徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

眠れぬ若者ー選挙戦余聞ー

2007-07-28 17:30:00 | 寸評

 まだ梅雨も明けていない猛暑の中で、参議院選挙各陣営の舌戦は、いよいよ終盤を迎えた。
 午後2時頃、繁華街を離れた、住宅地にある高層マンションの一角・・・。
 蝉時雨も掻き消されそうな、選挙カーからの悲鳴にも似た絶叫が、あたりにびんびんこだましている。
  「皆様!・・・最後のお願いにあがりました・・・!お騒がせをいたしております」
 あまりにも大きな声は割れぎみで、かえってよく聞き取れかった。
 車を停めると、候補者と運動員が立って、あらためておきまりの街頭演説が始まった。
 しばらくすると、聴衆が集まっては来たが、それでも数名ほどだった
 候補者の男性は、炎天下で汗びっしょりの熱演だったのだが・・・。
  
 そこへ、マンションのエントランスから、一人の若者が、物凄い形相で飛び出して来た。
  「おい、いつまでやってんだよ!いい加減やめろよ!」
 その声で、一瞬演説が止まった。運動員が若い男に駆け寄って、何か言った。
 男は怒っていた。
  「やめてくれよ!冗談じゃねえよ。うるさくて眠れやしねえ」
  「・・・すいません。もうすぐ終わりますので」
 候補者と運動員は頭を下げた。
 成り行きを見守る数人の住民たち・・・。
 マンションの窓から、顔を出している人もいた。
 若い男は、いかにも眠そうなはれぼったい顔で、腕組みをして吐き捨てるように言った。
  「さっさと、行ってくれ。あんたたちに、人の眠りを妨害する権利があんのかよ!」
 両者の間で、少し言い合いがあった。
 候補者の男性は、若い男に握手を求めたが拒否された。
 いさかいを避けたいと思ったのか、候補者は、吹きだす汗をタオルでぬぐいながら、マイクを手にした。
  「・・・ええと、皆様大変お騒がせいたしました。ご近所の皆様、まことに申し訳ありませんでした」
 そういって、一行は選挙カーに乗り込むと、手を振りながら、そそくさと立ち去って行った。
 若い男は、ふふうんと言った笑みを浮かべ、憮然としてそれを見送っていた。
  「だってさあ、分るでしょ。お騒がせもいいところさ、まったく・・・」
 住民たちは、何も言わず、家々に帰り、平穏が戻った。
 やれやれ、人騒がせ(?)な話だ。

 この若い男性は、毎日夜8時から翌朝7時まで、ほとんど一睡もせずに働いているのだった。
 夜間働く彼にとっては、この「昼間」の時間帯は、彼にとっては貴重な「夜中」なのであった。
 彼は、こうも言っていた。
  「それによ、いろいろ来るんだ。やれ竿竹売りとか、やれ家電製品の回収とか,網戸の交換なんてい
  うのもね。そりゃあ、たまったもんじゃねえさ。ちっとは、こっちの身にもなってもらいてえよ」
 ・・・その若い男もいなくなると、降りしきる蝉時雨が、ひときわ大きく聞こえていた。
 彼が、選挙にいくか、どうかは分らない。でも、「夜」を「働く」若者に、日本の未来がかかっている。
 
 ・・・夜働いている人といえば、大勢知っている人もいるが、結構多い。徹夜で働いている人もいる。
 選挙演説も、時と場所を考えないと、あきらかに「生活音」とは違って、「騒音」でしかなく、素直に容認
 できないという人はかなりいる。
 そうでなくても、「迷惑な音」を「騒音」と感じる人は、病気の人、勉強中の人、音楽を聴いている人、読
 書やテレビを見ている人も・・・。
 自宅に居ながらにして、選挙演説を楽しみにしている人はまずいないのではないか。

 ・・・選挙の時期が来ると、政見放送、新聞、広報、個人演説会、街頭演説、遊説といろいろお盛んで、
 こんなにも、本当に必要なのだろうかと思うのだ。
 日本の選挙は、労力はもちろん、金も時間もかかる選挙というわけですか。

 余談になりますが・・・。
 いま、政治家、それも特に閣僚の資質が問われています。
 情けないやら、お粗末極まりない無いと言うか、目に余るようなことばかりで・・・。
 しかし、そういう人たちを、国民が選んだのです。これを忘れてはいけない。
 何かと物議をかもした今回の選挙、よく考えて、貴重な一票を投じたいものです。
 投票権のある国民が、正当な理由もなく棄権すると、その人は「制裁」を受ける国もあるのですね。
 
 
 
 
 
 


「携帯メール」・・・とうとう

2007-07-24 07:00:00 | 寸評

 とうとう、怖れていた事件が起きてしまいました。
 JR尼崎駅、数日前の夜10時40分頃・・・。
 「携帯メール」のマナーをめぐって、傷害事件発生です。
 電車が、駅に到着する数分前、車内にいた若い男性二人連れのうちの一人が、「携帯メール中」だっ
 たのです。
 それを見かねて、通勤帰りの44歳の男性会社員が注意しました。
  「電車内で、電話は駄目だぞ」
 そのたった一言が、火を噴いたのです。
 会社員が尼崎の駅で降りると、逆ギレした二人の男も彼を追って下車しました。
 二人は、会社員を捕まえて、その頭をホームの鉄柱にがんがん叩きつけて、暴行に及んだのです。
 会社員の男性は、重傷だと言うことです。
 この事件は、起こるべくして、起きたともいえます。
 たまたま、テレビのニュースで見ました。

 この前、「携帯メール」のマナーについて、少し長々と書きました。
 「携帯電話」のマナーが、野放し状態で、いつかこうした事態が起きる怖れがある、何とかしないと、こ
 れは大変なことになると・・・。
 近くでメールをやっていて苦痛を訴えた老婦人の話、マナーを注意されて逆ギレした男の話・・・。
 このところ日常茶飯事で、枚挙に遑(いとま)がありません。
 ですから、今回のこの出来事も、ああ、やっぱりと言う感じです。
 起こるべくして、起こったと思いました。
 とにかく、厳しい罰則や条例も勿論ですが、早急な対策が急がれます。
 (電話会社は、こうした事態をよそに(?)、ひたすら販売競争過熱気味です。)

 ところで、民間研究機関の調査によりますと、携帯電話のヘビーユーザーの4割強が、携帯をほとんど
 通話に使っていないことが分かりました。
 携帯を持っていながら、一日の通話回数が、「ほとんどない」ないと答えた人が最も多く、44%でした。
 一日に「三回未満」(35%)と合わせると、約8割の人が、携帯を「電話」としては、活用していないので
 す。つまり、メールでの利用が、圧倒的に多いということですか。
 そうなると、一人当たりの利用料金も減っていくので、携帯電話会社は、新たな収益探しを迫られるこ
 とになりそうですね。
 
 話を、戻して・・・。
 「携帯電話」は確かに便利です。意外なところで、役に立つこともあります。
 この世の中、無いよりはあった方がよい物って、勿論沢山あります。ありすぎるくらいです。
 ただ、「物」が、「便利であること」と「必要であること」とは、違います。
 日に日に文明の進歩は著しく、いまの人類は、有り余るほどに豊饒な「物」という「贅沢」に囲まれて、
 何不自由なく暮らしているわけです。
 一体、「携帯電話」って、「人類」にとって、本当に「必要な物」なのでしょうか。
 どこからか、千の風(?)に乗って、こんな声がかすかに聞こえてくるんです。
  「携帯なんて、要らないさ。無ければ、無いでいいさ」
 
 
 
 
 

 

 
 

 


「テレビセミナ-」ー二十周年記念ー

2007-07-20 07:00:00 | 日々彷徨

 いま、各地で住民活動による、いろいろな催しや講座、セミナーが、活発に開かれている。
 横浜市の栄区も、文化活動が非常に活発なことで知られる。
 それは、生涯学習といった形で行われていることも多い。
 昭和63年にスタートした、栄区の「テレビセミナー」も、そのひとつで、今年二十周年を迎えて、記念講
 演が行われた。
 講演は、歴史作家の童門冬二氏で、「今も生きる戦国時代の魅力」と題して行われ、盛況だった。
 戦国の武将たち、織田信長、上杉謙信、武田信玄らに、今日のような政治の変革期のリ-ダ-となる
 人や、経営者となる人は学ぶところが多いと力説していた。
 
 小泉前首相も、織田信長を高く評価していたが、童門氏も同じ意見だった。
 やはり、信長の実行力か。謙信や信玄のように民の心を重んずる姿勢か。
 今の、日本の宰相はどうだろうか。
 ・・・というようなことを思いつつ、童門氏の話は、作家なのに落語家のようなユーモラスな喋りが、まこと
 に流暢なのに驚いた。説得力のある話ながら、会場には笑いがたえなかった。
 童門冬二氏は、80歳の今でも元気な現役で、90分間も休み無しで、立ったまま講演を続けたのには
 感心した。

 この「テレビセミナー」は、NHKの大河ドラマをベースに、多角的に歴史を検証しようという、栄区の文
 化活動の中でも出色の超人気講座なのである。
 その時代背景、歴史、時代考証、文化、人間の生き様などについて考えようという講座だ。
 まず、全国でも類を見ない、大変ユニークな企画がうけている。20年も続いているのは、そうした魅力
 に支えられているからだろう。14人のボランティアグループによる自主運営である。
 毎年参加者は増える一方で、市外からの越境参加者も多く、今年も定員の2倍を超えたそうで、誰でも
 参加出来るのだが、多いときは抽選という事態になっている。

 講師陣は、NHKチ-フプロデュ-サ-、作家、大学教授、歴史学者ら多彩かつハイレベルで、毎回質の
 高い講座が企画される。
 今年は「風林火山」で、4月から始まって、7月まで6回のシリーズが終わったところだ。
 平成17年「義経」のときは、花柳幸春孝さんの本物の「静の舞」の実演まであった。
 次回は、また来年である。
 
 講座は、ドラマの裏話は勿論、史実と物語の違いなど多岐にわたって、これがまことに面白い。
 例えば、山本勘助についてははそれらしい人物(足軽)はいたらしいが、あくまでも架空の人物だという
 学説が定説であるとか・・・。諏訪の姫君の名は、由布姫ではないとか・・・。(これは井上靖の創作だ)
 歴史ドラマは、その8割から9割が作家の創作だといわれる。史実だけでは味気ない話を、いかにも面
 白く、まことしやかに創りあげるものだ。
 この「テレビセミナー」、ドラマを見ている人は勿論のこと、見ていない人にも十分に楽しい。

 ・・・ちなみに、来年のNHK大河ドラマは、宮尾登美子原作 『天璋院篤姫』から、脚色田渕久美子で
 『篤姫』(主演宮崎あおい)だそうである。
 幕末、江戸時代大奥から時代の激変を見据えていた、徳川第十三代将軍家定の御台所、言ってみれ
 ば、幕末のファーストレディの登場である。
 さあ、来年はどんな大河ドラマが、見られるのだろうか。
 期待できそうですね。
 

 
 
 
 


 
 


「越後瞽女(ごぜ)唄」ー心にしみる哀切ー

2007-07-16 15:26:38 | 日々彷徨

 このほど、「越後瞽女(ごぜ)唄」なるものを、初めて生で聴く機会があった。
 瞽女というのは、世に知られているように、三味線をひいて、唄をうたい、銭や米などを乞い歩いた、盲
 目の旅芸人のことである。昭和52年を境に、いまは、その姿を見ることはなくなった。
 
 彼女たちは、かつて「乞食さん」「遍路さん」と呼ばれていた。
 いつも、仲間同士で、同じ形の荷を背負い、同じ形の丸笠をかぶり、白布をまいたあご紐をかけ結んで
 手を前を行く人の背に支えて、三人四人と縦に列になって歩く・・・。
 そして、阿弥陀堂と言われる、村はずれの、葬式のときにしか使われることのない、破れた古堂に泊ま
 って、一夜明けるのを待ち、それから、いつもの家々の「門付(かどづけ)」に向かうのであった。
 「越後瞽女(ごぜ)唄」は、瞽女たちが、主として、新潟地方の村々を訪れ、戸口や軒先に立ち、いわゆ
 る「門付」をして廻るときに唄われたものである。

 この「門付唄(かどづけうた」には、「瞽女松坂」とか「巡礼おつる」「瞽女万歳」などもあって、中には30
 分から3時間近くうたい続ける長い唄もある。
 今回、これらを熱唱する室橋光枝さんら、「越後瞽女唄」を伝承する会の、彼女たちの不思議と澄んだ
 唄声は、ときに哀調を帯びてかなしく、ときに朗々として会場いっぱいに響き渡った。
 瞽女(ごぜ)唄は、当時の一種のはやり唄であり、ときにはわらべ唄のように、またときには読経や御
 詠歌のようにも聞こえた。
 
 今回の公演は、神奈川県では初めてだそうで、満席に近い会場は、途中で席を立つ人もなく、終演の
 拍手は、いつまでも鳴り止まなかった。
 それに、瞽女研究家の高橋実氏の話も手伝って、珍しく時間を20分もオーバーしてしまった。
 
 瞽女(ごぜ)は、遠くは室町時代からいたと言われ、家族、親戚からも離反され、自分たちだけで、過 
 酷な人生を生きてゆかなければならなかった。
 同じ境遇の、仲間同士が相寄り集まって・・・。
 そして、それは集団となって、小さいが幾つもの組織を作っていったのだと聞いた。
 
 瞽女は、幼い6,7歳から修行に入った。そこには、徒弟制度まであったのだ。
 瞽女としての「修行」の第一歩は、見えない眼で、針に糸を通す作業だという。
 さらに、彼女たちは、男性と情を通じてはならない、もちろん結婚も許されないという厳しい掟を守りな
 がら、、「修行」を続け、二十年三十年と生涯を生き抜かなければならなかった。
 「修行」には、瞽女としての躾け、礼儀作法もあったという。
 掟を破った瞽女は、「はなれ瞽女」として、瞽女仲間からはずされる。
 集団から離れては、生きてはいけない。
 彼女たちにとって、たった一人で、あまりにも過酷な人生を生きてゆくことなど、死に等しかったのだ。
 同じ生を受けながら、何の罪もないのに、盲(めしい)という宿命を負わざるをえなかった瞽女たちは、
 それこそ、「怖ろしい先祖の崇りじゃ」と誰からも疎まれて、冥府苦界の道をさすらうこととなった・・・。

 それでも、彼女たちは、わが身の悲哀や苦悩を封印してまで、人々には歓びや祝い唄まで献上した。
 自分たちが、いかに不幸な運命にあろうとも、人々には、希望と幸福をと、おのれに背反する葛藤の生
 涯なのであった。
 そう、「乞食さん」と呼ばれ、物乞い人の身を借りて・・・。
 この時代、越後高田、長岡、寺泊、柏崎は言うに及ばず、津軽、丹波、若狭など、全国各地に、かなり
 多くの瞽女がいたと言われる。

 痛ましいのは、親子親族との別離、離反、虐待である・・・。
 越後瞽女の、最後の瞽女と言われる、中静みさおさんが亡くなったとき、葬式はもちろん、その墓前に
 家族や親族が姿を見せることはついになかったのだ。
 瞽女唄の背景には、まさに、言葉では到底語りつくせぬ、暗い、痛哭(つうこく)の歴史がにじむ・・・。
 そして、過ぎ去った一時代のこととはいえ、その哀しさ、切なさが、多くの人の憐憫をさそってやまない
 のである。
 
 ・・・ともすれば、瞽女の話は、目を背けたくなるような哀話である。
 今の世に、瞽女は、いない。
 人は逝き、唄だけが残った・・・。
 「越後瞽女唄」と「瞽女」の話は、越後(新潟)の山村に、いま、このひめやかな歴史を静かに伝承する
 人たちの手で、唄によって語り継がれている。
 聴く人の心に、惻惻として迫ってくる「瞽女唄」・・・。
 生きて、決して、こころ癒されることのなかったであろう女たちの、はかない吐息のように・・・。

 「越後瞽女唄」を聴いて、その時代の苦界を生きた女性たちのありし日が偲ばれて、熱いものがこみ上
 げてくるのを禁じえなかった・・・。
 水上勉の小説「はなれ瞽女おりん」を想いだして、もう一度読み返してみようと思った。


   
   
     
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


「電源をお切り下さい」ー携帯メールー

2007-07-11 18:57:05 | 寸評

 この前、携帯電話のマナーについて書いた。
 その使い方ひとつで、第三者の生命に関わることもあると・・・。
 しかし、電車の中や、歩きながらメールをする人は相変わらず多い。
 「ああ、やっぱりなあ」と思うことが、電車の中で起きた。

 夕暮れ近くの東海道線で・・・。
 横浜駅から、70代かと思われる、白髪の老紳士が乗ってきた。
 彼は、優先座席(シルバーシート)の前に立った。そのシートには3人連れの若者が座っていた。
 そのうちの1人は、20歳位の女性だった。メールに熱中していた。
 少なくとも、2人の男性は、この老紳士に気づいているはずだが、誰も席を譲ろうとはしなかった。

 老紳士は見るからに元気そうで、吊り革に手をかけていた。
 彼は、たまたまそこに立ったまでで、席を譲られることを期待している風には見えなかった。

 その老紳士は、そんなことより、若い女性のメールの方が気になって、いらいらしているようだった。
 その女性に向かって、頭の上から、老紳士が言った。
  「もしもし、きみね・・・」
 その声に、女性はメールを中断して、まだどこかあどけなさの残っている面(おもて)をあげた。
  「はあ?」
  「そこに書いてあるでしょ。ここ、携帯を切らなきゃいけないんだよ」
  「・・・・」
 彼女は、老紳士の言葉をを無視した。すぐ、またメールにかかった。
 老紳士は、あくまで落ち着いた口調で、同じことを2度3度注意した。
 女は、たまりかねて叫んだ。
  「うるさい!」
 これでは、まるで逆ギレである。
 すると、隣にいた2人の男の1人が老紳士をにらみつけて、
  「なんだよ、爺さん。携帯ぐらい使ったっていいだろうに」
 どうやら、言い争いになってしまった。
 さらに、もう1人の若い男まで激怒して、
  「爺さん、うるせえんだよ」
  「何がうるさいんだ!」
  「うるせえから、うるせえんだよ」
 逆襲だ。女性は、素知らぬ様子で、メールを打ち続けている。
 そうこうするうちに、今度は、別の席から立って来た男性2人が、老紳士に向かってまくしたてた。
  「メールぐらいやってもいいだろう。何がいけねえんだよ、ええ!」
 参戦してきた男性は、老紳士に詰め寄った。
 いまにも殴りかかりそうになった。険悪な雰囲気になった。
 これはまずいと思っていたら、そこへ、別の中年の男性が割って入った。
 その男性は、おだやかな口調で、携帯のマナーを説明したようだ。
 男性の説明をどう納得したのか、ざわざわしていた騒ぎは、幸い一件落着でおさまった。

 当の若い女性はと見ると、まだ相も変わらずメールを続けていた。
 仲裁に入った中年の男性は、小声で老紳士に囁いた。
  「関わりを持たない方がいいですよ。殴られますよ。ほんと・・・」
  「でもね、間違っていることは、誰かが言わないと・・・」
  「まあ、それはそうですけれどね」
 政論派らしい老紳士は、背筋をすっと伸ばし、胸をはってこう言った。
  「わたしね、こんなこと、初めてではないんです。同じようなこと、この前にもあったんです」

 ・・・最近、こうした場面、或いはこれに近い出来事をよく見かける。
 その度に、いつも、騒ぎにならなければよいのだが、と思っていた。
 しかし、何とかならないものだろうか。
 


 
 
 
 
 


「絵手紙展」ー漫画家・作家たちの「私の八月十五日」ー

2007-07-09 14:55:44 | 日々彷徨

 今年も、まもなく終戦記念日が訪れてきます。
 「私の八月十五日展」と題して、漫画家、作家たちの絵手紙展が開かれています。
 赤塚不二夫、手塚治虫、黒柳徹子、高倉健、山田洋次ら著名人127名が、実際に体験した「八月十
 五日」を、自分自身の絵と文章で語っていて、なかなか面白い企画だと思いました。
 
 作者それぞれに、ユーモアがあり、感動がありで、書き手ひとりひとりの想いが、つたわってきます。
 いまわしい、あの戦争の混乱の時代を生きた人たちの青春譜ともいえます。
 
 戦争の「悲惨」と「残酷」は、何もかもを破壊し、死滅させる・・・。すべて、何もかもが失われる・・・。
 戦争からは、何も生まれない。何も・・・。
 その怖ろしさを、次世代にも伝えようという、主催者の意気も強く感じられます。
 私も、小学生のとき「終戦」を迎えたので、東京大空襲のことなどもあわせて、思い出されてきました。
 しかし、それらは、すべて暗く、辛い、二度とあってはならない悲壮なメモワールなのです。
 「戦争」を思うとき、今の日本の「平和」であることの素晴らしさを、あらためて考えてみたいものです。

 会場では、当時の引揚者の乗車券、証明書、タバコ巻き機、千人針など国民生活に関係の深かったも
 のや、東京を焦土と化したM69焼夷弾なども展示されていて、目を引きます。
 
 「昔遊びコーナー」では、独楽(こま)、面子(めんこ)、べいごま、おはじき、ビー玉などで、子供たちも
 楽しそうに遊んでいました。
 また、「絵日記創作コーナー」 「戦争体験のお話」もあります。
 
 その時代を生き、「戦争」を肌で実感した、仲間たちの記録です。
 7月29日(日)(祝日を除く月曜日休館)まで、JR本郷台のかながわプラザ3階で開かれています。
                                                       (入場無料)
                                                                                                                 
 


文学散歩ー鎌倉文学館ー

2007-07-09 14:52:43 | 日々彷徨

 パソコン教室の授業が終わってから、鎌倉へ行った。
 まだ、アクティブセル、オートSUM、絶対参照なんていうエクセル用語が、頭の中をかけめぐっていた。
  
 電車が、北鎌倉から鎌倉にさしかかる数分間、この時期車窓から見る濃い緑がいい。
 鎌倉駅の御成口を出て、図書館のわきから、静かな住宅街に入っていく。
 幾度も歩きなれた、曲がりくねった路地裏の小径を進んでいくと、旧吉屋信子邸の前に出る。
 いまは、記念館になっていて、年に4回一般公開されている。
 北側に山があって、窓一杯に広がるその山に向かって、信子の書斎がある。庭も広い。
 
 さらに道を行くと、突き当たって右に入れば鎌倉文学館である。
 木陰のゆるやかな坂道は、やがて文学館の玄関の前に出る。
 そこに、キャンバスをたてて、庭園や建物を描いている2,3人のグループがいた。
 庭園には、まだ沢山の薔薇があった。
  
 没後20年になる、澁澤龍彦に会いに来たのだった。
 「悪徳の栄え」の翻訳などで知られる、個性的な小説家である。
 フランス文学や美術にも造詣が深く、三島由紀夫等とも親交があった。
 彼は、独自の美意識にもとづく自由な芸術論を展開した。
 館内には、彼の直筆の草稿、創作ノート、メモ、書簡等多数の資料が紹介され、それらは、鎌倉での
 充実した日々をうかがわせるものだった。
 彼は、鎌倉がかなり気に入って、18才から数年を小町で、それから亡くなるまでの20年余りを山ノ内
 明月谷戸で暮らした。
 5月には、龍子未亡人のトークショーが生涯学習センターで行われて、盛況だったそうだ。
 三島由紀夫の「春の海」に出てくる別荘は、言わずと知れたこの文学館だ。
 
 文学館の先は、長谷観音に続く道である。
 こうして歩いていると、往年の川端康成や立原正秋の着流し姿に、今にも会えそうな気さえした。

 甘縄神明神社の手前に旧川端康成邸がある。
 その門前に立った。

 いまは、主(あるじ)亡き後、夫人も亡くなって、門は閉ざされ、ひっそりとしている。
 ノーベル賞に輝いた文豪の死は、日本中に大きな衝撃をもたらした。
 昭和47年のことだった。
 ガス自殺であった。遺書はなかった。享年72才であった。
 大分色あせてしまったけれど、いまも、当時の新聞の切り抜きをスクラップにして持っている。
 その、川端康成氏の通夜は、この自宅でとりおこなわれた。
 まるで、昨日のことのような気がする。
 この通夜の席に、不思議なめぐり合わせというか、なんと私がいたのである・・・。
 各界の並みいる著名人が、続々弔問に訪れてきた。物凄い人の列であった。
 会葬者は、1,000人を超えたといわれる。
 その中には、時の総理佐藤栄作の顔もあった。
 この壮麗な儀式を、目の当たりにしていた自分・・・。
 広い十畳間に祭壇がつくられ、「文鏡院殿孤山康成大居士」の戒名は、作家今東光のつけたものだ。
 この日の通夜のことは、決して忘れることはできない。
 
 門前で、35年も前の文豪の死を思った・・・。
 その時・・・、開くはずのない扉が開かれた。
  「おや、しばらくですね。あなた、元気ですか」
 あの、ぎょろりとした目で、文豪が立っていたのだ。
 頭のなかが、真白になった・・・。
 我にかえると、文豪の姿はなく、開かずの門は閉ざされたままであった。
 
 帰りみち、寂寥感が襲ってきた。
 ふと、何かが聞こえたような気がした。
 何だろう?
 木々の葉ずれの音だろうか。竹林を渡る風の音だろうか。それとも、波の音だろうか・・・。
 いや、それは「山の音」であった。
 
 
 
 
 
 


携帯電話、恐るべし(Nonfiction)

2007-07-05 04:16:20 | 寸評

 あちらのほうから、若い女性が、わき目も振らずにこちらへ歩いてくる。
 携帯電話を手にしていて、いまにも顔にくっつきそうだ。
 前の方を見ようともないで、歩きながら、電話の操作に集中している。あれで、大丈夫なのかな。
 人にぶつからないのかな。
 このままだと、どちらかが右と左によけないと、間違いなくぶつかる。
 当たり前の話だ。こちらも直進、あちらも直進だ。
 よくある光景で、その中に自分が直面しているという構図だ。
 女性がよけるか、こちらがよけるか、どちらかだ。
 こういう場合、大体は無意識のうちに、日常何事もなくすれ違い、何事もおきないものなのだ。
 でも、その慣れが心配だ。逆に何もないと思っていると、何かあったりする。
 もしものことがあったら・・・?
 絶対に何もないとはいえまい。
 
 相手を制止するために、こちらが立ち止まって、一歩も譲らなかったら・・・?
 (相手は、こちらがよけるだろうと思っているかもしれない。それとも相手がよけてくれるか・・・?)
 いや、多分二人はぶつかるだろう。その時、相手のどこかにもしも触れたら・・・?
 変な事件に、巻き込まれないとも限らない。

 この時、すれ違う瞬間に、肩先が少しだけ触れたが、こちらが左へ身をよけた。
 それで、やっぱり正解だった。
 あちらは、通り過ぎてから、こちらを振り返った。
 目が合った。あちらは、一瞬にやりと笑ったように見えた(?)。
 少し、腹立たしかった。
 歩きながらの携帯は、やめた方がいいでしょう。電話には電話のマナーが・・・。
 
 いつだか、満員電車の中で、接触した女性が、相手を訴えて刑事事件になった。
 無実なのに、有罪になった。まったく恐ろしい理不尽な話である。
 こんなことがあっていいのか。
 明らかに、冤罪事件である。
 このごろ、多い。
 ありえようのないことが、現実にはおきているのだ。
 
 閑話休題・・・。

 満員電車が駅のホームで、急行の通過を待っていた。
 高齢の女性が、シルバーシートに座っていた。
 突然、うめくような苦痛を訴えたのだ。
 何事が起こったのかと思った。
 女性は、ペースメーカーを装着しているのだった。
 幸い、近くにいた人と駅員、車掌の連携で、この時は大事にはいたらなかった。
 最初どうなるかと思ったけれど、ほっとした。
 携帯の電源を、切っていない乗客が近くにいたのだった。
 その女性は、隣りの駅の病院に通っている人だった。
 
 なければなくたっていいという人から、いや絶対に必要だという人まで・・・。
 いま、ほとんどの人が、携帯電話をもっている時代である。
 一人で、複数の携帯を持ち歩いている人もいる。
 確かに、とてもとても使い切れないほどの多彩な機能を持っていて、便利で重宝だからだ。
 そんなこと、分りすぎるほど分ってる。
 
 たかが携帯と侮ってははならない。
 ・・・便利であればあるほど、その使い方が問題なのだから。
 時と場合によっては、これ程の文明の利器も、人の生命にかかわる、危険な凶器ともなりかねない。
 

 やはり、梅雨は梅雨・・・。昨夜遅くなって激しい雨となったが、明け方にはあがった。
 今日は、晴れて暑い日になるだろう。