徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「沈黙ーサイレンスー」―人間にとって本当に大切なものとは何か―

2017-01-29 13:00:00 | 映画


 カトリック作家、遠藤周作原作小説「沈黙」は、17世紀日本に渡ったポルトガル人宣教師の心の内面を深く掘り下げた作品だ。
 1971年に日本でも篠田正浩監督で映画化されたことがあったが、この作品今回は、カトリック教徒のイタリア移民の家庭に生まれたマーティン・スコセッシ監督渾身の映画化だ。
 原作ストーリーに忠実で、見応え十分の力作といえる。

 巨匠マーティン・スコセッシ監督は、1988年にこの文学作品に初めて接してから約30年、ようやく映画化が実現した渾身の大作だ。
 外国人監督が撮った日本というと、しばしば違和感があってどうもいけないのだが、この作品に限って言えばそれは杞憂で、そんなことの全くないのがよい。
 撮影は台湾で行われたそうだが、京都の時代劇のスタッフが大挙参加したそうだ。
 観て楽しい映画というわけにはいかないが、上映時間2時間45分、アカデミー賞にも輝いた経歴を持つスコセッシ監督は、「沈黙」する神の祈りを美しく、しかも重厚に問いかける・・・。

               


17世紀、江戸時代初期・・・。

日本では、幕府により厳しいキリシタン弾圧が行われていた。
その長崎で、布教活動に情熱を注いでいた高名な宣教師フェレイラ(リーアム・ニーソン)が、捕えられて棄教したと知らされたロドリゴ神父アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ神父(アダム・ドライヴァー)は、これまた棄教した日本人キチジロー(窪塚洋介)の手引きで、マカオから長崎へ潜入をはかる。
日本にたどり着いた彼らは、弾圧を逃れた‘隠れキリシタン’と呼ばれる日本人のモキチ(塚本晋也)やイチゾウ(笈田ヨシ)らと出会う。
ロドリゴとガルペは潜伏しながら布教活動を行うが、幕府の取り締まりにより、モキチらはロドリゴをかくまい最後まで信仰を捨てなかったために、処刑される。
しかし、キチジロ-はあっさりと踏み絵を踏み、裏切って逃げてしまう。

ロドリゴはガルペと離ればなれとなり、ひとり五島列島の山中をさ迷う。
疲労と空腹で意識が朦朧とする中、再びキチジローが現われ、彼を救う。
ロドリゴも、キチジローの密告によって侍たちに捕えられる。
・・・キリシタンを厳しく取り締まる井上筑後守(イッセー尾形)と、彼に仕える通辞(通訳)(浅野忠信)は、ロドリゴのために犠牲になる人々を突きつけ、ロドリゴに棄教を迫るが、ロドリゴは頑なに拒否する。
信仰を貫くべきか、棄教し目の前の人々の命を守るべきか、追い詰められ自身の弱さを実感したロドリゴは、沈黙する神の前で選択を迫られる・・・。

主よ、あなたは何故黙ったままなのですか。
信徒の命を守るために棄教するのか。
最後まで信仰を守るのか。
最後の選択を迫られた時、ロドリゴの決断は・・・?
守るべきは自らの信念か。
それとも目の前の弱い者の命か。
混迷の時代に、人間の本質を炙り出す力感みなぎる一作である。

冒頭から幕府の執拗な弾圧、拷問、処刑のシーンが続き、信徒たちは次々と命を落とすシーンは、息をのむほどすごく重い。
キリシタンへの弾圧は酷薄を極め、信徒たちは苦しみにあえぐのに神は助けてくれない。
神は沈黙しているだけだ。
その神と向かい合うのは自分だ。
神に祈っても神は答えない。
沈黙を続ける神とは一体何なのだ。

ドラマの中でキチジローが言う。
弱気者の生きる場はあるのか。
まさに弱きものをのけ者としないで、受け入れよと言っている。
さらには日本の僧侶が、南無阿弥陀仏を外国人に唱えさせるシーンなど興味深い。
マーティン・スコセッシ監督は、十代の頃溝口健二監督作品雨月物語」を見てからというもの、日本の映画や文学でその美学や死生観に触れてきたが、一層日本文化を自身にしみこませることが必要だったようで、日本の文化と欧米の文化との違いを学び取るまでに長い年月を費やしたそうだ。
スコセッシ監督は、壮大な学びの旅だったと振り返っている。

この映画には、多数の日本人俳優が出演している。
キャスティングもなかなか揃っていて、日本人が話す英語が教科書のようにわかりやすかった。(笑)
マーティン・スコセッシ監督アメリカ映画「沈黙-サイレンス-」は、禁教令下の宣教師の苦難と葛藤を描いた重厚な大作となった。
作品の焦点は当然宣教師側に向けられ、日本の村人たちについての描写が弱く平板なものとして映し出されているのは、少々不満だ。
多彩な人間を主層的に絡ませて、見どころは十分だが・・・。
まさか、ほとんどのキリシタンが殉教をいとわなかったとは思えないが、それと幕府は何故かくもキリスト教を恐れたのか、深く突っ込んでもよかったのではないか。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はアメリカ映画「アラビアの女王」を取り上げます。


映画「幸せなひとりぼっち」―どうしようもなく頑固で不器用な生き方しかできないおじいさんでも―

2017-01-26 18:15:00 | 映画


 今や世界的な人気作家となったフレドリック・バックマンが、自身の父親をモチーフに描いた物語だ。
 スウェーデンハンネス・ホルム監督が映画化した。
 原作は世界で200万部を超えるベストセラーとなり、スウェーデン本国では160万人を超える観客を動員、本国映画史上歴代3位となる興行成績をもたらしたそうだ。
 人口990万人の国だから、実に5人に1人がこの作品を観たことになる。

 心温まる美しい映画だが、国民的映画となり、北欧発の詩情豊かなドラマとして、ついに日本上陸を果たしたというわけだ。
 人生に希望を見出せなくなった頑固な老人が、新しい隣人を迎え入れることで細やかな変化が訪れる。
 そうなのだ。
 再び生きる希望に恵まれ、改めて自分の人生を見つめ直していく姿が、時にユーモラスたっぷりに、喜劇と悲劇の両面を兼ね備えた、感動のドラマとして描かれる。





規律(ルール)にうるさい頑固おやじとして、近所で煙たがられているオーヴェ(ロルフ・ラスゴールド)は、最愛の妻に先立たれ、長年勤めた鉄道会社も突然くびになり、妻の墓参が唯一の慰めだった。
孤独に耐えかねて、首を吊って自殺しようとしたが、向かいに引っ越してきたイラン出身のパルヴァネ(バハー・パール)一家に邪魔に(?)され、この家族と仕方なしに付き合ううちに、頑なだった気持ちが次第にほぐれだすのだった・・・。

初老の主人公は、先だった妻を追い、死ぬことばかり考えている。
新しい隣人が現われたことから、無理やり幾度も自殺を試みるオーヴェだが、いつも若き日の人生の回想の軌跡が脳裏をよぎる。
頑固で口うるさくて、ひとりぼっち、一見たいそう厄介なお年寄りだ。
そんな男の内に秘められた物語を語りながら、人ひとりが生きることの意味、それを輝かせるものを描き出そうとする。
不器用な正義感が災いして、“ご近所パトロール”の毎日もかなりつらい。
自治会で決めたルール徹底を図ろうとしても感謝されず、それどころか逆に鬱陶しがられて、イライラの連続である。
そのたびにもう妻のところに行こうと自殺を図るが、いつも中断される。

節度のある淡々とした語り口で、嫌味なくほろ苦い主人公の人生が、現在と過去を交錯して綴られる。
主人公の大柄の全身からにじみ出る、古風な男の意地と悲哀がこちらにも伝わってくる。
ドラマに登場する猫にも、注目だ。
添え物みたいに出てくるが、何だか面白い。
亡き妻の回想シーンでは、愛を育んでいく場面が素直で微笑ましい。
夫婦の愛の描写としても、心温かくさせてくれるいい作品に仕上がっている。
偏屈だからといって、決して捨てたものではない。

北欧スウェーデン発のハンネス・ホルム監督映画「幸せなひとりぼっち」は、人付き合いの下手くそな初老男を主人公に介護問題を絡めながら、笑いと人情のドラマとして観る者を感動させる。
喜劇かと思えば、扱っているテーマは重いもので、考えてみれば、スウェーデンという国は福祉先進国家ではなかったか。
その国で、このドラマが皮肉たっぷりに描かれている点が面白い。
映画のラスト、悲しみの場面で、おやっと微笑ましく思われるようなシーンもあり、何ともいえないちょっとした演出に思わず心も和む。
人生は、人と人のつながりだ。
友人、恋人、家族と、誰もが愛おしい。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はアメリカ映画「沈黙—サイレンス—」を取り上げます。


映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」―ドローン兵器を使った現代の戦争をサスペンスフルに風刺!―

2017-01-23 19:00:00 | 映画


一人の少女を見殺しにするか。
80人の命を危険にさらすか。
さあ、どっちだ。

今や戦争もテクノロジーの時代だ。
戦闘は、人間が搭乗しない無人偵察機=ドローンによって実行される。
この衝撃の軍事サスペンスを、アカデミー賞監督ギャヴィン・フッドが緻密な緊迫感をもって描き切った。
現代の戦争の闇を巧みに描き、正義とは何かを突きつけるとともに、モラルも問われる。

21世紀の戦争は、IT戦の時代に突入したといわれる。
今、世界中で起こっている戦争は、戦場からは遥かに遠く離れた会議室で行われているのだ。(?!)
戦闘判断は、そこでの映像で決する。


         

イギリス・ロンドン・・・。

軍諜報機関の将校キャサリン・パウェル大佐(ヘレン・ミレン)は、国防相のフランク・ベンソン中将(アラン・リックマン)と協力して、アメリカ軍の最新鋭のドローン偵察機を使って、英米合同テロリスト捕獲作戦を指揮している。
ケニア・ナイロビの上空6000メートルを飛んでいる、空の眼である無人偵察機が、隠れ家に潜んでいるアル・ジャバブの凶悪なテロリストたちを突きとめる。
その映像が、イギリス、アメリカ、ケニアの司令官たちがいる会議室のスクリーンに映し出され、彼らが大規模な自爆テロを決行しようとしていることが発覚し、任務は殺害作戦へとエスカレートする。

アメリカ・ネバダ州の米軍基地では、新人のドローン・パイロットのスティーヴ・ワッツ(アーロン・ポール)が、パウル大佐からの指令を受け、ミサイル発射準備に入る。
だが、破壊準備に入ったその時、殺傷圏内にパン売りの幼い少女がいることがわかる。
予期せぬ民間人の巻き添え被害の可能性があり、軍人や政治家たちの間でどうすべきか議論が勃発し、少女の命の行方がたらいまわしにされる。
キャサリンは、少女を犠牲にしてでも、テロリスト殺害を優先しようとするのだが・・・。

ドローンが映し出す戦場は、“安全な”場所にいる全員のパソコンにリアルタイムで送られる。
様々な関係者が干渉しながら、戦争をする。
そんな現代の戦争の闇を巧みに描き、何が正義かを突きつけ、同時にモラルを問う。
物語で標的になるテロリスト以外に、一人の少女が巻き込まれ、犠牲になろうとしている。
さあ、どうするか。

一人の少女を救うために、テロリストによる80人とも言われる大規模な殺戮を許すのか。
それとも彼ら民間人を救うために、一人の罪なき少女を犠牲にするのか。
この作品中にも、ハチドリや虫などの形をした、大小さまざまなドローンが登場するから驚きだ。
机を囲み、映像を眺めながら、爆撃の指示を出し、ボタンを押すのだ。
被害を限りなくゼロに抑えて敵を攻撃するのだから、合理的だ。
施政者たちも、一人の少女の命を前に、刻々と時間が過ぎていく中で判断を逡巡せざるを得ない。
彼らの出した答えは・・・?

戦争の最中で、、善悪の判断って何だろうか。
戦争のジレンマを捉えて、この作品の何と衝撃的なことか。
ギャヴィン・フッド監督イギリス映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」は、機知と誠実と洞察にずぐれ、戦争の新たな掟(ルール)をここに問いかける。
指揮官キャサリンの強烈な正義感といい、心理的な側面が強く描かれており、アクションの要素も見応え十分だ。
現代の戦争に善悪があるのかどうか。
映画は、イギリスの司令部、ドローンを操縦するアメリカ、さらに現場のケニアと、これらの舞台を幾度も往復して描かれる。
強烈なラストが胸に迫る。
武力を行使する視点に立って、その時の武力行使の是非を問いかける、このような映画はあまり観たことがない。
現代的な戦争映画である。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はスウェーデン映画「幸せなひとりぼっち」を取り上げます。


映画「牝猫たち」―日本の社会のひずみを掬い上げつついまの時代をしたたかに生きる生命力ある女性たちを描く―

2017-01-20 17:00:00 | 映画


 「日活ロマンポルノ・リブート・プロジェクト」(再起動)第3作にあたる。
 「凶悪」 (2013年)、「日本で一番悪い奴」(2016年)に続く、白石和彌監督の最新作だ。
 オリジナル脚本で、名匠田中登監督ロマンポルノ作品「牝猫たちの夜」(1972年)のオマージュ版のようでもある。

 東京・池袋を舞台に、夜の街で生きる3人の風俗嬢を軸に、彼女たちの人間模様が描かれ、切なくも可笑しい日常を切りとった群像ドラマである。
 このリブート・プロジェクトには、白石監督のほかに、行定勲、塩田明彦、園子温、中田秀夫の4監督が参加して作品を競い合っている。




眠らぬ街、池袋の夜の街をさまよう3人の女たち・・・。
風俗店で何となく働いている雅子(井端珠里)は、ネットカフェで寝起きするワーキングプアの女性だ。
結衣(真上さつき)は若いが一児を持つシングルマザーで、仕事を忘れすぐに態度に出てしまう女で、イケメンを見ると惚れやすい。
雅子の同僚里枝(美知枝)は、平凡な主婦にもかかわらず風俗嬢をしているが、客の老人金田(吉澤健)に気に入られ、仕事ではなく個人的に会えないかと頼まれるが・・・。
寄り添いあう“牝猫たち”は、互いを店の名前で呼び合うだけで、本名も、働く理由も知らない。

池袋はいまだ猥雑さの残る街であり、男と女のさすらう街である。
白石監督は、夜の街に漂う猥雑さと、何やら危険な臭いのする街で生活する弱者の救済(?)を描きながら、救いようのない哀しみの群像を活写する。
ここに登場する女性たちは、男性たちを優しく受け止める女神たりうるだろうか。
男はいつだって幻想を抱き、その幻想は大体打ち砕かれるものだ。
ドラマの中にはずいぶん荒っぽい台詞が飛び交っているが、女がここで男に媚び男を受け入れるように生きるのは、ただただ生きるためだからだ。

ここに登場する女たちはワーキングプアで、シングルマザーで、いわゆる社会のセーフティネットからこぼれ落ちた存在だ。
どの女性も、ストイックな風情を肉体に漂わせていて、その眼差しは意外や醒めている。
男の客たちは女に甘え、どちらも心の奥には狡猾を内包している。
男も孤独、女も孤独なのだ。そして男も女も寂しい。
こんなところに、しかし心の安定はないしありうるはずもない。

快楽を求める虚しさの向こうに、わずかな温もりだけが救いだろうか。
そこには、現代人の抱える闇がある。
その闇ははかり知れない。
孤独がさらなる孤独を生む闇である。

日本という国は美しいか。
格差社会が広がり、ネットカフェ難民が増え、ワーキングプアが当たり前となり、そこかしこに貧しい暮らしがのぞいている。
白石和彌監督作品「牝猫たち」を見ていると、映画の出来不出来よりも、貧しくも痛々しい日本の社会の縮図を感じないではいられない。
この社会は快楽より貧苦である。
そして、こうした風俗の猥雑な世界を通して浮かび上がってくるものは、まぎれもない日本の恥部のほんのわずかな側面にすぎない。
       [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回はイギリス映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場を取り上げます。


映画「函館珈琲」―静かに流れる時間の中で夢を追う若者たちの葛藤と心の交流の物語―

2017-01-18 17:00:00 | 映画


 時が静かに流れる。
 やさしい街で、やさしい時間と出会う。
 やって来る人、去っていく人、残る人、受け継ぐ人、それぞれほろ苦く、まるでコーヒーのような映画が函館から誕生した。

 函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞函館市長賞受賞した、 いとう菜は氏の脚本を得て、「ソウルフラワートレイン」(2013年)西尾孔志監督が映画化した。









函館の街にひっそりと佇む、古い西洋風のアパート翡翠館・・・。
オーナーの荻原時子(夏樹陽子)は、夢を追う若者たちにアトリエ兼住居と部屋を貸している。
装飾ガラス職人の堀池一子(片岡礼子) 、テディベア作家の相澤幸太郎(中島トニー) 、ピンホールカメラ写真家の藤村佐和(Azumi)は、それぞれが自分の居場所を探し求めながら、明日への漠然とした不安の中で生きていた。

夏のある日、翡翠館に来るはずであった家具職人の代わりに、後輩の桧山英二(黄川田将也)がやって来る。
彼は古本屋を始めると言いながら、他人には触れさせない、震えるような孤独を抱えていた。
それは、若き日に自分が書いた小説「不完全な月」以降、思うように作品が書けずに苦悩する小説家の姿だった。

わが子と二度と会えない寂しさを、一子は美しいとんぼ玉の中に閉じ込め、相澤は遠い故郷を想い孤独と戦う勇気をテディベアに託し、ピンホールカメラを通して時間を切り取っていく佐和は対人恐怖症と闘っていた。
誰もが、心に小さな棘が刺さったままの住人たちだ。
桧山は住人たちとの触れ合いのなかで、徐々に自分を見失っていくのだが・・・。
函館の短い夏の終わりが訪れようとしていた。


ほっこりとした気分にさせてくれる佳作である。
函館の街には、言葉に出来ない時間が静かに流れている。
それはささやかだが、何とも豊饒な時間である。
この街は街全体がオーオプンンセットのようだといったのは、亡くなった森田芳光監督ではなかったか。

函館はどこを撮っても、画になる魅力が溢れている。
作品は、特別な事件が起きるわけでもないし、恋愛ドラマもない。
とくべつ、面白いという作品でもない。
志を立てて、何かを追い求める若者たちにありがちなリアルな精神の問題を、どことなくふんわりとしたファンタジーのような優しさでさらりと描いている。

函館という街は絵になる町である。
海があり港が見える。
山があって坂道が伸びている。
風格のある教会や古い洋館が、エキゾティックな雰囲気を残している。
そんな街の中を路面電車が走っている。
ローカルな映画は、静けさや親しさ、温かさが漂っている。

誰かが淹れてくれる、何の変哲もない一杯のコーヒーが、これほどおいしく感じられるときはない。
西尾孔志監督映画「函館珈琲」では、桧山の淹れるコーヒーが4人の固まる心をほぐし、ほんのりと明日への希望を抱かせる。
港の見える函館の街でふとコーヒーが飲みたくなった。
何とも、優しい映画である。
       [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回は日本映画「牝猫たち」を取り上げます。


映画「彷徨える河」―深遠なるアマゾンの最奥に潜む闇を舞台に失われゆくものあるいは滅びゆくものの物語―

2017-01-09 15:00:00 | 映画


 実在した二人の探検家の回想記に触発されて着想を得た、水上のロード・ムービーだ。
 1981年生まれのコロンビア新鋭シーロ・ゲーラ監督が映画化した。

 世界最大の河川といわれるアマゾン川は、南米大陸のほぼ中央を横断し、その流域には今なお未知の大地がある。
 そんなコロンビア・アマゾンを舞台に、20世紀の二つの時代からこの映画はドラマを紡いでいく。
 モノクロームの美しくも厳しい映像と、神話的な世界観にぐいぐいと引っ張られる。
 大アマゾンの密林を舞台に描かれる作品は、圧巻の一言に尽きる。





アマゾン流域の奥深いジャングル・・・。

先住民族のシャーマンであるカラマカテ青年期/ニルベオ・トーレス)は、侵略した白人に滅ぼされた唯一の生き残りとして、ジャングルの中で孤独に生きている。
ある日、彼を頼って、重篤な病に侵されたドイツ人民族学者テオ(ヤン・ベイヴート)がやってくる。
白人を忌み嫌うカラマカテは、一度は治療を拒否するが、病を治す唯一の手段となる幻の聖なる植物ヤクルナを求めて、カヌーを漕ぎ出し一緒の旅に出る。

・・・40年後、孤独によって記憶や感情を失ったカラマカテは、やはりヤクルナを求めるアメリカ人植物学者エヴァン(ブリオン・デイビス)との出会いによって、再び旅に出る。
エヴァンはアメリカ政府の依頼で、ゴムの樹の標本採集を行っていた。
年老いたカラマカテ(老年期/アントニオ・ボリバル・サルバドール)が、ジャングル深くのキリスト教の共同体を再び訪れると、以前と違って、先住民族の宇宙観に浸された姿に変わっていた。
時が交錯する中で、狂気、幻想、混沌が蔓延する、アマゾンの深部を遡上し続け、彼らは向かう闇の奥に何を見出すのだろうか・・・。

二人の学者は探検家でモデルがいる。
映画は、カラマカテの若き日の過去の旅と老いた現在の旅を交叉させながら、先住民の眼からとらえたアマゾンの知られざる歴史を幻想的に浮き彫りにする。
そこに、現代文明から遠く隔絶されたアマゾンの自然が秘める異界を見るようで、不思議な気持ちになる。
アマゾンに生きる先住民の未知の世界を、現実と虚構を混在させながら描き出していて面白い。

主人公カラマカテは、はじめテオを拒絶する。
彼の部族は、天然ゴムを求めてやってきた白人に滅ぼされ、侵略の様々な傷痕が鋭く描かれる。
カラマカテが継承していこうとする、先住民族の英知と文化が浮かび上がる。
彼はジャングルに敬意を払い、自然と調和して生きてきた。
それまで相手にしていなかった同道者の中に光を見出し、怒りとか絶望を経験しながら、調和の世界を探り当てていこうとする。
 
物語の全編を彩るのは、アミニズム(精霊崇拝)信仰で、それは現代人の感覚を刺激し、壮大で荘厳な内なる旅へと誘っていく。
カラマカテ役の二人は、現地で見出された素人だそうだ。
大地をしっかりと踏みしめて立つ、この二人には威厳と気品と存在感がある。
これも驚きである。
俊英シーロ・ゲーラ監督コロンビア・ベネズエラ・アルゼンチン合作映画「彷徨える河」は、驚愕の世界が圧倒的な映像美で迫ってくる。
この作品は、アマゾンの圧倒的な大自然と、先住民族のスリリングな出会いを描いているが、謎解きの興味もあり、まだ若い30代監督のドラマ構成の巧みさは秀逸だ。
大きな、大きな旅物語である。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回は日本映画「函館珈琲」を取り上げます。


映画「誰のせいでもない」―不幸な出来事の波紋が広がる中で罪と赦しを丹念に追う心理劇―

2017-01-06 13:00:00 | 映画

   明けましておめでとうございます。
   今年もよろしくお願い申し上げます。 



 人の心の奥は誰にも見えない。
 しかし、その人の内側にこそサスペンスがある。

 「ベルリン・天使の歌」(1987年) 、「さすらい」(1976年)名匠ヴィム・ヴェンダース監督が、ある男の心象風景を、映像技術を多彩に駆使して、静かに重層的に見せていく。
 「罪は誰のせいでもない」ひとつの事故が、一人の男と三人の女の人生を変える。
 時はあっけなく過ぎていく。
 12年間にわたる物語である。










ある冬の日、カナダのモントリオ―ル郊外の雪道・・・。

売出し中の作家トマス(ジェームズ・フランコ)が運転する車の前に、小さな橇が飛び出してくる。
事故が起き、ある命が失われる。
トマスの恋人サラ(レイチェル・マクアダムス)、亡くなった少年の母親ケイト(シャルロット・ゲンズブール)、事故のあとトマスと結婚した編集者のアン(マリー・ジョゼ・クローズは、避けようのなかった不幸な出来事の渦中にいた。

悲劇は、トマスの心に大きな傷を残した。
だが彼は、多くを語ろうとしない。
ひとつの事故によって運命を狂わせられた、4人の12年が描かれる・・・。

不穏な空気に満ちたはじめの事故のシーンから、一気に物語は加速する。
御年71歳のヴィム・ヴェンダース監督は、人間関係よりも故人の内面に眼差しを向けるのだ。
主人公トマスの折々の心象を静かに浮かび上がらせ、人と過ごす時間、日々の出来事、風景、色や香りや音に工夫を凝らし、説明的な描写を排除している。
映像は研ぎ澄まされ、雄弁だ。

何が起き、何が失われ、何を背負うのか。
すべては語られることを期待する前に、観客は感覚的に理解していくのだ。
この映画が3D映画で撮影されたのも、深みのある映像で人間の心の深淵を見せようとしたからだろう。
しかし映画の厚みは、何も3Dでなくても、2D上映でも十分感じとることができる。

ヴィム・ヴェンダース監督作品「誰のせいでもないドイツ・フランス・カナダ・スウェーデン・ノルウェー合作)は、静かなな語り口の人間ドラマだ。
とりわけ、ドラマの終盤、深夜の闇に沈む、トマスの家の庭に少年が現われ、たとえようのない濃密な空気感が漂うあたりの、室内空間の深みのある映像も、心理描写の陰影に富んだ濃淡ともに印象に残る。
まあ、重なる偶然(?)から生じる罪悪感については、もう少しわかりやすい突っ込み方があってもよかったのではないか。
この映画を観ていると、心の迷路に迷い込んだような感覚にとらわれる。
総じて観念的な要素も強く、物語の中に入り込めにくい嫌いはある。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はコロンビア・ベネズエラ・アルゼンチン合作映画「彷徨える河」を取り上げます。