まで観せるサイコ・サスペンスを思わせる作品だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
* * * * 追 記 * * * * *
本欄では取り上げなかった次の2作品は、観客を動員している作品だが、個人的には感心できなかった。
◆「清須会議」 (★★☆☆☆)
喜劇調群像劇だが、オールスターキャストで大胆解釈はともかく、面白く見せようとする、あざとくも作為的(?)で生真面目な三谷ワールドで・・・。
見かけ勇ましいだけで、メリハリもなく、だらだらと時間だけが長かった。
期待外れの残念な一作。
◆「くじけないで」 (★★☆☆☆)
詩の中に詠まれているいくつかのエピソードの物語性も弱く、物足りないし、所詮このような詩の映像化自体、いかに難しいかということ。
とても良い詩だが、「映画」としては全く未熟で、退屈の極みこの上なしというところ。
期待外れの残念な一作。
女性になりたい男性とその恋人の、10年にわたる軌跡をファッショナブルに描いている。
この映画製作当時、弱冠23歳のカナダ人監督グザヴィエ・ドランが、3本目の長編として逆境の愛をちょっぴり切なく美しく綴る物語だ。
才気と感覚の光る、若き才能の作品が心を揺さぶる。
愛し合う者たちの前には、様々な高い壁が立ちはだかる。
彼らは、それをどう乗り越えるのか。
どこにも行けない“愛”に挑戦する二人の、ある特別なラブストーリーだ。
カナダ、モントリオール・・・。
国語教師で作家を目指すロランス(メルヴィル・プポー)は、美しく情熱的な女性フレッド(スザンヌ・クレマン)と恋をしていた。
ロランス35歳の誕生日に、彼はフレッドに愛を告白する。
「僕は女になりたい。この体は間違えて生まれてきてしまったんだ」
二人の愛に変わりはないのだが、フレッドにはこれまで築いてきたものが、否定されたように思えた。
しかし、ロランスを失うことを恐れたフレッドは、彼を受け止めようとし、彼がメイクから服装まで女装する手助けまでする。
モントリオールの田舎町で、二人は好奇の目にさらされ、生活するのに困難が付きまとうようになり、どんどん鬱状態に落ちていく・・・。
物語が始まって10年後、作家となったロランスが取材に答えて、フレッドのことを回想する形でドラマは展開する。
記憶の中には、幻想もある。
二人の間には、様々な葛藤があり、その思いは映画や音楽、美術、衣装で表現される。
しかし、自分の愛する男性が派手な女装をして、日々生活するとなると実際大変だ。
外見は女になっても、フレッドにとって愛する男性に変わりはないのだが・・・。
ともあれ、この世にはロランスみたいな人も意外に少なくはないというから、聞いて驚く。
ここのドラマでは、ロランスの行動を理解し、支えようとするフレッドの心の揺らぎが、かなり正確に描かれている気がする。
彼女の普通の結婚、出産、家庭の営みは崩れ、ロランスとの別れの場面、再会で堕胎を告白する場面、しかも肉体的には性転換などなく、立派な男であり女である二人の生き方に対する執着の様は、あるがままに映し出されている。
この辺りは、男の身勝手があるようで少し理解に苦しむところだ。
ロランスの母親ジュリエンヌ(ナタリー・バイ)は、真の人生を求める息子を愛情を持って見守っており、ここでは辛辣な場面も描かれているが、存在感はたっぷりだ。
フランス・カナダ合作映画「わたしはロランス」は、愛する歓び、自分らしく生きることの心地よさを、いささか大げさな仕掛けで描いている。
強い風の吹く中で踏み出す、一歩を映し出すラストシーンがいい。
美しい痛みを持った、それでいてゴージャスさ溢れる佳作である。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
フィルム・ノワールの色濃い、ドラマティックなちょっとしたクライム・サスペンスである。
それは、人生の成功を手に入れるまであと10日のことであった。
カトリーヌ・コルシニ監督のフランス映画だ。
この映画、「アラン・ドロンの再来」とまで母国フランスでメディアが大絶賛する、主演のラファエル・ペルソナーズに注目だ。
それほどよく似ている。
この2013年だけでも、6作もの主演作品が公開予定なのだそうだ。
そのペルソナーズが、あの「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンを髣髴とさせる、美しき犯罪者を演じる。
完璧な人生だった、あのときまでは・・・。
しかし、災厄というものは、いつだって何の予兆もなく、突然降りかかるものだ。
この映画のように・・・。
自動車ディーラーに勤務するアル(ラファエル・ペルソナーズ)は、一修理工から地道な積み重ねで出世し、ついに社長令嬢との結婚を10日後に控えていた。
だが、深夜のパーティーで羽目を外して、パリの街角で運転中に男を轢いてしまった。
呆然となって車を降りたアルだったが、仲間に促されるまま逃走する。
その一部始終を、アパルトマンのバルコニーから偶然見ていたのが、医者志望のジュリエット(クロチルド・エム)だった。
救急車を呼んで被害者を助けたジュリエットは、翌日病院を訪れ、昏睡状態で眠っている男の妻ヴェラ(アルタ・ドブロシ)と出会う。
ヴェラとその夫は、貧困にあえぐモルドヴァからの移民で、不法労働者だった。
一方、罪の意識と闘いながら出社したアルは、新聞で目撃者がいると知って動揺する。
被害者の容体を確かめに病院へ行き、昏睡する男を見て愕然とする。
この時、病院で、事故現場から去った黒い影に似たアルを見たジュリエットは、昨夜の犯人だと確信し、ヴェラには内緒でアルの居所を突き止めるべく尾行する・・・。
将来を約束されていた犯罪者と、目撃者の女と、犯罪者の妻、三人の運命が交錯する。
アルは、結婚をまじかに控えた「逆玉の輿」の男であり、事故のうしろめたさの狭間で葛藤する。
彼は周囲から孤立していき、自らの静寂な孤独と正面から向き合わなければならない。
そして、被害者はことを公にされたくはない不法入国者で、ここにこのドラマのもうひとつの悲劇がある。
フランス映画「黒いスーツを着た男」は、サスペンスフルな心理ドラマを展開する中で、罪の意識、良心の呵責、重ねた嘘、将来への不安、、モラルとは何か、命の重さ、お金の価値、人生の価値、移民というヨーロッパの抱える社会問題まで浮き彫りにされ、様々な問いを投げかける。
スリリングな緊張感が、何とも言えない。
小品ながら、物語はよく練られいる。
主人公は、微妙な心の揺れを見事に表現している。
犯すつもりのなかった罪を背負った男と、その事故に巻き込まれた二人の女と・・・。
思惑と葛藤が絡まり合って、ラストまで先の読めないドラマが展開し、スクリーンから全く目が離せない。
二人の女性の演技もさることながら、短いながらあくまでも映画的に練られた作品として、見ごたえ十分だ。
フランスの実力派監督カトリーヌ・コルシニ、日本初上陸の美形の新星ペルソナーズともども、フランス映画健在を目の当たりに見せてくれる。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
・・・これは虚構なのか、現実なのか。
本国フランスで、120万人を動員したヒット作品だすだ。
トロント国際映画祭批評家連盟賞、サンセバスチャン国際映画祭では最高賞の作品賞、脚本賞をW受賞し、国際的な評価が高まっている。
フランソワ・オゾン監督の、いかにもフランス映画である。
ストーリーは、ちょっとした官能とユーモアに満ちた、高校の国技教師と教え子の関係性をめぐる、サスペンスをはらんだ緻密な人間ドラマだ。
フランソワ・オゾン監督の仕掛ける、妖しくスリリングな駆け引きは、心理戦の緊張を高めつつ、やがて、常識と想像をはるかに超えた結末へと導いていく・・・。
作家になる夢をあきらめて、高校の国語教師ジェルマン(ファブリス・ルキーニ)は、画廊で働く妻のジャンヌ(クリステン・スコット・トーマス)と二人暮らしだ。
ジェルマンは、凡庸な作文の添削にうんざりした退屈な日々を送っていた。
ところが、新学期を迎えたばかりのある日、生徒クロード(エルンスト・ウンハウワー)の書いた作文に心をつかまれる。
それは、クラスメイトとその家族を皮肉たっぷりのトーンで描写したものだったが、ジェルマンは、人間観察の才能を感じ取り、クロードに小説の書き方を個人指導していく。
ジェルマンの手ほどきを受けて、クロードは眠っていた自分の才能を開花させる。
彼はクラスメイトの家の中を覗き見し、美しい母親を‘観察’し、次々と彼流の‘新作’をジェルマンに提出してくる。
もとはといえば、数学を教えるという口実で、新しい級友の家庭に入り込み、彼の母親(エマニュエル・セリエ)の魅力に取りつかれた高校生だ。
その彼が課題で綴る刺激的な小説世界、教師と生徒との微妙な関係、そしてさらに、それらを映画という虚構の中に描くから、まるで芸術の迷宮に潜り込んでしまったような感覚にとらわれる。
ジェルマンは次第に、クロードの紡ぎだす物語に絡められ、次から次へと続編を求めるようになり、とうとう現実の歯車が狂い始める・・・。
ドラマの始まりはいたって単調だ。
物語が進んでいくうちに、観客はジェルマンとともに、クロードが紡ぎだすストーリーの中に引き込まれ、いつしか現実とフィクションの間にある混乱に取り込まれていく。
それは、魅力的な文学と出会ったとき、ページをめくる手が止まらなくなるのと同じだ。
物語はミステリアスな展開を繰り返しながら、特訓するジェルマンに触発されて、クロードの現実と虚構の世界は境界線を越え、「危険なプロット」へと進む。
どこまでも冷静な語り口で、緻密な脚本は上質な匂いを放ち、ちょっぴり魅力的な風刺劇の様相とオゾンの遊び心が融合して・・・。
夢のシーンがあり、現実のシーンがあり、虚構のシーンがある。
そして、現実と想像が最後に混ざり合ってひとつになる。
どこが現実で、どこが嘘なのか。
見分けがつかないのである。
フランソワ・オゾン監督のオゾン流風刺劇「危険なプロット」は、上質なユーモアを含んで、皮肉たっぷりの知的サスペンスを散りばめた小品だ。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木陰に身を横たえていたものだった・・・。 ( 堀辰雄 / 「風立ちぬ」 )
堀辰雄没後60年を記念し、鎌倉文学館で11月24日(日)まで特別展を開催している。
鎌倉の地は、作家堀辰雄が新婚生活を送り、ココで小説「菜穂子」を構想した。
鎌倉では初めての開催で、展覧会は二部構成で、彼の文学に重要な資料を紹介している。
第一部では、「東京に生まれ、軽井沢を愛し、追分に死す」と題し、堀辰雄の生涯をたどっている。
ここでは、現行、書簡、著書で人生を紹介し、愛蔵のレコード音楽も流れている。
第二部では、「生と死と愛と」と題し、「風立ちぬ」「菜穂子」など代表作を中心に、彼の作品世界を紹介している。
「風立ちぬ」は、結核で亡くなった婚約者の矢野綾子をモデルにして書かれたもので、「菜穂子」の覚書の原形や創作ノート、書簡を展示している。
矢野綾子の油彩画「赤い屋根の家」は、彼女がこの絵を描いていたことから、「風立ちぬ」を書き始めるきっかけとなったのだった。
「『菜穂子』覚書」の原稿などは、初展示のものだそうだ。
彼の小説は、どれもみずみずしい清冽な文章で書かれていて、胸にしみいるような印象がいまの時代にも生きている気がする。
そういう意味では、フランス文学などの影響を受けた、極めて稀有な作家の一人ではなかろうか。
・・・展示では他にも、養父の上條松吉あての、宿代の無心を請う自筆のハガキなども目についた。
同時代に鎌倉に住んだ、神西清、深田久弥、川端康成、永井龍雄らの名前も見える。
ミニ展覧会ながら、貴重な資料が展示されている。
文学館庭園の薔薇も、まだ楽しめる。
軽井沢追分には、堀辰雄が晩年多恵夫人と暮らした家が、堀辰雄記念館として残っている。
かれこれ20年ぐらい前だろうか、記念館を訪れたときに、穏やかな笑顔で、生前の堀辰雄のことを語ってくれた夫人も、いまは故人となってしまった。