徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「ジョルダーニ家の人々」―家族の離別と再生を通して描くイタリア大河ドラマ!―

2012-10-29 16:00:00 | 映画


 まさに、大作を読む悦びを満喫できる。
 何と何と、上映時間6時間39分の大作(!)である。
 家族ひとりひとりに起きる出来事に、悩みと喜びを共にして・・・。
 混迷を深める現代、イタリアに暮らすある家族の、それぞれの葛藤、愛と諍い、別れと出逢いを、これほど丹念に紡ぎだした作品はあまりない。

 ジャンルカ・マリア・タヴァレッリ監督による、贅沢な時間を楽しむことになる。
 脚本サンドロ・ペトラリア、ステファノ・ルッリは、日本でも2005年公開の「輝ける青春」で熱い支持を集めたし、「湖のほとりで」などの作品もまだ記憶に新しい。
 「輝ける青春」に続く、家族を描いた三部作の、本作は最終章になるのだそうだ。
 揺れ動く時代のイタリアの、「今」を紡ぎだすこの長大なドラマを、一気に鑑賞する!






      
ローマに暮らすジョルダーニ一家は、周りからは裕福で何不自由のない、幸せな家族に見えた。

技術者の父ピエトロ(エンニオ・ファンタスティキーニ)は一家を養い、元医師の母アニタ(ダニエラ・ジョルダーノ)は子育てのために仕事を辞め、心優しい長男アンドレア(クラウディオ・サンタマリア)は外務省に勤め、世界中を回っていた。
心理学者でしっかり者の長女ノラ(パオラ・コルテッレージ)は、結婚して独立し、待望の第一子を妊娠中だ。
そして、才能豊かな次男ニーノ(ロレンツォ・バルドゥッチ)は、大学で建築を学び、家族の愛を一身に浴びる三男ロレンツォ(アレッサンドロ・スペルドゥティ)は、高校生活を精いっぱい謳歌していた。

・・・だが、それぞれが心に秘めていた問題が、ロレンツォの突然の事故死をきっかけに露呈していくことになる。
母アニタは、精神のバランスを崩して入院し、実は不倫していた父ピエトロは、イランでの仕事を理由に愛人と別れて逃げるように家を出て行った。
子供たちも、それぞれが様々な困難と向き合うことになり、その過程で、境遇も考え方も全く異なる人々と出会うことになる。
行方の分からない娘アリナ(レイラ・ベクチ)を捜しに来た、不法移民も女性シャーバ(ファリダ・ラウアッジ)過去の秘密を抱えた不治の病のフランス人ミシェル(ティエリー・ヌービック)、戦場で婚約者の記憶を失った大尉ヴィットリオ・ブラージ(エンリコ・ロッカフォルテ)ら・・・。
彼らは、空き家同然となっていたジョルダーニの家に集い、そこで新たな絆を結び始めるのであった。

一本の川は、いつか大河の流れとなるように、父と母、アンドレア、ニーノ、ノラ、それぞれの運命と人生は再び織り合わされ、血のつながりや民族を超えて、より大きな家族をなしてゆく。
彼らの葛藤、確執、愛と諍い、別れと出逢いを紡いで、この深く長大な時の流れは、揺れ動く時代を見つめ、人間性の豊かさと、姿を変えつつも家族の持つ普遍性を確認し合うのだ。
それこそは、離別であろうと再生であろうと、決して変わることのない、人と人との絆だ。

登場人物が、さすがに多い。
そのひとりひとりに過去があり、現在があり、まだ見ぬ未来がある。
しかも、彼らは誰もが悩み、悲しみ、生きている。
ひとりの人生だけでも、一編のドラマとなりうるエピソードが登場人物の誰にもあって、ドラマとしての膨らみは壮大なものとなる。
それらの不必要な(?)部分を、極限にまで削ぎ落としても、なおこのドラマは6時間39分なのである。
演技陣がそろっていてみんな好演だが、ドラマの中で、シャーバの娘アニタを演じたダニエラ・ジョルダーノや、ノラの役を演じたパオラ・コルテッレージなどよかった。

あれもこれもと、かなり欲張った作品だから、そのひとつひとつのドラマの成り行きの見えないものもあるし、たとえば一家の長たる父ピエトロにしても家を出て行って何をしていたのか、一度帰国してかつての家族と再会し、顔を揃えるが、またすぐに何処かへ去っていくといった具合で、過去に何があって、いままで何をしていたかといったようなことが、明らかにされていない。
だから、ジャンルカ・マリア・タヴァッレリ監督のこの壮大なイタリア映画「ジョルダーニ家の人々」は、大長編ドラマだけに難点も全くないというわけではない。
それでも脚本はよく練られているほうだし、映画はよくできていて、最近のイタリア映画の傑作といってもいい。
こんな長篇ドラマは、滅多にお目にかかれない。
朝から夕方まで、鑑賞は長丁場にわたるから、途中四回のインターミッションがある。
見応えは確かな作品だし、かなり疲れるが、まず失望するようなことはない。
大いに価値ある、6時間39分だ。
許されるなら、これぞ必見の映画だ!

     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「希望の国」―苦悩と絶望の果てに見えてくるものは何か―

2012-10-25 16:00:00 | 映画


 そうだった。
 あの日が来るまでは、ささやかながら満ち足りた普通の生活があった。
 しかし、突然訪れた不安、痛み、苦しみ、そして別れ・・・。
 これは、悲しみと怒りと苦悶の中で、必死に生きようとする、どこにでもいる家族の物語だ。

 マーラーの交響曲第10番第一楽章「アダージョ」の調べとともに、静謐で美しい映像がとらえるものは何か。
 それは、誰もが予想だにしなかった、未曾有の事態に巻き込まれた人々の、必死で生きようとする姿だった。
 絶望の中でも、人々は光を見出すことができるのだろうか。
 「冷たい熱帯魚」「ヒミズ」園子温監督は、激しく力強い筆致で問いかける。
 全篇にあふれる詩情の中に、 果たして「希望の国」は見えるのか。




      
東日本大震災から数年が経った20××年・・・。

ここは日本の架空の街、長島県大原町である。
のどかで美しい風景だ。
そこで酪農を営む小野泰彦(夏八木勲)は、妻・智恵子(大谷直子)と息子の洋一(村上淳、その妻・いずみ(神楽坂恵)と、満ち足りた日々を過ごしていた。


だが、新たに起きた大震災で、大津波が人、家、原子力発電所を飲み込んでいく。

長島県東方沖を襲った、マグニチュード8.3の地震とそれに続く原発事故は、人々の生活を一変させた。
原発から半径20キロ圏内が警戒区域に指定される中、強制的に家を追われる隣の鈴木家と、道路ひとつ隔てた避難区域外となる小野家・・・。
泰彦は、かつてこの地で起きた、未曽有の事態を忘れてはいなかった。

泰彦は、国家はあてにならないといい、自主的に洋一夫婦を避難させ、自らはそこにとどまる道を選ぶ。
一方、妊娠が解ったいずみは、我が子を守りたい一心から、放射能への恐怖を募らせていく。
「これは見えない戦争だ」

その頃、避難所で暮らすようになった、鈴木家の息子・ミツル(鈴木優)と恋人のヨーコ(梶原ひかり)は、消息のつかめないヨーコの家族を捜して、瓦礫に埋もれた海沿いの町を一歩一歩と歩き続けていた。

やがて、原発は制御不能におちいり、最悪の事態となる。
終わりなき絶望と不安の先に、果たして希望の未来はあるのだろうか・・・。

東日本大震災直後に撮影された、前作「ヒミズ」「3.11」以後の希望を謳い上げた園子温監督が、あの日から1年以上を経たいま、この映画「希望の国」で暴き出すのは、震災後の日本が直面した過酷な現実だ。
実際に被災地で取材を重ね、そこで見聞した事実をもとにこの物語は綴られる。
ドラマはフィクションでありながら、未曽有の事態に巻き込まれた人々の生活を、情感を持って克明に抉り出すのだ。
作品は、社会を鋭く切り取ることによって、そこの暮らす人々の生や尊厳を鮮やかに描写している。
多くのメディアが報じながら、実際には伝えきれなかった人間の心に迫る、優れた社会派ドラマが誕生した。
もっとも、園子温監督は、結果的にそうなっても、はじめから社会派のドラマを作ろうと思っていたわけではない。

大津波、原発事故後の、荒廃した町に漂う詩情の、言いようのない悲しさ・・・。
そこで、三組の男女がたどる「絶望」「共生」「希望」は、きわめて刺激的である。
この映画「希望の国」のラストは、とても印象的だ。
洋一といずみは少しでも遠くへ遠くへと車を走らせている。しかし、それでもガイガーカウンターはけたたましく反応していた。
ミツルとヨーコは、ただひたすらに、前へ前へと歩み続けていた。一歩、二歩ではなくて、一歩、一歩と・・・。
そして、とうとう泰彦たちのもとへ避難命令が届けられたとき、「お父ちゃん、帰ろうよ」と繰り返す智恵子に、「そうだな、帰ろうか」と泰彦は応える。
彼は、牛舎にいる牛を自ら猟銃で処分したのち、「ずっと一緒にいような。愛してるよ」と告げ、智恵子と口づけを交わす。
そしてその直後、周囲に銃声が響き渡った・・・。

鬼才園子温監督は、地震、津波、人間や動物たちの死といった場面の描写をあえて避け、あくまでも人間の感情と行動を深く見据えた。
日本の未来を見つめて、ドラマで語られる台詞のように「愛さえあれば大丈夫」だろうか。
「それでも、世界は美しい」だろうか。
まことに重い映画である。
でも、目を離すことはできない。
この世は、無常である。
いま、この世では、こんな書き出しで始まる古典が見直されている。
・・・ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。(鴨長明)
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「籠の中の乙女」―妄想と狂気の自虐的なある一家の運命―

2012-10-23 18:00:00 | 映画


 家族の絆を、誰にも壊されたくない。
 それが昂じるとどうなるか。
 このドラマで描かれるのは、父親の「妄執」だ。
 名前もない子供たちは、その閉鎖的な家庭で育った。
 一家の運命は、やがていやが上にも狂い始める・・・。

 ヨルゴス・ランティモス監督の、珍しいギリシャ語によるギリシャ映画である
 ある裕福な家族の奇妙な生活は、破綻に向かっていく。
 この不条理きわまりないドラマは、アート・サスペンスとも言えそうだが、前衛的で‘偏屈な’猛毒を含んだホームドラマのようだ。
 鑑賞の後味がよいとは思えぬ、代物だ。
 異色作には違いないが、常識論では理解の難しい作品だ。






     
ギリシャ郊外にある、ある裕福な家庭・・・。
一見普通に見えるこの家で、成長した息子一人(クリストス・パサりス)、娘二人(アンゲリキ・パプーリァ、マリア・ツォニ)を持つ両親が、子供たちを家の外には、一歩も出させずに育てている。
その上、この家には世間に通用しない奇妙なルールがある。

そのルールを、いかにも健全であるかのように、父(クリストス・ステルギオグル)と母(ミシェル・ヴァレイ)が、子供たちに厳格に教えているのだ。
だが、そんなことが健全であるはずがない。そこには、正常なものは働いていない。
たとえば、邸宅の四方に高い塀をめぐらせ、子供たちには「外の世界は恐ろしいところ」だと、徹底して信じ込ませているのだ。

一家の生活は、全く普通のものとは言えなかった。
それでも、子供たちは純粋培養の中で、すくすくと成長し、幸せで平穏な日々が続いていくかのように思われた。
しかし、ある日、父親が年頃の長男のために、外の世界から、クリスティーナ(アンナ・カレジドゥ)という女性を連れてくる。
彼女の登場によって、この時から子供たちの心に、思いもかけぬさざ波を起こしていくのだった・・・・。

父親の「妄執」により、振り回される子供たちの生活を描きながら、人間の怖さやエゴイズム、微細でも極限に迫る心理描写は、狂い始める一家の運命を綴って空恐ろしく(!)さえある。
この作品には、かなり無理もある。
全体の描写が粗っぽく、かなり独りよがりだし、ドラマの展開や場面の転換にも一工夫あってしかるべきだ。
したがって、いろいろと問題点もある。
男の子の性的欲求も含めて、彼ら夫婦が、どうしてあのような子育てをしようと決意したのか。
その背景は、全く描かれていない。
一般社会と隔絶し、テレビ、ラジオ、新聞もない、友達もいない、外界と全く遮断された小さな世界・・・。
家族だけという完璧な世界で、子供たちが大きくなるにつれて、ともに不都合な状況が生まれてくることは当然のことだ。

このヨルコス・ランティモス監督ギリシャ映画「籠の中の乙女」は、カンヌアカデミーほかの世界各地を震撼させ、それはあたかも‘現代の神話’みたいだが、ぞっとするような狂気の妄想に、逆に不快の念も禁じえない。
ドラマのラストは、悲劇の予感だ。
この作品の理解は、観客の想像に委ねられているといってもいい。
鑑賞者にもよるだろうが、体中が凍りついてしまいそうな驚愕を覚える作品だ。
昨今のギリシャ危機で、この共和国の映画人、文化人はどんどん海外に流出していく中にあって、ここに登場した新鋭ランティモス監督への期待だけは大きいようだ・・・。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「推理作家ポー 最期の5日間」―虚実を散りばめたサスペンスフルで独創性豊かな物語―

2012-10-20 20:30:00 | 映画


 エドガー・アラン・ポーは、史上初の推理作家、また天才小説家とも呼ばれる。
 この作品は、謎に満ちた彼の怪死と、彼に魅せられた小説模倣犯との、手に汗握る対決が主軸となっている。
 偉大なる作家ポーの、伝説的な要素も多々取り入れて、いまなお謎に包まれている、死の直前の5 日間を描く。

 ジェームズ・マクティーグ監督の、アメリカ映画である。
 映画はフィクションでありながら、多くの場面で実際のポーの姿を再現している。
 一般の娯楽作品としての面白さも勿論だが、より深く覗き見ると、それ以上のミステリアスな作品として成功している。
 登場人物の心の葛藤を描いていて、ドラマは、例えばポー自身の作品である「モルグ街の殺人」をはじめ、幾つかの作品に酷似していることに気づく。
 犯人探しのミステリーとして、史実とフィクションを絶妙にコラボレートさせるあたり、構成の妙である。
 登場人物の心の葛藤を描いて、脚本(ハンナ・シェイクスピア、ベン・リヴィングストン)が素晴らしく、それ自体が作品のようなのだ。
 しかも、文芸的要素までも持っていて、ドラマは、たとえばポー自身の作品である「モルグ街の殺人」をはじめ、幾つかの作品に酷似していることに気づく。
 しかし、なかなかよくできた作品だ。
      
1849年、メリーランド州の港町ボルチモア・・・。
闇夜を切り裂く悲鳴とともに、凄惨な殺人事件が発生した。
現場のアパートに急行した警官たちが目にしたのは、密室で殺害された母娘の死体だった。
母親は首を切断され、娘は絞殺されて、暖炉の煙突の中に逆さ吊りにされていた。
事件を捜査したフィールズ刑事(ルーク・エヴァンス)は、事件のあった部屋で、ポーのある小説の内容とトリックと殺害方法がよく似ていることに気づいた。
それは、ポーの推理小説「モルグ街の殺人」だった。

その頃、ポー(ジョン・キューザック)は、なじみの酒場で騒ぎを起こし、店から放り出されていた。
そのまま朝を迎えポーは、恋人エミリー(アリス・イヴ)の馬車を見つけ、飛び乗るが、同乗していた彼女の父ハミルトン(ブレダン・グリーソン)に追い出されてしまう。
・・・やがて、エミリーが誘拐されるという事件が起き、犯人からポーへの挑戦状が届く。
全ての殺人現場が、エミリー救出の手がかりだというのだ。

エミリーを取り戻すため、ポーと犯人との壮絶な頭脳戦が火ぶたを切る。
ポーは、作家としての才能の限りをつくすが、命まで投げ出さなければ勝てそうにない・・・?
ポーの小説を真似るように事件を超す確信犯と、ポーの危険極まりないゲームの行方から目が離せない。

刑事フィールズ役のルーク・エヴァンスは、ひとつの謎から次の謎へと疾走し、この連続殺人事件のノンストップ・ミステリーは、ちょっとばかり観る方に知的興奮をもたらし、この種の映画を大いに贅沢な娯楽作品にしている。
全ての答えは、ポーの作品の中にありと言いたげに・・・。

1849年10月7日に、ミステリー作家エドガー・アラン・ポーは、謎めいた不可解な言葉を残してこの世を去っている。
ジェームズ・マクティーグ監督アメリカ映画推理作家ポー 最期の5日間」は、物語中盤までは次々と起きる事件とともに、ポー自身のキャラクターや彼の背景が明らかになっていくのだが、やがて緊迫感のあるラストへと一気に引き込まれていく。
そのあたりが最大の見どころだ。
ただ、ポーの作品の模倣犯というだけで、これだけの連続殺人事件の、犯行の動機がよくわからない。

主演のジョン・キューザックは作家の気難しさと、天才肌の頭脳の持ち主であるポー自身に、かなり近いのではないかとさえ思われる。
40歳の若さで早逝した、偉大な作家の作品に触れる思いで、久しぶりに、大人向けのA級サスペンス映画を楽しめた感じがする。
調べてみたら、ポー原作劇映画の日本公開作品が、何と38作もあるのだ。大したものである。
それほどに、興趣の尽きない、心理スリラーやホラー、アクションなど多彩な要素の詰まった作品が多いということだろうか。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「『わたし』の人生(みち) 我が命のタンゴ」―介護する人介護される人―

2012-10-18 22:00:00 | 映画


 いまの日本は、少子高齢化が急速に進んでいる。
 それに伴って、認知症の介護に携わる1000万人以上人々が、様々な介護の現場でこの問題と向き合っている。
 この作品、“タンゴのステップ”が、離れかけた認知症の父と娘の心を再び繋いでゆくという物語だ。
 ドラマは、実際のエピソードをもとに描かれている。
 老年精神医学を本来専門とする、精神科医の和田秀樹監督作品だ。

 あるひとつの家族を通して、現在の日本の介護社会の問題を浮き彫りにする。
 認知症の新たな緩和法として、ここではアルゼンチンタンゴの音楽療法を取り上げている。
 いわゆるタンゴの映画ではない。
 和田監督は、これからの介護のあり方に一石を投じた。
 それにしても、アルゼンチンタンゴが、認知症の患者にとって、体と脳を動かすことや気分をよくすることで、海外ではすでに「タンゴセラピー」としての高い評価を得ているとは、ちょっと驚きである。

         
百合子(秋吉久美子)は、子育てを終え、自らの長年の夢である大学教授への道を歩き始めようとしていた。

百合子の父・修治郎(橋爪功)は元大学教授で、妻の葬儀を終えたばかりで悲しみの日々を送っていた。
その修治郎が、ある日、痴漢行為で警察に保護された。
百合子は、そんな父の異変を心配して、修治郎を病院へ連れて行った。
そこで、思いがけないけない事実を知らされた。
修治郎は認知症を患っていたのだ。

周囲の不安をよそに、修治郎は万引き事件や痴漢行為など、相変わらず警察沙汰の事件を繰り返すのだった。
手に負えなくなっていく、修治郎の言動や行動に対するストレスから、家族の間には些細な衝突が増え、その関係は次第に荒んでいく。
病気への不安と、介護という現実に向き合って、離れ離れになっていく家族・・・。

折しも、亡くなった母の葬儀のために、アルゼンチンでタンゴダンサーをしている百合子の妹・実可子(冴木杏奈)が帰国していた。
そして、認知症治療にタンゴのステップが効果を発揮するという情報から、デイケアの介護施設で実可子を講師に招き、タンゴのレッスンをリハビリの一環として取り入れることになった。
修治郎もこのレッスンに参加するようになり、アルゼンチンタンゴを習い始めた。
初めは、見よう見まねで始めたタンゴだったが、ステップを踏むうちに、修治郎の表情に変化が訪れてくるのだった。
そんな父の姿を見た百合子もまた、介護によって諦めかけていた自分の夢と、再び向かい始めた。
デイサービスで出会った、仲間たちとともに・・・。

施設では、タンゴダンスパーティーも催されることが決まり、見るからに生き生きと踊る修治郎の姿が、離れゆく心をつなぐ父と娘を描いて、それは再び歓びへと変わっていく・・・。
タンゴのリズムが、人間の中枢神経によいらしいことは、知られている話だ。
この作品で扱われている「認知症」では、修治郎が急に不機嫌になって暴れたり、女性の体にしつこく触ったりする。
症状が進むととても厄介で、言い知れぬ不安や恐怖が生じ、本人はもちろん家族の怒りや悲しみも大きい。
確かに、病気や介護が無くなることはないが、ダンスの中でイメージを実現したり、鬱積した感情を吐き出したり、心が解放される場と時間が約束されるとみられている。
効果に、期待できるものがあるということだろう。

和田秀樹監督映画「『わたし』」の人生(みち) 我が命のタンゴ」は、「ダンス・セラピー」の効能まで踏み込んだドラマだ。
修治郎を演じる橋爪功が、上手い演技を見せている。
いつかわが身にもと思うと、ここで扱われる問題は決して他人ごとではない。
この作品は、認知症介護の問題をとりあげた、社会派のドラマといったらよいか。
タンゴを踊る場面での、アルゼンチンタンゴならではのバンドネオンの演奏が聴かれなかったのが淋しかったが・・・。
ここは、精神科医師の和田秀樹監督だから描けた希望のドラマで、タンゴとの出会いが父と娘を変えたように、だからといって介護の世界でこのように全てがうまくいくかどうかはわからない。
明日へ向っての、家族の絆と明るい希望を描いた小品ともいえる。
    [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「屋根裏部屋のマリアたち」―温かな笑いと優しさで綴る人生讃歌―

2012-10-16 18:00:00 | 映画


 人生も半ばを過ぎた、フランス人資産家の運命を変えた。
 それは、屋根裏部屋で暮らす、陽気で情熱的なスペイン人メイドたちだった。
 これは、そのメイドたちの作るドラマだ。
 彼女たちとの出逢いは、退屈で味気なかったモノクロームな日々を、生きる情熱と好奇心の満ちた毎日へと、鮮明に色づかせてゆく・・・。

 フィリップ・ル・ゲイ監督のこのフランス映画では、日常巻き起こるめくるめくようなときめきと、使用人であるスペイン人メイドとの‘禁断’の恋の行方までも折り込んだ。
 まるで、スペインの気風が息づいたかのような、明るいユーモアと、心あたたまるペーソスで彩りも豊かに描く、楽しい人間讃歌である。






      
1962年、パリ・・・。
株式仲買人のジャン=ルイ・ジュベール(ファブリス・ルキーニ)は、妻のシュザンヌ(サンドリーヌ・キベルラン)が雇った、スペイン人メイドのマリア(ナタリア・ヴェルベケを迎え入れる。
彼女は、ジュベール家と同じアパルトマンの屋根裏部屋で、同郷出身のメイドたちと暮らしていた。
スペイン人メイドたちは、軍事政権の支配する祖国スペインを離れ、異国フランスで懸命に働いていた。

彼女たちに、次第に共感と親しみを寄せるジャン=ルイは、その中で、やがて機知に富んだ美しいマリアに惹かれていくのだった。
しかし、そんな夫の変化に無頓着なシュザンヌは、彼と顧客の未亡人との浮気を疑い、夫を部屋から閉め出してしまった。
こうしてその夜から、ジャン=ルイは、メイドたちと同じ屋根裏でひとり暮らしを始めるのだが、そのことは、彼に今まで味わったことのない、自由な至福を満喫させることになるのだった・・・。

パリというと、屋根裏部屋が似合っている。
屋根裏部屋とくれば、女性の憧れみたいなところがある。
このドラマに登場するメイドたちは、みんないい小母さんたちで、人情にあふれている。
主役も脇役も、味のある役者がそろったし、フランスのパリも、スペインの田舎も、背景が素敵でなかなかよろしいではないか。

物語も、明るく楽しく、テンポもありで、悪いところがほとんど見当たらないのだ。
ブルジョワのご主人様ジャン=ルイは、何不自由ない暮らしで、ゆで卵の仕上がりさえパーフェクトなら、一日がハッピーだったはずだった。
その彼が、メイドたちと友達になって、しかも「真の友」を見つけ、家族と自由を知って生き生きとし始める。
地方の出身で、彼と結婚していたシュザンヌは、満たされているようで実は心は満たされていなかった。

マリアたちをはじめ、スペインのメイドたちは、仲間の幸せを自分の幸せのように喜び合い、歌って、踊って、食べて、飲んで、みんな楽しそうだ。
ドラマの終盤、ジャン=ルイに内緒でマリアがスペインへ帰国してしまったことを知って、彼は・・・?

メイドはご主人に‘仕える’という仕事をしているが、この素晴らしいオマージュが巧妙でいたずらっぽく、愉快な要素をたたえていて、とてもよいのだ。

フィリップ・ル・ゲイ監督フランス映画「屋根裏部屋のマリアたち」は、まるで、アルモドバルの映画から脱け出してきた女優たちによって作られたようなところがある。
それに、メロドラマティックなラブストーリーの要素も忘れない、詩情豊かな社会派コメディだ。
スペインの田舎の風景の中、とびきり幸せな気分になれそうなドラマのラストがいい。
小品ながら、いい作品だ。
パリでオールロケをした、どこかの国の観光案内のような映画よりは、ずっといい。
    [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「メゾン ある娼館の記憶」―華やかで切ない女の人生の儚さ―

2012-10-14 20:00:00 | 映画


 カンヌ国際映画祭を皮切りに、フランスゴールデン・グローブ賞にあたるリュミエール賞など、各種の賞レースを席巻した作品だ。
 映像は、絵画を見ているように美しい。
 作品は、娼館で働く女性の裏側を、切ないまでにあえかな美しさと哀しさで描いている。
 ベルトラン・ボネロ監督の、フランス映画である。

 20世紀初頭、まだベルエポックの華やかなりしパリで・・・。
 高級娼館‘アポロニド’の女たちは、毎夜美しく着飾り、男たちの欲望を満たしていた。
 しかし、美しく華やかな舞台裏とは裏腹に、娼館の日常は、女たちの孤独、苦悩、不安、痛みの渦巻く坩堝であった。





     
娼館一の美人といわれたマドレーヌは、客人男に騙され、顔に酷い傷を負っていた。
ジュリーは、自分の常客に本気で恋をし、いつか、彼が娼館から自分を連れ出してくれることを、固く信じていた。
レアは、ずっと若い時からもう12年間もの間この娼館で働き、先が見えないでいた。
新人のポーリーンは、美しく華かな世界へ憧れて、この娼館にやって来ていて、一番若い16歳だった。
そして、彼女たちを決して手放さない、凄腕の娼館の家主はマリー・フランスであった。
だが、娼館と女たちを取り巻く状況は、時代とともに次第に変わってゆき、‘アポロニド’はやがて閉館を余儀なくされることになるのだった・・・。

この作品には、特別なストーリーがあるわけではない。
新人、ベテラン入り乱れた高級娼婦らと、夜ごとやってくる資産家の客たち、娼館を取り仕切るマダムらの人間模様を、細やかに綴っていく群像映画だ。
出演は、ノエル・ルボフスキーアリス・バルノルセリーヌ・サレットアデル・エネルジャスミン・トリンカイリアナ・ザペットら女たちは揃って悲しいまでの官能を垣間見せる。
美しく着飾ったドレスや装身具、白い裸身と長い髪、まやかしと偽善に満ちたとりとめのない会話・・・、そんな世界をのぞき見る感じだ。
作品には、汚らわしさも、嫌らしさもない。
確かに美しいのだが、どこか背徳の悲しみと残酷な陰影に彩られた、女性たちの人生模様と生きることの哀れを描いて、ドラマはそくそくと切ない。
女たちは、みんな体を張って精いっぱい生きている。
彼女たちは、不安や苦悩をコルセットの中にとじ込めて、コロンをすり込み、酒と煙草と性で夜ごと殿方を待つのだ。

男たちからは商品としてしか扱われず、暴力や病気といった危険と常に隣り合わせの状況下で、その場所でしか生きる術のない女たちだ。
彼女たちは、すべてを諦めの気持ちで受け入れ、悲しいほど無邪気に生きている。
ドラマの半ばで、男の暴力によって、「笑う女」として生きるしかなくなったマドレーヌの運命が、とくに切ない。

ベルトラン・ボネロ監督は、クラシックの音楽家でもあり、スクリーン一杯に光と音楽を巧みに取り入れて、絵画の世界のような美しさを演出する。
映像が、芸術的だ。
20世紀初頭のパリ・・・、かつて、そこにはこうした優雅でデカダンスな娼館が間違いなくあったのだ。
娼婦たちは、娼館の中で互いに寄り添いながら、ときには少女のように明るく無邪気に戯れ、またときには悲しげな微笑を浮かべ、男性たちへの残酷な‘奉仕’を余儀なくされてきたのだった。
フランス映画メゾン ある娼館の記憶」は、そんな、儚くも過酷な運命を生きる娼婦たちを描いた群像劇だ。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「新しい靴を買わなくちゃ」―パリの街をさすらう迷子の男女の恋の始まり―

2012-10-12 22:00:00 | 映画


 フランス・パリ、エッフェル塔の下、セーヌのほとりの、おとぎ話みたいな3日間のドラマだ。
 3日間の旅で、一体何が変わるか。
 迷子となった男女が、折れたヒールに導かれて恋を紡ぐ。

 これまで数々のトレンディードラマを手掛けてきた、人気脚本家北川悦吏子監督を務める。
 日本映画としては、異例とも思われるオールパリロケを敢行した。
 パリに暮らす女性と、日本から観光で来た青年の運命がクロスする、3日間限定のときめきのラブストーリーという触れ込みだ。
 だが、そんなドラマ云々よりも、ここはパリ観光(!)に絞って楽しんだほうがいいようだ。









      
カメラマンのセン(向井理)は、妹スズメ(桐谷美玲)に付き添ってパリに着いた。
ところが、単独行動をもくろんでいたスズメに置き去りにされる。
センは、泊まるはずのホテルもわからず、落としたパスポートは踏まれて破れてしまった。
パリでフリーペーパーの編集をする、日本人女性アオイ(中山美穂)が、踏んだ靴の主だった。
パスポートを踏んでしまったために、ヒールが折れてしまったアオイの靴を、センが接着剤でなおす・・・。

そのことに感謝したアオイは、困ったときのために、センに自分の連絡先を教える。
妹と連絡の取れないセンは、仕方なくアオイに電話をかけ、その夜二人は一緒に食事をする。
話がはずんで、気分よく酔っぱらってしまったアオイを、センが自宅まで送り届ける。
結局、ホテルに戻れなくなってしまって、センがアオイの部屋に泊まってしまうことになる。

・・・こうして1日目が終わり、2日目が始まり、そしてパリでの3日目へと・・・。
その間をずっと共に過ごすことになった、センとアオイは、やがて、お互いの相手に対する想いを高めていく。
しかし、センが日本へ帰る別れの日はすぐ、確実にやって来る・・・。


赤ワインとピアノ、歯の浮くようなセリフでの二人の語らい、クロワッサンとモーニングコーヒー・・・。
朝が来て、夜が来て、また朝が訪れる・・・。
3日間の、恋の始まりだけを描く北川悦吏子の演出に、何やら期待は大きく膨らむのだが・・・。
日本のOLは、こういう作品に案外弱いかもしれない。だとしたら・・・?

北川悦吏子監督「新しい靴を買わなくちゃ」は、何のことはない、大人のラブストーリーといっても、実際は少しピュアな少女小説を読んでいるような映画だ。
次に何が起こるのかと、淡彩な期待と成り行きにはらはらさせられることはあっても、ドラマはそれ以上でも、それ以下でもない。
二人の距離は少しずつ縮まっていくようには見えるが、そこまでだ。
この作品、わざわざパリロケで撮る必要があったのだろうか。

フランス、パリ、エッフェル塔、セーヌ河とくれば、小粋なフランス映画の世界のはずである。
10年間も実際にパリで生活している中山美穂からは、そんなパリの香りも漂って来ないし、フランスなのにフランス語の響きやシャンソンのメロディもほとんど聞こえてこない。
ドラマ2日目に、アオイの友人ジョアンヌ(アマンダ・プラマー)をセンが紹介されるシーンがある。
彼女は、センにアオイの過去を話してしまう役を担っているが、このシーンがさほど必要なシーンだとは思えないし、何だかとってつけたようだし、どうにかならなかったのか。

作品自体、薄っぺらな感じで、北川監督の脚本、演出自体に格別新味といえるほどのものもない。
もっとも、大きなドラマではなく、些細なひとつひとつが積み重なって、何も起こらなくても記憶に残る、そんな作品を期待していたというのだろうか。
結局、このドラマは、これから何か新しい恋が始まるまでのプロローグでしかなく、「恋の魔法」などというキャッチフレーズは不要だ。
セーヌの流れと、夕暮れに沈むパリの街並みには救われるが・・・。
中山美穂向井理ファンは、こういう作品に胸がきゅんとなるのかも知れない。
しかしどうも、最初から、パリの観光ガイドブックを見ているような気がして・・・。
     [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★5つが最高点


「木曽路はすべて山の中である」―島崎藤村生誕140年記念展―

2012-10-10 17:00:00 | 日々彷徨

 ―木曽路はすべて山の中である―。

 言わずと知れた、文豪島崎藤村名作長編「夜明け前」の、あまりにも有名な書き出しである。
 今年は生誕140年に当たり、10月6日(土)から11月18日(日)まで、神奈川近代文学館島崎藤村展が開催され ている。
 季節よし、うららかな日差しを浴びて、秋の文学散歩というのも気持ちのよいものだ。

 今回の展観は、三部門構成だ。
 第一部では生い立ちから 「若菜集」を刊行して詩人としての名声を得てのち 「破壊」で本格的な小説家に転身する前半生を、とくに冒頭からいきなり、藤村が自らの父・正樹と家族の運命の変転を、歴史的な背景とともにたどっている。
 そして第二部では、1913年(大正2年)の渡仏から、太平洋戦争下の大磯での晩年と、1947年(昭和18年)の「東方の門」執筆途中の最期までを、こちらはエッセイなどとからめて紹介している。
 さらに第三部「藤村詩鑑賞」では、広く人口に膾炙した藤村の詩の世界を、書画、パネルなどで再現して味わえるようにしている。
 どれもこれも、懐かしくしのばれて、よくこれだけ多くの貴重な資料を揃えたものだと感じ入った次第で・・・。







圧巻はやはり「夜明け前」で、藤村が当時の時代背景とともに、足かけ7年の歳月を費やして描き出した作品で、日本近代文学を代表する長篇小説だろうか。
主人公・青山半蔵のモデルは、中山道馬籠宿で代々本陣・庄屋・問屋を務めた島崎家17代当主・正樹で、知識人、国学者として維新の夢を抱くが新政府の政策に絶望し、不遇のうちに死んだこの父の半生を、藤村は見事に描き切った。
藤村は、妻冬子との間に7人の子をもうけたが、最初の3人の女子は夭折し、冬子自身も四女を出産したのち32歳の若さで急逝した。
この頃が、藤村にとって、実に痛ましい悲運に見舞われた時期であった。
この時の藤村はまだ38歳、これからという時であった。

とてもよくまとまった藤村展で、改めてこの偉大な作家の足跡をしのぶことができる。
学生時代に読んだ小説や詩など、想い出深いものがある。
あれはいつのことであったか、信州小諸の懐古園を訪れたときの「千曲川旅情の歌」の一節や、藤村生誕の地・馬籠の藤村記念館を訪れたときには、あの「初恋」の一節が口を突いて出たものだった。

      まだあげ初めし前髪の
     林檎のもとに見えしとき
     前にさしたる花櫛の
     花ある君と思ひけり    (島崎藤村)

展示の中には、「破壊」の原稿(清書原稿)もあって、これなども素晴らしい資料だ。
夏目漱石が、この作品を絶賛している森田草平宛ての手紙なども・・・。
藤村は平素から「簡素」を信条としていて、自筆の書「簡素」も実に要を得て簡素だし、晩年71歳で亡くなるまでの大磯の住居も、地福寺の墓所もつましく質素なものだ。
藤村の人となりをうかがわせて、興味深い。

神奈川近代文学館では本展期間中、各種の講演(堀江敏幸氏)講座(十川信介氏ほか)朗読会(「ある女の生涯」藤村志保)など、関連行事や催しも賑やかである。
文芸映画を観る会(TEL090-8174-7791)では、10月13日(土)14日(日)には映画「夜明け前」(名匠吉村公三郎監督作品、出演/滝沢修、宇野重吉、細川ちか子、乙羽信子、小夜福子が上映される。
1953年の作品だが、幕末の馬籠の宿場を舞台に、庄屋・青山半蔵の波乱に満ちた生涯が、名優たちの重厚なタッチで描かれている。
この映画、幼な心に観た印象は強烈で、いまも記憶は鮮やかだ。

・・・余談になるけれど、中山道落合宿から、「これより北木曽路」の碑を過ぎて、馬籠宿、妻籠宿へ抜ける南木曽路は、往時をしのびながらのウォーキングにも最適で、また機会があれば是非訪れてみたいところだ。
晩夏のころだったか、石畳の街道筋で、ふと立ち寄って食した冷たい信州そばが、のど越しにさすがに美味しかった。
過ぎし日の、よき思い出である・・・。

      小諸なる古城のほとり
     雲白く遊子悲しむ
     緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず
     若草も籍(し)くによしなし
     しろがねの衾(ふすま)の岡辺
     日に溶けて淡雪流る    (島崎藤村)





映画「コロンビアーナ」―激しくも哀しい愛と復讐の物語―

2012-10-08 17:00:00 | 映画


 それは、深い悲しみと怒りから始まった。
 一少女を、孤独な戦いへと駆り立てて・・・。
 女は、復讐のために生きる、美しき暗殺者だ。

 オリヴィエ・メガトン監督の、このフランス・アメリカ合作映画は、躍動感と緊迫感のあふれるアクションドラマである。
 南米コロンビアの、美しい国花と同じ名を持つヒロイン、女暗殺者のカトレアを演じるのは「アバター」でブレイクしたゾーイ・サルダナで、映画で見せる、そのスピーディーで優美な立ち回りもなかなかのものだ。









      
1992年、南米・コロンビア・・・。

マフィアの父を幹部に持つ少女カトレアは、9歳の時に、マフィアのボスであるドン・ルイス(ベト・ベニトス)によって、両親を惨殺された。
カトレアは、単身アメリカに渡り、叔父エミリオ(クリフ・カーティス)に育てられることになった。

それから15年、美しい女性として成長したカトレア(ゾ-イ・サルダナ)は、エミリオのもとで殺し屋としての日々を送っていた。
彼女は一流の殺し屋となって、いつか必ず両親の復讐を果たすことを誓った。
ドン・ルイスを挑発するかのように、標的を始末するたびに、その傍らにカトレアの花の絵を描き残していた。
それは、憎き仇を炙り出すためのアイテムだった。

やがて、マフィアが本気で彼女を追いこもうとしたとき、予期せぬ出来事が次々と起こる。
新たな悲しみ、新たな怒り・・・、カトレアの心に復讐の炎が静かに、激しく燃え上がる。
そんな時、唯一カトレアが安らぎを得られるのは、画家の恋人ダニー(マイケル・ヴァルタン)と過ごす、束の間の時だけだった・・・。

カトレアの花の絵をターゲットの傍らに残すシーンは、日本映画の「五瓣の椿」を思い起こさせるが、このドラマの方はやや一本調子だ。
スピーディーなアクションは見応えもあるのだが、殺し、殺しの連鎖だけではいかにも単調で、飽きるところだ。
ドラマ前半の、ヒロインの生い立ちや、その頃の家族惨殺事件など、もうちょっと掘り下げたドラマがほしい。
その後のカトレアの復讐事件に繋がっていく、大事な要素が薄っぺらだ。
簡潔、省略で済ませず、詳細な伏線と緻密な構成による盛り上がりを期待したかった。
主人公にももっと語らせて欲しかったたし、ドラマの作り手ももっと語ってしかるべき(描写すべき)で、概して説明不足につきる。
オリヴィエ・メガトン監督のフランス・アメリカ合作映画「コロンビアーナ」は、上げ底の弁当みたいで、見栄えは悪くないのだが、この種のドラマとしては作りも浅薄で、物語の展開も平凡の域を出ない。

・・・カトレアは23件もの殺人を犯した、連続殺人犯だ。
オリヴィエ・メガトン監督は、復讐に蝕まれたカトレアを、それでも思いやりを持つ人間として描きたかったはずなのだ。
女性として、カトレアが自分の人生で複雑な感情を示す相手は、彼女の叔父エミリオと恋人のダニーだ。
エミリオは彼女にとって、生き残っている唯一の家族だ。
その意味では、映画の中盤以降で二人が言い合うくだりは、少し感動的な部分かも知れない。
エミリオは、彼女のしたいようにさせたかったのだろうか。決してそうは思えない。
彼女の復讐計画に賛同していたわけではあるまい。

恋人ダニーとの関係はといえば、この物語の大切な要素でもある。
ダニーは、カトレアのことをほとんど知らないのだ。
カトレアが、自分の人生について語らないからだ。
彼女は、決して本当のことを言おうとしない。
しかし、カトレアは、自分の心が少しずつダニーに近づいていることに気がつき始める。
あげくに、彼女は復讐と愛情のはざまで苦しみ始め、その二重生活を続けていくことが次第に難しくなってゆくのだ。
この二人の関係がどうなっていくのかが、見ようによってはこの作品の一番興味深いところだ。
そうした葛藤を抱えながら、見どころ十分のカトレア(ゾーイ・サルダナ)のアクションが、複雑な感情の機微を少しく湛えていたことは、素直にうなずける。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点