徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「人間失格」―切なく哀しい男の生き様―

2010-02-28 09:00:00 | 映画

1948年に発表された、太宰治の原作だ。
昨年が生誕100年で、太宰の作品は4本が映画化され、1年遅れて彼の遺産ともいうべき代表作が登場した。
「赤目四十八瀧心中未遂」の、荒戸源次郎監督がメガホンをとった。

主人公の、心の中で起こる事件(?)が中心だ。
些細なことで、傷つく青年がいる。とめどなく、その傷は広がっていく。
徹底して、ダメな男が主人公だ。

良家のお坊ちゃんは、酒に溺れ、女と心中し、しかし自分だけが生き残り、また女を渡り歩く。
自分の未来を見失って、どこまでも堕ちてゆく。
この作品が、どこか混迷の現代と結びつく接点があるのだろうか。

・・・誰もが、彼に惹かれた。
だが、彼の居場所はどこにもなかった。
人にも、世間にも翻弄された、青年が行き着いた先には何があったのか。

恥の多い生涯を、送ってきました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。
幼少時より自意識にまみれ、世間と上手くなじめない青年・大庭葉蔵(生田斗真)は、地方の特権階級の子として育ったが、その特権を意識するあまり、まわりの人たちと心を開いて交わることができないでいた。
いつも、その場の空気を読もうと神経を使い、それに失敗したと勝手に思っては傷つき、ダメな男になっていく。

そんな彼が、何人かの女性とめぐり合い、互いに心の傷を深め合う結果になったり、癒されたりする。
原作には出てこない、詩人の中原中也(森田剛)も登場する。
葉蔵は、女に不自由することがなかった。
飲み屋の芸者から、何かと部屋を訪ねてくる下宿先の娘・礼子坂井真紀)、金なしで酒を飲ませてくれるカフェの女給・常子(寺島しのぶ)・・・。

中でも、常子に自分と同じ寂しさを感じていた葉蔵は、ある日鎌倉の海で心中を図る。
だが、死んだのは常子だけであった。
事件後、より一層わびしさを感じていた彼は、偶然に出会った中原とともに心中以来となる鎌倉へ向かった。

子持ちの未亡人・静子(小池栄子)と知り合った葉蔵は、アパートに転がり込み、仕事まで世話してもらうが、酒浸りの日々は続いていた。
やがて、静子のアパートを出て、バー「青い森」の二階に寝泊りするうちに、向かいにあるタバコ屋の看板娘・良子(石原さとみ)に惹かれ、二人は結婚する。
人を疑うことを知らない彼女との生活は、葉蔵にとって、それまでになく穏やかな日々だった。
葉蔵は、ついに人間らしさというものを実感し始めるのだったが・・・。

まあ、荒戸監督の「人間失格は、少々レトロな文芸ドラマなのだが、葉蔵をとりまく女たちの存在感は壮観だ。
心中事件の相手となる寺島しのぶの強い自我、バーのマダムの大楠道代や、最後に彼の世話をやく老女を演じる三田佳子ら、原作から大きく離れて女の持つ魅力を存分に誇示している。

荒戸源次郎監督は、原作のセリフを映画のために大分作り変えている。
‘翻訳’しないと、現代に通じないようだ。
そして、作中で次々と小さな奇跡のようなものを織り込む。
そうしないと、この作品は映画にならないからだ。
もともと、映画にしにくい原作なのだから・・・。

ともかく、荒戸監督という人は、心中好きな監督だ。
この作品に登場する、寺島しのぶベルリン国際映画祭最優秀女優賞(若松孝二監督「キャタピラー」/8月公開予定に輝いた。
もっとも、以前彼女の主演した「赤目四十八瀧心中未遂」は、女優としても体当たりの演技に素晴らしいものがあったし、今後の期待も十分の役者だ。

この作品の主演が生田斗真ということで、ジャニーズファンが劇場に足を運んでいるらしいが、キャストとしてはどうか。
個人的には、異論がある。
豪華女優陣の総出演もなかなかだが、作品の方はというと、どうも上っ調子でいただけない。
葉蔵の苦悩にしても、描き方が平面的だ。
小説だからこそ、事細かな説明や描写が生きるのであって、スクリーンの上から人物の心の中まで見通すことの至難さが、映画を観てよく分かる。

心中事件など実際にあったことだし、太宰治の投影でもあるが、実像ではない部分も多い。
映画は、総じて暗いし、単調この上ない。
一般受けするのは、困難ではないか。
この鬱々とした気分は、やはり太宰文学の本質的なものといえるかもしれない。


映画「パレード」―若者たちの孤独な闇―

2010-02-26 19:00:00 | 映画

春一番が吹いた。
これからは寒い日も遠ざかり、日増しに暖かくなって、次第に本格的な春の訪れとなる。
季節は、急ぎ足で変りつつある。

吉田修一
の傑作(?)小説を、行定勲監督が映画化した。
これは、行定監督お得意の青春群像劇だ。
互いに関わらないことで、上手く付き合っていく若者たち5人の生活描写を重ねながら、そこに連続暴行事件をめぐるミステリーが絡んでくる。
スクリーンに漂う、不穏な空気感・・・。
それが、ぴりっと効いたスパイスとなって、現代の‘闇’を浮かび上がらせる。

この作品、ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞受賞した。
去年の「愛のむきだし」(園子温監督作品)に続く、日本作品の受賞だ。
現代の日本の若者の人間関係を描いた、複雑なテーマにもかかわらず、ヨーロッパで評価されたことは少々意外だ。

嫌なら出ていけばいい。
居たければ笑っていればいい。
そんな居住空間がある。
都会の片隅で、男女4人の若者が、古ぼけたマンションの一軒でルームシェアをしている。
几帳面で健康オタクの会社員・直輝(藤原竜也)、自称イラストレーターの未来(香里奈)、無職で恋愛に依存している琴美(貫地谷しほり)、先輩の彼女に恋している大学生の良介(小出恵介)ら・・・。
それぞれが、何かしら不安や焦燥感を抱えながらも、本当の自分を装うことで、優しく、しかし怠惰な共同生活を続けている、といった設定だ。

そこに、男娼のサトル(林遣都)が加わり、彼らの住むところでは、女性を狙った連続暴行事件が起きる。
穏やかな日常生活は歪みはじめ、、やがて思いもかけない結末が彼らを訪れることになる・・・。

お互いの暮らしには、干渉しない。
そうかといって、全くの他人ではない。
こんな生活もあるのだと思わせられる。
カメラは、巧妙な構図で、彼らの虚ろな内景をとらえ続ける。
しかも、意外な角度から・・・。
あまりアップではとらえず、若者たちの振る舞い、行動を丹念に追う方法はどこかドキュメンタリー風でもある。
そうだ、思い出した。
あのヒッチコック映画「裏窓」によく似ている。

5人の主要登場人物の表現もさることながら、彼らが一堂に会する状況には、不思議なアンサンブルが感じられる。
行定監督は、この
作品「パレードを撮りながら、社会派映画を目指したわけではない。
むしろ、人間を読み解く楽しみや、間違いさえも、敢えてこの作品の中で描こうとしたのではないか。
自分の中でフィニッシュがないと語る行定監督の演出は、完成度という点からもそこそこの評価を得ていいのかもしれないが・・・。

ドラマの中にはそれらしい伏線をめぐらしてはいるのだが、この映画のラストは実に衝撃的だ。
このカットのために、それまでのドラマがあったのかと思わせて・・・。
登場人物たちの心に、どんな闇が内在するのか。
とくに、藤原竜也の演じる直輝の実像や過去に何があったのか。
それぞれの若者たちが抱える孤独な闇を、これ以上その闇を切り裂いてみせることは難しかったのか。
彼らの持つ深遠な闇の底には、一体何があるのだろうか。
連続暴行犯が、凶行を重ねる理由や動機は何なのか。
この作品では、全く触れられていないのだ。。
このあたり、中途半端な気がしてならない。
心の深遠に迫ろうとするのであれば、もう一歩鋭利な切込みがあってもいい。
やや、不完全燃焼だ。

最近不振の日本映画の中にあって、現代の若者の内面に宿る‘モラトリアム’を主題に、新境地を拓こうとした意欲はうかがえる。
・・・残忍な場面は見せないようにして、かえって恐怖心をあおる演出に、なるほど映画はこういう風な撮り方もできるのだと思った。
このドラマ、映画の終わるところから、むしろ何かが始まるのではないか、そんな予感がある。
全編に漂う、ちょっと怖いような孤独感、寂寥感は独特なものがある。
まあ、面白さもあるから、観ていて退屈はしない。
映像の切込みにシャープな一面も感じられるが、作品としては、どうしても原作に負うところが大きいようだ。


映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」―上級ミステリーの味―

2010-02-24 20:00:00 | 映画
文句なしに面白い。
ニールス・アルデン・オプレブ監督スウェーデン映画である。
この北欧発の孤島ミステリーは、何とも型破りの、映画史上かつてないヒロインを登場させている。
原作者スティーグ・ラーソンの急死にもかかわらず「ミレニアム」三部作として全世界40ヶ国以上で翻訳され、2100万部を突破する大ベストセラーとなり、大きな社会現象まで起こしたといわれる。
ミステリー大賞三部作の、映画化第一弾がこの作品だ。

40年前の、孤島での少女の失踪事件を皮切りに、大企業グループ一族の闇に迫る、血と因縁のドラマへと展開していく、興味津々のミステリーである。
未解決事件の謎を追うサスペンスで、経済スキャンダルをめぐる社会派エンターテインメントの要素もちゃんとある。
謎解きのミステリーとして、面白さ抜群で、A級サスペンスの感が強い。

月刊誌「ミレニアム」の発行責任者でジャーナリストのミカエル(ミカエル・ニクヴィストは、大物実業家ヴェンネルストレムの違法行為を暴露する記事を発表した。
だが、名誉毀損で有罪となり、「ミレニアム」から離れることになる。

そんな彼の身元を、大企業グループの前会長であるヘンリック・ヴァンゲルが、密かに調べていた。
背中にドラゴンのタトゥーを入れ、天才ハッカーにして特異な風貌をした女性調査員リスベット(ノオミ・ラパス)の働きで、ヘンリックはミカエルが信頼に足る人物だと確信し、兄の孫娘ハリエットがおよそ40年前に失踪した事件を調査してくれるよう依頼する。

ハリエットは、ヘンリックの一族が住む孤島で、忽然と姿を消していた。
ヘンリックは、これは一族の誰かが彼女を殺したのだと考えており、事件が解決すれば、ヴェンネルストレムを破滅させる証拠資料をミカエルに渡すと約束した。
ミカエルは、彼の依頼を受諾する。
彼はやがて、リスベットの協力を得て、複雑な謎を解き明かしていく・・・。

スウェーデン映画「ミレニアム  ドラゴン・タトゥーの女は、少女失踪事件の謎を追っていくうちに、次から次と富豪一族の闇が明らかにされていく。
そして、ある忌まわしい真実とともに、あっと驚くような展開に、観客はぐいぐいと引き込まれる。
多彩な登場人物に目移りしてしまうが、骨格のしっかりしたドラマ構成で楽しませてくれる。

スウェーデン人俳優のミカエル・ニクヴィストは、人間性や知性の重みを感じさせ、リスベット・サランデルというドラゴン・タトゥーの女性は、現代北欧諸国を通じて最も期待されるキャラクターだそうだ。
ノオミ・ラパスの演じるリスベットは、完全に役柄に入り込んで、断然際立っている。
常識的な大人が、顔をしかめるような役で、甘えず、媚びず、自分の謎めいた過去やトラブルは一切口を閉ざし、社会的なルールなどほとんど気にしない。
このリスベットの、突出したキャラクターとハードボイルドな演技も、ここまで徹底すると面白い。
ミステリーの王道を行くような作品だ。
終盤にどんでん返しが待っているのだが、40年前の出来事については、簡単に触れられているだけなので、もう少し説明があってもいいのではないか。
三部作の物語は、一話ずつ完結するかたちだ。

全編謎解きの面白さだけでなく、社会派小説の硬質な味わいも楽しめて、続く二作の公開も待ち遠しい。
・・・世の中に女を殴る男がわんさかいる。
吐き気がするほど醜い女性憎悪と、性的虐待に走る彼らを相手に、必殺仕事人のごとく、的確に復讐を果たしつつ、事件の真相に迫ってゆくヒロイン像がとにかく際立っている。
大いに気になるのは、リスベットの過去に一体何があったかだが、これも次回作以降のお楽しみか。

映画「50歳の恋愛白書」―悩める大人たちの人生―

2010-02-22 09:00:01 | 映画
微妙な年齢、50歳・・・。
若いとはいえないが、決して年寄りではない。
人生で、これまで生きてきたことの意味が問われる。
この映画のヒロインも、そんな年齢にさしかかっている。

戯曲家アーサー・ミラーを父に持つ、レベッカ・ミラー監督アメリカ映画だ。
夫もいるし、子供もいる。
女優としての経験もある。
「アラフィフ」女性が、いまの映画産業を支えているともいわれるが、47歳の女性監督が自ら脚本を書いたこの作品は、その世代の「本音」を描いているのかも知れない。

父親ほども年の離れた、有名作家ハーブ・リー(アラン・アーキン)と暮らしてきた、ピッパ・リー(ロビン・ライト・ペン)は、二人の子供を育て、世間的には理想の主婦と見られていた。
しかし、本当の彼女には、長年の友達もよく知らない、いくつもの過去があったのだ。
山あり、谷ありの過去と、いろいろ問題だらけの現在が、時系列を行きつ戻りつ語られる。

ピッパは、薬剤中毒の母親(マリア・ベロ)に育てられた。
自分は夢遊病で、母親にも嫌気がさしたピッパは、家を出る。
彼女は叔母の家に身を寄せたりするが、麻薬に溺れていき、荒れた生活を送るようになる。

そんなとき、母の死を知って、さらに自堕落なライフスタイルにのめりこんでいくのだが、そうした悲劇的な人生から彼女を救い出してくれた、30歳も年上のハーブ・リーに惹かれていく。
しかし、この恋を手に入れるために払った代償は、予測もしていないほど大きなトラウマとなって、彼女につきまとうこととなった。

不幸な青春時代を経て、ようやく手に入れた安泰な生活だったが、型にはまった日々に、退屈と息苦しさを感じるようになる。
夫の浮気を目撃し、これまでの生活が音を立てて崩れたとき、彼女は15歳年下のクリス(キアヌ・リーヴス)と出会うのだ。
かつての愛は、風のように通り過ぎていく。
彼と過ごす時間によって、ピッパは変わっていく自分を実感し、新しい人生の一歩を踏み出そうとするのだった。

人生の辛酸が、ここでは、ときにシリアスに語られる。
人生半ばを過ぎたら、やりたいことをやろうという、大人たちのエールが感じられる。
世の中、女は母性本能と自己犠牲だけでは生きられない。

アメリカ映画「50歳の恋愛白書」は、この脚本にほれこんだブランド・ピットが製作総指揮をとり、ハリウッドの実力派スターが終結した。
人生半ばを過ぎたら、今度は自分のやりたいことをやろうと思っても、そううまくいくものでもない。
でも、思っているだけでは何も始まらない。
型にはまりすぎると、人間は退屈なもの・・・。
そんなとき、人はしばしば過ちをおかすことがある。
それでも、新たな人生を歩むためのセカンドチャンスがあったら、果敢に行こうではないか!
・・・と、そんなメッセージを発信しているような・・・。

この作品、ちょっとした過ち(?)ぐらいいいじゃないかと、誘い水をかけているようなのだ。
ドラマの中で、ヒロインの発する「愛は来ては去るそよかぜ」という言葉は、女性をとらえる一言だ。
誰しもがそうだとは言い切れないが、どんなに不実な生活があったとしても、この年代の女性は、どこか満たされない心の空洞をかかえているもののようだ。
そして、きまっていつもそんなことが、女性映画のテーマともなっているようだ。
ひとこと言わせてもらうと、悩める大人たちにしては、映画としていまいち物足りなさを感じるのも事実だ。
タイトルと内容が、どうもぴんとこない。

映画「恋するベーカリー」―焼けぼっくいに火がついて―

2010-02-20 15:00:01 | 映画

熟女パワーの全開だ。
美味しい人生を焼き上げる、ベーカリーの女性経営者が主人公だ。
ナンシー・マイヤーズ監督のアメリカ映画である。
ナンシーは、この作品でヒロインを演じるメリル・ストリープとは全く同い年の1949年生まれだ。
お二人ともに、仲良く昨年還暦を迎えたばかりなのだ。

熟年パワーが、この映画で炸裂する。
内容はよくある話で、新味らしいものはないが、女性の視点でそこそこの脚本も面白い。
ユーモラスで軽妙な会話のやり取りは、微妙に男と女の心理を突いている。
明るく、ハートフルなドラマが展開する。
一応は、大人の話なのである。

ジェーン(メリル・ストリープ)は、三人の子供を育て上げ、いまは人気ベーカリーの経営者として、仕事、家族、友人との関係を通して、身も心も自立している。
充実した生活なのに、しかし何かが満たされていない。
そんなある日、息子の大学卒業式に出席するために滞在したホテルのバーで、10年前に別れた元夫のジェイク(アレック・ボールドウィン)と再会する。

再婚している元夫に対して恋をしてしまった彼女は、自分が幸せになるために、さらなる一歩を踏み出そうとする。
ジェイクは、再婚した若い妻とも別れ、ジェーンに復縁を迫ってきたのだ。
そこへ、新たに出逢った建築家のアダム(スティーブ・マーティン)が加わる。
彼も、どうやらジェーンに気があるらしい。
いろいろと厄介なことになってきた。
こうして、青春映画なみの三角関係が繰り広げられる。

自立する女が、男にもてる女に変身し、二人の男を翻弄する。
女性が描く女性像は、よくこなれていて、作品自体は平凡だがそこは面白い作りだ。
再会した元夫と元妻、それに第三の男を巻き込んで、自体は思わぬ発展をする。
女性として、母親としての身の振り方に迷いもある。
迷いつつも、すべてにとにかく前向きに生きようとする、ジェニーの幸せ探しは壮快だ。
だが、そうも言っていられない・・・。

メリル・ストリープは、アメリカではヨーロッパ映画に一緒に行ってくれる男性が少ないから、このドラマのように、アダムのようにジェーンを映画に誘うのは嬉しいものだと言っている。(映画では、このデートの約束はキャンセルになってしまったけれど。)
それから、日本の男性はいつになっても、女性を精いっぱいに口説いたり、ほめたりするのが下手くそだが、あちらでは何の嫌味もなくさらっと言ってのける。
アメリカ流というのか、多少はオーバーでキザなセリフも気にならない。

コミカルに、温かな雰囲気を演出しながら、女性監督ならではの細やかな目配りがある。
この物語自身は、現実には考えられないような話だ。
・・・いつの時代も、女は男に弱く、男は女に弱いものだ。(?)
互いに求め合い、ぶつかり合って、失敗は失敗として、明るい希望を求めてやまない。

一度結婚した男女は、別れてもそれですべてが終わらないものかもしれない。
別れたからといって、愛は終わらない。
それは、未練とか執着というようなものではない。
ともに過ごした歳月の重みは、簡単に消えてなくなるものではない。
離婚というテーマは、平凡だが、その中身はいろいろだ。
過去にこだわらないといっても、そこが問題だ。
昔、元妻と元夫の間に、どれほどのことがあったのか。
重いものがあったはずなのだ。
重要な部分が説明つくされぬままだ。
その二人が、何を思い何をしようとしているのか。
描ききれていない部分は、多々ある。
その分、観客の想像をかきたてることになる。

アカデミー賞常連女優ストリープのおばさんっぽいところや、対する男優の演技とあいまって、意外なアンサンブルが見どころといえば見どころだ
過ぎ去った人生のページは、めくり戻せるのか戻せないのか。
アメリカ映画「恋するベーカリーは、もはや十年前の二人ではない彼らを描いているはずなのに、ひたすら前だけを見て、輝ける未来に幸せを求めようとする姿を、あっさり肯定できるのだろうか。
ジェーンとアダムの関係に、先はあるのだろうか。
二人は、いや三人はどうなるのだろうか。
この映画、‘続編’があってもおかしくない。
・・・などと思いつつ、まずは、肩の凝らない、大人向けのロマンティックコメディだ。


映画「のだめカンタービレ 最終楽章」―音楽は楽しめるが―

2010-02-18 18:00:00 | 映画

武内英樹監督のミュージック・コメディというか、やはり人気コミックの映画化はこんなものだろうという気がした。
のだめカンタービレ 最終楽章は一種の群像劇だが、演奏される名曲は、チャイコフスキーの「序曲 1812年」「交響曲第6番 悲愴」など、馴染みの曲が盛りだくさんで、さながらコンサート会場の趣きがあるのはよかった。

ドラマの作りは、いろいろ工夫のあとも感じられなくはないが、平凡で奇抜、どう見てもいかにも作り物の域を出ていない気がした。
(もっとも、それが狙いだったのかもしれないが)
一部の素人っぽい演技や、これ見よがしな下手なギャグにも閉口だ。
登場人物が多い。
その分キャラクターが多彩なのはいいとしても、彼らの演技が、だれもが上手いというわけでもないし、無理に作られたような笑いも、よく見ていると、どうもわざとらしくていただけない。
原作も読んでいないし、テレビドラマも見ていないので、筋書きは本編だけしか知らない。

パリの国際指揮者コンクールで優勝した千秋(玉木宏)が、指揮者としての第一歩を踏み出そうとしていた。
そして、彼はオーケストラの常任指揮者となる。
しかし、そのオーケストラは、演奏も大ざっぱで低レベル、まるでヤル気のない団員ばかりで、公演もままならない。

千秋は、どん底であえいでいた。
泥酔してマンションの前で倒れていた千秋を、のだめ(上野樹里)に拾われたような出会いから、二人がピアノのレッスンをするようになったらしい。

一時は絶望した千秋だったが、やがてオーケストラの大々的な立て直しに取りかかる。
その一方で、彼に恋するのだめはといえば、千秋の指揮者就任を素直に喜びつつも、コンセルヴァトワールの進級試験を控えていた・・・。

全くいただけないのは、外国人俳優の吹き替えだ。
あれは、何なのだ。
それに、まともな演技もできない役者もいる。
海外ロケ、コンサートのステージ、スタッフ、キャストと結構贅沢な作品のようで、莫大な製作費がかかっているのでは・・・。
それだけに、演出もおざなりなのが気になる。
ハチャメチャな楽団を立派に再生するのは容易ではないはずだし、そんなことはあまり描かれていない。
コミックはこういうものなのだろうか。
本編はまだ前編だそうで、ドラマはこれからどういう展開をたどるのか。
近く、続編が公開されるらしい。

お子様ランチのような映画だ。
この作品の多くのファンには申し訳ないが、個人的には失望気味で、いまは多くを語る言葉も見つからない。
いくらかでもコンサートの臨場感を味わせてくれる、素晴らしい名曲だけが、せめてもの救いだった。


映画「赤と黒」―ジェラール・フィリップ没後50年―

2010-02-16 13:00:00 | 映画

フランス文豪スタンダール小説「赤と黒」が、名匠クロード・オータン=ララ監督によって映画化されたのは、1954年のことだった。
「肉体の悪魔」「パルムの僧院」「花咲ける騎士道」「七つの大罪」「しのび逢い」「モンパルナスの灯」「危険な関係」ときけば、往年の映画ファンには懐かしいジェラール・フィリップの名が思い浮かぶ。

主演ジェラール・フィリップ没後50年、いまここにこの名作が、半世紀を経て甦った。
この作品と、再び会いまみえるとは思ってもみなかった。
不世出の映画スターといわれ、フランス映画の黄金時代に、この文芸大作が生まれ、いままたデジタルリマスター版で、その映像を見事なまでに甦らせたのである。
途中10分間のインターミッションをはさんで、3時間半の大作だ。
今回、以前未公開だった部分7分間あまりが、新編集で加えられている。

才知と美貌で時代を昇りつめたジュリヤン・ソレルが、生きて帰ってきたような錯覚にとらわれる。
37歳という若さで逝ったジェラール・フィリップは、希代のソレル役者として時代を風靡した。
文芸大作としていまスクリーンを観るとき、その色褪せない映像の中にスタンダールの世界がやきついている。
フランス映画に、カラーがはじめて採り入れられた1954年の作品だが、このデジタルリマスター版は、日本での上映が世界初上映だそうだ。
さぞかし、フィルムの傷などでひどい映像ではなかろうかと案じたが、杞憂であった。
もう、退色のはげしかった大作が、ものの見事に修復されて、再び観ることができるとは・・・。
画面の色彩は、シャープではないが実に柔らかいし、音声も明晰でよくここまでできたという感じだ。

1820年代の小都市ヴェリエール・・・。
職人の息子ジュリヤン・ソレル(ジェラール・フィリップ)は、貧しい環境に育ちながら、ラテン語を得意とする聡明な青年であった。
シェラン司祭の推薦で、町長レナール(ジャン・マルティネリ)家の家庭教師となった彼は、レナール夫人(ダニエル・ダリュー)に思いを寄せ、二人はいつしか人目をしのぶ恋仲となる。
しかし、立身出世の夢を抱いていた野心家のジュリヤンは、スキャンダル発覚を恐れ、当時出世の近道であった神学校へと旅立つ。

才気はあるが、人並みはずれて強い野心を抱くジュリヤンを心配した、神学校のピラール司教は、ラ・モール公爵(ジャン・メルキュール)に、パリへ招かれた折りに彼を同行させる。
公爵邸で秘書となったジュリヤンは、気位の高い公爵令嬢マチルド(アントネラ・ルアルディの心を射止める。
マチルドとの結婚を許され、中尉となるジュリヤン・・・。
ところが、レナール夫人の手紙が、幸福を引き裂いた。
公爵から、家庭教師時代の行いを問われた夫人は、聴晦師に言われるままに、彼の罪深さを告発したのだ。

絶望と怒りに駆られたジュリヤンは、ヴェリエールへ赴き、協会でレナール夫人に発砲、夫人は無事だったが、彼は裁判で死刑を宣告される。
絶望の中、獄中でレナール夫人の訪問を受けたジュリヤンは、彼女の変わらぬ愛の深さを知り、心しずかに断頭台へのぼるのであった。

ここで描かれる人々は、何か気高い社会と気高い自分を求めつづける理想主義者たちだ。
でも、気高い社会など幻想にすぎず、気高い自分もこの世には存在しなかった。
そうした絶望の中で、主人公は美しき(?)破滅に向かって突き進んでいった。
ナポレオンの写真をそばに置いて、強くあるべき自分を夢みつつ、それと同じ情熱で若い命を断頭台に散らせてしまうジュリヤン・ソレルの生き様を、ロマン主義としてとらえている。

ジェラール・フィリップは、まさにスタンダールの意図したソレルを演じきっている。
共演のダニエル・ダリューの気高さ、清楚さや、アントネラ・ルアルディの溌剌とした美しさも言うまでもなく、豪華なキャスティングで、この作品は後世に語り継がれていくのではないか。
崇高な愛に救われる魂、死してなお、それは消えゆくことがなく・・・。
フランス映画「赤と黒」(デジタルリマスター版)は、そういう作品だ。
ジェラール・フィリップは、はじめ頑強なまでにオファーを拒み続けたといわれ、クロード・オータン=ララ監督の数年に及ぶあまりの熱情に、ついに出演を引き受けたといういきさつがある。

製作から50年以上立っても、スタンダールの名作「赤と黒」は、心理描写にすぐれたものがあり、映画史上後にも先にも、このジェラール主演の「赤と黒」しか作られていない。
ジュリヤン・ソレル役は、彼以外の俳優では考えられず、この先もまた映画化されるのは難しいのではないだろうか。


地に堕ちた自民党のえげつなさ―予算委員会―

2010-02-14 07:30:00 | 雑感

春とは名のみの寒さが続いている。
こうなると、早く暖かい日が訪れてこないものかと・・・。

案の定、国会が荒れ模様だ。
まだまだ、ひよこのような民主党政権が誕生して、日が浅い。
それでも、よくやっている方だ。
しかし、その政権与党の重鎮が揃いも揃って、政治とカネの問題で躓き、野党の思うツボにはまってしまっている。
自業自得、不徳の致すところですむ問題ではない。
この大事なときに、困ったことだ。

あそこまでやりますか。
政党の品格はどこへ行ったのでしょうか。
ご覧になりましたか。
先日の衆議院予算委員会で、与謝野元財務相のあの暴言・・・。
こともあろうに、席上面前で、鳩山総理に対して、「あなたは、平成の脱税王だ。首相の資格はない」と、吐き捨てるように言ったのだ!
ことは、総理の偽装献金問題だ。
与謝野氏は、ヤクザ映画まで引き合いに出して、首相が秘書に重い罪をかぶせているとして、鳩山総理を糾弾する姿勢を見せた。

一瞬、場内がどよめき、色をなして反論した鳩山総理も、興奮のあまり失言する一幕まであった。
「脱税」と言う言葉は、このあとも数回にわたって鳩山総理に向かって投げつけられ、総理は、「ヤクザと同じように扱われるのは、如何なものか」と交わしたが、内心の怒りはありありだった。
あんなことを言われれば、誰だって腹が立つ。
与謝野氏が、どこからか国会の予算委員会室に乗り込んできた、薄汚いヤクザに見えましたが・・・。

あれは、ひどい。
言うにこと欠いて、かつての閣僚ともあろう人が、何を血迷ったか。
野党に成り下がったとはいえ、与謝野氏の暴言は、この人そこまで言うかと、誰もが驚いたのではないか。
いやしくも国会で、首相を「脱税王」呼ばわりとは如何なものだろうか。
さらに、家庭のことや個人的な問題にまで踏み込んで、暴言の限りをつくすのは、見苦しいことこの上ない。
もっと紳士的にできないものなのか。
喧嘩を売っている場合ではない。

鳩山総理は、これまで幾度も謝罪を繰り返し、馬鹿丁寧なほどに説明をしてきた。
こんなことで、連日国会が空転していていいのか。
自民党は、そこまで堕ちたのか。
おまけに、不起訴になった小沢幹事長の説明責任や、鳩山総理の老母まで証人喚問せよと、もう矢の催促である。
どうなっているのか。

与謝野氏は、あとで記者団に言ったそうだ。
 「どうせ、俺たちは野党だからな」
もう、あいた口がふさがらない。
・・・ねちねちと、一体いつまでこんなことを続けるのか。
カネ、カネというが、カネに汚かったのはもともと自民党ではないか。
鳩山総理のカネの問題は、鳩山家の資産であり、少なくともダーティーなカネではない。
自民党は、このことで口汚く追求するが、まあよく言えたものだ。
政権を奪われると、ここまでなりふりかまわなくなるということか。

与野党は、もっと真摯に政策論争をこそすべきではないのか。
同じことを、いつまでも繰り返し繰り返し、同じ答弁の繰り返しではないか。
幼い子供でも、一度‘学習’したことを繰り返さないものだ。
いまの政治家、いや政治屋は、ときに子供よりも劣る。
予算委員会は、3月一杯まで続く。

民主党政権は、発足したばかりで、大きく揺れている。
あの検察が、不起訴処分にした小沢幹事長にしても、いろいろあるにせよ、寄ってたかって極悪人扱いだ。
果たして、そうなのだろうか。
清廉な政治家だなんて思ってもいないが、よかれ悪しかれこの人のしたことは後世の歴史に残ることだ。
国民の望んだ政権交代を実現させたのに、世間でさんざん悪人呼ばわりされているこの人が、完全に抹殺されることが本当にいいかどうかは、疑問がある。

現実に、政治を動かしてこそ政治家だ。
政治が変わるときは、いろいろなことが起こる。
それが改革だ。
過去の日本の歴史が、それを如実に物語っている。
歴史に残る政治家の条件は、政治の構造を、変えることができるかどうかだというではないか。
いま、それができるかできないかの、岐路に立っている。


「映画芸術」が選んだ2009年日本映画ベストテン

2010-02-12 08:00:00 | 映画

お堅い映画雑誌「映画芸術」最新号が、2009年の日本映画のベストテン&ワーストテンを発表した。
映画評論家、監督、脚本家ら39人の選考結果は、意外や意外だった。

それによると、ベストテンの1位から5位までは次のような結果だった。(監督名/敬称略)
  1位 「愛のむきだし」(園 子温)
  2位 「ウルトラミラクルラブストーリー」(横浜聡子)
  3位 「ヴィヨンの妻」(根岸吉太郎)
  4位 「あんにょん由美香」(松井哲明)
  5位 「私は猫ストーカー」(鈴木卓爾)
そのほか、観たことのない作品がずらりと並び、16位に「無防備」、28位に「おと・な・り」が入り、「剣岳 点の記」が36位、「ハゲタカ」が105位、「沈まぬ太陽」が110位という具合だ。 

反対にワーストテンでは、
  1位 「空気人形」(是枝裕和)
  2位 「蟹工船」(SABU)
  3位 「ROOKIES」(平川雄一朗)
  4位 「しんぼる」(松本人志)
  5位 「MW-ムウ-」(岩本仁志)
以下、「さまよう刃」「カムイ外伝」「ガマの油」「ゼロの焦点」「ディアドクタター」「誰も守ってくれない」などと続く。

審査員の評点は、1作品1点から10点満点まであるから、たとえば「ディアドクター」などはベストテン12位にもランクされ、ベスト、ワーストの双方で上位にランクされるといった結果も出ている。
評点方式にもよるわけだが、一般の予想とはかなり違った傾向が見られる。
興行成績や人気が高いからといって、必ずしも、作品としての評価が高いということにはなっていない。
もちろん、国内の映画祭や、映画賞での評価もあてにはならない。

最近では、恒例の横浜映画祭では、作品賞は「ディアドクター」(西川美和)、監督賞は「のんちゃんのり弁」(緒方明)だった。
映画は、観る人によっていかに違うかということがわかる。
人気作品だからといって、上質の映画だともいえないし、逆に不人気で客の入りが悪くても優秀な作品はあるもので、隠れた名作、秀作もそんなところに潜んでいたりするものですね。
ときには、陽の目を見ない名作もあったりするわけで・・・。


映画「抱擁のかけら」―崩れ落ちた愛の奇跡―

2010-02-10 09:00:00 | 映画

鬼才ペドロ・アルモドバル監督と、ペネロペ・クルスのコンビによる、四本目のスペイン映画(最新作)である。
愛の崩壊と再生を描いて、多様に入り組んだ物語が、鮮烈かつミステリアスに綴られる。
生々しく陰影に富んだドラマは、まことに面白い。
アルモドバル監督という人は、ドラマ作りが実に上手い。
人は、幾多の挫折や破壊を繰り返しても、立ち上がることができる。
これは、そんな人生の素晴らしさを謳い上げる、究極の人生讃歌だ。

邦題のタイトルは気に入らないが、中身は濃密だ。
現在と過去、現実と回想の時系列が交錯し、ひねりの効いた愛憎の世界が織り成されていく。

2008年のマドリード・・・。
脚本家のハリー・ケイン(ルイス・オマール)は、以前マテオ・ブランコを名乗って、映画監督として活躍していた。
彼は、ある事件で、14年前に失明し、同時にもっと大切なものを失った。
それ以後、彼は自分の本名を心の奥深く封印した。

ある日、ハリーに脚本を依頼に、ライ・Xと名乗る男が現れた。
「息子が、父の記憶に復讐する」物語だと聞かされる。
ハリーは、いやでも自分が決別した過去を思い出すのだった。
そして、彼のエージェントのジュディット(ブランカ・ポルティージョ)の息子ディエゴ(タマル・ノバス)に、ハリーは、マテオ時代の過去を語り始める・・・。

1994年のマドリード・・・。
新進監督だったマテオの新作オーディションの日、レナ(ペネロペ・クルス)が目の前に現れる。
彼女は、大実業家エルネスト・マルテル(ホセ・ルイス・ゴメス)の愛人だったが、ひと目見たときからマテオは彼女に惚れ込んだ。
エルネストは、その作品に出資することになり、素人同然の彼女を主役に抜擢した。

レナは、眩しい才能をほしいままにするマテオに惹きつけられ、二人の愛は燃え上がった。
エルネストは、息子を撮影の現場に送り込んで、レナを監視させる。
かつては、マテオの恋人だったジュディットも、二人の関係を嫉妬と羨望で見つめていた。
それぞれの感情が渦巻く中、レナとマテオはランサロテ島へ逃避行を遂げる。
・・・マドリードでは、裏切りと復讐がはじまっていた。
そして、事件は起きた・・・。

それから、やがて、あの当時には知りえなかった、愛憎の裏にかくされた真実にたどりつく。
映画「抱擁のかけらは、ドラマ性たっぷりに、サスペンスフルで複雑な展開を見せる。
通俗的と言ってしまえばそれまでだが、どうしてどうして中身はかなり濃厚だし、物語の構成も巧みで、語り口も見事である。
機会があれば、もう一度観てみたい。

レナを演じるクルスは魅力的だし、磨かれた彼女の演技力もたいしたものだ。
さすがはアカデミー賞女優だ。
アルモドバル監督の面目躍如といったところだ。

この作品、レナの死によって終わった愛が、個人の枠を越えて再生を果たすのだ。
レナとマテオの愛は、映画の中の映画に重ねられている。
レナは事故で、映画は最後の編集で命を奪われるが、アルモドバル演出はこれらを大きな死として見つめる。
そして、それ(映画の中の映画)がよみがえるとき、失われた愛もまたよみがえる、死と再生のテーマはここでも描かれている。

逃避行したマテオとレナが、ロッセリーニ監督イングリッド・バーグマンが出ている、古い映画「イタリア紀行」を観る場面がある。
死んでもなお愛を貫くシーンだ。
数千年前の男女の不滅の愛を見て、深い感動を呼ぶシーンだが、それを観たレナはあんなふうに死にたいと思う。
レナの切なる願いを感じとった彼は、カメラをセットし、自動シャッターを切るのだ。
全編に愛が満ちている。
だが、それは憎しみと紙一重だ。
そこには、人間の‘業’のようなものが見える。
実に興味深いシーンだ。

映像の使い方も巧みだ。
観客は、エルネストの目線で、彼の息子が撮影した映像に接することになるのだが、この緊張した場面はどうだ。
アルモドバル監督の追求するフィクションは、彼一流の切り口で、愛と憎しみのドラマを見事な結末へ持っていく。
観るものの心を、激しく揺さぶる物語だ。
同じようなテーマを扱っても、ヨーロッパ映画の不思議な魅力がここにある。
ペドロ・アルモドバル監督の、この映画に観る彼の美学は秀逸である。