息子を失くした母がいる。
彼を愛した男がいる。
嫌悪と慈愛が交錯する。
お互いの魂がぶつかり合う。
2013年にスクリーン・デイリー紙で「明日のスター」に選ばれた、カンボジア生まれでロンドンで活躍する新鋭若手、ホン・カウ監督の長編デビュー作だ。
繊細にして情感豊かな脚本も 手がけ、映画は静かな室内劇の様相を見せる。
監督自身の母への思いを重ねあわせた、人と人とのつながりの大切さを描いた、正直な物語だ。
古き佳き時代を残す、美しいデザインの壁紙が映し出される。
小さなテーブルに置かれた写真立てが、誰かの思い出を語っている。
チャイナ・メロディーの名曲「夜来香」が、ラジオから流れている。
冒頭のシーンである。
初老を迎えた中国人のジュン(チェン・ペイペイ)は、ロンドンの介護ホームでひとりで暮らしている。
英語もできない彼女の唯一の楽しみは、息子のカイ(アンドリュー・レオン)が面会に訪ねてくる時間だった。
カイは優しく美しく成長した一人息子で、中国とフランスの血を引いた夫との間に生まれた。
カンボジアの華僑だったジュンは、夫とともに29年前にカンボジアを離れ、息子により良い将来を与えたく、ロンドンに移住したのだった。
夫を亡くしてから、女手ひとつで息子を育ててきた。
言葉の解らないジュンにとって、息子のカイだけがロンドンと息子をつなぐ存在だった。
そのカイは、自分がゲイで恋人リチャード(ベン・ウィショー)を深く愛していることを、母に告白できず悩んでいた。
そして訪れる、突然の悲しみ・・・。
カイは最近事故で亡くなったのだった。
リチャードは、カイの“友人”を装ったまま、ジュンの面倒を見ようと努力する。
しかし、文化も世代も違い、言葉も通じないジュンとリチャードであった。
愛する人を失った痛みを共に感じているのに、愛ゆえに大切な亀裂まで生じて・・・。
息子のそんな真実を知らない母親と、真実を隠し続けようとする恋人と、分かち合う悲しみが、離れる二人の心を結びつける。
何とももどかしい言葉の違いが、ジュンとリチャードの心をかき乱す、その葛藤が繊細に綴られていく。
だが、たとえ言葉はわからなくても、心の中を丹念にたどることで分かり合えることもある。
人の「想い」とは、いつかはそうして強くなるものなのだ。
人と人とのつながりの大きさを訴えて、この作品のもつ意義は大きい、
アジア映画史に刻まれる、伝説の女優チェン・ペイペイは上海出身の女優だが、香港のみならず世界中の中国語圏で人気を誇っている。
この作品でも、静かで緻密な演技がドラマを引き締めている。
ベン・ウィショーは、現在の英国俳優では最も期待される確かな演技力の持ち主で、またアンドリュー・レオンは映画初出演、今後の活躍が期待される新人だ。
イギリス映画「追憶と,踊りながら」は、イギリス人青年とカンボジア系中国人女性の心の交流を描くヒューマンドラマで、回想と現在を絡めながら、きわめて自然な流れでドラマを綴っていく。
言葉や文化、世代を乗り越えて、わかり合うことの難しさを感じさせる。
カンボジア難民出身のホン・カウ監督が、英BBCの支援プログラムで製作した物語で、その繊細なタッチに注目だ。
美しいぬくもりを感じさせる作品だ。
・・・明日が来る。
今日とは違う、明日が来る。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回は映画「サンドラの週末」を取り上げます。
時代劇のルネッサンス(?)と銘打って、醍醐味たっぷりの作品が登場した。
井上ひさしの「東慶寺花だより」を原案に、様々な事情で離縁を求めて、幕府公認の縁切り寺である東慶寺に駆け込む女たちの人間模様を描いている。
虐げられた女たちの人情時代劇だ。
原田眞人監督は、テンポのある展開と資料に忠実な時代考証で、映し鏡のような感じで共感を呼びそうな作品に仕立て上げた。
時代背景を、天保の改革の頃に設定し、政治家の強権発動とその弾圧の実態を盛り込みながら、疾走感の溢れる時代劇となった。
こんな映画を観ると、本当に人生の景色まで変わるかもしれない。
台詞(会話)のリズム感が心地よく、最後まで退屈させることはない。
1841年、江戸時代・・・。
時折しも質素倹約令が出され、庶民の暮らしは抑圧されていた。
鎌倉の東慶寺は、当時「縁切り寺」として、離婚を望む女性たちが逃げ込むことを公に許されていた。
そこに、顔に火ぶくれのある鉄練り職人のじょご(戸田恵梨香)や、唐物問屋の囲われ者のお吟(満島ひかり)たちが逃げ込んでくる。
寺の近くには御用宿の柏屋というのがあって、そこで女性たちの身柄を一時的に預かっていた。
見習い医師で、戯作者の修行をしている信次郎(大泉洋)は、柏屋の居候となって、彼女らの世話をするのだ。
そこへ、逃げ込んだ女たちを追って、暴力的な夫やヤクザがやって来る。
東慶寺を巡る陰謀の舞台で、信次郎は様々な騒動に巻き込まれる。
知恵と話術と洞察力に秀でた信次郎は、あの手この手で、女たちが抱える複雑な事情を解決しようと奔走するのだった・・・。
登場人物の会話にテンポがあり、早口なのにそれがとても気持ちよい。
会話のリズムに引きずられて、ドラマが生き生きとしている。
主役の大泉洋が、いくつものエピソードを連ねて、軽妙な持ち味でまとめ上げていくプロセスが見もので、存在感もたっぷりだ。
それぞれに複雑な過去を背負った女たちを、いまが旬の若手女優が力いっぱいに演じて、現代の空気が流れている。
御用宿の仕組みや、離婚の最終手段である、24カ月にわたる尼寺の修行内容なども細部まで描き方が丁寧で宜しい。
東慶寺入山にはかなりの金も必要で、納付金額によって寺内での身分が違ったりと、縁切り寺内での仕組みも面白いし、隠れキリシタンを巡る逸話も交じって、いろいろなエピソードが盛り込まれて、多すぎてちょっとどうかなと思う反面、全体的には明るいコメディ調で、物語の乗りが良いので鑑賞後の感懐は非常に爽快だ。
若い観客から年配層まで楽しめる作品だろう。
原田眞人監督の作品「駆込み女と駆出し男」は、それぞれ自分の人生を懸命に生きようとする両者を描いて面白く、男女差別のなくなったといわれる現代に、いまの時代の原型を見る映画だ。
でも、暗くなりがちな女たちの話を、さらっと洗い流すようなドラマとして成功したとすれば、何といっても主役の大泉洋の存在が大きい。
面白さという点では、最近出色の出来だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回はイギリス映画「追憶と,踊りながら」を取り上げます。
地球が産み出した荘厳なアルプスに、言葉を失うような素晴らしい感動を覚える。
その高く、深い夢幻の遊覧飛行は、まさに鳥になってパノラマビューを堪能する気分だ。
美しくも厳しい、多様な山岳風景は、何と日本の本州の面積と同じくらいなのだ。
ドイツ、オーストリア、フランス、イタリア、スロベニア、リヒテシュタイン、スイスの7カ国にまたがる、ヨーロッパのアルプス山脈を空撮したランドスケープは、圧巻の一言に尽きる。
ペ ーター・バーデーレ監督のこのドイツ映画は、地球の歩みと生命の輝きをダイナミックに綴ったドキュメンタリーだ。
鳥の眼(シネフレックスカメラ)で俯瞰するアルプスの全貌は、アルピニストでさえ見たことのない大自然を描いていて、興味尽きない。
人間を拒むかのような峡谷、高峰にそびえたつ十字架など、全編を撮影したのは、ヘリコプターに搭載した「シネフレックスカメラ」で、アメリカの情報局が開発した特殊カメラで、揺れに強く、高さ数千メートルから地面まで、ブレのないズーム撮影を得意としているのだそうだ。
この映画の中では、500メートルも離れた空中から、山羊と鷹に気づかれることなく撮影ができて、リアルな生態をありのままに活写している。
普通アルプスというと、印象的な三角錐のあのマッターホルンや、ハイジの山小屋等を連想するが、この映画では大自然の様々な景観はもちろん、山で物を運ぶ人々や山麓で牛とともに生きる人々、さらに自然美だけにこだわらず、アルプスの大地を糧に、人々が興した産業や歴史に触れているのも俯瞰できて、満足だ。
さらにもっと見たい気を起こさせるし、そんなアルプスを訪ね歩きたい願望にかられる。
そんな映画だ。
ドイツのドキュメンタリー映画「アルプス 天空の交響曲(シンフォニー)」は、大自然の宝石箱をのぞき見る思いで、劇映画に見慣れた小さな人間には、爽快な気分に満たされて、とてもうれしい作品だ。
航空映像ドキュメンタリーが専門の、ペーター・バーデーレ監督は「シネフレックスカメラ」で、本作の前章ともいうべき「Die Nordsee von oben」(12末)を撮影し、ドイツ本国で21万5000人の観客が映画館に足を運んだそうだ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
現在26歳のカナダの俊英、グザヴィエ・ドラン監督の5本目の長編新作だ。
カンヌ国際映画祭で、審査員特別賞に輝いた。
まず、驚くことがある。
映画の画面の縦横比というと、最近では横長のシネスコと、ビスタサイズがほとんだ。
それがこの作品では、画面の比率が1対1の正方形だからだ。
それも、感情のおもむくままに行動する主人公の奔放さに合わせて、大きく視界が広がるように、画面をビスタサイズまで押し広げて、とかく生きにくい人生と格闘する人々を描いている。
この物語演出は、グザヴィエ・ドランの再起と凄みを感じさせるものだ。
ダイアン・デュプレ(アンヌ・ドルヴァル)は、気の強いシングルマザーで、掃除婦としてギリギリの生計を立てていた。
彼女は喜怒哀楽が激しく、おしゃべりで、まるでティーンエイジャーのようなケバケバしいファッションに身を包み、15歳になる息子のスティーヴ(アントワン=オリヴィエ・ピロン)と二人暮らしをしている。
スティーヴはADHD(多動性発達障害)で、性格はは攻撃的で、キレると手がつけられない天使だ。
常に情緒不安定で、他人を罵ったり、喧嘩を吹っかけたり、最悪なことに女性とみれば、誰かれかまわずタッチしまくるクセが抜けないまま大人になりつつあった。
しかしスティーヴは、平静な時は極めて知的で素直な、どこにでもいる純朴な少年であった。
それだけに、母親を一層右往左往させている。
そのスティーヴは、矯正施設から退所してきたばかりで、ダイアンはこの問題だらけの息子の面倒を自宅でみることになった。
それは、恐怖と喜びがないまぜになった、悪夢のような生活の始まりであった。
ある日スティーヴが、近所に住む休職中の女性教師カイラ(スザンヌ・クレマン)と知り合ったことで、母子の毎日に変化が訪れるようになった・・・。
多動性発達障害で感情を制御できない主人公は、矯正施設でも放火事件を起こし、一方の母親の方も息子を愛しているものの、かなり身勝手な欠陥母で、閉塞的な環境の中でどこか窮屈を強いられている。
正方形の画面では、息を詰まらせるように閉じ込められている二人に、希望の光が射し込むと、この画面のサイズに変化が現れる。
そうした演出の仕掛けが心憎いとともに、ラスト近くでも、紗がかったスクリーンで未来が語られるシーンの美しさなど、映画の技法と人間の心情が見事に一致した、秀逸な場面である。
1対1の正方形の画面は、心強くも、実に効果的な働きをしている。
スティーヴとダイアンという、いわば二人のはみ出し者が、ここでは肩を寄せ合って逞しく生きてはいても、その濃密な親子の愛情は、いつも互いを傷つけ合い、そのことで母親は追い詰められていく。
19歳でデビューを飾ったグザヴィエ・ドラン監督は、同性愛者であることと、母親への複雑な愛情をテーマに映画を作ってきた。
カナダ映画「Mommy/マミー」は、どこまでもエキサイティングな新世代監督グザヴィエ・ドランの抱える切実な主題を捉えて、鮮やかな才能のひらめきを感じさせる作品だ。
映画は、解放感と高揚感があり、障害を背負った少年の孤独と孤軍奮闘する母親の悲しみを描いて、ほとばしる才気を感じさせる。
この作品では、生きたいという欲望は怒りとなるのだ。
そう、確かにそうなのだ・・・。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
ニューヨークのブルックリンを舞台に、音楽を通して予期せぬ出来事と出会いがあり、それが偶然の恋を生む。
スクリーンに醸し出される自然な街並み、都会的なムードを背景に、甘いちょっぴり切なさをともなったラブストーリーだ。
いや、ラブストーリーというよりは、むしろ音楽映画といった趣きが強い。
「プラダを着た悪魔」の監督助手を務めた、ケイト・バーカー=フロイランドの監督、脚本によるアメリカ映画である。
「レ・ミセラブル」でアカデミー賞助演女優賞に輝いた、アン・ハサウェイはこの作品でも可憐な歌声を披露し、家族との葛藤や恋に揺れる等身大の女性を演じている。
だが、大人のラブストーリーとしては、平凡でどうも物足りない。
モロッコで生活しながら遊牧民の研究をしているフラニー(アン・ハサウェイ)は、母カレン(メアリー・スティーンバージェン)からの連絡で、ミュージシャン志望の弟ヘンリー(ベン・ローゼンフィールド)が交通事故で意識不明だと聞かされ、急処ニューヨークに帰ってくる。
大学を辞めてミュージシャンになると言った弟とは、喧嘩別れをして以来疎遠になっていた。
しかし、ヘンリーの意識が戻る可能性は低いと、医師から知らされ、フラニーは動揺する。
フラニーは、弟の部屋で見つけた自作の曲に魅せられ、自分がヘンリーのことを何も知らずにいたことを悔やむ。
彼が、日頃何を感じてきたかを探ろうと、フラニーはヘンリーの日記を手掛かりに、バイトをしていたギター店、ガールフレンドと一緒に行ったレストラン、ライブハウスなど足跡をたどっていく。
ある日、ライブハウスでヘンリーの憧れるミュージシャンのジェイムズ(ジョニー・フリン)と出会う。
彼に弟の新作CDを渡し、大のファンだと伝えたことから、人類学者の卵フラニーとシンガー・ソングライターのジェイムズは、音楽を通して互いに惹かれあっていくのだったが・・・。
このアメリカ映画「ブルックリンの恋人たち」の主役は、むしろ叙情的な数曲のポップス音楽だ。
プロデューサーをも兼ねるアン・ハサウェイが、主演だけでなく、制作面で生き生きとした清爽感を生み出している。
ミュージシャンのジェイムズが、昏睡状態を続けるヘンリーを訪ね自分の歌を聞かせるシーンなど、演出にも工夫を凝らしている。
ポップスが彩る大人の恋というやつで、小さなインディペンデント映画といえる。
アカデミー賞女優がいつかはと夢見ていた映画製作に関与できたことで、彼女もまた女優から一歩前進した感じだ。
ドラマは抑制のきいた大人のドラマなのだが、物語の展開の奥行きが乏しく、ラブストーリーとしては平坦すぎて、頼りない。
祈りのようなシーンも見られるが、ポップス抜きにして語れない作品で、それ以上は多くを期待できない。
[JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点)
懐かしいフランス映画の名作「太陽がいっぱい」で名高い作家、パトリシア・ハイスミスの「殺意の迷宮」が、この映画の原作だ。
この犯罪小説に魅了された、イラン出身の脚本家、ホセイン・アミニ監督が初の長編デビューを飾った。
ギリシャ、トルコといった現地ロケで、各地の風景も美しく、地中海の光いっぱいの観光映画風なところもあるが、全体に端正な作りで、1960年代の雰囲気を生かした風俗、服装が印象的だ。
一応、異国情緒の中に、郷愁ムードも漂うサスペンスとして楽しめる。
1962年、ギリシャのアテネでツアーガイドをしているアメリカ人青年ライダル(オスカー・アイザック)は、パルテノン神殿で、優雅なアメリカ人紳士チェスター(ヴィゴ・モーテンセン)とその妻コレット(キルスティン・ダンスト)とめぐり逢った。
ライダルは、裕福で洗練された夫妻にたちまち魅了される。
彼はすすんで、夫妻のガイドを務め、楽しい夕食のひとときを共にする。
ところがその夜、チェスターがホテルに現れた探偵と名乗る男を殺害し、ライダルがその後始末を手助けしたことから、三人の運命は急変する。
実はチェスターの正体は、投資家から大金をだまし取った詐欺師だった。
そうとは知らず、ライダルは彼らの逃亡を助け、アテネからクレタ島へ。
船とバスを乗り継ぎ、偽造旅券の届くそのクレタ島への旅の途中、ライダルとコレットは身の上話を打ち明け合ううちに親密になり、嫉妬心に駆られたチェスターは平常心を失っていく。
ラジオのニュースで、チェスターの探偵殺人の事実を初めて知ったライダルは、彼に自首をすすめるが一蹴される。
逃亡を助けて共犯者となったライダルは、いまさらもう後戻りすることはできない。
やがて、警察の捜査網にも追い詰められた三人は、後戻りできない破滅への道を突き進んでいくのだった・・・。
偶然めぐり逢った男女三人が、逃避行のさなかに織りなすちょっぴり濃密な心理ドラマだ。
ヴィゴ・モンテーセンが、大人のダンディズムを匂い立たせる外見の裏に、詐欺師という別の顔を持ち、これが結構はまり役だ。
キルスティン・ダンストは、妖しげな美しさと劇場を併せ持つヒロインを体現し、オスカー・アイザックが人生を一変させるほどの大事件に巻き込まれる青年役で、それぞれ欠点も沢山ある三人だが、でもみんなが勇敢に生きていて、何だか男も女も愛おしく感じられる。
二人の男が反目しあうというアイディアも面白いが、心理ドラマとしての掘り下げは浅い気がする。
それに、警察に追われる男女の焦燥と愛憎の三角関係は、どうも古めかしいメロドラマを連想させる。
欲を言えば、サスペンスにも、もっと鋭さがあってもいいのではないか。
幸運の女神が微笑むアテネ、クレタ島、そしてイスタンブールでのロケ撮影、敢えて1960年代風のエレガンスを再現しながら、現代的な要素を加えたコスチュームなど、まあまあ見どころがないわけではない。
ホセイン・アミニ監督のイギリス・アメリカ・フランス合作映画「ギリシャに消えた嘘」は、古代ギリシャの遺跡アクロポリスを訪れた、チェスター、コレットのマクファーランド夫妻がライダルと出会うシーンで幕を開ける。
クライマックスのシークエンスは、イスタンブールで撮影された、縦横に交差する迷路のような大通りや、路地での追跡劇ではなかろか。
逃避行に三角関係が絡んで、ドラマの終盤は駆け足だ。
共感しにくい部分もあるが、遺跡を舞台にエキゾチシズムはふんだんで、娯楽映画としては結構面白いかもしれない。
[JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
こんな映画は初めてである。
カンヌ国際映画祭をはじめ、世界の映画祭を席巻したのもうなずける。
ウクライナの新鋭、ミロスラヴ・スラボシュピツキー監督による個性豊かなサスペンス・ドラマだ。
何と、これは驚きである。
全編手話で、台詞も字幕も吹き替えもなしなので、したがって無声映画のように見て理解するしかない。
俳優たちはすべて聾唖者で、声を発することはない。
登場人物は、怒るとき声で怒鳴るのではなく、相手につかみかかり、突き飛ばし、全身で感情を表現するのだ。
文字通り声のない世界だ。
だから、観客の方は、いやがうえにも映像への凝視が深まり、画面の方は生々しいスリルが展開していく。
ときに性と暴力の鮮烈な映像を散りばめながら、最後まで緊張感を高めていくドラマは、しかし、どこまでも冷徹な演出にしっかりと支えられている。
ウクライナの聾唖者専門の全寮制寄宿学校・・・。
主人公セルゲイ(グレゴリー・フェセンコ)は、入学早々に殴り合いの洗礼を受ける。
学校は、一見民主的な雰囲気に包まれているが、裏では、犯罪や売春を行う悪の学生集団(トライブ=族)が、暴力的に支配している。
セルゲイは実力を認められ、族の一員に組み入れられる。
彼の最初の仕事は売春の仕切りで、長距離トラックの運転手らを相手に、クラスメイトの娘たちに体を売らせるのだ。
しかしセルゲイは、リーダーの愛人で、売春する娘のひとりアナ(ヤナ・ノヴィコヴァ)を好きになり、金を貢いで関係を持つようになる。
セルゲイはアナに売春をやめるように頼むが、アナはイタリアへの脱出を夢見ていて、彼の申し出を激しく拒絶する。
セルゲイは、売春の元締めである土木作業の教師を襲って、彼から金を奪い、アナにそれを差し出すのだったが・・・。
セルゲイは組織のルールを蹂躙したとして、リーダーたちから手酷いリンチを受け、満身創痍となるが、絶望と怒りと憎悪も露わに、ある決断を下すのであった。
冒頭の、バスが行き交う停留所で鳴り響く車の騒音、セルゲイらが相手を殴るときの平手打ちの音、夜の公園に吹きすさぶ風の音、感情をあらわにする登場人物たちの荒々しい息づかい、それらが劇映画以上にリアルな緊張感で迫ってくる。
もちろん、思わず目を背けたくなるような過激なシーンもある。
台詞も音楽もなく、登場人物たちはすべて聾唖者で、ひとりの職業俳優もいない。
彼らのコミュニケーションは、全編手話のみで表現される。
スラボシュピツキー監督のウクライナ映画「ザ・トライブ」は、若者たちの野心、愛、憎しみ、絶望といった、誰もが抱える感情を、目に見えるものに、耳に聞こえるものに映像化して見せた。
それはリアリティに富んで衝撃的で、本当に凄まじい限りだ。
登場人物たちの情念は、おそろしいほど強烈に伝わってきて、体を張って生きる若者たちの身体言語が、いかに効果的に使われていることか。
せわしなく動き回る人物と、それを追いかけるカメラ、言葉にならぬ声、激しすぎるほどの手話の応酬・・・。
この映画の終盤、愛を失ったセルゲイの選んだ行動が発する、凶暴な叫びならぬ響きが残酷で、彼の受けた絶望の深さははかり知れない。
いやいや、前代未聞の映画体験だ!
今まで、こんな映画見たことない。
しかもウクライナの映画とは・・・。
とにかく手話のみで観客をくぎ付けにする、実にパワフルな作品で、まず見応えは十分だ。
ミロスラヴ・スラボシュピツキー監督の、大胆不敵な力作である。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
次回は「ギリシャに消えた嘘」を取り上げます。
いつから私はひとりでいる時、こんなに眠るようになったのだろう。
潮が満ちるように眠りは訪れる。もう、どうしようもない。その眠りは果てしなく深く、電話のベルも、外をゆく車の音も、私には響かない。なにもつらくはないし、淋しいわけでもない、そこにはすとんとした眠りの世界があるだけだ。(吉本ばなな 「白河夜船」より)
26年もの時を経て、吉本ばななの初期の同名小説を、若木信吾監督(撮影も)は原作に忠実に映画化した。
ただし、映画の時代設定はスマホ全盛の‘いま’の時代だ。
寺子(安藤サクラ)は、恋人の岩永(井浦新)と不倫関係を続けながら、平穏な日々を送っている。
寺子は岩永からの電話を待つだけで、これといった仕事もしていない。
岩永には妻がいるが、彼女は交通事故に遭ってから、ずっと植物人間の状態にあった。
寺子には、ひとつだけ岩永に言えずにいることがあった。
それは、最後の親友しおり(谷村美月)が死んでしまったことだ。
しおりは、男たちにただ添い寝をしてあげるだけの、‘添い寝屋’という奇妙な仕事をしており、まるで天職のようにその仕事に夢中になっていた。
そんなしおりが、自ら死を選んでしまったことに寺子はショックを受けたが、何故か岩永には言い出せずにいた。
しおりと過ごした日々を想いかえしているうちに、寺子の眠りは徐々に深まっていく。
どんなに深い眠りでも、岩永からの電話だけは聞き分けられるのが自慢だったが、ついに彼からの電話に気づかなくなっていたことに、寺子は驚きを隠せない。
いつまでも、何かに取り憑かれたように眠り続ける寺子にとって、いつしか夢と現実の境目すら曖昧になっていくのだった・・・。
‘眠り’をテーマに、淋しさを耐えて生きる人々を静かに描きだす物語だ。
‘眠り’に取り憑かれて、暗闇の中で逡巡する恋人たちを優しく描いた作品で、、そこから感じられることは人に寄り添って生きること、愛することのよろこびだ。
‘眠り’がいたるところに横溢している。
俳優の台詞や独白はささやくように、スクリーンの前面に生々しく登場して来る。
現実の現在と過去に夢や幻想を交えて、ドラマは構成されているが、ヒロイン寺子役の安藤サクラの演技は奔放自在である。
主人公寺子と、自殺を遂げたしおり、寺子の不倫相手の岩永の妻の植物人間になった眠りと、ここでは三つの眠りが描かれている。
寺子の眠りは疲労と不安が甘く溶け合った眠りであり、岩永の妻の眠りは果て無き眠りであり、寺子に言わせれば、「手の込んだ売春ではないが売春みたいな」添い寝の眠りは、奇妙な優しさの背後に鈍くけだるい絶望を感じさせる。
三つの眠りの、そのとらえどころのなさは一体何を物語っているのか。
寺子の眠りはどことなく不安定な存在感を漂わせているが、しおりの添い寝は眠ったふりや動かぬふりもあるだろう。
岩永の妻の眠りは不動人の眠りだ。
若木信吾監督の作品「白河夜船」は、眠れる女たちの心象風景を静謐のうちに描いて、一種不思議な物語である。
作品のもつ深い意味を考えるでもなく、何だかたゆたう夢の揺籃の中にいるように感じるのは、この映画を観ている自分だけであろうか。
[ JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点)
人間の本質に迫った骨太な作品である。
2001年に韓国の麗水(ヨス)で実際に起こった事件をもとに、「殺人の追憶」「母なる証明」など次々次と傑作を放った、シム・ソンボ監督が映画化した。
正視に堪えない、強烈なシーンが続く。
究極の状況の中で、最後に生き残れるのは誰か。
この作品は、不法移民の密航で起きた一艘の漁船を舞台に、人間の狂気を峻烈な映像で描いている。
人間の本性をどっしりした演出で抉り出すあたり、シム・ソンボ監督は並の人ではない。
1998年、韓国南部の麗水(ヨス)・・・。
漁船チョンジン号には、カム船長(キム・ユンソク)をはじめ6人が乗り組んでいるが、不漁続きの上、ボロ船のため故障が多い。
その修理のため金策に困ったカン船長は、密航の仕事に誘われる。
嵐の夜の海で、チョンジン号は中国船から多数の朝鮮族の密航者を引き取るが、若い女性ホンメ(ハン・イェリ)が海に落ち、新人乗組員ドンシク(パク・ユチョン)が彼女を助け、温かい機関室に匿ってやる。
やがて監視船が来たとき、カンは密航者たちを魚艙(ぎょそう)に押し込めて隠した。
ところが、運の悪いことに、魚艙内にフロンガスが充満して移民たちが事故死する。
遺体の始末をどうするか。
機関室に匿ったホンメをどうするか。
ここから、狂気に満ちた本当のドラマが始まる・・・。
漁船内の狭い空間を動き回る手持ちカメラが、映像の流れを力強く作っていく。
船長や乗組員たちの心理と行動に、緊張感がみなぎり、ドラマの展開が気にかかる。
甲板上は濃霧に覆われ、不法移民の遺体を斧で切り刻む場面は、狂った人間たちの悪魔の所業だ。
そんな中で、ホンメを助けながら、彼女に恋心を抱き、カンたち乗組員に狙われたホンメを必死で助けようとするドンシクの姿に、一縷の愛と希望が託されるのだが・・・。
船と乗組員への思いが深い、船長役のキム・ユンソクが存在感たっぷりの熱演だ。
ほかにも、パク・ユチョンはもちろん、キム・サンホ、ムン・ソングンら個性派が揃っている。
密航者たちを中毒死させてしまったことをきっかけに、船内は殺し合いの地獄と化してゆく。
荒くれ男の乗組員たちと対照的に、ヒロインに献身的な、主人公の感情の表出がやや不十分だ。
シム・ソンボ監督の韓国映画「海にかかる霧」は、極限状態のもとでの人間の剥き出しの欲望を描いて、非情さに満ちている。
人間とは何か。
どこまでが人間なのか。
いやでも胸を打つシーンが、ひりひりするほどに悲しく辛い。
力作である。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
こんな映画があったのか。
恐ろしくても目の離せない、想像を絶する驚異の映画である。
2013年、73歳で他界したロシアの巨匠・アレクセイ・ゲルマン監督の遺作だ。
ストルガツキー兄弟のSF小説を原作に、2000年から撮影されてきたが、ゲルマン監督の急逝によって妻子が完成させた。
どこまで行っても果てのない、怪物的な世界を描いて、まるでこの世の地獄めぐりをしているような感覚にとらわれる。
鬼才アレクセイ・ゲルマン監督は、全編2時間58分の鮮烈なモノクロームで悪夢の世界を展開する!
驚愕の映像世界である。
物語はとにかくわかり難い。
地球より800年ほど進化の遅れた、中世を思わせる異星(惑星)が舞台だ。
その、とある都市アルカナル・・・。
この地に地球から、科学者、歴史家らの調査団が派遣された。
そこでは、権力を持った商人たちによる圧政、殺戮、知識人迫害が横行していた。
地球から来た研究者の一人、ドン・ルマータ(レオニード・ヤルモルニク)は、知識と力を持って現れた神のような存在として崇められていた。
20年という時が流れても、文化発展の兆しは全く見られず、政治に介入することは許されず、ルマータの理性は打ち砕かれ、知識人は首を吊られ、人々は汚穢の中を這いずり回っていた!
そのルマータも当直中に、王の護衛隊に逮捕される・・・。
この中世的圧政と暴虐が支配、横行する惑星に、文化的発展をもたらそうとしてもできない。
人間が神と呼ばれようとも、悪を本当に克服できるだろうか。
権力者、軍隊、修道僧が無意味な争いを繰り返し、殺し合う凄惨な現場は修羅場そのものだ。
惑星は年中豪雨に見舞われ、ドロドロの地面に汚物が撒き散らされ、誰もがそれにまみれていく。
画面は奥行きが深く、いつも何かが動いている。
人間、判別しがたい固形物、液体など・・・。
猥雑で、不快きわまりない、目を覆いたくなるようなシーンが、これでもこれでもかと眼前に迫ってくる。
圧倒的なイメージの洪水だ。
しかも、その滑稽と諧謔は説明の仕様がない。
撮影期間6年、編集にさらに5年、ゲルマン監督急逝後の残りの作業を、彼の遺言通り妻子が継いで、延べ15年以上もかけて作品を完成させた。
異様この上ない作品だ。
物語には起承転結もないし、複雑なセット、小道具、夥しい数のエキストラや動物が入り乱れて、もう混沌と虚無が混在する怪異な世界が描かれる。
詳しい説明も、描写もない。
濃密な画面だけが、切れ目なく、何の脈絡もなしに一気に襲いかかってきて延々と続く。
この怖るべき混沌は、おそらく映画でできることを、極限にまで突き詰めたものではないだろうか。
長い映画の終盤、坊主頭になり、鎧を脱ぎ捨て毛皮をまとった主人公ルマータは、奴隷たちに囲まれながら愛用の吹奏楽器を演奏する。
ルマータは馬車で雪道を去ろうとするのだが、牽引していた騎馬隊から、いつしか車が切り離される。
そして、騎馬隊が遠ざかっていく中、取り残されたルマータの奏する、もの悲しいメロディだけが雪原に響き渡る。
全編を通して、最も身の引き締まるラストである・・・。
しかし、この異星(惑星)の出来事は、間違いなく、いや、もしかすると地球の現代かも知れないのだ。
その現代を打ち砕く、鬼才ゲルマンの執念怖るベしである。
これも映画芸術というか。
アレクセイ・ゲルマン監督のロシア映画の大作「神々のたそがれ」は、すらすら簡単に観られるたぐいの作品ではない。
とても、誰にでも楽しめるという作品でもない。
順序立てて、きちんと観ようと思っても、無意味だ。
話を理解しようとすると、混乱を招くばかりである。
そうなのだ。
この映画で描かれる惑星は、つまりは我々の地球かも知れないのであって、カオスのこの世界を生きようとする人間の姿の、何と惨たらしく、いかに滑稽極まる狂気に満ちたものであることか。
いずれにしても、強烈にして、難解な作品だ。
しかし、しかしである。
そんな難解な映画なのに、2時間58分という上映時間は、あっという間に過ぎてしまった。
いやあ、驚きだ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)