徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

時給47,854円の大いなる不適切―国会議員歳費―

2010-07-29 15:45:02 | 雑感

国会議員の歳費(給与)は、1ヶ月229万7000円だ。
これを時給で計算すると、47,854円となる。
1ヶ月間のうち、1日でも働けば、1か月分が支給される仕組みだ。
したがって、この夏の参院選で初当選した議員にも、230万円近くが支給される。
7月中の勤務は、26日から31日までだから、たった6日間だ。

昨年の衆院選のときも、2日間で1か月分が支給され、問題となった。
今回と同じように、いろいろ批判が出て、これを改めようとする動きも出たのに、そのままずるずると来てしまった。
一体、どうなっているのだろうか。
どうして、国会議員の歳費を日割りにできないのか。
1ヵ月の内1日でも働けば、1か月分が支給されるなど、こんなことは民間会社では通らない話だ。
みんなの党、公明党などは、日割り計算するよう法律の改正を求めている。
それが、一向に進まない。
政府に、ヤル気がないのか。そんなことでどうするのか。

民主党は、まず自分たちから始めたらどうか。
そんなことはもう長年やっていないことだとか、まだ準備が整っていないだとか、御託ばかり並べている。
こんな具合だから、民主党は何を考えているのか、ヤル気がないのではないかと見られるのだ。
本当にヤル気があれば、2日間あれば出来ることだと、みんなの党も言っている。
難しいことではない。
すぐにやるべきことではないか。

一部の地方議会では、すでに日当制や日割り計算を導入して成果を上げている。
東京立川市議会では、日割り支給条例を導入したではないか。
そして、実際に実施しているのだ。
働いた日数のみの報酬が、正しく支払われているのだ。
それも、議会が率先して全会派が一致して決めたことだ。
地方に出来て、どうしてそんなことが国に出来ないのか。
実に情けない、政権党だ。
民主党の小沢前幹事長も、今年の3月、日割り計算とすべきだということを提唱している。


民主党のマニフェストの中にも、政治改革の項で、衆参両院の定数削減と、議員の歳費を日割りとし経費も2割削減と、あんなに堂々と謳っているではないか。
あれは何なのだ。
スケジュール的に厳しいからなどと、逃げてばかりいる。
そんなことは、理由にならない。

自民党からも、議員歳費を日割り計算して、一部を自主変換できるよう法改正をすることについて、提案が出された。
初当選の参院議員の任期は、この26日からなのだから、1か月分を受け取れるとする制度を改める目的だ。
この法案は、30日に召集される臨時国会で成立させたい考えだ。
何もやらないよりは、まだいい。
民主党は前向きに検討するとしているが、いまだに検討だなどと、そんなことでは手ぬるい。

制度設計で、各党の意見に食い違いはあるようだが、即ヤルべしである。
大体、国会議員が多すぎるのだ。
何故、マニフェストで公約したことが守れないのか。
やろうとすれば、すぐにでも出来ることを何故やらないのか。
要は、実行あるのみだ。
民主党が、率先してやるべきことだ。

働いた分だけ、報酬を受け取る。
当たり前のことさえも出来ない。
やはり、政事屋(政治家ではない)は、庶民の感覚がわからないのか。
いよいよ、諸々の問題を抱えて、何が起きるか予断を許さない、波乱の臨時国会が始まる。


映画「インセプション」―操られる潜在意識の凄まじさ―

2010-07-27 10:35:00 | 映画

人間の潜在意識をめぐるサスペンスだ。
クリストファー・ノーラン監督アメリカ映画で、常識を根底から覆すような、SFを縦横に駆使した超大作だ。

現実から夢へ、さらに夢から夢へ・・・、と思うのもつかの間、一瞬の現実があるかと思うと続いてまた夢の世界へ、その夢も二重三重の多層構造となっていて、解りにくい。
解りにくいが、現在と過去が交錯し、物語の中にまた物語があるのだが、よく整理すれば理解できないものではない。
ただ、物語はスケールが大きく、荒唐無稽である。
その荒唐無稽も、あまりにもリアルさがあって、映画がここまでやるかという面白さは否定しない

自分ではない、他人の頭の中に侵入して、アイデアを盗み出すというプロ集団がいて、このグループのリーダーが、コブ(レオナルド・ディカプリオ)と呼ばれる男だ。
そのコブの前に、突然サイトー(渡辺謙)と名乗る男が現れ、ライバル企業の御曹司ロバート(キリアン・マーフィー)にアイディアを植えつける、「インセプション」という困難なミッションを依頼するのだ。

コブは、そこで最高のメンバーを集める。
必要なのは、ターゲットが現実だと信じる精密な世界を、夢の中に創り上げる「設計士」だ。
かつて、コブ自身が天才的な設計士だったが、妻のモル(マリオン・コティヤール)が死んでから、その才能を封印していた。
そこには、モルとの間に、誰にも言えないある秘密があったのだ。

コブは、義父マイルズ(マイケル・ケイン)に、教え子のアリアドネ(エレン・ペイジ)を紹介され、彼女を「設計士」に採用する。
さらに、夢の中で様々な人間に姿を変えてターゲットを騙す「偽造師」イームス(トム・ハーディや、夢の世界を安定させる深い眠りをもたらす「調合師」ユスフ(ディリープ・ラオらまで選ぶ。

メンバーが揃うと、結果を見定めるサイトーを加えた6人が、ロバートの頭の中に入ることになる。
彼らは、ロバートが乗る飛行機を密かに買取り、彼を薬で眠らせ、潜在意識に侵入する。
だが、彼らは武装した男たちに襲われる。
強い薬のせいで、目覚めることもできない彼らを待ち受けていたものは、まだ人類の誰もが見たことのない世界であった・・・。

クリストファー・ノーラン監アメリカ映画「インセプションでは、辺りの風景が突然屈曲したり、無重力化する。
夢の構造は三層にも四層にも重なり、非現実の世界がめまぐるしく展開する。
他人の頭の中に侵入するという発想は、ノーラン監督自身がかなり前からあたためていたらしい。
この監督の頭の中は、一体どうなっているのかと思わせる。
どうやら、クリストファー・ノーランという人は、とてつもない才能を持つフィルムメーカーのようだ。

夢と現実の境はどこなのか。
一瞬考えたときには、もう場面が変わっている。
正常な神経ではついてゆけない。
劇中には、幻想的なシークエンスがいくつもあって、凝りに凝った映像表現が観るものをあきさせない。
CGの使用は最小限にとどめていて、可能な限り、実際に撮影したということだ。
リアリティにこだわるノーラン監督は、世界の四大陸をまたにかけ、6カ国で主要な撮影の大部分のロケを行ったそうだ。

虚構の世界を作る際でも、常に現実を下敷きにしているのがわかる。
列車が大都会の町中を暴走する場面があるが、これもCGではなく、何と線路のない公道で本当に列車を走らせたというから、もう驚きである。
凄い映画が登場したものだ。

とにかく、驚愕の映像マジックに翻弄されっぱなしだが、主人公コブには過去に家族をめぐる苦悩が内在するあたりに、この作品の主軸があるようだ。
まあ、個人的な好みは別として、この映画を鑑賞した。
興奮の2時間半、連日の猛暑を吹き飛ばすような作品のスケールに、さて、度肝を抜くような、エキサイティングのお味はいかがなものですか。


真夏の大騒ぎ―VIP級元北朝鮮工作員来日―

2010-07-24 03:00:00 | 雑感

酷暑のさなか、大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫元工作員の来日はどんな意味があったのだろうか。
日本政府は、彼女の招聘に1億円以上を投じ、協力金名目の謝礼は3000万円とも言われている!
この国賓並み(?)とも思える、超法規的来日は何だったのだろうか。
驚き、呆れる。

結果は予想通りだ。
新しい情報は、何ももたらされなかった。
面会した横田滋氏夫妻も、自分たちの一番知りたいことは何もわからなかったと、落胆の色を隠さなかった。

金賢姫が、横田氏夫妻に語った話は、すでに知らされている1980年代の情報だけだったというではないか。
本件の仕掛け人は、あの路チューをフライデーされて名を上げた(!?)、中井拉致問題担当大臣だ。
彼のはしゃぎ振りは尋常とは思えなかった。

政府や法務大臣の協力で実現した来日だが、このことが、日本が世界や韓国と一体となって、拉致問題と取り組む姿勢を示したことになるのだろうか。
それとばかりに飛びついた、マスコミ(テレビ)のフィーバーぶりは、一体何だったのか。
人気取りのパフォーマンスではと、悲しき体たらくといわれても仕方がない。

今回の彼女の来日を、外交上どのようにつなげるのか。
今の時点では、何の成果もなかった。
新事実が出ることもなく、金賢姫は帰国したが、何でも来日で得た金を経営が悪化している夫の焼肉店の再建に当てるらしいから、彼女にとっては都合がよかったのではないか。
個人資産のない金夫婦にとっては、実に美味しい話だったはずだ。

これだけの騒ぎになりながら、本人の公式の会見がなかったのも、テレビでの拉致被害家族との会談から音声がカットされたのも、不可思議だ。
帰国直前の、NHKと民放の独占インタビューだけは映像も音声もまとも(?)だったが、新味のない、いずれも中身の伴わない繰り返しであった。

現在では、彼女の利用価値や知名度は薄れていて、もはや過去の女という印象が強い。
本人も、世を忍ぶように身を隠して生き延びている現状で、彼女もまた、北朝鮮という不埒な国家に人生を翻弄された、哀れなひとりの被害者に過ぎない。

今後、金元工作員の、北朝鮮を揺さぶる外交カードとしての利用価値など期待しないほうがいい。(北朝鮮側がそんな人間は知らないとまでいっている。そんな国だ。)
それにしても、1億3000万円という大金が使われた(?)ことになる。
これは大きい。
財源がないといわれているのに、これも国民の血税だと思うと・・・。


「ねじれ」のこちらとあちら―民主政権の危うさ―

2010-07-22 05:00:00 | 雑感

蝉が鳴いている
人々は、連日のうだるような猛暑に喘いでいる。
そして、参議院選挙の惨敗が尾をひいて、いまも民主政権が喘いでいる。

民主党は、過半数に届かなかった。
連立政権の議席を足しても、参議院の過半数には及ばない。
これでは、重要な法案が衆議院を通過したとしても、参議院では野党に否決されて成立しない。
衆議院に差し戻されたら、3分の2以上の賛成で再可決が可能だが、これとても連立与党の総数で衆議院478議席の3分の2である319議席に届かない。
政局は立ち往生である。
かつての、自民政権の「ねじれ」現象より厳しい現実である。
・・・となると、みんなの党とか公明党を頼みにしなければならないのか。
政権を安定させるための方程式は、複雑なパズルを解くようなものだ。

打つ手の少ない菅民主政権はどうするか。
どの党と連立を組むのか。組みかえるのか。
政界は、そう簡単にはいかない。
妙手があるのだろうか。

衆議院で法案をかりに最可決できる態勢になるならば、参議院の過半数はいらない。
みんなの党はどうなのか。
一気に増員できたことで、天下を取ったみたいに、「アジェンダ」「アジェンダ」と叫んではしゃいでいる。
この言葉の意味は、「行動計画」とか「政策課題」ということのようだが、まだ日本では一般に浸透していないし、解りにくい。
この党が何を目指しているのかも・・・。
それでも、勢力拡大に気をよくしている、そんなみんなの党が動いたらどうなるか。
落ち目(?!)になった民主党とは連立を組まないのだったら、場合によっては、菅政権を追い込む方にまわるかもしれない。
でも、連立の合従連衡が、しかしそううまくいくはずもない。
政界は、複雑怪奇だ。

現在の民主党で、本当の意味で政治の修羅場を経験している人は、小沢前幹事長しかいないといわれる。
いまの菅内閣の閣僚には、政治家としては未熟で幼く、頼りない大臣ばかりが多い。(?!)
いろいろよいことを言っても、大体実行力がない。
そこが問題なのだ。
小沢前幹事長から見れば、若手の閣僚はやんちゃな赤ん坊みたいなものだろう。
これから先も覚束ない。国民だってひやひやしている。
いずれにしても、菅政権のもとでの民主政権の再出発はきわめて厳しい。
国民の暮らしや国民主導の政治と言ったって、何も見えてこない。

猛暑の中、今月末から熱い臨時国会が始まる。
与党の敵失だけを頼りにしている野党は、政治とカネの問題などもあり、過半数を占める参議院では問責決議案を持ち出したりして、揺さぶりをかける。
攻防は見ものだ。
どんな国会になるか。
とても、一筋縄ではいかないだろう。

しかし、よく考えてみると、こうした「ねじれ」現象をどう耐え抜くかで、あらたな政治力が生まれるということもある。
正真正銘の「ねじれ」を体験して、そこから学ぶべきものもあるのではないか。
「ねじれ」の危機は、考えよう、やりようによってはまたとない(?)試練の好機かもしれないのだ。
国会闘争の場で、与党も野党も「真性ねじれ国会」をどう乗り越えていくか。
最後まで、暮らしあっての民意を忘れないで、真摯な論争をしてもらいたい。

振り返ってみると、政権交代は国民の悲願であったはずだ。
しかし、今回の参院選では野党が勝ち、「ねじれ国会」が生まれた。
それも、選挙民の投票の結果ではないか。
このことを忘れてはいけない。
何のことはない。
望みもしないはずの、今日の政局の混迷を望んだ(?!)のが、民意だったとしたら、何をかいわんやだ。
政治混乱の責任は、民主政権だけにあるのではなく、むしろ国民の責任が非常に大きいと言わねばならない。

新政権になってからまだ日も浅いが、消費税増税論やら政治とカネの問題やらいろいろとあったことは確かだ。
それに嫌気がさして、現政権にそっぽを向いたのだ。
だからと言って、自民政権に戻したいか。
どうも、そうではないらしい。
多くの国民は政権交代を選択したはずであった。
だが、結果的に、参院選では小さな新党や野党に勝利をもたらし、民主党は敗れた。

・・・悲しいかな、これが迷える国民の選択だったからだ。
さあこれで、本当によかったか。
良くも悪くも、泣くも笑うも、自業自得の結果だ。
衆愚の審判は、はたして正しかったのか。
かくして、いつまでか政治の混乱は続くことになる――


「ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトとの出会い」

2010-07-19 07:00:00 | 映画

いくたびも聴いた、あの素晴らしい名曲がまた胸をくすぐる。
最近、めずらしい(?)音楽劇である。
カルロス・サウラ監督の、イタリア・スペイン合作の芸術性の香りが漂う作品だ。
不世出の音楽家モーツァルトの、有名なオペラ《ドン・ジョヴァンニ》の誕生を支えたのは、もうひとりの天才劇作家ダ・ポンテであった。
その傑作オペラの、秘められた創作過程が綴られる。
それも、いささか知的な興奮をともなって・・・。

聖職に就きながらも、放蕩生活に明け暮れていた劇作家ダ・ポンテ(ロレンツォ・バルドリッチは、文筆の才能にめぐまれていた。
ダ・ポンテは、ある日カジノで年老いた男に借金を申し込まれる。
あいにく現金を持ち合わせていなかった彼は、身に着けていたペンダントを差し出した。
うたた寝から目覚めたダ・ポンテは、テーブルに残されたメモにしたがって、その男の自宅に赴き、若くて美しいアンネッタ(エミリア・ヴェルジネッリ)を紹介される。
ダ・ポンテは、一目で恋におち、老人の頼みを受け、彼女を守り抜くと誓うのだが、我を取り戻した瞬間、彼は屋敷から走り去ってしまう。

さらに、秘密結社に属し、教会に反逆したかどで、ダ・ポンテは逮捕され、ヴェネツィアから15年間の追放を言い渡される。
1781年、ウィーンに新天地を求めたダ・ポンテは、そこでモーツァルト(リノ・グワンチャーレと出会う。
イタリア語のオペラの制作に興味を持つ、モーツァルトの台本を任されたダ・ポンテは、希代の色男“ドン・ジョヴァンニ(ドン・ファン)”伝説にもとずいて、新たな視野で、主人公同様に数多くの女性をとりこにした、自らの体験を反映させる物語を構想する。

モーツァルトは、すでに《フィガロの結婚》の成功で気をよくしていいたが、ダ・ポンテとの共同作業が始まる一方で、妻コンスタンツェ(フランチェスカ・イナウディとの生活のために個人授業も続けていた。
そのレッスンを受けていた生徒の中に、アンネッタがいた。
彼女もウィーンに来ていたのだった。
ダ・ポンテは妻とも別れ、アンネットへの愛に目覚める中、《ドン・ジョヴァンニの制作はいよいよ佳境を迎えることになり、初演の日がやってきた・・・。

1787年、モーツァルトが31歳のときに発表した不朽の名作《ドン・ジョヴァンニ》の誕生は、モーツァルト自身のイマジネーションを刺激し、鼓舞した劇作家ダ・ポンテの大きな存在があったということだ。
舞台シーンを織り交ぜたこの作品を、秀抜な音楽映画と見ることもできるが、劇中劇として登場する《ドン・ジョヴァンニ》のシーンと、ポンテ自身の秘められた愛の物語が交錯して描かれる。

モーツァルトの楽曲がふんだんに散りばめられていて、ここでは現実からオペラの世界へ、実話から架空の世界へとかけめぐる。
スタジオには巨大なセットが組まれ、最新のテクノロジーを駆使し、きらびやかな美術や衣裳が、18世紀のヨーロッパを再現するといった趣向だ。
結構、楽しく観られるから、オペラ好きにはよいかもしれない。
カルロス・サウラ監督ドン・ジョヴァンニ  天才劇作家とモーツァルトの出会いは、音楽の素晴らしさとドラマとを融合させて、華麗な世界を創り上げた、芸術性の高い一作である。
オペラを鑑賞する機会などなかなかないが、こうして映画でオペラを楽しむ気分もまんざら悪くはない。


映画「必死剣鳥刺し」―これぞ、裂帛の気合!―

2010-07-15 06:00:00 | 映画

こんな時代劇が観たかった。
藤沢周平の原作を、平山秀幸監督が映画化した。
この作品、正攻法の時代劇の真骨頂といってもよいのではないか。
静かな剣術使いが、自藩の論理を貫いたために、悲運に見舞われるドラマである。
藤沢作品というと、温かみのある作品が多い中で、この作品はハードボイルドだ。

下級武士が家庭を守りながら、運命に翻弄される話ではない。
この作品では、運命にぶちあたって、そのまま消えてゆくのだ。
時代劇だが、現代に置き換えてみても、その環境や心情を強く訴えてくるものがある。
舞台が江戸時代であっても、構成は現代劇と変わらない。

時代劇映画としては、ここ数年でおそらく一級の出来ではなかろうか。
日本の伝統様式と、武士として生きることの宿命が、よく描かれている。
品位、風格、所作といった毅然とした美しさにとどまらず、殺陣の醍醐味も満点の迫力である。
圧巻は、終盤15分、多勢に無勢の怒涛の斬り合いだ。
こういうのを裂帛の気合というのではないか。

おそらく、藤沢周平原作の映画化作品としては、ベストではないだろうか。
「たそがれ清兵衛」(2002)、「隠し剣鬼の爪」(2004年)、「蝉しぐれ」(2005年)、「武士の一分」(2006年)、「山桜」(2008年)、「花のあと」(2010年)と、本作で7作目になる。
全部観ているが、それぞれいい出来ではあったが、今回の作品がだんトツの一番だ。

あの時、何かが狂いはじめていた――。
江戸時代、東北は海坂藩の物語である。
藩の物頭を務めていた兼見三佐ェ門(豊川悦司は、藩主・右京太夫(村上淳)の愛妾・連子(関めぐみ)を、城中で刺し殺した。
この直前、能舞台が催されているとき、演者以外の誰もが微動だにしない。
舞台から続く廊下で、三佐ェ門が連子の胸に刀を突き立てるまでの静けさにも、彼の所作にも、全く無駄がない。
平山監督の、徹底した演出には、息をのむ・・・。

最愛の妻・睦江(戸田菜穂)を病で喪った三佐ェ門にとって、失政の元凶であった蓮子の刺殺は、極刑を覚悟の死に場所を求めた武士の意地であった。
それなのに、彼には意外にも寛大な処置が下され、一年間の閉門、蟄居ののち再び藩主の傍らに仕えることになる・・・。
三佐ェ門は、腑に落ちない想いを抱く。
しかし、そこには黒い陰謀があり、蟄居明けの三佐ェ門には苛酷な運命が待っていたのだ。

そんな三佐ェ門の、身の回りの世話をする亡妻の姪・里尾(池脇千鶴)の献身によって、一度命を棄てた男は、、再び生きる力を取り戻していく。
そうしたある日、中老・津田民部(岸部一徳)から、彼は秘命を受ける。
それは、藩主家と対立している、ご別家の帯屋隼人正(吉川晃司)を討てというものだった。
・・・そして、待ち受ける隼人正との対決の日がやってくる。
凄まじい殺陣の見どころは、最後のクライマックスだ。
勝負は、殺陣にいたる前にすでに決している。

平山秀幸監督映画「必死剣鳥刺しは、実に切れの鋭い珠玉の作品だ。
鳥刺しという秘剣のことは、それ自体最後まで明かされない。
鳥刺しとは、必死必勝の剣で、その剣が抜かれる時、遣い手は半ば死んでいるとされる。
そのことを、劇中で三佐ェ門に語らせているのみだ。
平山監督は、原作の世界観を守りつつ、独自の解釈も加え、壮絶な人間ドラマに仕上げている。
映像のひとこまひとこまが、丁寧に撮られていて気持ちがいい。
藤沢作品といっても、これまでのものとはタッチも違うし、清貧もなければ、下級武士の悲哀もない。
特別、武家社会の不条理や武士の一分の誇りを描いているというのでもない。
平山演出は、非常に密度の濃い「静謐」描写で、前半から後半にかけて観ている者の緊張感を高揚させる。
よい時代劇は、よい日本映画だ。

豊川悦司は寡黙な武士を演じて一段と渋さを増し、池脇千鶴は監督から、武家娘としてのその感性の美に優れていると絶賛されるほどだし、岸部一徳の存在感もさすがと思わせる。
東北の四季折々の空気を感じさせる美しさも、特筆ものだ。
さらに、風のそよぎや鳥の声、眩い陽光、その光と影といった映画の空気感も極上のものだ。
石井浩一のカメラワークも、極力無駄を排し、屋外から屋内へと切り返す形など実に上手い。
撮り方の何という丁寧さだろう。

ドラマ中盤にちゃんと前もって伏線があったのを見逃さないようにしないといけないが、最後のシーンに、なるほどと想わせるオチが用意されている。
説明などなくても、一瞬ほろりとさせる場面である。
この作品、大人の映画としても、近頃、内容のシッカリ度において、間違いなく太鼓判を押せる出来だ。
まだ今年も年半ばだが、藤沢文学のリアリズムを描いて、情緒纏綿たる世界を見事に結実させたこの作品を、文句なしに日本映画の秀作に挙げたい気持ちだ。

8月26日に開幕する、モントリオール世界映画祭正式出品されることが決まったが、殺陣のシーンがある時代劇の出品は初めてだそうだ。
(ひょっとすると、ひょっとするかも・・・。)
果たして、日本の『サムライ』がいまでも通用するのか、‘静かな’期待が高まっている。


映画「悲しみよりもっと悲しい物語」―ある純愛(?)のかたち―

2010-07-13 08:00:00 | 映画
ウォン・テヨン監督のこの韓国映画は、かなわぬ願い、伝えられぬ想いをピュアに描くラブストーリーだ。
愛するがゆえに、愛する女をほかの男に託そうとする男の、切ないドラマだ。
男を愛する女はそれを受け入れ、選ばれた男が、何も知らずに女を愛しはじめる。
・・・最も悲しい物語は、こうして幕を開ける。
ドラマの構成には、リアリティの面からかなりの無理を感じないでもない。

監督・脚本を手がけた、ウォン・テヨンのデビュー作だそうだ。
90年代には、詩人としても若い世代を中心に高い支持を得ていて、今回は映像という新しい“言葉”で、愛を語っている。
主人公のセリフや繊細な映像が、この小品の見どころではある。
ドラマでは三人のピュアな(?)愛が交錯する・・・。

ラジオ局でディレクターをしているチョルギュ(クォ・サンウ)と、交通事故で妹と両親を一度に失った作詞家のウォン(イ・ボヨン)・・・。
二人は、高校時代に出会ってから、ずっとあるときは家族や友人のように、時には恋人のように一緒に生きてきた。
二人は、互いに名前をつけようということで、ウォンはクリーム、チョルギュはケイと呼び合った。
一見、愛し合っているように見える二人だが、二人の間には愛の言葉も行為もない。

二人は、互いに心の隙間を埋めあって生きてきたが、ケイは病魔におかされていて、余命200日と判明する。
この二人に残された時間は、わずかしかなかった。
そのことから、ケイは自分の想いをずっと封じ込めていて、クリームに一度も“愛している”と伝えることはなく、彼は、クリームをひとり残すことはできないと考え、自分の代わりに、彼女を生涯守ってくれる男性を探すのだった。

・・・そして、ある日クリームはケイに、自分に好きな人ができたことを告げる。
彼の名はジュファン(イ・ボムス)といい、歯科医をしていた。
ケイは、ジュファンもクリームに強くひかれていることを知って、二人の結婚話が決まる。
クリームは、結婚の相手ではないケイとともに、ウェディングドレスを選ぶ。
ケイは、純白のドレスに身を包んでほほえむクリームを見て、笑顔を返した。
しかし、たとえようのない深い悲しみが、二人の心いっぱいに広がっていくのだった・・・。

ウォン・テヨン監督作品悲しみよりもっと悲しい物語は、見るからに純愛小説だが、ケイという女の、女性の繊細な心理を転換させる、とくに後半部分の描かれ方は不満だ。
徹底したプラトニックラブを描いていて、純粋さは伝わってくるのだが、少女小説っぽいというか、漫画的だ。
大人には物足りない。
映画監督の若さは感じても、未熟さも否めない。

主人公同士の生活のディテールが簡略だし、プラトニックな同棲生活というのもよくわからない。
女性の描き方も浅すぎる。
これをもって、究極の純愛と見るには抵抗もある。
詩的な要素は感じるが、ドラマの描き方は大ざっぱ過ぎる。
人は自分の想いを犠牲にすることで、究極の愛を貫いたように見せているが、この辺りは、もっと両者の心理的な内面に深く入っていかないと、単なるお涙頂戴で、安直な少女主義のメロドラマに終わってしまうものだ。

映画「アデル/ファラオと復活の秘薬」―超ふざけた空騒ぎ―

2010-07-11 21:00:00 | 映画

フランスのリュック・ベッソン監督が、フレンチコミックを映画化した。
アドベンチャー大作(?)には違いないが、「女性版インディ・ジョーンズ」ほどの意外性も面白さも乏しい。
案の定、アクションにしても、ハラハラドキドキの要素も期待はずれの作品だ。

1911年のエジプト・・・。
女性ジャーナリストのアデル・ブラン(ルイーズ・ブルゴワン)は、灼熱の砂漠を越え、ペルーへ向かっていた。
だが、彼女は、不慮の事故で死に瀕している妹アガット(ロール・ド・クレルモン)を救うために、一刻も早く“復活の秘薬”を手に入れなければならないのだった。

アデルは、ラムセス2世に仕えたミイラを発見する。
ところが、黄金を横取りしようと狙う盗賊の襲撃をかわしたのもつかの間、いつも彼女の行く手をはばむ、残忍で冷徹なデュールヴー(マチュー・アマルリック)に捕えられてしまう。
石室に閉じ込められたアデルは、ミイラ製作室の油に火を放って反撃し、ミイラの棺に滑り込んで、間一髪で炎に包まれた洞窟から脱出した。
棺は地下水路に落ち、アデルはナイル川にたどりついた。

同じ頃、パリでは、謎の巨大な怪鳥が現れるという事件が起きていた。
人々は恐怖に陥っていた。
そして、大々的な怪鳥掃討作戦が始まり、パリの街は騒動となる。
折りしも、パリではラムセス2世と従者たちのミイラが展示されていた。
アデルは、とにかく“復活の秘薬”を手に入れなければならなかった。
・・・驚くべき事実が明かされる時、アデルは、神秘の力が静かに眠る、ルーヴル美術館へと急ぐのだった。

フランス映画「アデル/ファラオと復活の秘薬は、リュック・ベッソン監督が久しぶりに撮ったヒロイン映画で、ミューズとなった主演のルイーズ・ブルゴワンは、もとテレビのお天気姉さんだった。
彼女は、飛んだりはねたり実に忙しい。
エジプトとフランスを舞台にした冒険物語の中で、ヒロインはチャーミングに生き生きとしている。
大胆にして、勇気のあるフェミニストとして描かれている。

しかし、幻の秘薬を求め、エジプト“王家の谷”からパリ“ルーヴル美術館”へ、ラムセス2世まで持ち出して、時空までも簡単に飛んでしまう、かなり身勝手なドラマだ。
奇怪きわまる老人や、巨大な怪鳥が登場し、あげくのはてにハチャメチャな大騒ぎである。
永い眠りを覚まされたミイラまでが、機械人形のように動き出したりする。
ミイラが甦るシーンなど、開いた口がふさがらない。
古代エジプトを、いいようにオモチャにしてしまっているのだから恐れ入る。
これには、ラムセス2世も泣いているのではないか・・・。

終演まで15分以上もあるというのに、観ていて嫌になったのか、席を立って帰ってしまった紳士がいた。
観客を馬鹿にしたような、作品の悪ふざけもいいところだ。
それでも楽しんだ人には申し訳ないが、ここは敢えて、大作にして、勿体無い愚作だと書かせていただく。
もちろん、これはあくまで個人的な見解として・・・。


生誕80年 開高健の世界―横浜・湘南文学散歩―

2010-07-09 21:00:00 | 日々彷徨

作家・開高健は言った。
熱中できるものと言えば、危機と遊びだ。
ピアノ線のように、自分は感じやすい・・・。

自他共に認める、行動派の作家である。
生誕80年を迎えて、開高健の世界」展が、8月1日(日)まで神奈川近代文学館で催されている。
梅雨の晴れ間を見て、訪れてみた。

「裸の王様」で芥川賞を受賞してから、精力的な執筆活動を続け、「日本三文オペラ」「輝ける闇」「夏の闇」などの名作を発表した。
1989年(平成元年)に、彼は絶筆「珠玉」を残して、59歳の若さで逝った。
彼の生誕80年を記念する本展は、近年見つかった多くの原稿や書簡、遺愛品をもとに、独自の鋭い観察力と、豊饒で魅力的な言葉に溢れた、「開高健の世界」を見つめなおすよい機会となった。

開高氏は、1964年朝日新聞の海外特派員として、もしかしたら死ぬかもしれないということまで覚悟して、ベトナム戦地へ取材に赴いた。
取材中はべトコンに包囲され、200人のうち生き残った17人の内の一人だったのだ。
彼はこのとき、また生きて祖国へ帰ることはできまいと、自らの遺影まで撮っていた。
ベトナム戦争の最前線を肌で感じた開高氏は、生の‘異相’を凝視し、戦争の絶望と醜さをえぐり出したのだった。
それが、「輝ける闇」である。

展示されているものの中には、開高氏の書「悠々として急げ」や、司馬遼太郎直筆の長文の弔辞などもあって、骨太のこの作家のありし日の活躍をしのばせる。
今回の展示は、氏が県内ゆかりの文学者ということで、茅ヶ崎市の開高健記念館との共催だ。

近代文学館の次に訪れたのは、その記念館であった。
湘南の海岸から、400メートルほどのところに旧宅があって、作家・開高健は、1974年(昭和49年)に茅ヶ崎市東海岸のこの地に移り住み、亡くなるまで、ここを拠点に文学活動を展開した。
遺族から寄贈されたその旧宅を、いまは記念館として茅ヶ崎市が管理している。
東京杉並から茅ヶ崎に移り住んだ頃は、この辺り一帯は松林だったそうだが、いまは住宅がいっぱい建っている。
当時とは、もちろん様相が大分変わっている。

記念館は通年開館だが、毎週金、土、日曜日と祝祭日に開館されている。
小さな記念館には資料がいっぱいで、この日も数人の入館者があとを絶たなかった。
遠く、静岡や関西方面からも訪れてくる人が多く、主なき書斎もそのままに残されていて興味深い。
原稿用紙のマスは、一字一句誰にでも読める、几帳面な筆跡で埋められ、故人の人柄がしのばれる。
こうした展示を通じて、一作家の生涯と向きあうとき、いつもそうであるように、時空を超えて、あらためて痛烈な文学者魂に触れる想いがする。

作家・開高健は、平成元年12月59歳の若さで逝った。
北鎌倉の円覚寺松嶺院に眠っている。
開高氏の作品に、こんな一文がある。
・・・徹底的に正真正銘のものに向けて私は体をたてたい。
私は自身に形をあたえたい。
私はたたかわない。
殺さない。助けない。耕さない。運ばない。煽動しない。
策略をたてない。誰の味方もしない。
ただ見るだけだ。
わなわなふるえ、目を輝かせ、犬のように死ぬ。
                           (「輝ける闇」より)

神奈川近代文学館では、一部終了したものもありますが、
 7月17日(土) 記念講演 「開高文学の魅力」 (佐野真一)
 7月23日(金) ギャラリートーク
 7月24日(土) 25日(日) 文芸映画を観る会 「証人の椅子」 (原作・開高健)
なども予定されています。
 


映画「THE COVE ザ・コーヴ」―上映中止騒動のさなかで―

2010-07-07 13:00:00 | 映画

ルイ・シホヨス監督ドキュメンタリー・アメリカ映画である。
和歌山県の太地町のイルカ漁の実態を描いて、その「残酷さ」を告発する内容となっている。
この映画が、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞受賞作品としては、異例の事態を招いている。
この作品の公開をめぐって、抗議電話や街宣予告が殺到し、全国規模の上映中止が相次いでいる。
それほど、「反日」的な作品なのか。

映画を「反日」「虚日」だとして糾弾する市民団体が、抗議行動を起こしているのだ。
この団体は右翼団体とは違うようで、ネットを使って抗議活動への参加を呼びかけている。
「公開中止」という、苦渋の選択をせざるを得なかった映画館のある中で、横浜のミニシアターのある一館は、神奈川県での上映に踏み切った。
当然、映画館の前は、警戒態勢もものものしかった。
一時は、制服姿の警官らともみ合いとなる騒ぎとなったほどだ。

何故、一方的に上映中止を訴えるのか。
訴える側に、問題はないのか。
日本を他国が見るとき、この作品は真実を伝えているかどうかだ。
作品を観る前から、とやかく言うべきではない。
言論封殺にもなりかねない。
観た上で、事実誤認なら誤認だと抗議すべきだ。
真の事実を公にしなければ(一般公開しなければ)、映画の持っている正当性はどうなるのか。

この作品は、いろいろと問題が多い。
疑問を感じる部分も、多々ある。
描かれている実態が、どこまで真実で、どれだけ正確なデータにもとづいているかが曖昧だからである。
とくに重要なことは、猟師たちへの取材がどれだけなされたのかということだ。
彼らの痛みが、上映中止への抗議行動になっていることは、否定できまい。
賛成側、反対側の一方だけの取材では、公正を欠くというものだ。
取材過程で、そこまで突っ込んでいかなければ、真実は浮上しない。
アメリカのアカデミー賞選衡委員会は、その点を見過ごしたのか。

おそらくこのままこの作品を観れば、海外諸国では、主張されていることが事実に反していることであっても、それを日本の実態として認識せざるを得ない、極めて危険な要素を孕んでいる。
ドキュメンタリーとして、どこまで核心に迫ることができるか、である。
映画は上映されてしかるべきだし、その上でしっかりした議論のきっかけとすべきなのだ。

イルカ漁は、そもそもが合法的な漁である。
日本でイルカを捕獲して食べているということを、ご存知だろうか。
太地町では、水族館やテーマパーク用のイルカを沿岸に追い込んで捕獲し、残りは棒で突いて殺し、食用としている。もちろん加工されている。
小魚を餌にするイルカは、体内の残留水銀値が非常に高い(!?)とされる。
そのため、妊婦などは食べる機会を制限するなど、とくに注意が必要だともいわれている。
怖い話である。

このドキュメンタリー映画「ザ・コーヴは、イルカだけにとどまらず、捕鯨の問題点までもあぶり出して、衝撃的な作品だ。
猟師がイルカを刺し、入り江が血で真紅に染まる場面は残酷そのものだ。
このあたりの描き方に対しても、地元町長らから一方的な描き方だとして反論の声が上がっているようだ。
だからというわけではないが、水銀値の調査や町民たちの反論にしても、作品では新たに説明テロップを入れるなど、対応に工夫のあとも見られる。
イルカ漁に共感するスタッフが、入り江の撮影を敢行しようとするにも、関係者の妨害に遭い、入り江の内側に全く入れないのだ。
そこで、彼らは深夜に隠しカメラを仕掛けて、苦労してこの映画の撮影を強行したそうだ。

「ザ・コーヴ」という題名は、漁でイルカを追い込む「入り江」の意味だ。
作品そのものは、自然環境保護団体が、3年半の歳月をかけて撮影し、欧米では昨年公開されて、各地の映画祭で受賞し、高い評価を受けた。
上映の賛否をめぐっては、2年前にも「靖国 YASUKUNI」に抗議が殺到し、上映を自粛する劇場が相次いだことがある。
自然保護の問題もふまえ、様々な観点から、良くも悪くも、いろいろと考えさせられるドキュメンタリーである。

日本の映画監督らの作品評価は賛否両論だが、「公開すべき」では意見が一致している。
上映を後押しするシンポジウムも盛んで、イルカ漁や表現の自由についての討論も活発だ。
一方で、町や漁協の映画への批判は根強く、波紋は広がるばかりのようだ、
いかなる理由にせよ、こうした映画は、堂々と上映されてしかるべきだ。
是非、機会があれば鑑賞して頂きたい。