徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「ポンヌフの恋人」―セーヌの流れが見つめたある純愛物語―

2011-04-29 06:00:00 | 映画

     
     

     パリのセーヌ川にかかる橋を舞台に描かれる、ラブストーリーのニュープリント版である。
     初公開から20年になる、レオス・カラックス監督フランス映画だ。

     当時、フランス映画史上最高の38億円という巨費を投じて、3年の歳月をかけて製作された。
     途中、二度の撮影中断に、相次ぐ破産が重なり、早くから全仏マスコミの話題をさらっていた。
     いろいろと、映画完成前から伝説化された、作品だ。
     少なくとも、‘カラックスの作品’としてみれば、これは彼の傑作といえるのかも知れない。     



          
パリで一番古くて美しい橋“ポンヌフ”で暮らす、天涯孤独の大道芸人アレックス(ドニ・ラヴァン)は、いつものように酒をを飲みながら、夜のパリを放浪していて、車に片足をを轢かれてしまった。
そこに通りかかったのが、空軍大佐の娘でありながら、恋の痛手と、生涯治る見込みのない目の病とで絶望的な毎日を送っていた女画学生ミシェル(ジュリエット・ビノシュだった。
彼女もまた、放浪の身であった。

青年アレックスは、そのミシェルの美しさに初めて恋を知り、ポンヌフ橋を仕切っている初老のホームレス・ハンスに、この家出娘を置いてくれるように頼みこむ。
二人のホームレス生活は、そうして始まった。
ジュリアンというチェリストへの恋の未練と、画家としての失明の恐怖を両手に抱えたミシェルと、他人とのつながりをあまり持たずに生きてきたアレックスと、二人は互いの絆を深め、革命200年祭の夜に、華々しく打ち上げられる花火の下で恋におちる。

そんなある日、アレックスは、眼の治療法が見つかったことを呼びかける、ミシェルのポスターを街で見つける。
彼女が去っていくことをおそれたアレックスは、そのポスターを次々と焼いていく。
彼女を失うことで、不安がいっぱいの彼の心を引き裂くかのように、やがて二人の恋に破局が訪れ、それぞれの世界へ戻っていく。

季節は移ろい、視力を回復したミシェルは、自らの手で終止符を打ったはずの恋の未練を断ち切れず、放火の罪で服役中のアレックスの前に現れる。
・・・新たな愛を誓い合った二人は、やがて訪れるクリスマスの晩に、思い出のポンヌフ橋での再会を約束する。
雪の降りしきるその夜、シャンペンの栓がとびかう橋の上で、二人は固く抱きしめあった。
だが、その再会の喜びもつかの間、ミシェルのふと発した一言に傷ついたアレックスは、彼女を道連れに氷のように冷たいセーヌ川へ飛び込んだ・・・。

レオス・カラックス監督の本名はアレックスで、作品の主人公は彼の分身であるといわれる。
また、ヒロインを演じた、「トスカーナの贋作」ジュリエット・ビノシュとは、実生活でも恋人同士だった。
ところが、困難が多発し、映画の製作に多額の資金と時間をついやした、本作「ポンヌフの恋人」の撮影中に、彼女との関係は破局を迎えたといわれる。

カラックス監督という人は、自身が完璧主義者でもあり、そのせいもあってか、いくつかの短編を除いては20年間に4本の長編しか撮っていない。
彼の作品は、いつも若者の孤独や利己主義、そして憧れや怒りを、詩的な台詞と感覚的な映像にのせ、多くの若者たちにとっては自分たち自身のことを語る青春映画として、熱狂を博した時代があった。

リバイバルとはいえ、よき時代の、フランス映画を思わせる作品だ。
はらはらさせる展開も、二転三転するので、最後まで目が離せない。
南仏モンプリエにパリの街並みを再現するなど、史上最大といわれるオープンセットも、なかなかよくできている。
主役二人、わがままで無鉄砲であっても、自分の想いをストレートに、しかし誠実な愛を必死に訴えようとするアレックスと、むしろ儚い悲しみをたたえながらも、強く健気なひたむきさで激しくぶつかるミシェルという、両者の波乱に富んだダイナミック(?)な演出がうまい。
し情豊かで、感覚的な純愛映画が、今ここにかなり上質な画像となってよみがえったことは喜ばしい。
この映画、公開当時は、パリで封切り2週間で14万人という驚異的な大ヒットとなり、日本でも、92年初公開当時は、6ヶ月という驚異のロングランを記録した。

 


映画「エンジェル ウォーズ」―異次元世界のバトルアクション―

2011-04-25 09:00:00 | 映画


     

     戦う者の人生は、戦わぬ者よりはるかに美しい。
     そうなのだろうか。
     美少女が、熾烈な戦闘を繰り広げる、バトルアクションというべきか。

     ザック・スナイダー監督アメリカ映画だ。
     これまた、荒唐無稽な妄想ヴィジュアルの、ちょっと絢爛たる展開で・・・。
      友情や裏切りを超えて、弱き者たちの悲しみを照らし出す、幻想的な物語世界だ。




 
 
時は、1960年代・・・。
愛する母親を亡くし、莫大な財産を狙う義理の父の謀略で、ベイビードール(エミリー・ブラウニング)は、僻地の精神病院ノック・ハウスに送り込まれる。
病院に閉じ込められたベイビードールは、しかし、生きる勇気を失ってはいなかった。
彼女は、本当の自由を手に入れるために、つらい現実から抜け出し、戦うことを決意する。

ベイビードールは、苦痛と孤独だけを友としてきた4人の少女たちと、武器をとり、ともに戦うことを呼びかける。
それは、病院からの脱走であった。
戦場では、巨大な侍や、ゾンビ兵士に行く手を阻まれるが、美少女戦士たちは、バーチャルな兵器を巧みに使いこなし、力を合わせて、賢者の導きで勝利を重ねていく。

そこは、現実世界のルールなど、すべてを無視した、想像を絶する世界だ。
この戦闘は、実は主人公の想像(妄想)で、妄想は二層、三層へと入りこんで多重化し、現実とのあいまいさを切り刻みながら展開する。
つまりは、展開にも無茶苦茶な演出があり、どうせ観るからには、ややこしいことはあまり気にしないことだ。
美少女キャラクターを使った、“脳内もの”と割り切った方がよいようだ。

ザック・スナイダー監督アメリカ映画「エンジェル ウォーズ」は、アニメやコミックのゲームの影響を感じさせる演出で、観客を酔わせる想像世界だ。
それもそのはず、病院から脱走するために繰り広げる戦いは、ベイビードールがダンスに興じている間の、彼女の妄想から生まれているのだ。
<妄想×妄想=自由?>で、少しの間でも、浮世の現実を忘れさせてくれる、異次元の世界に遊んでみる手もありかと・・・。
ドラマは、幻想的な映像美を、ふんだんに見せてくれる。
とにかく何の制限もない、怖いもの知らずのスナイダーワールドだ。

ただし、このドラマには、いささか重苦しさが漂う。
思い切り、素直に笑うというわけにはいかない。
少女たちが、セーラー服もどきのへそ出しルックのコスチュームで、武器を使って、思う存分に暴れまわる姿に爽快感はあっても、ドラマの底にあるのは「虐待」だからだ。
少女たちは、いかにして空想世界を制し、自分たちの運命を変えることができるか。
テンポあり、ファンタジーありで、あっという間の1時間49分だ。


映画「100,000年後の安全」―放射性廃棄物はどうなるのか―

2011-04-21 00:00:00 | 映画

  
早いもので、桜の季節が、急ぎ足で去っていこうとしている。
瑞々しい若葉が、芽吹いている
天変地異、相次ぐ哀しみのなか、穏やかならざる日々を過ぎて、時はもう若葉の季節である。
                     
東日本大震災で、福島第一原発は、いま無残な姿をさらしている。
心配される放射能は、毎日漏出し続けている。
原発周辺には、10年、いや20年かそれ以上も住めない。
20キロ圏内は、「警戒区域」として事実上封鎖され、自由な立ち入りが出来なくなる。
震災で避難している人たちにも、大きな不安がじわじわと寄せてきている。
                            

このほど公開された、マイケル・マドセン監督による、まさにタイムリーなドキュメンタリー映画だ。
デンマーク・フィンランド・スウェーデン北欧三国合作のこの作品、一見に値する。

「未来のみなさんへ」と題して、21世紀に処分された、放射性廃棄物の埋蔵場所について触れている、貴重な一編だ。
エネルギーを提供し続けた原子炉も、いつか必ず廃炉となる日が来る。
その日が来たら、どうするか。
そのまま、放置するわけにはいかない。
日本も、ご多分に漏れず、一時的な管理場所はあっても、いまだに確定した埋蔵場所はないのが実情だ。
原発から生まれる放射性廃棄物の危険について、ここには、北欧フィンランドでの対策が紹介されている。

現在、毎日世界のいたるところで、多くの量の高レベルの放射性廃棄物が、暫定的に集積所に蓄えられている。
その集積所は、自然災害や人災、社会的変化の影響を受けやすいので、フィンランドでは地層処分という方法を発案した。
それは、地下深く埋蔵する巨大システムだ。
フィンランドのオルキルオトというところで、世界初の高レベルの放射性廃棄物の永久地層処分場の建設が決定し、着々と工事が進められているのだ。

そして、その巨大システムは、固い岩盤を削って作られる、地下の要塞都市のようなもので、放射性廃棄物を、10万年間は保持されるように設計されているのだそうだ。
この施設は、廃棄物が一定量に達した時は、封鎖され、二度と開けられることはない。
人間は、決して近づくことはできない。

日本には、福島第一原発をはじめ、54基もの原子炉がある。
日本は、核被爆国であり、名だたる地震国だ。
世界を見渡しても、この国に原発は馴染まない。
それなのに、どうしてこんなに多くの原子炉を必要としているのだろうか。

・・・ところで、地球は、果たして10万年後どう変わっているであろうか。
また、地球に氷河時代がやって来るとも、言い伝えられている。
人類は、どうなっているであろうか。
そんな、気の遠くなるような未来の時代に、誰が、そのようなシステムに放射性廃棄物が眠っていることを知り得ようか。
そのことを、誰が保証できるだろうか。
その頃、そこに暮らす人々に、その危険性について、確実に警告できる方法があるだろうか。

彼らは、それを私たちの時代の遺跡や墓、あるいは貴重な宝物が隠されている、神秘な場所だと思うかも知れない。
どんな人類が、生きているだろうか。
彼らは、現代の私たちの言語や思想や記号を、理解できるだろうか。
幾星霜、10万年の彼方に、忘れ去られていくことだろうか。
いや待てよ。
人類は、もしかすると滅んでいるかも知れない。(!?)
この映画は、多くの問題を提起している・・・。

マイケル・マドセン監督ドキュメンタリー映画「100000年後の安全」は、圧倒的な映像の美しさで、SF映画を観るように訴えてくる。
白い霧に覆われたような、映画のプロローグとエピローグは、現代の、荒廃しきった人類が去ったあとの地球を象徴するかのようだ。
深く、考えさせられるものがある。
私たち地球の、未来の安全を問いかけてやまない。
決して、観て損のないドキュメンタリー作品だし、多くの人に観て頂きたい。


レベル7の不安と恐怖いつまで―福島原発事故・東電の大罪―

2011-04-16 10:00:00 | 寸評

東日本大震災、福島原発事故から早くも1カ月がたった。
東電福島第一原発は、いまでも放射能が漏出しており、予断の許さない危険な状態が続いている。
現地の必死の復旧作業を、日本中が見守っているが、見通しは決して明るくない。
事態は、終息へ向かうどころか、現在進行形なのだ。

これまでの原発「安全神話」は、ここにきてもろくも完全に崩れ去った。
福島原発を、かつて考えられないほど‘安全’と絶賛したのは誰だったか。
地震と津波が予想以上だったからといって、それで済ませる問題ではない。
想像以上のことが起きた結果については、当然設計側としての責任もある。
想定外など、あってはならないと言いたい。

今回の原発事故で、原発依存のエネルギー政策は破綻した。
放射能が漏れ続けても、直ちに人体に影響はないというが、何をのんきなことを言っているのか。
本当に危険な情報が、おそらく公表されていないのではないか。

現在進行形の原発事故は、これは杞憂であってほしいと願うばかりだが、もしかすると最悪の事態を迎えつつあるのかもしれない。
それは、かつて人類が経験したことのない大惨事につながることだ。
もしものことがあると、内陸であれ、海洋であれ、当然放射性物質でおおわれる。
放射能は、数十年という単位で海と地上に残るとされる。
そうなったら、野菜も魚も安全なものなんて激減する。
本当の汚染は、これから始まるからだ。
放射能の測定は、今後100年にわたって続けていかなくてはならない。
最悪の結果だけは、何としても避けたいものだ。

汚染水の海洋への垂れ流しなど、たとえそれしか方法がなかったにせよ、ひどいやり方だ。
世界の国から、怨嗟の叫びが聞こえないか。
日本の信用は、ガタ落ちだ。
どう見ても政府はお手上げ状態だし、完全な対策など何もない。
呆然自失の状態だ。

世界から、日本は重大な情報を隠しているとみられている。
もちろん国民にも・・・。
‘福島’から流出した放射能物質のすべては、偏西風に乗って拡散する。
そして、それはやがて北半球を覆い尽くすといわれる。
いまや、日本だけの問題ではなく、地球規模の問題だ。

遅きに失した感は否めないが、1865年のチェルノブイリ原発事故と同じ、「レベル7」という最悪の評価になってしまった。
これだって、大震災から3日後にすでにこの数値だったというではないか。
そのことをずっとひた隠しにしてきた、東電、政府の責任は大きい。
いま各地で、原発見直し、廃止について論議が巻き起こっている。
当然のことである。
それで、原発政策を続けるのか。
とんでもない話である。

新聞、テレビなどのマスコミは、放射能の危険に踏み込んだ記事や発言を、ことさら避けているように見受ける。
このことは、おそらく間違いないことだ。
いたずらに、国民がパニックに陥らないようにとの配慮(?)かも知れないが、それだけではあるまい。
実に不謹慎だ。
原子力研究の専門学者によれば、原発の危険性に触れる話になると、その分はカットされ、放送もされないというではないか。
テレビ局は、東電批判については消極的だ。
鋭い論評で知られるある著名なジャーナリストは、東電の批判をした途端に番組降板を知らされたと、週刊誌やインターネット上で暴露している。
ひどい話だ。

マスコミも信じられない。
政府や、官房長官の談話もどこまで信じてよいものか。
原発の、今後の行方が大いに心配だ。
現地で、被爆を覚悟で、必死で作業を続ける人たちは命がけだ。
誰かがやらねばならない。
だから、やる。
頭が下がる。
ひたすら、安全を祈らずにはいられない。

ここへきて、計画停電はいまのところ小休止だ。
ほっとする。
でも、夏場はまた心配の種だ。
節電、これはやれば出来る。出来なくはない。
どうして、こんなことが今まで出来なかったのか。
まだまだ、無駄な電気の使い方をしているのではないだろうか。
今ほど電化に囲まれた生活は、かつてなかったからだ。
何から、何までが電気だ。
それは、便利さ、快適さを求めた結果の、人間の贅沢(?!)というやつだ。

いまから思えば昔(?)の話になる。
夏でも、街の映画館に冷房のなかった時代があったし、今のように家庭にエアコンのない時代があった。
いまでも、エアコンなしで扇風機で夏を乗り切っている人だっている。
深夜の街に煌々と輝くネオン、終夜テレビや飲食店、鉄道の駅の証明はもちろん、誰かがいみじくも言っていたパチンコ店や自動販売機は1000万キロワットもの電力を消費しているといわれるし、どうしても娯楽に電力が必要だというなら自家発電という手だってある。
生活するために、電力が本当に必要かどうか、見直す時だ。
豊饒な時代を生きていると、なかなかその生活から脱け出せないものだ。
それは不幸なことだ。

原子力による電源に頼らなくても、豊かに暮らすための知恵を絞りたい。
日本は、世界に名だたる地震国だ。
原発は、この国にはなじまない。
福島原発事故は、起こるべくして起こった明らかな人災だ。
2002年8月に、原子力安全保安院から福島県庁に、恐るべき内部告発文書が届いていた。
それは、福島第一原発と第二原発で、「原子炉の故障やひび割れを隠すため、東電が点検記録を長年にわたってごまかしていた」というものであった。
保安院は、この告発を2年も前に受けていながら、何の調査もしなかったうえに、この内容を当事者である東電に横流ししていたというではないか。
今回の原発事故も、重要な情報を隠蔽、管理することで、私たちに知らされていない何かがあるのではないか。

今回の原発事故は、東電の体質といい、経産省、ひいては自民政権の原発エネルギー政策にさかのぼってまで、起きるべくして起きた人災だ!
まことにもって、許されざる、政府、東電の大罪と言っても言い過ぎではない。
つい最近の調査で、国内にある原発の大半が、いずれも難点を抱えていることが判明した。(今頃になってである!)
くどいようだが、原発の安全性には大きな疑問がある。
安全性に問題がある限り、原発はもう沢山だ。
100%安全など、絶対にあり得ない。

人類が作り上げたもので、人類が滅ぶ・・・。(?!)
だとすれば、そんなものはいらない。
・・・いま、まだ余震が相次いでいる。
もしまた、一部予想されるように、スマトラ並みのM8級の最大余震が来たらと思うと、怖ろしい。
何もかもが、今はまだ進行形だ。
あらゆる面で、いまより、まだまだこれからを十分に警戒したい。


映画「ザ・ライト―エクソシスト(悪魔祓い)の真実―」

2011-04-13 16:00:00 | 映画


     21世紀の現代でも、エクソシストは存在している。
     バチカン公認の、正式な職業だ。
     2011年11月、ローマにカトリック司教たちが招集された。
     その要求は、“悪魔祓い”だったが、その時のニューヨークタイムズが、紙面を飾った。
     「悪魔は存在する。戦いに備えよ」というものだった。

     悪魔が、実際に存在するとしないとにかかわらず、実際に起きた事象を扱っている。
     ミカエル・ハフストーム監督アメリカ映画だ。
     今なお、その『儀式』は実際に行われているとして、世界の人々を驚かせた。


アメリカの神学生マイケル(コリン・オドノヒュー)は、信仰心を見失っていた。
卒業を間近にひかえて、マイケルは司祭になる道を捨てようとしていた。
しかし、恩師に引き止められて、ローマに渡り、カトリック教会の総本山バチカンで行われている、エクソシスト養成講座を受けることになった。
彼はそこで、悪魔祓いの基礎を学ぶが、その非科学的な儀式に疑問を抱いた。

悪魔祓いについて、その信憑性を疑うマイケルに、バチカンのザビエル神父(キアラン・ハインズ)は、異端だが経験豊富なルーカス神父(アンソニー・ホプキンス)を紹介する。
マイケルが彼のもとを訪れると、ちょうど悪魔祓いの儀式が始まるところだった。
悪魔に取り憑かれたという、16歳の少女アンジェリーナ(アリーシー・ブラガ)は妊娠していて、親が誰なのか固く口を閉ざし、神父の祈りがはじまると、別人の声でうめき始め、太い釘を吐き出すなど、想像を超える現象が、マイケルの見ている前で起こる。

マイケルは、身重の体を心配して、精神科医に診せることを主張するのだが、ルーカス神父は頑として受け入れない。
「悪魔の存在を否定しても、自分の身は守れない」と、ルーカス神父はマイケルに警告するのだった。
アンジェリーナは日に日に蝕まれていき、マイケルは、とうとう衝撃的な事実を目撃することになるのだった・・・!

光と闇の両面を露呈するアンソニー・ホプキンス、彼から光を見出そうとする若者コリン・オドノヒューらの存在感といい、悪魔の存在を信じようが信じまいが、傷つけられた人間の心の闇が、いかに深く哀しみに包まれているかを、ミカエル・ハフストーム監督は等身大で体現していく。
この悪魔祓い の儀式について聞いてはいても、その本質に真正面から迫ったのは、このアメリカ映画「ザ・ライト―エクソシストの真実―」がはじめてではないだろうか。
マイケルが、神=悪魔の存在を次第に意識していく、その心情の変化は興味深い。

この映画、観客を脅す手法に、‘音’をやたらに使っているのはあまりいただけない。観ている方はドキッとしてしまうが、わざとらしい。
前半はドキュメンタリータッチで、ドラマの中に現れるカエルや猫は、ルーカスののちの運命でも暗示するものか。
アカデミー賞俳優ホプキンスという役者は、このドラマの難役とも思える神父を演じて、人間の持つ破滅主義的な面をくすぐるようなツボを心得ているようだし、実話がもとになったこの作品にユーモアさえも持ち込んで、物語に深みを与えている。
神父を演じる彼が、闇と直面するシーンもリアリティにあふれていて、怖ろしささえ感じさせる。
彼が演じる悪魔祓いの儀式は、アメリカにおける心理分析のようなものらしく、ちょっぴりコミカルな面もあって、異端扱いされているエクソシストとして注目だ。

日本には、まだエクソシストは一人もいないそうだが、イタリアには約300人のエクソシストがいるといわれる。
彼らは、現代にマッチした精神分析などを学び、各地区の司教に認められて、エクソシストになった司祭もいるそうだ。
エクソシズムを行う彼らは、祈るように十字架をかざし、憑依した者を問いただすくだりが有名だが、それなりの信仰心がなくては、深く理解することはできないのでは・・・?
あくまでも実話にヒントを得て作られた、超自然スリラーだ。
作品の中に、特別残酷な描写があるというわけではなく、心理的な恐怖が迫ってくるあたり、観るものをぐいぐいとひきつけずにはおかない。


映画「アンチクライスト」―愛が生んだ哀しみと絶望の果てに―

2011-04-10 14:00:00 | 映画


     今年公開される映画の中でも、これまた強烈な一作である。
     鬼才ラース・フォン・トリアー監督による、最新作だ。
    デンマーク・ドイツ・フランス・スウェーデン・イタリア・ポーランド合作映画だ。
     
カンヌ国際映画祭では称賛と嫌悪の物議を醸しだした衝撃作である。
     映画は、斬新にしてかつ大胆不敵きわまりない。

     日本での公開は、当初絶望視されていたそうだ。
     公開当初は、立ち見まで出たそうで、そのいわくつきの作品が横浜にもお目見えした。
     登場人物はほぼ二人だけで、子供を失くした夫婦の悲しみと苦悩を、美しくも残酷に描いた作品だ。
     この作品を観て、衝撃を感じない人はおそらくいない。

 
(ウィレム・デフォー)と妻(シャルロット・ゲンズブール)は、お互いに深く愛し合っていた。
だが、二人は、激しい愛の営みの最中に、幼い息子ニック(ストルム・アヘシュ・サルストロ)が、開いていたマンションの窓から階下に転落してしまった。
愛する息子を失くし、悲しみに暮れる夫婦・・・。
とくに、妻は葬儀の最中に気を失ってから、一ヵ月近く意識が戻らず、入院を余儀なくされる。
そして、意識が回復してからも、彼女の神経は弱ったままで、一向に回復の兆しが見えない。

深い自責の念から、妻は極度の鬱に落ち込み、セラピストである夫は、そんな彼女を救いだそうとカウンセリングを試みる。
夫は、さらなるセラピーを施すため、催眠療法で妻の怖れている場所を聞き出し、彼らが「エデン」と呼ぶ森の山小屋へと向かうのだった。
そこは、世にも不気味な幻想の世界であった。
彼らが言うところの、「エデン」の山小屋に救いを求めた現代のアダムとイブが、愛憎の渦巻く葛藤の果てにたどりついたその先には、恐ろしい悲劇が待ち受けていたのだった・・・。

映画のタイトル「アンチクライスト」というのは、反キリスト=悪魔のことを指している。
子供が死ぬことになったのも、神罰、つまり悪魔の仕業ではないかと、夫は疑いはじめる。
そのことは、おのれの肉欲こそが悪魔ではなかったかという、彼の思いだ。
夫に責められる中で、妻は自分の「女性」性を否定しようとする。
女性が悪魔なのか。肉欲が罪なのか。
自責の念から、異常な心理に追いつめられていく妻を演じて、シャルロット・ゲンズブールは熱演だ。
鬼気迫るような迫真の演技に、慄然とさせられる。
驚愕である。もう、凄すぎる!
この作品で、彼女はカンヌ国際映画祭主演女優賞に輝いた。
ごもっともなことで、異論などない。さすがです。

映画は、一種舞台劇を見ているような、錯覚にとらわれる。
とにかく、男女二人(ウィレム・デフォー、シャルロット・ゲンズブール)の名優の演技は、素晴らしいの一言に尽きる。
全身全霊でぶつかり合う苦悩を演じ、まさにそれは《絶望》そのものだからだ!

超現実的とも見えるこの作品に、心が引き裂かれるような震撼を覚えずにはいられない。
トリアー監督、これまで「奇跡の海」などの作品でも、愛と自己犠牲について描いてきた。
・・・ゲンズブール演じる妻は、生きながら死んでおり、いや、死んでいて生きているのだ。
彼女の心は、底暗い敵意(?)と自己憐憫の間で揺れ動いている。

ドラマの森の中で、夫が、子供が半身出てきている出産途中の鹿に遭遇する場面や、人語を囁くキツネの幻視、そのキツネの穴に生き埋めにされてもがいているカラスが鳴くシーン・・・。
この、真夜中の山小屋に現れる三人の乞食とは、それぞれ、悲嘆を象徴する鹿、苦痛を象徴するキツネ、絶望を象徴するカラスであって、寝ている妻の傍らに現れる。

最終章で、丘に向かって歩いている夫が丘の斜面を見下ろすと、そこには、数百人の顔のない女たちが丘を這うように上がってくるのが見えるのだが、ぞっとするようなエピローグである。
絶命寸前という言葉が適当かどうかわからないが、この自閉的な絶望状況におちいってしまった男と女の、悲劇的な狂おしいまでの愛の物語だ。
重厚な映像世界には、圧倒される!
残酷な映画だ。


映画「彼女が消えた浜辺」―恐怖と緊張の心理サスペンス―

2011-04-07 19:00:30 | 映画



     ベルリン国際映画祭
で、最優秀監督賞(銀熊賞)を受賞した。
     アスガー・ファルハディ監督の、珍しいイラン映画だ。
     イランの映画には、個性的で野心的な作品が多い。

     この作品は、謎が謎を呼ぶ、群像劇の形を借りた心理サスペンスだ。
     結婚や恋愛、家族に対する普遍的な問題をさりげなく織り交ぜて、観る者の胸をざわつかせる・・・。





     
テヘランからほど近い、カスピ海沿岸のリゾート地が舞台だ。
ささやかな三日間の週末旅行を楽しむために、大学時代の友人たちが集まってきた。
彼らはそれぞれに事情を抱えるが、数年ぶりの再会が、温かい空気を作っていた。
すでに幼い子供を持ち、ゆるぎない家庭を築きあげてているセピデー(ゴルシフテェ・ファラハニー)が、かつての友人たちに声をかけたのだった。
ドイツで生活し、ドイツ女性との結婚に破れたアーマド(シャハブ・ホセイニ)やその妹夫婦、友人の女性ショーレ(メリッサ・ザレイ)とその夫や子供たち、そしてセピデーの子供が通う幼稚園の先生エリ(タラネ・アリシュスティ)を誘って、総勢11人のヴァカンスであった。

セピデーは、実は今回の旅行を、アーマドとエリとの出会いの場(婚活)に仕上げようとする魂胆があった。
友人たちは少し躊躇しながらも、全員が彼女を受け入れていた。
とりわけ、アーマドは若い女性エリに夢中になっていくのだった。

ところが、そのエリが当然幻のように消えてしまったのだ。
滞在中のヴィラが浜辺にあったので、エリが海で溺れたのではないかと、一行はパニックにおちいった。
みんなで懸命に捜索を繰り広げるが、彼女の姿はどこにもない。
もしや、エリは何かの事件に巻き込まれたのではないか、それとも、別れも告げずにひとりテヘランへ帰ってしまったのか。

様々な可能性を、一行は論じ合うのだが、すぐには答えが見つからない問題に突き当たる。
彼らが、親しみを込めてエリという愛称で呼んでいた、“消えた”女性の正式な本名さえ誰も知らず、彼女について何ひとつ知らなかったのだということに…。

彼女は誰だったのか。
エリについては、確かに謎めいているだけで、多くは描かれていない。
スクリーンの後半からは、登場シーンもなく、逆にそのことで存在感を残す役に注目が集まる。
そして、一行はその浜辺で、何を思うのか。
この、濃密で上質な心理サスペンス劇の果てに、やがて奥深い真実らしいかけらが浮かび上がってくる。

アスガー・ファルハディ監督映画「彼女が消えた浜辺」を評して、人間の持つ複雑な多面性というか、女性の光と影と言ったらよいか、チェホフ劇を思わせるようなドラマだという人もいる。
人間のうわべからは、容易にうかがい知ることのできない、秘密や嘘があり、それを隠し持っていることの複雑さ、漠然とした不安を抱えている人に訴えかけてくるものの、不可思議さがある。
登場人物の、息詰まるようなやり取りを通して、浮かび上がってくるものを巧みに描きながら、ミステリアスな心理ドラマの形を成した群像劇なのだ。

高まる緊張感は、ハンディカメラの使用や、人物の複雑で矛盾した存在をじっくりと時間をかけての演出効果だ。
繊細に織りなされたストーリーのさまざまな伏線、ひとところに定めたアクションと場所の設定が、ひと夏のヴァカンスを過ごす人間と社会を映し出し、それが胸をえぐる悲劇への様相を帯びていく…。
このエモーショナルな作品には、娯楽性も作家性もあり、イラン映画のニューウェーブを感じてもおかしくはない。


映画「津軽百年食堂」―故郷で見つけた過ぎ去りし日の夢―

2011-04-04 04:00:00 | 映画



     大震災の傷痕は、いまも癒えない。
     その東北の津軽で、明治から続く食堂一家のお話だ。
     そこには、永々と受け継がれてきた日本人の心と味があった。

    大森一樹監督は、百年という心のつながりをコンパクトにまとめている。
     過去と現在を行きつ戻りつしながら・・・。
     森沢明夫の、同名小説が原作だ。





     
明治42年、弘前・・・。
大森賢治(中田敦彦)は、やっとの思いで津軽蕎麦の店を出した。
鰯の焼き干しからとるその出汁は、他では真似のできない、深いを出していた。
その焼き干しは、戦争で夫を失ったトヨ(早織)が、幼い娘とともに青森から運んでくるものだった。

…時は流れて、現代・・・。
四代目に当たる陽一(藤森慎吾)は、父の哲夫(伊武雅刀)との確執から、食堂を継がずに東京で暮らしていた。
彼は、故郷への反発と捨てきれない思いの間で、揺れていた。
陽一は、その東京で、同郷の筒井七海(福田沙紀)と知り合った。
彼女もまた、今は無き実家の写真館を思い出に抱いていたのだった。
二人は、経済的な理由から共同生活(ルームシェア)を始めたが、恋に落ちたわけではない。

ある日、父が交通事故で入院し、陽一は久しぶりに帰郷する。
陽一は、七海の抱く幼い日の思い出や、賢治の‘娘’である祖母の心に触れ、少しずつ彼の気持ちは変化していく。
そして、弘前の桜祭りの日、満開の桜のもとで小さな奇跡が起ころうとしていた・・・。

折しも、東日本大震災のあとで、この作品を観ることになった。
「がんばろう日本」ではなく、「がんばろう東北」の気分が伝わってきた。
作品の中で幾度も登場する、津軽そばがとてもおいしそうだ。
東北人ではなくても、懐かしい味がしみるようで・・・。

大森一樹監督映画「津軽百年食堂」は、過去と現代を対比させて展開する。
ドラマの中に、不景気、就職難、Uターン現象、老舗の後継者問題などを絡めながら、現代の若者の苦悩などものぞかせる。
初代賢治の人生に、四代目の若者を重ねて描かれる物語で、そこには、どこか温かで懐かしい、百年の心のつながりを感じさせるものがあるが・・・。

いろいろと盛り込みたいこともあったらしく、挿話の多いのは致し方ないにしても、賢治とトヨ、陽一と同郷の女七海との交流などにもロマンのふくらみがあれば、ドラマもより楽しいものになったのでは・・・。
多くを期待したいわけではないが、青春映画としては、欲を言えばややオーソドックスで、物足りなさも感じないではない。
ちょっととぼけたような味わいもある、地味な作品ながら、桜舞う美しい津軽を舞台にした、祈りのような佳作ではある。

  余談ながら、「がんばろう日本」の公共広告が、間断なくテレビで連呼されるのを聞いていると、どうも戦争中を思い起こさせるようで、妙に虚しい。
  「今日よりは明日はよくなる」・・・、もちろんそうあってほしいのですが・・・。


映画「冷たい熱帯魚」―凄絶な狂気と殺戮の暗示するもの―

2011-04-01 10:35:00 | 映画


          
            想像を絶する世界とは、こういう世界をいうのだろうか。
            現実であって、非現実・・・、悲劇であって喜劇である。
            怪異と猟奇が交錯する。
            荒々しい描写の連続だ。
            そして、それは何を言おうとしているのだろうか。
            衝撃の問題作だ。

           園子温監督の、猛毒に満ちた、驚異の世界が展開する。
            登場人物は、何を語ろうとしているのだろうか。
            彼らの行動原理さえも、不可解だ。
            1993年に埼玉で起きた、愛犬家殺人事件をもとにしている。
            冷酷な犯罪者を描いた、血みどろの物語である。
            容赦もない、妥協もない。
            何もかも、すべてが大胆不敵だ。
小さな熱帯魚店を営んでいる社本(吹越満)は、妻の妙子(神楽坂恵)と一人娘の美津子(梶原ひかり)と暮らしている。
だが、家庭は崩壊寸前だった。
再婚した若い妻を、美津子は受け入れることができず、非行に走る。
その影響もあって、社本と妙子の夫婦関係は、どうにも重い鬱屈した影に支配されている。

ある夜のことだった。
美津子が、スーパーで万引きをして捕まった。
店から呼び出されて、夫婦が娘を引き取りに行くと、何故かその場を救ってくれたのは、店長の知り合いの村田(でんでん)という男であった。

村田は、同業の巨大な熱帯魚屋のオーナーだった。
助け舟を出してくれた村田と、村田の妻の愛子(黒沢あすか)を交えて、社本家との間で奇妙な交流が始まる。
そして、この一見人の好さそうな村田と、彼のどす黒い本性が次第に明らかにされていく中で、予想さえもしなかった、衝撃的で驚愕の破滅へと引きずり込まれていく・・・。

まともな心理状態では、とても観ていられない、身の毛のよだつような怖ろしさが漂う。
村田は怪人といってもよく、どこか新興宗教の教祖めいたところもあって、まるで土木工事でもするかのように、喜々として(!)人体を刻むという行為には、戦慄が走る。
何故なのか。

最後まで、気の弱そうな男を演じる社本までが、‘猛毒’に染まっていく。
登場人物たちの誰もが、みんなわからない。
わからないことだらけだ。
だから、怪異なのだ。
社本が村田を殺すところから、もうあとは理解できないシーンばかりが続く。
‘家族’である、自分の娘を彼が刺そうとするのも、そのあとで娘が父親を罵倒するのも、社本自身が何かに憑かれたように動き始めるのも、よくわからない。
何故、どうして、という疑問は最後まで残った。

社本の妻と娘、さらに村田の妻という、女たちのドラマに見る非現実な交じり合いは、まことに不気味だ。
結局、園子温監督のこの映画「冷たい熱帯魚」は、何を言いたかったのだろうか。
凶暴な人物ばかりを主人公に展開する、底なしの深淵に見えてくるものは、世間一般の常識をもってしては、曰く不可解につきる。
もっとも、世間では、意味の解らない、無意味とも思える無差別殺人や猟奇的な犯罪も多い昨今、この作品に散見する血生臭さは、悪戯もここまできたかと思わせるものだ。
物語のつくりは、全般にわたって粗削りで、雑である。
それでいて、海外の映画界では熱狂的に迎えられ、世界10か国以上で公開され、その独特の世界観で、園子温監督の名を不動のものにしつつあるといわれる。
「愛のむきだし」(ベルリン映画祭国際批評家連盟賞)など一連の問題作で、いま最も波に乗る監督の一人といわれる。

究極のダークファンタジーゆえに、テレビなどで公開されることはまずありえない。
役者陣は、一癖も二癖もある実力派俳優が集結して、園ワールドの集大成みたいに感じた。
超過激的な描写が多く、怖ろしい映画である。
でも、冷酷な犯罪者を描いたこの血みどろの作品に、爆笑する人もいれば、喝采する人もいる。
老婆心ながら、鑑賞は十分覚悟の上で…、とだけ申し上げておきます。