季節は確実に、日一日と春らしくなっていく。
…梅は咲いたか、桜はまだか。
陽光うららかな花の季節も、もうしばらくのことだ。
さて、この映画は、とても不思議な、魅力的な作品である。
どこからどこまでが本物で、どこからどこまでが偽物(贋作)なのか。
よくあるような、観光地を舞台にした、お決まりのラブストーリーなんて言う性質のものではない。
なかなかの作品だ。
イランのテヘランに生まれた、アッバス・キアロスタミ監督が母国イランを離れて制作した、初の長編作品だ。
秋深く、イタリアの南トスカーナの美しい街を舞台に、偽りの“夫婦”が“愛”の迷路を彷徨っている・・・。
男と女がたどりつけない、夜の街なのであった。
よく出来た、大人の物語である。
虚実ないまぜに交錯する、魔術的な物語の世界が展開する。
イタリア、南トスカーナ地方の小さな街アレッツオ・・・。
この地に講演に訪れた、イギリスの作家ジェームズ・ミラー(ウィリアム・シメル)は、ギャラリーを経営しているフランス人女性(ジュリエット・ビノシュ)と出逢った。
彼女は、芸術におけるオリジナルと贋作の問題について、ジェームズと議論を交わし、美術品の宝庫である美しい村ルチニャーノへドライブに出かける。
二人は、カフェの店主に夫婦と勘違いされたことをきっかけに、あたかも長年連れ添った本当の夫婦であるかのように装い、親しげな会話を続ける。
美しい、トスカーナの秋をめぐりながら・・・。
しかし、彼らがゲームのように楽しんできた虚構の関係は、時間が経つにしたがって変化していく。
会話の内容は、次第に具体性を帯び、深刻さを増し、二人の心の中にさざ波のように広がってゆく。
そうして、二人は、遊びの域を超えた対立にまで発展する。
偽りの関係の揺らぎから抜け出そうとする女と、現実の世界を堅持しようとする男と・・・、彼らのどこまでが演技で、どこまでが本当の感情なのか・・・。
男の理屈と女の感情がねじれるように、二人の心は互いに諍いながら、争い続けるのだ。
やがて、二人はもちろん、私たち観客までも、何が真実で何が偽物なのか境界線を見失っていく。
そうなのだ。
男が女に約束した、夜9時の鐘の音が鳴るまでは・・・。
フランス・イタリア合作の映画「トスカーナの贋作」(原題 Copie Conforme 「認証された贋作」)は、文字通り素晴らしいタイトルだ。
映画を観ているうちに、いつの間にかもうアッバス・キアロスタミ監督の魔術にかかってしまっている。
一見、男と女の出逢いをシンプルに描いた、ロマンティックなラブストーリーに見えるが、決してそうではない。
これまでのキアロスタミ作品がそうであるのと同じように、深い含蓄に富んだ、物語の世界に魅了される。
そもそも、美術の真贋で始まったはずの話題は、いつしか、男と女の真贋についてのドラマになっている。
主演のジュリエット・ビノシュが、誰かに成りすまして演じるのは人生の贋作ではないかという問いに対して、こんな風にうまいことを言っているのだ。
「女優は、演じる人物の考えや感情、感覚を凝縮させることで自分の人生を創造できる。
書かれたもの、演じられたものがコピーであっても、作家の本能、直感を注入すれば、コピーであってもオリジナルを超えるものなのです」と・・・。
この作品で、カンヌ国際映画祭で主演女優賞に輝いたジュリエット・ビノシュと、俳優としてスクリーンデビューを果たしたオペラ歌手ウィリアム・シメル、この二人がドラマをぐいぐいと引っ張っていく。
ビノシュの出演作品は、最近では「夏時間の庭」「PARIS]、古くは「ポンヌフの恋人」「存在の耐えられない軽さ」などが想いだされる。
さすがに、本作でも、もはや大女優貫録の演技だ。
ポストモダンな現実ゲームが、大人のラブストーリーと融合したような形で、コピーとオリジナル、演じることと本当の自分でいることにまつわるこの物語は、イタリア特有の柔らかい陽光のもとで、小気味よく、しかし繊細に、男女の心理の綾を描いて尽きない。
当然、大人にお奨めの味わい深い一作だ。
二人の会話をしている時の、それぞれの顔の正面からの大写し、カメラは切り返しを巧みに重ねつつ、その表情が徐々に変化する様子を克明に撮り続ける。
この手法は、小津安二郎の技法に似ている。
そして、自分が幻想を求めてしまっているのかどうかを確かめるように、洗面台の鏡の前に立って、そこに、素知らぬ女の“夫”を演じる男を見つめるとき、教会の9時の鐘の音が、街中に響き渡る・・・。
男と女の、別れる約束の時間だ。
この一編の濃密な映画で、実に余韻の残る、見事なラストシーンである。
家族の愛と絆を描く、一応壮大なドラマである。
名匠と称えられる、ジュゼッペ・トルナトーレ監督のイタリア映画だ。
トルナトーレ監督は、自らの故郷を舞台に、自身の生い立ちを重ね、たくましく生きる家族の絆を綴っている。
親子三代の人生を、1930年代から80年代にかけて追った、物語だ。
かなりの駆け足で時空をひた走るのだから、少しばかりか、いや結構忙しい。
20世紀、激動のイタリアで何があったか。
貧しくとも楽しい生活に、第二位世界大戦が襲いかかった。
シチリアの街で生まれ育ったトルナトーレ監督は、27歳の時に、映画の都ローマでの成功を目指して、バゲーリアの街を後にしたのだった。
あまりにもイタリア的な、現代シチリアの時代絵巻が繰り広げられる・・・。
1930年代、イタリア、シチリアの田舎町に、牛飼いの息子として生まれたペッピーノ(フランチェスコ・シャンナ)は、決して裕福ではないが、家族や愉快な街の人々に見守られて、充実した少年時代を送っていた。
チーズ3つと引き換えに農場に出稼ぎに行ったり、教科書をヤギに食べられたりもする、豊かな自然の中で過ごす楽しみ、時たま父親に連れて行かれる映画館で無声映画を観ることは、ペッピーノにとってかけがえのない時間であった。
第二次世界大戦が始まって、アメリカ軍が上陸し、村人は解放感に浸って、喜びに溢れるまでの時代・・・、そんな社会背景は、彼の人間形成に影響を及ぼしていき、終戦直後の混乱期に青年となったペッピーノは、共産党の政治活動に参加するようになった。
貧しい家庭で育ち、地元の地主がいかに冷酷であるかを見て育ったペッピーノは、社会主義こそが、世の中を正義へ導く公平で正当な道だと信じるようになっていたのだ。
やがて、成長したペッピーノは、運命の女性マンニーナ(マルガレット・マデ)に出合い、燃えるような恋に落ちるが、家柄の違いや、ペッピーノの政治活動のせいで、それは引き裂かれてしまうのだった。
しかし、それでもなお愛し合う二人は、許されぬ恋であったが、自分たちの夢に向かって歩き出すのだ。
折しも、世の中は不穏な時代に突入していた。
そんな中で、ペッピーノは、その激動の時代を、変わらぬ愛と絆とともに力強く生き抜こうとするのだった・・・。
家族の愛を受けて、故郷の風がきらめく・・・。
主人公ペッピーノは、監督の父がモデルだそうだ。
イタリア映画「シチリア!シチリア!」は、豊かな自然をふんだんに取り入れた映像美と、日本人にどこか懐かしさを思い起こさせる、当時のイタリアを完全に再現するため、撮影に1年半を費やし、莫大な製作費は言うに及ばず、スタッフ500人を超え、何とエキストラは3万人以上というから、それだけでも一大叙事詩の趣きである。
おなじみの、映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネの、叙情的な音楽の素晴らしさが、群衆の叫びにかき消されてしまうのはまことに惜しい気もするが、彼自身もまたトルナトーレ監督の賛美者であることを思うと、全編に流れる映画音楽への思い入れは、うなずけるというものだ。
壮大な群像劇の様相を呈したこの作品は、懐古的でロマンティックな一面と、人間の内在的な世界へ踏み込もうとする芸術性(?)が、渾然と溶け合っている。
作品に描かれる、時空感覚は、かなり騒がしくて慌ただしく、心理的に参ってしまうほどだ。
センセーショナルな場面も多々あり、そのほとばしるほどの奔流に、ややもすれば呑み込まれそうになる。
それだけに、このドラマの畳みかけるようなテンポの絶妙さが、流麗なカメラワークでとらえられるとき、太陽と地中海で灼けた大地の匂いを嗅ぐ思いで、頭がくらくらになる。
少年が突然青年に成長していたり、異なる時代が過去とこの時代とが入れ替わり、時間軸にとらわれない自由な発想の編集になるところが、これも「時間の不在」というものを描き切った、トルナトーレ監督の強い意図によるものだ。
だから、一瞬にして現在と過去が混ざり合い、あるいは過去も未来もなく現在が続く。
作品に、何もかも、沢山のことを詰め込みすぎていて、肝心の焦点が定まらない。
人間賛歌として、実に力強い反面、登場人物のあまりに誇大な騒擾に圧倒され、そのエネルギッシュにいささかグロッキー気味である。
この映画の、唯一の(?)救いであろうか。
映画の天才、スピルバーグがクリント・イーストウッド監督に託した作品だ。
それだけに、期待は高まるのだが、さて・・・?
このアメリカ映画は、神がかりともいわれる、そんな二人のコラボレートによる一種の精神対話である。
誰でもが興味を持っている死後の世界、その世界をのぞき見たとき、人はいかに生きようとするだろうか。
この映画は、その答えを模索するように、“死”を体験した人たちが、一歩でも二歩でも真実にたどり着こうとするドラマだ。
・・・人は決して独りではなく、“死”に直面した三人が出会い、“生きる”希望を見出そうとする物語と言ったらいいか。
そして、御味のほうは、果たして・・・?
パリで活躍するジャーナリストのマリー(セシル・ドゥ・フランス)は、恋人との休暇を楽しんでいた東南アジアで、津波に襲われ、死にかける。
無事帰国してからも、呼吸が停止した時に見た不思議な光景が忘れられず、仕事も手につかない。
マリーは、自分が見たものが何かを突き止めようと、調査を始める。
かつて、霊能者として活躍していたジョージ(マット・デイモン)は、死者との対話に疲れ、今はサンフランシスコの工場で働いている。
人生を変えようと通い始めた、料理教室で知り合ったメラニー(ブライス・ダラス・ハワード)に好意を寄せるのだが、ジョージの“才能”が原因で、彼女は彼の前から立ち去ってしまう・・・。
ロンドンで母と双子の兄と暮らすマーカス(ジョージ&フランキー・マクラレン)は、突然の交通事故で兄を亡くした。
母と引き離され、里親に預けられたマーカスは、もう一度兄と話したいと、幾人もの霊能者を訪ね歩くが、本物はいない。
そんなある日、マーカスは、ジョージの古いウェブサイトにいきあたる・・・。
マリーは、自分の調査の成果を本に書き上げ、ブックフェアに参加する。
ジョージはジョージで、すべてから逃げ出し、大好きなディケンズの博物館を訪ねる。
二人の行き先は、ロンドンであった。
そうして、死を垣間見た少女と、死者とつながりのあった霊能力に苦悩する男と、双子の兄を失った少年の、三人の人生が交錯するとき、何かが起きようとしていた・・・。
「ヒア アフター」とは、来世(死後の世界)という意味だが、誰もが一度ならず考える世界ではなかろうか。
そこは、どんな世界なのか。
どんなことが起こるのか。
そして、それは、誰もがいつかはその答えを知ることになる、人間の最大の疑問だ。
「死んだら、人間はどうなるのか」から始まる、「生」を探そうとする、そんな演出の配慮がうかがえる。
その世界は、生の世界ではないが、確実に存在すると信じている人は、日本よりアメリカでは多いのだそうだ。
だから、「死とともに生きていく」などという言葉が、生まれてくるのだ。
死というものを深く見つめるところから、いまこの瞬間を、精いっぱいに生きることの、素晴らしさを伝えようとする。
クリント・イーストウッドは、死後の世界があるかどうか、真実は誰にもわからないが、与えられた人生を人は精一杯生きるべきだと、万人にメッセージを発している。
映画は、人間が生死の狭間で見たある光景がトラウマとなって、臨死体験の本を執筆しようとする主人公の話など、現代人に共通する問題にも入り込みつつ、丹念に、静謐なタッチで描いてはいるのだが、どうもよくない。
そう、冒頭の、あの凄まじい「大津波のシーン」を除いては・・・。
そして、一応登場人物たちは、他人に理解されない自分たち自身に悩み、苦しみながら、ラストシーンでは、照れくさそうに文学的(?)なハッピーエンドを迎える。さもあたりまえのように・・・。
かなりの無理を承知で、見えざる世界を描こうとしたものの、まず映像化には向かないテーマを扱った、期待外れの作品になってしまった。
・・・というのが、あくまで偽らざる個人的な感想だ。
このアメリカ映画「ヒア アフター」という作品は、観客を「臨死体験」に引きずり込むように見せて、その実「死」ではなく、「生」への賛歌を謳い上げようとしたのか。
しかも、イーストウッド監督はよりスピリチュアルな面を描きたかったのだろうが、残念ながら、その意図は達成されたとは言い難い。
そんなものより、どうも、「大津波」の迫力あるシーンを取り入れた、スピルバーグの制作意欲の方に関心が向いてしまうのだ。
このシーンだけは、リアリティがあったが、総じて凡作の域を出ていない。
いっそ、スピルバーグが監督として、メガホンをとったらよかったのではないか。
まあ、死後の世界をめぐって翻弄される人々を描くことから、イーストウッド自身の作品に投影される、死生観みたいなものが、少しだけ、ほんとに少しだけ理解出来る気はする。
でも、「臨死体験」なんていうけれど、そんな大それたものではない。
そんなつもりで観ると、むしろ失望のほうが大きい。
テーマがテーマだけに、作品の出来、とくにヴィジョン、イメージとして描かれる「死後の世界」(?)の突込みにだって大いに不満が残り、映像や構成など、何だいこれはと思うような、もうまるで期待した内容とは程遠く、映画としての新しさも感じられない。
やや説明的とも思えるセリフも、食傷気味だ。
クリント・イーストウッドも御年80歳、いまなお衰えぬ映画作りへのエネルギーは認めても、それまでだ。
やはり、どうも、いささかお疲れのご様子では・・・。
**** 追 記 ****
このほど、ベルリン国際映画祭で、日本から出品された瀬々敬久監督の「ヘヴンズ ストーリー」が、最優秀アジア映画賞と国際批評家連盟賞の、権威ある2冠を獲得しました。
また、国内では、来年3月に開かれる高崎映画祭でも、この作品は最優秀作品賞に選ばれました。
各地で催される一都市のミニ映画祭とはいえ、この高崎映画祭では、北海道函館市で撮影された、熊切和嘉監督の「海炭市叙景」も特別賞受賞が決まりました。
二作品ともに、大手の配給会社を通さず、自主上映されてきた優秀作で、日本映画界への問題提起としても注目されていました。
朗報といえるでしょう。春から、ちょっぴり縁起の良い話です。
三寒四温を繰り返しながら、本格的な春が近づいている。
季節は、確実に急ぎ足で変わろうとしている。
そのさなか、政界に激震が走った。
民主党内の、16人の造反劇である。
日本各地で、天変地異が起きている。
豪雪、地震、火山噴火、口蹄疫、鳥インフルエンザ感染拡大等々・・・。
これらは、古来、御政道(政治)の乱れが原因だと説く人も多い。
確かに、為政者の暗愚が続けば、様々な災厄がはびこる。
その通りではないか。
これまでずっと黙って見てきたが、目に余る菅政権の体たらくは、ひどいなんて言うものではない。
この人には、国民の怨嗟の声が聞こえないのか。
理念も哲学もない。
既得権益を握りしめたまま、虚空をにらみ続ける眼差しは、焦点が定まらず、いたずらに宙を泳いでいる。
何をやりたいのか。
どうしたいのか。
まるでわからない。
改革の旗印を掲げて、劇的な政権交代を成し遂げた菅政権は、いったい何をしているのだ。
愚かさも、情けなさも・・・、何が最小不幸社会か。
見ても聞いても、あきれるばかりの惨状ではないか。
世論の支持率は、とうとう最新の調査で17.8%まで落ち込んだ。
これは、政権交代後の最低の数字だ。
この人が、政権の座にしがみつけばしがみつくほど、国民の不幸が拡大していくようだ。
だからか、近頃ではこの人のことを、疫病神と呼ぶ人が増えた。
天変地異、天地の神が怒るのもうなずける。
民主政権の金看板「政治主導」など、とうにどこかへ捨ててしまったのか。
まだ、自民政権のほうがましだったの声もある。
いまの政治の閉塞状況は、菅総理の自業自得だ。
党内分裂の騒ぎ(小沢氏問題)は、亀裂が深まるばかりで、そんなことで、かっての仲間同士がいま喧嘩をしている場合かどうか。
そんな内閣だから、どうしようもない。
野党もちろん、政権内部から倒閣運動が起きて当たり前だ。
このままの政治があと2年も続いたら、国民生活はぐちゃぐちゃで、塗炭の苦しみをなめさせられることになる。
要するに、政治家のやることなすことが、でたらめなのだ。
こうなってくると、エジプトの「改革」とまでいかなくても、国民の手でこの政権を葬り去るしかない。
歴史的な政権交代を誕生させた政権が、国民の期待を裏切ったことで、国民の手で葬り去られる・・・。
そんな日が近いかもしれない。
いま、日本の政治が、転げ落ちるように破局に向かっている。
誰もが、そう感じている。
もう時間の問題だ。
マニフェストの公約は守られず、菅内閣は、政権維持に汲々としている現状だ。
子ども手当は見直され、ガソリン税の暫定税率廃止もお手上げ、高速道路の無料化も先行き不透明だ。
せっかく実現した子ども手当が無くなれば、もらっている人たちの落胆を隠せない。
もしこれが廃止になって、児童手当に戻ると、子育て世帯の負担はズシリと重くなって、月2万円の負担増になるという話だ。
だから、子どものいる家庭では、簡単にやめていい法案ではないはずだ。
民主党は、そもそもが、政策を通したいがために政権を奪取したはずだ。
それなのに、政権を維持するために政策を捨てるなど、本当に無茶苦茶な政権だ。
狂気、乱心の極みである。
消費税増税論が、叫ばれている。
いま、大企業の内部留保は300兆円ともいわれている。
その1割でも吐き出させたら、増税の必要なんて無くなるといわれる。。
知恵を絞れば、財源はある。
それでも、民主党は財務省におんぶにだっこで、予算編成まで財務省に丸投げするような始末だ。
何なのだ。この政権は、脱官僚を謳っていたのではなかったか。
弱肉強食のいまの競争社会で、増税一辺倒とも見える民主政権のカジ取り、野党の顔色をうかがって右顧左眄の体たらく、国民の信を問うこともせず、解散も総辞職もせず、それで政権が潰れな
いほうが不思議だ。
旧自民政権の亡霊かとまごう人を、三顧の礼をもって入閣させるなど、何を血迷ったのか。
もしかして、いまの政権は、旧自民政権よりひどいかもしれない。
内政も、経済も、外交も、みんな駄目だ。
すること、なすこと、みんな駄目で、どうするのか。
恥ずかしくて、情けなくて、無知蒙昧のこんな内閣見たことない。
民主党に政権交代の夢を託したことは、間違いだったのか。
党利党略、私利私欲のみで蠢いているかに見える、現政権のあくなき無気力には、幻滅だ。
大相撲が無気力(八百長)だというなら、政局こそ、救いようのない無気力(八百長)だ。
これが、国民への裏切りでなくて、何だろうか。
国民への悶絶、憤死を促すがごとき、昨今の裏切り政治をいつまで許せばいいのか。
菅総理は、もはや己自身の延命だけしか考えていないようだ。
ああ、嫌だ嫌だ。
ついに、民主党の衆院議員16人が、会派を離脱する意向を表明した。
これはもう、政変(クーデター)だ。
いよいよそこまで、来るべくして来たか、という感じだ。
彼らが、予算関連法案の採決で造反するとなれば、子ども手当法案の成立も危うくなり、自公政権時代の児童手当に逆戻りだ。
そのほか、法人税の引き下げなど、目玉政策も予算執行もままならなくなり、国民生活への影響は計り知れない。
その責任は、誰が取るのか。
民主党瓦解の始まりだ。
小沢元代表への離党勧告なんかで、内閣支持率が挽回できるわけがない。
小沢氏をかばうつもりなど毛頭ないが、いまや一平卒でしかない人を、まあ寄ってたかって、これでもかこれでもかと一体いつまでいじめ続ければすむのか。
この「小沢切り」とも思える、菅総理のやり方は、恩を仇で返すようなものだ。
とても、感心できるものではない。
むしろ、不快でならない。
菅総理の、手段を選ばぬ、それこそ自分で好んでよく使う言葉だが、この不条理な(?)行為には、一片の正義もないではないか。
そもそも、離党勧告って何なのですか。
何だか知らないが、一国の宰相のやることにしては、支離滅裂、もう無茶苦茶すぎる。
だから、所詮首相の器ではなく、史上最悪、最低の暗愚の宰相だといわれるのだ。
小沢元代表の問題は、国会で国民に説明責任を果たさない小沢氏も小沢氏だが、強制起訴が決まり、司法の場で事実が明らかにされることが決まっているのに、このことを執拗に攻め立て、離
党勧告まで突きつけて、何という醜態か。
菅総理対小沢一郎氏の対決は、肝心の政策論戦を後回しにするばかりで、貴重な時間の浪費だった。
小異を捨てて大同につく。
その挙党一致こそ、大切だったはずだ。
民主政権の罪は、重大だ。
いい加減にしないか。
そのことが、党内分裂の危機を招いたことを、わかっているのだろうか。
とにかく、菅首相の小沢批判のあの姑息には、誰だって不快を禁じ得ない。
民主政権が、国民に約束したことを、ろくろくやろうともせずに、また自公政権に逆戻りするようでどうするか。
エジプトの例ではないが、本当は民衆が蜂起して、世の中を変えていくのが望ましいのに、いまの日本は自分のことしか考えない人が多いから、そんなことはとても期待できそうにない。
こんな時代でも、デモひとつ起きないし、世の中は静かである。
そんなに平和だからか。
それとも、これは、もう諦めなのだろうか。
救国の道は険しい。
どう転んでも、いまの政治が長く続くなどとは思われない。
菅直人総理は、一体誰の味方なのか。
政権交代の意味と使命を、どれだけわかっているのか。
貴方には、国民の怨嗟の叫びが聞こえないのですか。
「汝自身を知れ」という、有名な言葉がある。
そっくり、菅総理に手向けたい言葉だ。
政局ではない。政策だ。
それが出来ぬなら、今すぐお立ち去りください。今すぐ・・・。
醜い内紛劇は、うんざりだ。
権力というのは魔物だ。
人は権力を手にすると、時に狂気にいたる。
そんなことは、何ら不思議ではない。
権力の魔力とは、それほどに、‘魅惑的’で‘蠱惑的’なものだからだ。
今度選挙になったら、もはや民主党は与党ではなくなるのではないか。
そういう気がしてならない。
民主でもない、自公でもない、新しい政界再編が叫ばれる時が来たか。
菅総理は総辞職には応じず、もしかすると、破れかぶれの解散に打って出るかもしれない。
そうなると、政界は大混乱に陥るだろう。
民主政権の寿命は、あと幾何も無い!?
・・・永田町は、風雲急を告げている。
いま心配でならないのは、これからの国民の生活(くらし)である。
待ったなしで、一刻の猶予もできない。国民にとっては大迷惑だ。
倒閣へと蜂起した民主の乱に、理あるやいなや・・・。
第二、第三の蜂起、波乱が続くかもしれない。
汝に出ずるものは、汝に返る。
造反有理、因果の理(ことわり)ここにあるか。
・・・・今日は、何だかとても風の強い日です。
それも、冷たい北風に変わって・・・。
春が、待ち遠しい。
「100年前の世界へ」と題するこの写真展、神奈川県とフランスのオードセーヌ県との、友好交流事業の一環として開催されたものだ。
アルベール・カーン(1860-1940)は、フランス・アルザスの出身で、鉱山の投資で成功し、金融界のリーダーにとどまらず、世界の異民族や文化を敬い、相互に理解することが重要だとして、自己の持てるものを平和のために注いだといわれる。
カーンは、1907年に、すでに持ち運び可能な天然色写真(オートクローム)が実用化されると、世界60ヶ国にカメラマンを派遣して、各地の日常の暮らし、失われゆく風景、戦争の様子、自然、建物などを記録させた。
鮮やかな天然色を実現することを可能にするために、1907年にフランスのリュミエール兄弟が、ジャガイモのでんぷん粒子を利用したオートクロームから実用化されたという話だ。
そんなこと、ちっとも知らなかった。
今回の展示では、天然色写真150点と、シネマトグラフ(映画)を展示している。
100年前、世界の街は、そして日本はどうだったか。
切り取られたひとこまひとこまが、妙に懐かしく見えてくる。
まあ、カーンは大富豪だったから成しえた、壮大な夢の実現の集大成というのだろうか。
興味深い展示が、いろいろ目を引く。
1910年代に、これだけの天然色写真があったというのは、正直、意外な驚きでもあった。
むべなるかな、カーンは、「儲けた金は社会に還元するのではなく、社会に還元するために稼いだのだ。」と言っている。
この「アルベール・カーンコレクション写真展」は、横浜市栄区にある、神奈川県立地球市民かながわプラザ(アースプラザ)で、各種イベントとともに、3月13日(日)まで催されている。
時間があったら、立ち寄ってみるのもいい。
暦の上ではもう春だというのに、雪が降り、その雪も解けて・・・。
風もない時の、温かな陽だまりが、何とも恋しいこの頃です。
さて、お堅い映画専門誌「映画芸術」が、今年も、2010年の日本映画のベストテンとワーストテンを発表しました。
今回、映画監督、脚本家、評論家ら総勢33人の選考委員が選んだ結果は次の通りでした
これを見ると、首をかしげたくなるような作品もないわけではなく、残念ながら、ここに詳しい選評を紹介することまでできませんが、実に、へえと思うような意外性と、作品の質的な問題に対する示唆に富んでいますね。
大変、面白い結果です。
<ベストテン> 1.「ヘヴンズ・ストーリー」(瀬々 敬久)
2.「堀川中立売」(柴田 剛)
3. 「これで、いーのかしら。(井の頭)怒る西行 」(沖島 勲)
4.「パートナーズ」(下村 優)
5.「イエローキッド」(真理子哲也)
6.「川の底からこんにちは」(石井 裕也)
7.「さんかく」(吉田 恵輔)
8.「十三人の刺客」(三池 崇史)
9.「海炭市叙景」(熊切 和嘉)
10.「時をかける少女」(谷口 正晃)
<ワーストテン> 1.「告白」(中島 哲也)
2.「キャタピラー」(若松 孝二)
3.「おとうと」(山田 洋次)
4.「インシテミル 7日間のデス・ゲーム」(中田 秀夫)
5.「東京島」(篠崎 誠)
6.「座頭市 THE LAST」(阪本 順治)
7.「シュアリー・サムデイ」(小栗 旬)
8.「SPACE BATTLESHIP ヤマト」(山崎 貴)
9.「踊る大捜査線 THE MOVIE3」(本広 克行)
10.「ソラニン」(三木 孝浩)
ついでに、在京スポーツ7紙(東京映画記者会)が選ぶ、ブルーリボン賞は次の通りでした。
こちらの方は、15日に東京銀座で授賞式が行われました。
注目の主演女優賞は、映画賞総なめ9冠(ブルーリボン賞は2度目)の寺島しのぶが、さすがの貫録で登場していましたね。
作品賞 「告白」(中島 哲也監督)
外国映画賞 「第9地区」(ワーナーブラザース映画、ギャガ共同配給)
監督賞 石井裕也監督 「川の底からこんにちは」
主演男優賞 妻夫木聡 「悪人」
主演女優賞 寺島しのぶ 「キャタピラー」
助演男優賞 石橋蓮司 「今度は愛妻家」「アウトレイジ」
助演女優賞 木村佳乃 「告白」
新人賞 生田斗真 「人間失格」「ハナミズキ」
桜庭ななみ 「最後の忠臣蔵」「書道ガールズ!!」
さらについでに言えば、去る2月6日、 横浜・関内ホールでヨコハマ映画祭が開かれ、主な賞は次の通りでした。
この映画祭は、ファンによる映画祭というのが特長で、2010年に最高に輝いた映画人を称える個人表彰式です。
作品賞 「十三人の刺客」(三池崇史監督作品)
監督賞 三池崇史
新人監督賞 石井裕也 「川の底からこんにちは」
谷口正晃 「時をかける少女」
脚本賞 天願大介 「十三人の刺客」
主演男優賞 豊川悦司 「必死剣鳥刺し」
主演女優賞 満島ひかり 「川の底からこんにちは」
また、ヨコハマ映画祭の選んだ、2010年度映画ベスト5は、1位「十三人の刺客」、2位「告白」、3位「悪人」、4位「川の底からこんにちは」、5位「今度は愛妻家」で、以下「必死剣鳥刺し」、「孤高のメス」と続きました。
まあ、いずれにしても、人気があるからといって、それが即優れた映画ということにはならないわけで、選考委員や映画会社の思惑も絡んでいることもあり、映画は個人の好みが大きく左右するのではないでしょうか。
映画の質はこちら、御代と人気はあちらといった具合で・・・。
誰が何といおうが、自分がいいと思った作品がいいのかもしれません 。(!?)
こういう映画もあるのだなあ、という感じの作品だ。
大人へと成長する女性の、小さな躓きとささやかな希望・・・。
季節とともに移り変わる、古書店“森崎書店”と、古書の街、神保町の風景が淡々と綴られる。
新鋭日向朝子監督は、この作品を一つの地域映画として、都会の片隅で普通に生きて暮らしている人々を、実にささやかに丁寧に描く。
ドキュメンタリーの中に織り込まれるように、心の奥で欲していた優しさをにじませて、神保町という舞台が選ばれたのだった。
貴子(菊池亜希子)は、同じ会社に勤める恋人の竹内英明(松尾敏伸)が、職場の別の女性と結婚すると知らされて、気が動転してしまった。
恋人だったはずの彼を失って、彼女は会社を辞めてしまうのだった。
そんなときに、傷心の彼女のもとに、叔父サトル(内藤剛志)から、店の仕事を手伝ってくれないかと依頼を受ける。
サトルは、神保町で古書店を経営していた。
貴子は、しばしこの古書店に借り暮らしをすることを決心した。
はじめて足を踏み入れた、世界に有数の古書店街神保町・・・。
店番をして、百円の文庫本が売れただけ、それが彼女の初仕事であった。
貴子は、失意と孤独の中で、この古書店と出会い、そこに出入りする様々な人たちと触れ合いを重ねることで、次第に回復して大人へと成長していく。
彼女は、ふと手にした本を開き、次第に本の世界に引き込まれていく。
古本には、たとえば押し花が挟んであったり、気に入ったところにラインが引いてあったり、小さなメモがあったりと、前の持ち主の痕跡が残っている。
人は、それぞれが口にしないけれど、それぞれが過去を持っている。
そんな生活の中で、貴子は街に慣れ、神保町という街そのものが一冊の本みたいで、そこには、途方もない世界が広がっているように思えてくるのだった・・・。
神保町の古書店街は、よく足を運んだこともあって、妙に懐かしさがあふれ、文字通り本屋だらけの面白い街だ。
ここには、何か惹かれるものがある。
日向監督も、そこに不思議な魅力を感じて、いまあるこの街の姿を、映画「森崎書店の日々」として撮っておきたいと考えたのだそうだ。
ちよだ文学賞大賞を受けた、八木沢里志の原作を読んで、主人公貴子の、失意とささやかな回復と成長を、夏から冬へと移り変わる神保町の風景の中に描いた。
作品は、ひとりの女性の物語に過ぎないが、同時に神保町という街の物語だ。
アクション映画の派手さも、強いメッセージもあるわけではない。
地味な作品だが、淡々とした空気感と、そこには何やら優しさと癒しのような空間もあって、これもまた心地よい。
個人的には、希少本や絶版本を集めるマニアでもないけれど、でも古本探しというのは、ときには結構楽しいものだ。
ふと立ち寄った古書店の片隅で、懐かしい古本とめぐり合ったときの、あの小さなときめきは何とも言えないものだから・・・。
意外性のある、一風変わった面白い作品だと思った。
官能の香り漂う、パステル画のようだ。
それが、永遠の愛でなければならなかったとは・・・。
公開から20年を経て、今でも色褪せることのない愛の形を描いている。
パトリス・ルコント監督のフランス映画が、デジタル・リマスター版でここに甦った。
椅子に座って、髪を切られているのは、中年男性アントワーヌ(ジャン・ロシュフォール)だ。
女性理髪師マチルド(アンナ・ガリエナ)の美しさに、心酔いしれている。
彼は、ある日マチルドに唐突なプロポーズをする。
少しためらったのち、アントワーヌのプロポーズをこともなげに受け入れるマチルド・・・。
二人は結婚する。
それは、ずっと少年の頃から、彼の思い描いていた夢だったのだ。
その日から、理髪店は二人の生活のすべてとなった。
結婚式も、お酒を飲んで酔っ払うのも、時にはお客さんがいるにもかかわらず、愛の行為を行うのも・・・。
この店が、愛し合う二人の世界のすべてだった。
そして、この満ち足りるほどの幸せな日々は、誰の目にも、永遠に続くかのように見えたのだったが・・・。
初公開が20年前だから、いうなれば旧作なのだが、男と女の謎めいたロマンティシスズムが、一味変わった描かれ方で、くすぐるような笑いが話題をさらった。
パトリス・ルコント監督というと、「仕立て屋の窓」「橋の上の娘」などで知られる“愛の名匠”だが、このフランス映画「髪結いの亭主」も、当時、6万人を呼ぶ大ヒットとなったとはとても思えない、小さな幸せな作品だ。
店先の窓から注がれる太陽の光まで、淡いパステル画のような色調で描き出され、撮影監督エドゥアルド・セラによる映像が、また美しい。
この色彩に、陰影をつけるように、マイケル・ナイマンの穏やかな弦楽が心地よい。
スパイスのように使われるアラブ歌謡も、ピリッと効いていて、一編の短編小説のような味わいを見せる。
少年時代から、ずっと女性理髪師に憧れ、結婚まで夢見てきた、大人になったアントワーヌの子供のような歓びが、何ともおかしく、いとおしくほほえましく思えてくる作品だ。
幸せすぎる愛の形を、永遠に愛の形のまま残したい。
そういう切なる願いが、あまりにも突然の悲劇を呼ぶあたりは、にわかには理解し難いところだが、そこがまた映画なのだろうか。
ヨーロッパ、とくにフランス映画は、こうした思いがけない展開で、あっと言わせるのが得意なようで・・・。
人間が、人間を殺し、人間に殺される。
瀬々敬久監督の、上映時間4時間38分という、驚愕の意欲作である。
鋭い感性で、人間の生そのものを見つめようとする視点がある。
たえず生命の揺らぐ、人間の行方を問いかける。
生も死も、行きつ戻りつしている。
そういう世界観に立っている。
生と死、愛と憎しみ、悲しみ、苦しみ、痛み、怒り、怖れ・・・。
あらゆるものが消えて、また生まれ、また消えてゆく。
それが、人の世だ。
家族を殺された、幼い娘がいる。
妻子を殺された、若い夫がいる。
一人息子を育てながら、復讐代行業を副業でする警官がいる。
理由なき殺人を犯した、青年がいる。
その青年と家族になろうとする、女性がいる。
彼らを中心として、複数の殺人事件をきっかけに、多くの登場人物がつながっていく。
そして、人間はどのように生まれ来て、どのように終わっていくのか。
全9章という長尺のなかで、時間軸とともに、20人超の人物が抱えている物語が、複雑に交差し合いながら、本編の重要な主題に導かれていく。
ある年の夏であった。
まだ8歳のサト(寉岡萌希)は、友達と海へ遊びに来ていた間に、両親と姉が殺された。
犯人は自殺した。
サトは祖父に引き取られる。
サトは、電気店のテレビで犯人の自殺を知った。
彼女は、どうしてもそれを許せない。
次に聞こえてきたのは、「僕がこの手で、犯人を殺してやります」という男の声でった。
その男は、サトの家族の殺人事件とは別に、見ず知らずの少年に妻子を殺されたトモキ(長谷川朝晴)だった。
会ったこともない、その男の強い憤りの声を聞いてから、トモキはサトにとってあこがれの英雄となった。
そこから、、10年にわたる、復讐と、復讐に対する復讐の物語が紡がれてゆく・・・。
復讐するは我にあり・・・、そんな言葉をどこかで聞いたような気がする。
殺すことも自由だ。
憎むことも自由だ。
人はいつか死ぬのだ。
…この物語は、復讐の先の物語だ。
四季の移ろいをダイナミックにとらえ、人気のない船着き場や神秘的な廃団地群といった、それぞれの風景とともに、荒涼とした心象風景に圧倒される。
作品のとらえる海辺の集合団地にしても、何とも言えない寂寥感が漂っていて、生きていることに対する怖ろしささえ感じさせるものがある。
それだけでも、凄い!
この世で、人間だけが持つ復讐という性をここまで描ききるか。
この事件は、山口県光市での母子殺人事件がモチーフになっている。
作品は、それを、限りなく膨らませていったのだ。
本格的な映画初出演となった、シンガーの山崎ハコは、映画の中で、切ないまでに優しい空気を運ぶ人形作家の役を演じて、まさにぴったりとはまっている。
他にも、佐藤浩市、柄本明、菅田俊ら、錚々たる個性派俳優が勢ぞろいしている。
彼らの登場する、第1章から第9章まで、10年間にわたって、物語は重層的によどみなく展開する。
そして、ひとつひとつが独立しているようにも見える各章が、実は全て絡み合いつつ、繋がれて最終章を迎えるという展開だ。
撮影にも4年かかったということで、その間に、出演者とくに少女役の寉岡萌希も大きく成長し、さながら登場人物たちの10年を見るに、俳優陣も感無量だったそうだ。
瀬々敬久監督の「ヘヴンズ ストーリー」は、複雑な時間軸を扱いながら、この時代の日本という共同体の中で、苦しみながら生きている人間たちのリアルさが圧倒的に迫ってくる。
これは、おそらくこの映画の構造に対する、瀬々監督の執念そのものではないか。
確かに、ドラマの中に殺されて死んでしまった人間までが、たびたび生きているかのように登場してくるシーンがある。
最後の、バス車内の描写でも死者が出てくるし、冒頭と最後に狐の舞いが出てくるのだが、それが、殺されてしまった少女の家族であることの重要なモチーフでもあるのだ。
人形師と人形の連れ舞いが、山麓の草原に姿を見せるあのくだりは、実に象徴的な見事なシーンである。
そして、復讐を終え、肉親の死を受け入れるとき、生き残ったサトは18歳になっている。
10年という歳月を経て、成長から再生へ、そこに深い暗示を込めた、森羅万象、生きとし生けるものすべてが絡み合う、曼荼羅のような世界観で作られた、瀬々監督渾身の作だ。
とてつもない野心とこだわりを感じる。
作品は、殺人の動機にまで踏み込まない。
ひたすら、現実と、その先にある帰結から再生を見据えている。
条理にかなわない、かなり粗っぽい冒険も散見するが、この作品の紡ぐ壮大な時空感は、またとない映画体験となるに違いない。
最後まで、片時もスクリーンから目を離すことができなかった。
いや、いや、一編の日本映画作品で、4時間38分のカタルシスなんてまず滅多にないことだ。
何といっても、5時間近い映画ですから・・・。
映画のエンディング曲「生まれる前の物語」は、よく聴いていると、このドラマを総括しているようで非常に解りやすい。
瀬々監督自身の作詞だ。
このドラマの、巧緻な構成力のうまさだろうか。
つい昨日、2月8日に行なわれた今年の毎日映画コンクールで、この映画は脚本賞(佐藤有紀)を受賞した。
さらに言えば、お堅い、あの映画専門誌「映画芸術」(通称「映芸」)の最新号で、 「ヘヴンズ ストーリー」は、毎年恒例の日本映画ベストテンの、第二位以下を大きく引き離して、何と第一位となったことも、付け加えさせていただく。
日本映画も、ここまできたのか。
もう、さすが!というほかはない。
そうか、やっぱりあったのか。
4年前、週刊誌が大々的に、大相撲の八百長を連続キャンペーンで、これでもかこれでもかと報道した。
あの時、、あまりに手口などが詳細に書かれていて、これは本当ではないかと思ったほどだ。
日本相撲協会は、異例の告訴で対抗して、講談社は4000万円もの損害賠償を命じられたのだった。
裁判は最高裁まで争われ、講談社が敗訴した。
いまになって、それ見たことかということになった。
司法までも欺いた事件だ。
今後、出版社側が逆襲に出ることは間違いない。
今週の週刊誌は、さぞかし賑やかなことだろう。
問題のメールの中身が、次から次へと明らかにされ、あいた口がふさがらない。
これは、もはやうやむやな決着では逃げ切れない。
ゆゆしい問題だ。
八百長があったことが事実と分かり、高額の訴訟を封じ込めようとしてきた、相撲協会の体質こそ問われるべきではないか。
何が、「八百長は一切なかった」か。
日本相撲協会が、力士を呼んで事情聴取をしたところで、真実がすべて明らかにされるだろうか。
この一件、これまで、協会も力士も一緒になって、証拠を隠滅してきたのではないか。
ここへきて、いま相撲賭博の疑いも出てきた。
日本相撲協会とは、いったい何なのだ。
もう、この際すべて解体してはどうか。
こういう事態に立ち至ったのは、協会の、体質的な問題があるからではないのか。
八百長は、昔から恒常的にあったことで、何をいまさら大騒ぎをするかとの声も聴く。
これでは、「国技」が泣く。
「国技」も土俵際だ。
大げさに報道でまくしたてるマスコミまでも、こぞって八百長問題を糾弾している。
公益法人の見直し、取り消しはもちろんだし、どっちもどっちである。
八百長事件を仕組んだ力士、知ってか知らずか(おそらく知っていた)それをひた隠しにしてきた相撲協会、こういうこととなると目の色変えてここぞとばかりまくしたてるマスコミ、みんなおかしい。
相撲ファンや、国民の期待を完全に裏切った、許されざる者たちとは、この者たちだ。
今後、客離れは当然だし、一切の膿を出すときだ。
今や八百長が日常化していて、力士たちも、大して悪いことをしたとは思っていないのではないか。
何が、真剣勝負なものか。聞いてあきれる。
ばかばかしい。
この体質、そう簡単に治りそうにもない。
春場所中止決定は当然だし、国技の信頼は、根底から崩れてしまった。
協会もいらない。
大相撲消滅ということだって、現実味を帯びてくる。
相撲協会85年の歴史というが、いよいよその幕を閉じることになるか。
「まずぶつかって、そのあとは流れで、すぐはたかないで、最終的にはすくい投げで、駄目なら20万は返して」ね・・・。
残った、残った。はっけよい、残った。
証拠も残った。
春の風が吹いている。
立春を過ぎて、ときに暖かな日差しも眩しく感じられる。
早春の花、白梅、紅梅がちらほらと、本格的な春の訪れもそう遠くはなさそうだ。