徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「十三人の刺客」―壮絶!死闘の迫力―

2010-11-28 10:00:00 | 映画



圧倒的なスケールとリアリティを追求した、大型時代劇だ。
47年前の東映時代劇(工藤栄一監督・主演片岡知恵蔵)のこのリメイク版は、前作を踏まえながら、新鮮な工夫をさらに加えて、時代劇の醍醐味をたっぷりと見せてくれる。
海外でも才能を高く評価されている、鬼才三池崇史監督作品だ。
Thirteen Assassins (2010) trailer


江戸時代末期、明石藩江戸家老・間宮(内野聖陽)が、老中・土井家の門前で、切腹自害した。
彼の死は、生来の残忍な性格で、罪なき民衆に不条理な殺戮を繰り返す、明石藩主・松平斉韶(なりつぐ)(稲垣吾郎)の暴君ぶりを訴えたのだった。
このままでは、幕府ひいては国の存亡に関わると判断した土井(平幹二朗)は、藩主暗殺を決断し、御目付役・島田新左衛門(役所広司)にその命を下した。

新佐衛門は、総勢13人の暗殺隊を結成し、密かに動き出した。
13人の配役は、役所広司をリーダーとし、重厚な補佐役に松方弘樹、剣豪浪人の伊原剛志ら重みのある面々・・・。
一同は、参勤交代を終えて帰る途中で、中山道の落合宿で、明石藩主・松平斉韶を狙う手はずだ。
村全体は要塞化し、そこへ明石藩の一行を誘い込んで襲撃する。
13対300余の壮絶な死闘が、延々と50分間も続くから、凄い。
息詰まる死闘を観ていて、こちらも身がきりきりするようだ。

数の上では明石勢が圧倒的だが、袋のようになった迷路を右往左往して、パニックは最高潮に達し、上下左右からの攻撃で、大狂乱となる。
渦巻く阿鼻叫喚の中で、血が飛び、敵も味方も疲労困憊し、目の離せない死闘が続く。
とにかく、藩主・斉韶暗殺に身命を賭けた、13人の気迫が凄まじい。
映画「十三人の刺客」は、元祖に劣らぬ迫力十分すぎるほどの、時代劇エンターテインメントだ。

明石藩主役の稲垣吾郎が、全編を通して残虐な暴君の狂気をリアルに演じていて、面白い。
ただ、この長時間の乱戦は、どこか猛々しい空しさを漂わせている。
人間の血まみれとは、かくも悲しいものなのだ。
暴君を死守する用人役の市村正親と、役所広司の一騎打ちも見どころ十分だ。
こうなると、もう敵も味方もあったものではない。

選ばれし十三人の男たちの、幕末最大の密命をうたった最終決戦は、一世一代の大博打だ。
一歩間違えれば、大怪我をしかねない、間合いを詰めたリアルな殺陣といい、これだけの大型時代劇の撮影は、脚本(天願大介)はもちろん、美術、ロケ、メイクと、さぞかし大変だったのではないか。
斬って斬って斬りまくる、彼ら刺客たちのドラマは、いや、本当に観ている方もくたくたに疲れることを覚悟せねばならない。


危機管理のなさ―北朝鮮砲撃は対岸の火事?―

2010-11-25 21:45:00 | 雑感

参議院の予算委員会が、荒れ模様だった。
北朝鮮が、突如韓国の大延坪島(テヨンピョンド)を砲撃した。
この時の情報をめぐって、日本政府の対応の甘さが取り上げられた。
北朝鮮が砲撃を開始してから、2時間以上もたってから菅総理は官邸に入った。
その間の70分間については、官邸は閉ざされたままもぬけのからで、人の気配がなかったといわれる。
官邸に報道記者がつめかけた時には、菅総理の影も見えなかったそうだ。
よりによって、こんな時に誰もいないとは・・・。

菅総理の話によると、公邸で砲撃のニュースを見ていたのだそうだ。
そのとき、大変なことが起きたとの認識はあったという。それはそうだろう。
このときは、実は、仙石官房長官に対する問責決議案への対応などについて、国対委員長代理らと話し込んでいた最中だったらしい。
ともかく、そっちの方で頭の中はいっぱいだったようだ。
官邸で待ち構えていた記者団にも、北に対する非難などはなく、海の向こうの話で、もう拍子抜けの感じだったそうだ。
ところが、この降ってわいた北朝鮮の暴挙で、問責決議案などどこかへ吹っ飛んでしまったというわけだ。

官邸に入ってからの動きも鈍く、関係閣僚が招集されたのは、夜9時過ぎであった。
仙石長官が、韓国の立場を支持するという声明を発表したのは、砲撃から6時間後のことだった。
アメリカは、事件が起きてから3時間後には、現地時間の朝4時半に異例とも思える声明を発表しているのだ。
それに比べると、日本はのんきだ。(?!)
危機管理の問題よりも、政権浮揚につながる問責決議案の方が優先されていたのではないか。
確かに、今回の事件から官邸の動きを時系列で追って見ても、動きは緩慢だ。

尖閣問題、北方領土、APECといずれもが失態続きで、柳田法相の失言更迭問題もあり、菅内閣の支持率は23.6%にまで落ち込み、いよいよ、仙石官房長官の問責決議案が、いまにも提出されるところだった。
これが、もしも可決されていたら、菅政権はどうなっていただろうか。
もっとも、問責は、いずれは出されて可決されるのは必至の情勢に変わりはないのだが・・・。
北朝鮮の砲撃事件は、そんなときに起こったのだった。
官邸幹部は、不謹慎にも(!?)、カミカゼが吹いたような心境だったと、言ったとか言わなかったとか・・・。(まあ、わからぬではないけれど)

この砲撃は、周到に練られた北朝鮮の<挑発>ともとれる。いや、まさにそんな感じだ。
長い長い休戦期間があったから、こういう事態がいつ起きても不思議ではなかったが・・・。
いま、北朝鮮でも、金正日死亡説までまことしやかに噂されていると聞く。
まあ、将軍後継問題も相まって、いろいろと憶測が飛ぶ中での出来事だけに、世界各国の反応もいろいろだ。
韓国、アメリカ、日本は連携を密にして、北への非難声明を出したが、中国やロシアは例によっておかしいほどに慎重(?)で、北の同胞だからか真意を測りかねる。
国連は、どう動くだろうか。
ともあれ、今後の北朝鮮の動きからは目が離せない。
日本は、この野蛮な国家とは、目と鼻の先だ。油断はできない。

日本の菅内閣は、この危機的状況にうまく(?)乗っかった格好だ。でも、笑ってはいられない。
今回の北の砲撃についてだって、テレビのニュースで知ったといっているあたり、政府の情報不足と危機管理能力のなさは推して知るべしである。
いまに始まったことではないが、危機管理のもたつきは、何とも、情けない限りではないか。
いつだってそうなのだが、アメリカや韓国に追随するような、臨機応変のきかない、先見の明もない、内閣の無能、未熟を見せられて、唖然とする思いだ。。
中国に対しても、事件の責任が北朝鮮にあることは明確なのだから、もっと北朝鮮に影響力を行使するように強く促すべきではないか。
弱腰(柳腰)の外交なんてとんでもない。
対岸の火事だからなどと、のんきなことを言っている場合ではない。
神風(カミカゼ)が吹いたなどと言って、北朝鮮様々ともとれる発言など、何を言っているか。
冗句のセンスといい、空疎な大臣答弁といい、ひたすらメモの読み上げといい、所詮、日本人はこの程度の大臣や政治家にしか恵まれることのない国民なのだろうか。
そうだとすれば、悲しみは深まるばかりである。
これでは、自虐の淵に落ちそうだとは、誰かが言っていたっけ・・・。


映画「行きずりの街」―過去ある男と女が再会する時―

2010-11-22 09:45:00 | 映画



清水辰夫の原作
をもとに、阪本順治監督が映画化した。
主演俳優の仲村トオルとしては、デビュー25周年の節目にあたる、50本目の作品だそうだ。
ミステリーのような形をとっているが、<過去>と対峙する男の物語だ。
 

波多野(仲村トオル)は、郷里で塾教師としてひっそりと暮らしていた。
ある日、祖母が危篤に陥りながら、連絡の取れなくなった元教え子のゆかり(南沢奈央)の行方を追って、彼は12年ぶりに東京へ舞い戻ることになった。

波多野は、かつて名門校敬愛女学園の教師をしていた。
その当時、生徒の雅子(小西真奈美)との恋愛がスキャンダルとなって、教職を追われる羽目になった。
彼は、その過去をいまも引きずっているのだった。

ゆかりの暮らしていた、麻布の高級マンションを訪れた波多野は、そこに何者かが物色した痕跡を発見した。
彼は、彼女の失踪の背後に、何か事件が関わっていると感じた。
しかも、彼女は怪しげな男たちからも行方を追われているらしく、何やら得体のしれない危険が迫っていることを感じ取っていた。

彼は、ゆかりの恋人の角田(うじきつよし)と出会ったという、六本木のサパークラブで、自分を学園から追放した張本人の敬愛女学園理事の池辺(石橋蓮司)と出くわした。
・・・12年前、彼は、教え子だった雅子と結婚するも、その後離婚して逃げるように東京を後にしていた。
波多野は、よろよろと自分の体を引きずりながら、雅子の切り盛りしているバーにたどり着く。
長い歳月を経て、二人は再会する。
ゆかりの失踪に学園が関与していることを知り、彼はさらなる事件の渦中に巻き込まれていく。

彼を待ち受けていたものは、別れた妻との再会、そしてかつて自分を追放した名門高校が、教え子の失踪に関与していたという事実であった。
波多野は、忌まわしい過去と決別し、誇りを取り戻そうと、たったひとり事件の背後に潜む黒い陰謀へ立ち向かっていくのだが、12年間の空白といい、二人の間の愛といい、それまでの経緯といい、もっときめ細やかに描かれてもよくはなかったのか。
ドラマとしての構成にも無理があるし、破綻(?)もある。

何やら癖のあるキャラクターをそろえて、ハードボイルドなタッチだが、過去を背負った男女の物語にしては、もっとその深奥に迫ってほしかった。
もっとも、別れた女をいつまでもずるずると吹っ切れない男を演じる主人公の心情も理解できなくはない。
志水辰夫のベストセラー小説の映画化作品で、そのタイトルも行きずりの街とくれば期待も高まるのだけれど、この作品はどうも中途半端でいけない。
阪本監督「魂萌え」で、女性をしなやかに描いてみせたような、あの繊細さはどこへ消えてしまったのか。

原作は、やや感傷に満ちた流麗な(?)一人称の語り口だから、映画の脚色などにも苦心の跡はうかがえる。
プロットや登場人物、事件についての説明も不足気味で、省略もかなりある。
いや、省略というよりは、必要であるべき部分の欠落と言ったらいいか。
それでも、主人公たちの結婚が、何故か不幸な結果に終わった12年前から、長い空白の時を超えて、ほとばしる激情がすべての時間を溶かしてゆくような、最後の結末には言いようのない安堵感がある。
この作品、ミステリーなのか、ラブストーリーなのか。
おそらく、そのどちらでもない。
阪本監督の、気負いばかりがやけに目立つ作品で、困ったことはストーリーの面白さが希薄なことだ。
この映画の主題歌「再愛」それは人を愛するときに生まれる心の強さを表す「最愛」を示す言葉だそうだが・・・。


常在戦場―ああ、国会の一日経費3億円!―

2010-11-19 09:00:00 | 雑感
冷たい北風が、身に染みる季節の訪れだ。
寒々とした青空に、葉の落ちた枯れ木の梢が鋭く伸びている。



いま、国会が異常な状態だ。
官房長官から、閣僚の面々までもが、失言やら謝罪やらで、政治家としての資質を問われている。
どうしたものか。
菅首相の国会答弁にも、全くと言ってよいほど、覇気が感じられない。
その目もうつろである。

先日の、菅総理と中国の胡錦濤主席との、短い挨拶程度の会談でさえも手元の原稿を見ながらというお粗末なものだった。
テレビで見ていて、はらはらした。
することなすこと自信なげで、稚拙に見える。
総理は、石にかじりつても頑張ると言い切ったが、それで国民生活のほうは本当に大丈夫なのか。
どうも、菅政権は政権末期前夜の様相に見えてならない。
内政、外交のあらゆる面での失態を露呈し、景気もよくならないし、雇用も回復の兆しからは程遠い。

北沢防衛相は、「民主政権は長くは続かない」などと、不埒な発言も気になる。
民主政権は、まだ発足1年だ。
自民政権が50年も続いたことから考えれば、民主党には数年先を見据える気概がなくては、何ひとつよくはならない。
でも、今の閣僚を眺めていると、やることなすことがお粗末で、国会が十分機能しているとは思えない。
もう、脳死状態だ。

ここへきて、国会では、政府提出法案は、たった2本しか成立していないというではないか。
それだけで、内閣の無能ぶりがわかろうというものだ。
それというのも、国会対策が機能マヒ状態に陥ったからだ。
知っていました?
国会を開くと、一日3億円(!)の税金がかかるそうだ。
そうだとすれば、臨時国会が10月1日に開かれてから、この会期末は12月3日だから、ざっと180億円(!)の経費がかかることになるのだ。
えっ、それだけの税金を使って、1本か2本の法案しか成立しないのか。
悲しいかな、これが、今の日本の政治だ。

菅内閣は、いつまで持つだろうか。
この調子だと、早期の衆議院解散(破れかぶれ解散)もありうる話だ。
もし、選挙になったらどうなるのだろうか。
このままいくと、自民党も勝てないし、民主党も勝てない。(多分)
さあ、戦前の日本みたいに、危険極まりない道を進むのではないかと、危惧されてならないのです。

映画「隠された日記 母たち、娘たち」―愛と自由の物語―

2010-11-15 21:30:00 | 映画


いつの時代になっても、女たちは悩み、愛し、懸命に生きている。
古い一冊の日記が見つかった。
その日記に隠されていた衝撃の事実が、三世代にわたる、女性たちの物語を紡ぐ。
ジュリー・ロペス=クルヴァル監督による、フランス・カナダ合作映画である。

帰省したオドレイ(マリナ・ハンズ)を迎えたのは、やわらかな太陽の光と水色に輝く海であった。
彼女は、両親との再会を楽しむが、母マルティーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、どこかぎごちなかった。
オドレイは、カナダを発つ前に任されていた仕事に集中するため、いまは誰も住んでいない海辺に立つ祖父の家で、2週間の休暇を過ごすことになった。

そんなある日、家のキッチンの戸棚の奥から、一冊の古い日記を見つけたオドレイは、それが、突然姿を消した祖母ルイーズ(マリ=ジョゼ・クローズ)のものだと知る。
日記には、妻として母としてだけ過ごす日々への苦悩と葛藤、そして子供たちへの深い愛が溢れていた。
ルイーズは、何故、愛する子供たちに何も言わずに、家族のもとを去ったのか。
そして、マルティーヌは、二度と戻ってくることのなかった祖母について、なぜ何も語ろうとしないのか。
一冊の日記に導かれ、時代を超えて、ゆっくりと交わり始める、それぞれの想いがあった。
全てが明らかになったとき、互いに赦し、分かち合い、彼女たちは母として娘として、そして女性として、そっと自分の一歩を踏み出したのだった。

本編に登場する、三人の女性には特徴がある。
ルイーズは仕立て屋の夫のもとで、子供たちの良き母として、夫に対しては、貞淑な妻として過ごしている。
それでいて、家庭に縛られる生き方に悩み葛藤する。

マルティーヌは、医師として開業し働く自分を支えてくれる、理解ある夫と結婚した。
しかも、子供の頃に母親と過ごした時間が短かったため、娘のオドレイとどのように向き合えばいいのかわからないでいる。

オドレイは、カナダで仕事をするキャリア・ウーマンだ。
結婚する予定もない男性の子供を宿して、仕事を続けたい気持ちと、母親になることへの不安から、子供を産むべきかどうかで悩んでいる。

世の中では、簡単に「女性の自立」などというが、そんな言葉はとうの昔に死語になっているという人もいる。
女たちは、ときに、男たちよりもたくましく強い。
各世代の女性たちの抱えている悩みや葛藤など、心の機微を優しく探るように綴るドラマだ。

そういえば、この作品と似ている日本映画もありました。
この映画「隠された日記 母たち、娘たちの、クルヴァル監督もまた1972年生まれの若き精鋭で、もうすでに立派な大人の三人三様の女性の生き方を描いた。
フランス映画界の大御所、カトリーヌ・ドヌーヴの存在感が光っている。
それぞれが、個性的な美しさを放ち、彼女たちの生き方が描かれるその背景には、自然の風景のグラデーションと、男たちの存在のあることも忘れてほしくない。

まことに、いつの時代でも、悩み、愛し、一心に生きてこそ、女性たちは溌剌として輝く。
1950年代、現代、そしてこの二つの世代にはされた時代を、生きてきた各世代の女性たち、これだけ豪華なフランス女優陣の登場も見逃せない。
この種のデリカシーを追うだけで、男性の方は小さくなってしまわないようにしないと・・・。

 


映画「ナイト&デイ」―愛の逃避行は怒涛のパニック!―

2010-11-12 21:00:00 | 映画

怒涛のパニックとサプライズと聞いただけで、これはもうハリウッドのお手の物だ。
世界各地のゴージャスなロケ地を、壮大なスケールで駆けめぐる。
アクションとロマンスの娯楽大作だ。
ジェームズ・マンゴールド監督の、大迫力アクション・コメディは、ハンサムなスパイと田舎娘の危険な恋を描く。
まあ、鬱々とした気分を晴らすには、もってこいの映画である。

平凡な女性ジューン(キャメロン・ディアス)は、空港で、笑顔がとびきり素敵な男性ロイ(トム・クルーズ)と出会った。
ロイは、何者かに追われているらしかった。
機内で席が近くなった二人は、互いに運命的なものを感じる。
その恋の予感は、一瞬にして、怒涛のパニックへと変わり、ジューンは嵐のような事件に巻き込まれていく。

離陸後、間もなく機内の様相は一変し、なんと機内で突然発生した銃撃戦によって、ロイとジューン以外の乗客、乗員が全員死亡し、たちまちにして映画は超絶のパニックアクションに転じる。
この数分間の、序盤冒頭のシークエンスにまず度肝を抜かれることは間違いなしだが、これなどはまだほんの序の口だ。

トム扮するロイは、ある計画的な発明をめぐる、巨大な陰謀を知る人物で、CIAに追われている謎の男だ。
やたらと戦闘能力が高く、危機に陥ったときはめっぽう頼もしいが、同時にとてつもない災いを運んでくるのだ。

一方ジューンはロイに翻弄されっぱなしだが、怒涛の逃避行のさなかで、目覚ましいタフさを身につけ、闘うヒロインへと脱皮していく。
このあたり、観ているものには胸のすく快感だ。
・・・重要な発明品を求めて、ロイとジューンに迫る追手も、二人の絶妙なコンビネーションが撃退する!
二人の息がぴったりと合い、追いつ追われつの絶体絶命の緊迫した戦闘中でも、ユーモアあふれる軽妙なやりとりがあったりで・・・。
果して‘国家機密級’の謎をめぐる、この最強のコンビ(?!)の行く先には何が待ち受けているのだろうか。

ミステリアスなロイの背後に見え隠れする、巨大な陰謀の影・・・。
しかも、この予測不可能で危険なロイと行動を共にすることだけが、ジューンに残された生き延びる方法だったとは――。
運命の出会いが、お互いに惹かれあい、助け合いながらの、危険な冒険の始まりだった。

迷う間もなく道ずれとなったジューンにとっては、いつも、さっそうと現れては彼女を救い、驚くべき変身を遂げていくロイは、謎のナイト(騎士)のようであった。
二人は、いつも奇跡のようにスリリングで、危うく激しいアクションの中にいた。
オーストリア・ザルツブルグでの都会の屋上から始まる逃亡シーン、スペインの牛追いの街の群衆と動物たちの暴走シーン、ボストンのハイウェイでのもっともワイルドなカーチェイスのシーンといい、遊び心満載の、すべてがハリウッド得意のスーパーアクションだ。
コミカルに、かつリアルに、つまりドラマとコメディをミックスさせたタッチで、このエンターテインメントは生まれた。
アメリカ映画「ナイト&デイは、ハリウッドの、二大スターのダイナミックな競演が見どころだ。


映画「あの夏の子供たち」―家族の悲劇と新たなる出発―

2010-11-09 08:00:00 | 映画

人生というのは、本来愛すべきもの、そして愉しくて美しいもの・・・。
これは、慈愛のある眼差しで描かれる、家族の悲劇と再生の物語だ。
1981年生まれの、若き女性監督ミア・ハンセン=ラブのこのフランス映画は、光溢れる瑞々しい映像の中に、葛藤しながらも、心を寄せ合って悲劇に打ちかっていこうとする、母と三人の娘たちの姿を優しく綴っていく。
何よりもかけがえのない、父親の死というシリアスなテーマを底流にして・・・。

映画プロデューサーのグレゴワール(ルイ=ドー・ド・ランクザン)は、仕事人間だった。
妻シルヴィア(キアラ・カッゼリ)と三人の娘たちは、文句を言いながらも、半ばあきらめ顔だ。
才能のある監督に出資してやりたい情熱はあっても、折からの資金難で、グレゴワールの会社はもはや風前の灯なのだった。

日に日に追いつめられていく彼は、ついに行き詰まって、自ら命を絶ってしまう。
突然の死に衝撃を受けた、家族と仕事仲間に遺されたのは、多額の借金と未完成の映画だけだった。
夫を救えなかったことを、シルヴィアは悔やみ、映画を完成させることを決意するのだったが・・・。

自身の処女作を評価してくれたプロデューサーの自殺という、監督の実体験から生まれたこの作品は、重いテーマを扱いながらも、感傷的にならずに、みずみずしい映像で遺された家族の絆と再生を描いていく。
先の見えない不況下で、ときに押しつぶされそうになる現代人の多いなかで、それでも前向きに歩き始める家族を描いた真面目な作品だ。

夫の死後、会社の立て直しを決意する、控えめながら気丈な母、父の死を受け止める手段を探す長女、父のまだぬくもりを求める次女、父の死をまだ理解できない末娘と、家族四人それぞれの方法で、父の死に折り合いをつけ、未来を見据えて進む姿に、名曲「ケ・セラ・セラ」が重ねられ、ドラマを盛り上げる。
声を大にして奇をてらうこともなく、悲しみを乗り越えていこうとする家族の絆がむしろさわやかである。

登場人物たちは、どこか眩い光に包まれている。
パリ近郊の水辺を、母親と娘たちが並んで歩く姿が、胸にしみるようだ。
遺された四人の背中には、午後の陽光が照り映えている。
女たちだけになってしまった一家が、手をつなぎ、肩を寄せ合って歩く後ろ姿そのものが、なんだか愛おしく思える。
ドラマの中での、父親の突然の死はあまりにもあっけないが、人の死というのはそういうものなのだ思えば納得もできるか。
長女役を演じているのは、主人公役のランクザンの実の娘だという。

さよなら、パリ。
父の匂いを残して、私たちは歩いていく・・・。
「死とは、人生の数ある出来事のひとつに過ぎない」
そんな大胆なセリフがあったが、このセリフには温もりがある。
ミア・ハンセン=ラブ監督フランス映画「あの夏の子供たちは、人生を、あるがままに肯定する感懐を漂わせる小品で、夏のパリの爽やかな魅力とともに、若き監督の繊細な感性がにじみ出ている。


「国民の知る権利」―尖閣ビデオ映像流出事件―

2010-11-07 09:35:00 | 雑感
「国民の知る権利」に、期せずして応えてくれたと、多くの人が歓迎している。
一方、政府の危機管理のお粗末が露呈し、前代未聞の大失態に、国会はもちろん、海外の反発、不安は避けられそうもない。
政府への抗議か、倒閣テロか、それとも情報公開を期待する国民への正義感か。
政府は、いま‘犯人捜し’に躍起となっている。
内部告発とも思える、タイミングを見計らったような事件である。

今回の、中国漁船と海上保安庁の巡視船の衝突事件は、一連の日本、中国の対応には理解しかねるものがあった。
映像を見る限り、明らかに中国漁船が故意に衝突してきたことは間違いない。
そのことで、中国はすべて日本の責任だと言い逃れをし、日本政府がいったんは逮捕しておきながら帰国させてしまった漁船の船長は、中国では英雄扱いだ。
ふざけた、おかしな話だ。
これは、一体何なのだ。
今回の事件の責任は、中国側にあるのだから、政府は中国にこそ、その責任について謝罪と賠償責任を強く求めるべきなのだ。
何故、それをしないのか。おかしいではないか。

こんなことでいいのか。
日本はなめられている。そう思えて仕方がない。
いや、こんな風だからなめられ、組みしやすいと見られるのではないか。
どうして、もっと毅然とした態度が取れないのだろうか。
中国のやっていることは、理不尽で、まるでヤクザがやっていることと同じだ。
もっと、言うべきことは言うことだ。

政府は、この事件について早々にこの事実を発表し、公開すべきだったのだ。
それなのに、それをしなかった。
「国民の知る権利」からすれば、怒りをかうような事態だ。
尖閣諸島の領有権が中国にあるというなら、その法的、歴史的根拠を、堂々と、正式に、中国政府にただせばよいではないか。
国民は、それを望んでいるはずだ。
今回のビデオ映像流出事件も、「国民の知る権利」をいい加減にしたから起きたのか知れない。
国民の誰もが事実を知りたいと思っていたから、この一件を「よくぞやってくれた」と、歓迎ムードまで高まっているのだ。
海上保安庁に寄せられた、電話やメールのほとんどが、映像の流出を喜ぶ内容だったというではないか。

「国民の知る権利」に背を向け、情報漏洩を許してしまう(?)ような、今の内閣に大いに問題ありだ。
菅内閣は、内政も外交も手詰まり状態で、にっちもさっちもいかなくなっている。
まったく、困ったものです。
危機管理がこのありさまでは、国家の威信などどこかへ吹っ飛んでしまう。
今度のことで、日本の危機管理の頼りなさは世界中に伝わった。
あらゆる外交にも及び腰だし、国際的な信用はもちろん、国益をも大きく損なうことになる。
参院選の敗北から、尖閣問題、小沢問題と、次から次と問題が起きている。
これに対して、管首相のリーダーとしての指導力は、そのかけらすら見えない。

「北方領土」についてだって、ロシア大統領の視察をただ「遺憾に思う」だけですますのか。
――この先、国会は、そして日本はどうなるのか。
なすすべもなく、手をこまねいて見ているだけなのか。
国会や記者会見での、近頃の菅総理の覇気のなさ、生気のなさは、どうしたものか。
自分の言葉は少なく、あいも変わらずあれほど嫌っていた官僚の原稿を、眠たそうにマル読みしている。
いい加減にしてくれと言いたい。
あれほど期待を担って誕生した民主政権だが、現状、どうしようもない‘お子ちゃま’内閣だ。

映画「約束の葡萄畑―あるワイン醸造家の物語―」

2010-11-04 16:00:00 | 映画
人生をワイン造りになぞらえた、芳醇な(?)物語である。
ワインと人間の織なす、一応はロマンに満ちたハートフルストーリーだ。
フランス・ニュージーランド合作のこの作品は、フランス・ブルゴーニュ地方の壮大な自然を背景に紡ぎ出される、女性監督ニキ・カーロの最新作だ。

ワインというと、日本でも今や定着の感があるが、この作品には、200年前のワイン醸造家が、苦労を重ねて最高のワインを作ろうとする姿が描かれている。
牧歌的な、フランスの田園風景の中に、葡萄畑の美しさやシャトーのたたずまいが、見事にマッチしていてリアリティに富む。
しかし、ここに描かれる葡萄農家は、小さく粗末な主人公の家だ。
それだけに、ワインづくりも身近なものに感じられる。
それはそれでいいのだが・・・。

1808年、フランスのブルゴーニュ地方・・・。
葡萄を摘み取る農民たちの中に、若き野心家ソブラン・ジョドー(ジェレミー・レニエ)がいた。
彼は村娘セレスト(ケイシャ・キャッスル=ヒューズ)を見初めるが、父からは結婚を許されない。
彼女の父が、異常者だからという理由だ。
ソプランの父は元小作人で、葡萄を元地主のヴリー伯爵の醸造所(シャトー)に売っている。
ソプランはそのことに不満で、いつか自分のワインを作りたいと夢を語るが、皆からは相手にされない。

ヤケ酒を飲んでさまようソブランのもとに、天使ザス(ギャスパー・ウリエル)が舞い降りた。
ソブランは驚きながらも、ザスに悩みを打ち明ける。
ザスは、セレストに手紙を書けとアドバイスし、1年後に結婚を祝いに戻ってくると約束する。

セレストに手紙を書いたソブランは彼女と結ばれ、彼女は彼の子を身ごもった。
ソブランは自立資金を得るため、ナポレオン軍のロシア遠征に参加するが、軍は惨敗し、彼は命からがら帰郷する。
父はすでに他界し、セレストは、幼い長女と赤ん坊の次女を抱えて疲労困憊していた。
ソブランは、2年ぶりに会ったザスに、何故家族を守ってくれなかったのかと詰め寄る。
だが、ザスには災いを防ぐ力はなかった。

それでも、ザスのはげましとセレストの愛に支えられ、ソブランは1815年に最初のワインを造った。
ザスも認める、素晴らしい出来のそのワインを、ヴリー伯爵に届けにいったソブランは、伯爵の姪で後継者のオーロラ(ヴェラ・ファーミガ)と出会う。
オーロラは男爵位を持ち、パリで進歩的な学問を学んだ才媛であった・・・。
そして――。


芳醇なワインのように、味わい深い作品なっていて、波乱のワイン造りに生涯をささげる男と、天使や妻、男爵夫人に見守られながら、この寓話のような物語は、一種濃厚な(?)ラブストーリーでもある。
ニュージーランドを代表する作家エリザベス・ノックスという人の、ベストセラーが原作だ。
そして、ブルゴーニュ地方といえば、ワイン界の皇帝とも称される良質なワインの産地として有名だ。
ニキ・カーロ監督映画「約束の葡萄畑―あるワイン醸造家の物語―」は、ワイン造りをめぐる物語であるとともに、一人の男と彼を取り巻く女性たち、そこに現れた天使が織りなす、実は30年間にわたる‘愛’の物語だ。
それにしても、この作品、大人のラブストーリーとして成功しているといえるだろうか。

物語の中盤、葡萄畑は、嵐や凶作、壊滅的な病気に見舞われ、嫉妬に苦しんだセレストは正気を失い、男爵夫人オーロラは身体の一部を切除される。
主要な登場人物は、皆ずたずたに傷つき、ただならぬ悲壮感が画面をおおいつくしていく。
それでも四季はめぐり、主人公がありったけの愛情を注ぎ続け、残っていた一本の葡萄の木が理想のワインに結実するあたりは、ドラマの持っていきかたに納得もできる。
この作品の一番いいところだ。

豊かな土の中から、寓話と魔法と官能の香りがどこからともなく漂ってくる。
気になるのは、天使だ。
天使は主人公の心の象徴か。
子供騙しで、困ったことにどうもピンとこない。
しまらないのだ。
そのことが、このドラマを薄っぺらなものにしてしまっているきらいがある。
ここは、一考したいところだ。
そんなことより、富裕なシャトーに対する、主人公農夫の暮らしの苦しさとの確執、最高のワイン造りを目指す、彼と彼をを取り巻く人々の絆や苦悩や勇気について、もっと骨太な展開を考えたほうが、よりよい作品になったのではないだろうか。

映画「セラフィーヌの庭」―純粋で無垢な魂の軌跡―

2010-11-01 09:00:00 | 映画

雨が降り、風が吹き、紅葉はいま駆け足だ。
朝夕、冷え込むようになった来た。
日々、秋は深まりの色をみせている。

花や木を愛し、語りかける。
心もおもむくままに、描く。
独自の絵の手法で・・・。

マルタン・プロヴォスト監督による、フランス・ベルギー・ドイツ合作映画である。
フランス映画界の祭典といわれるセザール賞で、並みいる話題作を退け、実在したある女性画家の生涯を描いたこの作品は、最優秀作品賞など、最多7部門を独占した。

セラフィーヌ・ルイは、フランスに実在した素朴派の画家で、彼女の描く鮮やかで幻想的な絵は、観るものの心を強く惹きつける、不思議な力を持っていた。
切ないほどに無垢な心に、危ういほどの激しさを宿し、“描くことが生きること”であった彼女の、美しく純粋な人生が、豊かな自然の中に溶け込むような詩情とともに綴られる。

1912年、フランス・パリ郊外・・・。
幼い頃から貧しく、家政婦として働いていたセラフィーヌ(ヨランド・モロー)は、人を寄せ付けず、部屋にこもって、黙々と絵を描く孤独な生活を送っていた。
絵具を買うこともままならず、草や木から色を作り出して、通っていた教会のろうそくの油をくすねて、オイルの代用にしていた。

そんなある日、画商ヴィルヘルム・ウーデ(ウルリッヒ・トゥクール)は、サンサスで一枚の静物画に出合い、衝撃を受ける。
その作者は、なんとウーデ家で働く家政婦セラフィーヌだった。
ウーデに認められ、援助を約束されたセラフィーヌは、個展を開くことを夢に絵を描き続けるが、第一次世界大戦が激化し、敵国の人となったウーデは、フランスを離れてしまう。

戦後、二人は再会し、セラフィーヌは数々の傑作を描き出していく。
ついに、彼女の夢が実現しようとした矢先に、1929年の世界大恐慌が二人にも影響を及ぼし、ウーデの援助も不可能となる。
絵を描くこと、それはセラフィーヌが生きることを意味する。
憑かれるように、絵に没頭する彼女であったが、ウーデの経済的な破綻を理解できず、自分は神からも見捨てられたと、彼女と現実とのバランスは崩れていった。
そうして、セラフィーヌは次第に神経を冒されていった――。

女が、画家になることの難しさとともに、階級社会の底辺に生きていたセラフィーヌは、一人の人間、一人の画家として、貧しくとも懸命に生きた。
映画は、無垢で自由な人間を描いて、静かだが、ヒロインの存在感もさることながら、鮮烈だ。
セラフィーヌを演じている、ヨランド・モローの演技が胸を打つ。
彼女は、初めてセラフィーヌの写真を見せられたとき、「これは私だ」と語ったといわれる。
彼女に見えるのは、神と自然の眼差しで、まるでセラフィーヌに彼女が乗り移ったような演技に、思わずため息が漏れる。

映画が進むにつれ、ヒロインは映像に詩的で感情的な重みを与えることに成功している。
彼女の演技は実に控えめで自然だから、なおのことそこには、逆に強烈で洗練された重みをまとうことになるのだ。
信心深さとほど遠いウーデが、セラフィーヌのことを聖女と呼んでいるのだが、それほど見方によって、ある種の神聖さに達しているように感じられるのだ。
ときに、彼女の創作活動を見ていても、宗教的、神秘的で、聖女の祈りのようでもある。

マルタン・プロヴォスト監督作品「セラフィーヌの庭は、森の夜明けから始まって、夜の闇は見る間に薄れ、木漏れ日がさし、渓流が眩しく光っているシーンから始まる。
そして、古い石畳の道を、女が早朝ミサの行なわれている聖堂へと入っていく・・・。
と思うと、突然シーンが変わり、女(セラフィーヌ)が黙々と床を磨いている。
そこで、ヒロインがその家の家政婦であることがわかる。
この作品に見る、二十世紀初頭の空気感はまことに心地よいもので、過ぎていった日々のしみじみとした情景が、あまりにも静謐すぎて、戸惑いを覚えるほどである。
スクリーンの映像が、ひとつひとつ詩情にあふれた、美しい絵画のようだ。
地味な作品だが、心に残る、味わい深い一品だ。