徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「真夜中のゆりかご」―男が善か悪かの選択を迫られるとき―

2015-06-28 07:00:00 | 映画


 差別から生じる憎悪の連鎖を子供の目で描いた「未来を生きる君たちへ」(2010年)で、アカデミー賞外国語映画賞受賞した、デンマークスサンネ・ビア監督が描くめずらしい北欧のサスペンスだ。

 静かな家庭劇の味わいの中に、複雑で切迫した感情のうねりがあり、社会と人間の暗黒面を濃縮した感じの重いテーマが描かれる。














湖畔の瀟洒な家に住む、幸せそうな刑事アンドレアス(ニコライ・コスター=ワルドー)夫妻と、ドラッグズづけですぐ女を殴りつける元犯罪者トリスタン(ニコライ・リー・コス)のカップルに起きた話だ。

二組の夫婦には、同じ年代の男の赤ちゃんがいるが、ある夜刑事の赤ちゃんが突然死してしてしまう。
事実を受け入れられないアンドレアスは、何を思ったか、自分の赤ん坊とトリスタンの赤ん坊とをすり替え、何食わぬ顔で元犯罪者のトリスタンを追求する。
トリスタンの妻サネ(リッケ・メイ・アンデルセン)は取り替えられた子を見て、「この子は私の子供じゃない」と叫び、その狂乱ぶりは尋常ではなかった。
アンドレアスの妻アナ(マリア・ボネヴィー)は、精神的な苦しみのあまり、赤ちゃんを残して投身自殺を遂げる・・・。
悲劇はこうして起きた・・・。

突然の不幸に見舞われて、ここでアンドレアスの選択した行動は、果して正しかったのか。

母親二人の心理は細やかに描かれ、緊迫感がある。
登場するのは二組のカップルだが、ドラマの展開につれて、アンドレアス刑事の心がだんだん壊れていくところが興味深い。
実際にこのようなことが起こりえるかは疑問だ。
善と悪の境界で、論理的な決断をしたはずの刑事が、精神的に追い詰められていく過程が、綿密によく描かれている。
心情的に理解できても、法的には許されない行為に走る刑事の運命を通して、倫理的な疑問が生じる。
このサスペンスには強烈なひねりが効いており、スクリーンから全く目が離せないほど、ぐいぐい引き込まれる。

映画は冒頭から、主人公夫婦と薬物依存の夫婦という二組のカップルを軸に、経済格差が引き起こす育児放棄が、家庭内暴力などの社会問題を絡めて対比的に描かれる。
子供のすり替えは、物語としては単純である。
アナが悲劇を迎え、息子の真相を知った主人公の苦しみは、映画であることを忘れるほど胸を打つ。
それを心の苦痛というのだろうか。
ドラマは、最後まで観る者をぐいぐい引っ張っていく。
観ているのが辛いくらいのリアリティ感じさせる作品で、かなり見応えはある。
スサンネ・ビア監督デンマーク映画「真夜中のゆりかご」は、幼い子供の死と向き合う家族のドラマだ。
人間の業に踏み込んで、どちらかというとありふれた筋書きではあるが・・・。
善と悪との境界線に立ったときの、人間の強さと弱さを描いて、この作品における表現の豊かな演出力は、さすがスサンネ・ビア監督だ。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「ラブバトル」―互いに傷つけ合う男女の肉体とぶつかり合う感情―

2015-06-25 23:00:00 | 映画


 この作品は、ある女と男の愛の交歓を、文字通り肉体と肉体のぶつかり合いを通して描いている。
 ここでいうぶつかり合いとは、すなわち闘いだ。
 「ピストルと少年」(1990年などで知られる、フランス巨匠ジャック・ドワイヨン監督の新作である。
 この監督による作品の日本公開は、「ボネット」(1996年以来19年ぶりとなる。

 地方のどこかの一軒家で、男女の感情と肉体が激しくぶつかり合うさまを描いた異色作だ
 男と女が心身をとことん痛めつけながら、愛を求めていく。
痛 々しくも残酷で、特異な愛の形なのかもしれない。
 そう、“闘い”という名の・・・。
 大それた映画だ。









フランスの田舎にたたずむ、どこにでもあるような一軒家・・・。

その家に暮らす男性(ジェームズ・ティエレ)の前に、父親の葬儀で故郷に戻った女性(サラ・フォレスティエが突然現れ、挑発的な言葉を放つ。
主人公二人に名前はない。すべてが匿名なのだ。
二人の仲も、過去に男女の関係があったかどうか判然としない。
彼女は久しぶりにあった彼に、遺産相続をめぐる問題を語り、祖父が好きだったピアノが欲しいという。

そして次に彼の家を訪れたとき、かつて彼が自分を受け入れてくれなかったと詰め寄り、再び彼を誘惑する。
だが、彼は彼女に応えようとすると、今度は彼女が拒絶する。
ここから、彼と彼女の丁々発止とやり合うバトルが始まる。
誘惑したいと思うと拒絶し、泥まみれになりながらつかみかかり、二人は殴り、締めつけ、恍惚となり、ねじ伏せようとし、抵抗し、抱きしめ、抱きしめられてまた突きとばし、また拒絶する。
そんな野卑な(?)行為が、幾度も幾度も繰り返されながら果てしなく続く・・・。

狂ったゲームのように続く二人のぶつかり合いは、普遍的な男女の愛を誇張し、象徴しているように見える。
主人公たちのくんずほぐれつの格闘シーンは、俳優による即興の感が強いが、実際はドワイヨン監督の緻密な計算が働いているのだ。
本番では、二人の撮影監督が2台のカメラを同時に回し、ワンシーン、ワンカット最長10分間にも及ぶ長回しで撮影されている。
実際の撮影では、青あざや生傷、筋肉痛も絶えなかったそうだ。
それもそうだろう。
二人の生身の肉体に刻みつけられた、本物の傷痕のひとつひとつが「ラブバトル」というこの作品に、非情なまでにリアルな生命感を与えている。

名前もドラマも、映画的な技法も、全てをはぎ取ったシンプルな作りで、二つの肉体が絡み合い、異様な生々しさが実在感を醸し出している。
そこには、絵画的な美しさもあれば、荒々しいアクションもあり、大胆なエロティシズムも・・・。
それでいて、どこか神聖に見えるという、すさまじい迫力で描かれた作品だ。
それでも、人が言葉を持たぬ時代から、肉体という言語で、他者と分かり合おうとした、極めて原始的な(あるいは原初的な)愛の形とみればいいのかもしれない。
女を演じるのは、 「戦争より愛のカンケイ」2012年)セザール賞主演女優賞受賞サラ・フォレスティ、男を演じるのはチャップリンの実孫ジェームズ・ティエレだ。
ジャック・ドワイヨン監督のこのフランス映画「ラブバトル」は、人生の“結節点”に立った彼らによる、特異で複雑な印象を残す作品である。

人間の剥き出しの性と性がぶつかり合う、いや、むしろ人間を超えた生きものと生きものがぶつかり合うという、凄絶なバトルを介して、愛の本能にあるいは愛の本質に迫ろうとする意図が見える。
愛というのは、本能的に肉と肉との闘いなのかもしれない。
異形の愛、異端の愛・・・、全く現実離れのしたいろいろな愛の形はあれど、いやはや、恐れ入った作品だ。
芸術であろうとなかろうと、これもまた映画なのだ。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回はデンマーク映画「真夜中のゆりかご」をとりあげます。


映画「カフェ・ド・フロール」―時代を横断する切なくも美しい魂の旅―

2015-06-23 22:00:00 | 映画


 現代のカナダに暮らす夫婦と、40年以上前のフランスに暮らす母子の、時代と場所を隔てた二家族の愛の物語である。
 少なからず、神秘性とファンタジーの要素を取り入れた作品だ。
 深く結びついたふたつの魂は、時を超えて、愛する者たちを再び惹きつけあうものだろうか。
 マシュー・ハーバート名曲「カフェ・ド・フロール」が、二つの物語を紡ぎつつ、そこに生きる人々の心を代弁する。

 「ダラス・バイヤーズクラブ」(1914年)アカデミー賞三冠受賞に輝いたジャン=マルク・ヴァレ監督は、切ないドラマを軸としながら、無垢なる魂の結びつきを永遠性をテーマに謳い上げた。
 愛というものの持つ不思議な縁を、ミステリアスに描いた点で、その緻密な演出が功を奏しているけれど・・・。
 二家族の神秘的な寓話とでもいったらよいだろうか。






2011年のモントリオール・・・。

DJとして働くアントワーヌ(ケヴィン・バラン)には二人の娘がいるが、2年前に妻キャロル(エレーヌ・フローランと離婚し、いまはローズ(エヴリーヌ・ブロシュ)と愛し合っていて、幸せな生活を送っている。
キャロルとは、若い頃に互いに理想の相手と確信して結婚した。
彼女はいまでも、夫が戻ってくるものと信じている。

1969年のパリ・・・。
美容師として働くジャクリーヌ(ヴァネッサ・パラディ)は、ダウン症の息子ローラン(マラン・ゲリエ)と二人で暮らしていたが、溺愛する息子を普通の子供と同じように育てようとしている。
ある日、ローランの通っている学校にダウン症の少女ヴェラ(アリス・デュボワ)が転校してくるが、二人は互いに惹かれあい、片時も離れようとしなくなる・・・。

この二つの物語を交差させながら、ドラマが展開する。
アントワーヌが空港で、ダウン症の人々の一行とすれ違う場面や、ジャクリーヌが学校にローランを送った際に、ローズの姿が一瞬映し出されたり、何かと伏線らしきものが入念に張られていて、別々の物語なのにつながりがあるかのような暗示を受ける。
キャロルの見る夢も怪しげだ。
愛する人との別れから立ち直れない彼女が、夢に出てくる少年を知って、ローランとヴェラの絆をローズに重ねると、そこから生まれ変わりの愛を理解し、彼女自身も立ち直っていく。
そして、あれっ、なるほどと思うような意外なラストシーンに驚かされる。

カナダ出身ジャン=マルク・ヴァレ監督は、このフランス・カナダ合作映画「カフェ・ド・フロール」で、神秘的な愛の絆の物語を描いた。
だが、時代を超越した輪廻の話となると、正直理解しにくく、作品としてかなり無理もある。
母親パラディの演技は母性を感じさせるなど、女性の永遠性にはちょっぴり現実味も・・・。
二人のヒロイン、ジャクリーヌもキャロルも、自分の愛情の強さゆえに理性が失われていくのか。
二つの物語は夢を通して交叉していくのだが、思わせぶりなシーンもあり、監督の凝り過ぎる演出には抵抗を禁じ得ない部分も・・・。
この作品が、不安や悲しみの内に秘めた男女の愛と喪失、救済と再生を、独自の切り口で追及した手腕は十分に認めたい。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「やさしい女」―さまよう女の心の遍歴の果てに―

2015-06-21 07:00:01 | 映画


 ロシアの文豪ドストエフスキーの傑作長編を、ロベール・ブレッソン監督が映画化した。
 1986年日本初公開以来ソフト化されていない映画が、デジタル・リマスター版でよみがえった。

 人を愛するとはどういうことか。
 一組の夫婦に起きた悲劇は、愛し合うことの美しさを問いかけてくる。
 「白夜」に先駆けて作られた、ブレッソン監督の初カラー作品で、物語の舞台をロシアから原題(60年代後半)のパリへと移し、大胆な翻案を施している。
 作品は極端なまでに台詞を配しており、二人の男女の視線のドラマともいえる作りが印象的だ。










パリで質屋を営む男(ギイ・フランジャン)は、客の持ってくる品を鑑定して値をつけ金を融通する。

ある日、若い女(ドミニク・サンダ)が訪れ、古いカメラを男の前に差し出した。
素晴しいカメラだと男が言うと、それを引き取って帰ってしまった。
次に来たときは、全く価値のないパイプだった。
それを、男は高い値で引き取った。
三度目に来たとき、彼女が初めて口を開いた。

冬の動物園で、男は女に求婚した。
人を愛するのは不可能だと訴える彼女に、世の中の女性はみんな結婚を考えていると言って、彼女に承諾させた。
結婚式を挙げ、彼女は彼の言うことに従い、つつましやかな二人の生活が始まった。
二人は映画を観たり、読書をしたり、レコードを聴いたり、晴れた日曜日には野原に野菊を摘みに行ったりする、平穏な日々が続いた。
ところがある日、男が常連客の老婦人のカメオにとんでもない高値をつけたことから、二人の間に亀裂が生じた。
そして、また別の常連客の男と彼女が親しげにしている様子を見て、夫は激しい嫉妬を感じた悩んだ。
彼女に外出の理由を聞き、持っていた白いバラを誰からもらったのかと責めた。

ある夜明け近く、彼女は夫にピストルを向けた。
彼は眠ったふりをしている。
その直後、彼女は病に陥り6週間寝込んだ。
冬が来て、彼女は回復する。
彼は、彼女に別の場所で再出発したいと、穏やかに語った。
そして朝、彼女は晴れやかな笑みを浮かべて、彼に貞淑な妻になることを約束する。
安心した彼は旅に立った。
見送ったのち、彼女は微笑した。
そして、彼女のとった行動は・・・。

悲劇はそこで起こったのだった。
映画は、冒頭にこの衝撃的な出来事をいきなり持ってきて、一体何が起きたのかと観客を慌てさせる。
ドラマは、それからゆっくりと過去の回想に入っていくのである。
16歳で結婚した彼女の心の軌跡に、どんなことがあったのか。
質素ながらも順調そうに見えた二人の結婚生活は、わずか2年で何故破綻していったのか。
ロベール・ブレッソン監督フランス映画「やさしい女」は、原作のプロットを守りながら、女性の心理の闇を丁寧にに綴った小品で、よくまとまっている。
カメラの位置、角度、そして登場人物の配置、正面、側面、背後、視線の動き、陰影、細やかに計算された演出が、男と女の心の揺らぎを妖しくあぶりだす・・・、そのあたり並の映画ではないとみた。

自らも、15歳で年上の男と結婚するも数か月で離婚するという経歴を持つ、主演のフランス女優ドミニク・サンは、映画初出演ながら、年上の夫を翻弄する女の苦悩を演じて心にくい。
彼女の見せる視線からは、何やら鋭い恐ろしさも感じるとることができ、それは女の心境の変化、変質を物語るものだ。
女優をはるかに超えた(?)女への変貌が、この映画では見ものである。
女の謎めいた死の真相は解らない。
こんな作品があったなんて、まずちょっと貴重な映像だ。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はフランス映画「カフェ・ド・フロール」を取り上げます。


映画「海街 diary」―四姉妹が絆を紡いでいく優しい家族の物語―

2015-06-14 21:00:00 | 映画


 カンヌ国際映画祭では、コンペティション部門に出品されて惜しくも受賞を逸したが、世界中の映画ファンから注目を浴びた。
 世代を超えて愛読されている吉田秋生の同名漫画を、「そして父になる」是枝裕和監督が実写映画化した。

 鎌倉の四季の移ろいの中で暮らす四人姉妹が、悩み喜び、時には傷つけあいながらも本当の家族になるまでの一年間の物語である。
そ してそれは、ほのぼのとしたヒューマンドラマに見えて、実は親に捨てられた子供たちが新たに家族を再建するという重い主題を背負っていて、是枝監督は温かな情感をもって、優しい目線でこの作品を仕上げた。
「 小早川家の秋」をはじめとする、名匠小津安二郎の作品を思わせる様式美とともに、丁寧な作りの映画として好感が持てる。









眩しい光に包まれた夏の朝、香田家の三姉妹に父の訃報が届いた。

香田家の長女・幸(綾瀬はるか)はしっかり者の看護師で、両親へのわだかまりを捨てきれない。
そんな姉と何かといえばぶつかる次女・佳乃(長澤まさみ)は、開けっぴろげな性格だ。
三女・千佳(夏帆)は何事もマイペースで、少し変わり者だ。
三人三様の姉妹は、三人だけで鎌倉の古い一軒家で暮らしている。
父は15年前に女と家を出ていき、その後母も再婚して家を去った。
三姉妹を育てた祖母も亡くなり、広くて古い鎌倉の家に彼女たちだけが残された。

三姉妹は父の葬儀で、中学生の腹違いの妹・すず(広瀬すず)と出会う。
すずは頼るべき母もすでになく、それでも気丈に振る舞っている。
そんな彼女の健気さに打たれた幸は、一緒に鎌倉の家で暮らそうと誘った。
すずは喜んで提案を受け入れ、秋風とともにやって来ると、あらためて四姉妹の生活が始まった。
すずは入団したサッカークラブで新しい友達もでき、姉妹たちの仕事の環境や、彼女たちを取り巻く男女(風吹ジュン、リリー・フランキー)の喜びや哀しみ、そして祖母の七回忌の突然現れた母親(大竹しのぶ)と幸との口論などのエピソードを交えながら、ドラマは展開する。

四人の生活には、それぞれ複雑な思いもある。
でも、一年間の暮らしの中で、事件らしい事件は何も起こらない。
起きているとすれば、それは映画の始まる前の時間だ。
過去の回想シーンもなく、姉妹たちの会話から過去の出来事を類推するだけである。
父親が出て行って、さらに母親も去っていったこと・・・、親に去られ、あるいは先立たれた女性合せて四人の群像ドラマだ。
過去のことはこのドラマでは描かれない。

美しい四季の移り変わりの中で、暮らしは古風でも、画面の作りは精妙に計算され、故小津安二郎監督を思わせる。
和室のちゃぶ台で姉妹が囲む朝食の場面も、日本人の生活の雰囲気がよく出ていて悪くないし、このシーンでの姉妹のやり取りも自然でいい。
是枝裕和監督作品「海街 diary」は、しかし取り立てて斬新さを感じさせるものはなく、日本映画あるいは小津安二郎へのオマージュのようにも見られる作品だ。
この作品がカンヌで受賞を逸したのも、観客の受けとは違って、あちらの審査員はとくに斬新にして秀でた才能を求めているから、この作品では難しかったと思う。

父の葬儀で腹違いの姉と初めて会ったすずを演じる広瀬すずが、16歳とは思えず真直ぐな演技で印象的だ。
彼女はこの映画の撮影の際、台本はもらわず、現場で口伝えでセリフをもらうやり方で臨んだというから、大したものだ。
監督からOKが出るまで何度もやり直したという。
是枝監督は、撮影の合間に話している彼女たちの会話を聞いて、それをセリフにして追加したり、その場その場の空気を大事にして映画を作っていったそうだ。

人は自分をどうすれば肯定できるのか。
心のわだかまりをどう解決していくのか。
海辺の街の四季を綴りながら、家族のありようを問いかける温かな作品で、そのみずみずしい映像とともに、甘い味、しょっぱい味、ときに苦い味も、さじ加減の程よく調和した佳作である。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「エレファント・ソング」―精神病棟で巻き起こる緊張感あふれる心理戦―

2015-06-12 13:00:00 | 映画


 カナダ
の若き俊英グザヴィエ・ドランは、監督だけにとどまらない。
 俳優としても評価の高い彼が、「この作品の主役は自分に」といって出演を熱望した映画だ。
 この作品は、前作「トム・アット・ザ・ファーム」と同様に、戯曲を原作とする心理劇だ。
 シャルル・ビナメ監督が映画化した。

 周囲の人々を翻弄しつつも、痛々しいほど愛を渇望する青年をグザヴィエ・ドランが熱演し、名優ブルース・グリーンウッドをはじめ、キャサリン・キーナーキャリー=アン・モスコルム・フィオールといった名だたる名優たちを迎え、サスペンス溢れる会話劇を展開する。
 俳優たちの競演が見ものだ。









マイケル(グザヴィエ・ドラン)は美しい青年だった。

14歳のときに、オペラ歌手の母が目の前で自殺し、その後現在にいたるまで精神病院に入院している。
彼は病院で一番の問題児で、ゾウにまつわるあらゆることに異常なまでの執着を示していた。
病院の精神科医ローレンス(コルム・フィオール)が、ある日診察室から姿を消した。
ローレンスを最後に見たのは、マイケルだった。

マイケルのことをよく知る看護師長のピーターソン(キャサリン・キーナー)は、マイケルが真実を話そうとしないとグリーン院長(ブルース・グリーンウッド)に助言する。
グリーンは、マイケルに直接事情を聴くことを試みる。
すると、マイケルは話をする代わりに、自分のカルテを読まないこと、チョコレートを褒美としてくれること、看護師長をこの件から外すことを要求した。

グリーン院長とピーターソン、この元夫婦の二人には、いまなお脳裏から離れぬ、ある悲劇的な過去があった。
ピーターソンが娘を湖に連れて行った際に、事故で娘を失ったのだ。
ピーターソンを心の底では責めずにいられなかったグリーンは離婚し、後ろめたさを抱えながら生きていた。
・・・マイケルの条件を飲んだグリーンは、マイケルがゾウやオペラの話など無駄話ばかりして肝心の話を逸らすのに嫌気がさしていた。
ときには嘘か本当か訳の分からぬことばかり口走り、誠実な(?)グリーンはいつしかマイケルの巧妙な罠に取り込まれていくのだった。
そして、悲劇が起きた・・・。

室内で展開する、医師と患者の迫力ある心理劇だ。
この映画、「サイコ・サスペンス」とも評され、マイケルが見せる心の闇の背後に、もうひとり愛を渇望する孤独な青年の姿がある。
アフリカツアーの最中に、ハンターの男との一夜のアバンチュールでマイケルを身ごもった母であったが、オペラ歌手である母にとってマイケルは「望まれない子供」だった。
マイケルは、「母の胎内にいた時だけ、母と親密だった」と告白するのだ。

この映画は、1960年代中ごろを背景に描かれている。
子供への小さな虐待や、育児放棄、シングルマザー、両親の離婚による子供への影響など、青少年を取り巻く環境はますます悪化している。
子供から脱皮しても、なお切なく愛を切望してやまないマイケルは多感な青年で、彼の悲痛な叫びはあまりにも孤独である。
そこに、このドラマが潜在的に提起するテーマがあるように思われる。

シャルル・ビナメ監督カナダ映画「エレファント・ソング」は、まことに痛ましい作品だ。
どこまでものらりくらりと院長を翻弄し続ける、マイケルの異様さには辟易する。
それと、主人公マイケルのこれまでの成長の過程や背景を、もっと掘り下げて描いて見せてほしかったが・・・。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


あの『銀の匙』の作家・中勘助展~生誕130年、没後50年~

2015-06-10 13:00:00 | 日々彷徨


  ―生きもののうちでは人間が、一番嫌いだった―(中勘助)
 空模様のさだかでない梅雨に入った。
 文学散歩は、神奈川近代文学館で開催中の中勘助展だ。
 中勘助は、1885年(明治18年)東京神田の生まれで、文豪夏目漱石に師事し、その漱石の賞賛を得て小説「銀の匙」東京朝日新聞に連載された。
1 913年(大正2年)のことである。
 この小説、岩波文庫のミリオンセラーだそうだ

「 銀の匙]は多くの読者の共感を呼び、ロングセラーとして現在も読み継がれている。
 近年では灘校教師の橋本武氏が、この小説1冊を使って行なった中学3年間の国語の授業が注目された。
戦後、教科書不足の時代、橋本氏はこの奇跡の(!)授業を実践し、残されたノートからは、教材作りにかけた彼の情熱がうかがわれ、このきわめて独創的な授業のあり方は、現在のスローリーディングのきっかけとして注目を集めているそうだ。









「銀の匙」
は、教材化の過程で中勘助が、質問を寄せた橋本氏への返信の一部も紹介され、またタイトルに使われた実在の銀の匙が、彼の遺愛品の一部として展示されている。
この小説は、子供のまなざしで描いた子供の世界で、子供の体験を子供の体験として、ここまで真実を描きえたことに、夏目漱石は「見たことがない」と絶賛したほどだ。
中勘助の表現は、幼い子供の心の、細かい陰影にまで入っていて驚かされるのだが、和辻哲郎氏も、勘助の描写は深い人生の神秘につながるものだとまで言っている。
一高、東京帝大で漱石の教えを受けた勘助は、作品の品格を褒め称えられる一方、誤字の多さに注意するよう促されるなど、漱石にいろいろと気にかけてもらっていた様子がよくわかる。

余談になるが、中勘助20代の作品「銀の匙」のほかに、「犬」「提婆達多」といった、とても勘助の作品とは思えない異質の傑作もあって、あらためて彼の才能のきらめきに嘆息するばかりである。
「中勘助展」7月20日(月)まで。
7月11日(土)に「銀の匙」朗読会(南谷朝子)、6月21日(日)、7月12日(日)にはギャラリートークなど記念イベントもある。
中勘助は文壇を嫌って孤高の道を歩み、日々の暮らしと内省を綴った日記体随筆などの執筆を続けたが、この企画展では、彼の文学と知友の人々との交流の様子が、貴重な資料によって紹介されている。
中勘助と聞いて、そう、もう一度彼の作品を読み返してみたくなるではないか。


映画「マジック・イン・ムーンライト」―種も仕掛けもない恋の‘瞬間移動’―

2015-06-07 17:00:02 | 映画


 「ミッドナイト・イン・パリ」(2011年)、「ブルージャスミン」(2013年)など、多芸多才をもって知られるディ・アレン監督も、今年は80歳を迎える。
 監督デビュー以来の多作ぶりには、目を見張るものがある。
 その彼が、1920年代のヨーロッパを舞台に、雰囲気のあるジャズに知的な美男美女を配し、今回も一人(?)恋のときめきを楽しむかのような作品を立ち上げた。

 映画には、この監督特有のいつも通りの安定感があって、その優しい物作りには思わずにんまりしてしまうが、まあ、これまでの作品からずうっと眺めてくると、映画もかなりマンネリだ。
 俳優としてだけでなく、いつも多彩な才能を発揮するディ・アレン監督の最新作は、軽妙洒脱なロマンティック・コメディだ。







1928年・・・。

怪しげなアジア人姿の天才魔術師、実は皮肉屋の英国人スタンリー・クロフォード(コリン・ファース)は、旧友の頼みで、資産家カトリッジ家の人々の心をつかんだ占い師のトリックを見破ろうと、一家の別荘がある南仏コートダジュールを訪ねる。
貿易商と偽って会った占い師ソフィ・ベイカー(エマ・ストーン)は、可愛らしく天真爛漫で、カトリッジ家の御曹子まで彼女にすっかり夢中になってしまうほどだ。

スタンリーは、占い師の正体を暴くはずが、不覚にも自分の正体を見ぬかれ、自分までもがソフィに魅了されてしまう。
そして、目の前に起きる超常現象に、ソフィの霊能力を認めざるを得なくなって・・・。
理屈ばかりこねて、素直に想いを打ち明けられない二人の行く手には、大きな波乱が待っていた。

庭園や海沿いの風景が美しく、その開放的な初夏の南仏に、エマ・ストーンの瞳が印象的だ。
要するに、結構偏屈な男とチャーミングな若い娘の、愛らしい恋物語なのだ。
魔術師が主人公なのに、ストーリーは単純すぎていて、いささか退屈のきらいも・・・。
それに、男女二人の言葉のやりとりが理屈っぽい。
恋は、理屈ではないほうがよろしい。そんなことは当たり前の話だ。
コリン・ファースの毒舌もちょっとしつこいが、天真爛漫なエマ・ストーンに救われる。
アレン監督の好きな要素をここでもいっぱいに詰め込んでおり、ドラマは結末に向かって駆け足だから、観ている方は落ち着かない。
期待していた割には失望感も・・・。

そもそも「恋の魔法」には、種も仕掛けもインチキもあるはずはなく、アメリカ・イギリス合作映画「マジック・イン・ムーンライトは、男の幼稚さ、女のしたたかさを描いており、丁々発止の恋の賭けひきと見せて、人生の辛酸を噛みしめたアレン監督の演出の冴えも、この程度だ。
柔らかな陽射しと一筋の月光が降り注ぐ、コートダジュールにプロヴァンスを舞台に、不器用な男女のもつれた恋は魔法でもトリックでもなく、「瞬間移動」だ。(笑)
巨匠の放つ一撃は、いやいや、何とも他愛のない小さな小さな恋物語でした。
そういえば、「~恋は魔法ね~♪♪」なんて歌がありましたっけ・・・。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


「時計屋さんの昭和日記」~横浜都市発展記念館にて~

2015-06-06 05:00:00 | 日々彷徨


 戦後70年である・・・。
 昭和の時代を生きた、ひとりの時計屋さんがいた。
 この人は横浜で暮らしながら、戦前、戦中、戦後の復興まで、ほとんど毎日日記を書き綴っていた。
時計の修理や販売を生業としながら、一市民の目を通して昭和の時代を見続けてきた。

 その名は「下平時計店」で、横浜の磯子で時計店を営んできた。
 1994年に76歳で亡くなるまで、下平氏は奉公でこの時計店で働くようになった12才の時から、日記を切れ目なくつけてきた。
 その下平氏の関連資料、写真、日記などとともに、いま横浜市中区の横浜都市発展記念館で、28日(日)まで特別企画展が開かれている。













日記の舞台は、根岸競馬場、伊勢佐木町の映画館オデオン座をはじめ、戦中の昭和17年4月の本土空襲跡、焦土と化した横浜市街の写真など、変わり果てた街がやがて復興の色を見せてくる様子を、日記と写真で展観する。
戦争の時代、人々はどう暮らしていたか。
この時に生きていたらどうだったか。
「一青年のみた戦中戦後」の横浜を知る良い機会だ。
市街に大量に投下されたM69焼夷弾は全長50センチ、2.4キログラムのものがあられのように降ってきたのだ。
その焼夷弾やタバコ巻器、パン焼き器、防火バケツなど、当時の実物が戦時下の人々の暮らしをしのばせる。

当時、隣り組というのが出来て、食料の配達や勤労奉仕が各戸に分配され、市民は強制的に国家に統制されることになっていたのだ。
国家統制、ああ、聞くだけでも悍ましい,そんな時代は二度と来てほしくない。

昨年存在が明らかになった日記をもとに、激動の時代(1930年~1951年)の横浜の暮らしを、一人の青年の目を通して追っている。
どれも臨場感豊かに描かれていて、読むものをひきつける。
あの戦争は、一体何だったのか。
戦争からは、何も生まれない。
日本は永久に戦争をしない国であってほしいものだ。
そんな思いを感じずにはいられない企画展だ。
時間があったら、ぜひ立ち寄ってのぞいて頂きたい特別展だ。


映画「サンドラの週末」―過酷な週末の二日間を描いた人間ドラマ―

2015-06-03 04:00:00 | 映画


 ベルギーの、ジャン・ピエール・ダルデンヌリュック・ダルデンヌ兄弟監督による最新作である。
 常に社会的弱者の目線で、作品を生み出してきた兄弟監督が、この映画ではオスカー女優マリオン・コティヤールを起用して、労働者の連帯という社会派のテーマで、希望の物語を綴っている。

 1990年代末に、実際にフランスで起きた事件をもとにしている。
 雇用の問題をめぐる状況の厳しさは、日本でももちろん、ヨーロッパでも変わりはないようだ。
 この映画は、体調不良でしばらく会社を休んでいた女性が、仕事に復帰しようとしたとたんに解雇されるという物語だ。









二人の子供の母親でもあるサンドラ(マリオン・コティヤール)は、ソーラー工場で働き、レストランで働く夫のマニュ(ファブリツィオ・ロンジォーネ)と共働きで生計を立てている。

このところ体調をこわして休職していたが、ようやく職場に復帰しようとしていた。
ところがその矢先に、会社から電話がかかってきて、解雇を言い渡される。
回顧に同意すれば、千ユーロのボーナスを支払うということを会社は約束したが、会社の同僚たちはサンドラの解雇に賛成した。
従業員の投票で、回顧の是非が決まる工場なのだ。

同僚たちは最初ボーナスを選ぶが、同僚の一人のとりなしで、サンドラをとるかボーナスをとるか、週明けに16人の同僚の再投票で決めることになった。
月曜日の投票に向け、サンドラは家族に支えられながら、週末の二日間同僚たちを説得に回る。
どんなことを言えば、人の心を動かすことができるか。
人生と善意は、天秤にかけられるのか。
サンドラは、仕事を続けることができるのか。

ちょっとしたサスペンスにも満ちた展開に、感情移入も抵抗はなく、この先どうなるのかと心配になってくる。
投票の瞬間を見るまでが緊張する。
プライドを捨ててまで懇願できるかどうか。
選択を迫られながら、どちらを選ぶか。
サンドラの懸命な説得工作が行われる。

ベルギー・フランス・イタリア合作映画「サンドラの週末」は、ヨーロッパの経済危機、ちょっと大げさかもしれないが、ひいては世界の危機を反映する作品だ。
同僚の合意にもとずいて、一人が解雇された事例はフランスで実際にあった。
この映画での同僚の反応は様々だ。
サンドラに同情し、解雇通告に憤慨する者、ボーナスを手にしないと子供の学費やローンが支払えないと拒む者、家族と意見が対立する者、会社から脅かされる者・・・。
そうした者たちをひとりひとり説得に歩く姿は痛ましいが、相手にも事情があり、サンドラとて無理強いはできない。
彼らの生活を誰も非難できない。
この同僚たちの反応のなかに、今日の社会の証言がある。
どこまで、他人は自分の身になって考えてくれるか。
それが連帯だ。
世の中はそんなに甘くない。

サンドラの揺れる心を、今回はあまり化粧気のない普通の主婦に扮したマリアン・コティヤールが繊細な演技で見せてくれている。
ラストまで観終わった時、サンドラに人間の尊厳の片鱗を見る気がした。
前作「少年と自転車」では、カンヌ国際映画祭でグランプリ受賞した、ジャン・ピエール・ダルネンヌリュック・ダルデンヌ兄弟監督が、日常の出来事から普遍的な社会派ドラマを紡いだ、優れた作品ではないだろうか。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点