夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

猛暑の折は、ネットで『南極』からの便(たよ)りを拝読して・・。

2010-07-26 13:28:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程ぼんやりとネットでニュースを見ようと
時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開いたのであるが、
偶然に、【南極ウオーカーズ】大学院生の越冬初体験、
と題された寄稿文を拝読しながら、南極の情景を長らく見惚(みと)れていたのである。

無断であるが、【南極ウオーカーズ】を転載させて頂く。

http://www.jiji.com/jc/v?p=new-special-nankyoku0001
☆【時事ドットコム】 【南極ウオーカーズ】大学院生の越冬初体験 ☆


私はサラリーノンを35年ばかり勤め定年退職をした身であるが、
国内旅行は家内との共通趣味であり、四季折々美しい日本の各地を訪れたりしている。

しかし私達夫婦は海外旅行が苦手な上、
年に一度ぐらい南極の観光ツアーなどを旅行会社のパンフレットなどを見たりするが、
年金生活の今としては私達には旅行費が高く、やむえず断念している。


私は遠い昔の中学生の頃は、南極の海上に浮かぶ氷山を朝日か夕陽が受ける情景を観たい、
と夢想を重ねたりしていた。
捕鯨船団に乗船し、甲板掃除の助手などで雇って貰い、
氷山の美麗を観たい、と夢をみていたのである。


今回、第51次日本南極地域観測隊越冬隊の一員として、
南極昭和基地で越冬生活を過ごされている木村嘉尚氏の寄稿文のお便りを拝読した・・。

《・・
私は、東京学芸大学大学院の修士課程に在籍しており、この51次隊では最年少の26歳です。

大学では地球電磁気学と物理教育を専門に学んでいますが、
南極観測隊に派遣されている間は国立極地研究所に在籍していることになります。

南極ではオーロラに代表される「宙空圏部門」の担当で、
主にオーロラや地磁気、電離層のことなど、上空数十キロから数百キロの超高層大気の現象を観測しています。

(略)

51次越冬隊の構成は、工藤栄越冬隊長(国立極地研)の下、
電離層や気象、宙空圏、気水圏、地圏の各分野を観測する観測系の隊員が10人、
機械や通信、調理、医療、環境保全、多目的アンテナ、LAN・インテルサット、建築・土木、
装備・野外・安全管理、庶務・情報発信など、
主に昭和基地で生活するための設備・環境などを維持する設営系の隊員が隊長を含めて18人います。
・・
(略)
・・》
注)寄稿文の原文にあえて改行を多くした。

こうしたことを拝読すれば、もとより大学時代にそれぞれの専門知識を学修され、
その後も専門分野で活躍されている中で、
51次越冬隊に選ばれた優れた人たちである。


私は大学を中退し、映画・文学青年の真似事をし、挫折した後、
民間の中小業に35年ばかり勤めたつたない身であるので、
こうした専門分野に活躍される人には、まぶしさばかり感じ、
苦笑をしたりしたいる。

せめて、私はこの寄稿文を拝読しながら、
夢の中で、南極の過酷の中での美麗なひとときの情景を観れれば、
と齢ばかり重ね、体力も衰えた私は思ったしている。



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高齢者の私、熱中症を避ける為に、ふしだらな日々を過ごし・・。

2010-07-26 09:37:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過日の17日に梅雨明けの後、連日の猛暑のような35度前後の日々となり、
暑さに苦手な私は、戸惑どっている。

今朝もいつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
悲しく高齢者の方が熱中症で亡くなる、と記事を読んだりすると、
私も昨年の9月に高齢者となっているので、何度も読み返したりしていた。


この記事に準じた記事は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されているので、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
      熱中症死者、半数は屋内…65歳以上が大半

全国的な猛暑は25日も続き、岐阜県多治見市で最高気温38・1度を記録したのをはじめ、
全国921の観測地点のうち、96地点で35度以上の「猛暑日」となった。

埼玉県、千葉県、兵庫県、奈良県では、熱中症とみられる症状で同日夕までに計6人が死亡した。

読売新聞の集計では、関東などで梅雨明けした17日~25日夕に、
熱中症が原因とみられる死者は全国で81人。
65歳以上が大半を占める。
半数以上の45人が自宅など屋内で死亡しており、
25日に亡くなった6人中5人も屋内で発症していた。

日本救急医学会の調査では、高齢者の熱中症の半数が室内で起きている。
介護を受けている人など活動が少ない人ほど重症が多い傾向があるという。

気象庁によると、26日以降の1週間の気温は、
全国的に平年並みか平年より高くなる見込み。
同庁は「屋外はもちろん屋内でも熱中症に厳重な警戒が必要」と呼びかけている。

(2010年7月26日03時02分 読売新聞)
       ・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100726-OYT1T00046.htm?from=top
☆【YOMIURI ONLINE】 熱中症死者、半数は屋内…65歳以上が大半 ☆

そして新聞の【都内版】にも、《猛暑 救急出動最多の2766件 都内、24日》
とニュースも報じられている。
【YOMIURI ONLINE】にも【地域ニュース 都内】として掲載されているので、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
       猛暑 救急出動最多の2766件 都内、24日

今月24日の都内の救急出動件数が、統計が残る1936年以来、
過去最多の2766件に上ったことが東京消防庁のまとめでわかった。

この日は各地で35度を上回る「猛暑日」となり、
都内でも大手町で35・8度を記録。

同庁は「今夏の異例の暑さが救急出動の急増につながったのではないか」と分析している。

出動件数のうち178件が熱中症と診断された。
同庁によると、このほかにも、めまいや発熱など、熱中症と診断されなかったが、
暑さが原因とみられる症状が多かったという。

23日も2683件の出動があり、
同庁は「外出時はこまめに休憩して水分補給を」と呼びかけている。

(2010年7月26日 読売新聞)
       ・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20100726-OYT8T00095.htm?from=navr
☆【YOMIURI ONLINE】 猛暑 救急出動最多の2766件 都内、24日 ☆


私は梅雨明けの後、連日の猛暑で、何よりも暑さに苦手な私は、
午前中のひととき、買物の担当の私は、買物の後の散策も短かなコースとなっている。

買物は駅前の15分の道のりを敬遠し、最寄のスーパーの二軒で購入したり、
散策も近所の住宅街の道を歩いたり、川べりの遊歩道を歩き、
ときおり大きな樹の下にあるベンチに座り、休憩をしたりしている。

このような時、半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズ、
そして夏の帽子を深くかぶり、サングラスした容姿で、
扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、
大通りの歩道や遊歩道を歩いたりすることが多いのである・・。

帰宅後、洗面所で顔を洗った後、
居間のエアコンの冷風の下で、着替えて、冷茶を飲みながら、
団扇(うちわ)を取り出して、冷房の中、扇(あお)いだしている。


我が家は子供も恵まれず、たった家内と2人で、
古びた一軒屋に住んでいるが、毎年、梅雨の晴れ間から秋の彼岸の頃まで、
簾(すだれ)で夏の陽射しをさえぎったりしている。

簾を各部屋に掛け、家内の指導の下で、私は助手となっているが、
のろまな私は役立たずで、家内が殆どしているのが実態である。

洋間の場合は、雨戸、網戸、ガラス戸となっているが、
この季節はカーテンを外して簾とする。
そして和室も同様に、雨戸、網戸、障子であるが、簾をつけたりしている。

朝涼(あさすず)が残る朝の9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾にして、庭越しの風を通したりしている。


このように簾で夏の陽射しをさえぎったしているが、
午後のひととき居間のはずれで簡易ベットに横たわりながら、
エアコンの冷風を受けながら、本を読んだりして、少し昼寝をすることが多い。

このように熱中症を避ける為にふしだらな日々を過ごしているが、
高齢者の年金生活の私は、救急車のお世話になりたくないし、
『少しダラけた生活をしているなぁ・・』
と私は苦笑しながら、家内に云ったりしている。



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『ビール』、ささやかな私の想いで・・。

2010-07-25 18:12:35 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、

夕食の時に殆どビールを呑みながら、頂くことが多いが、
ときおり思い出したかのように純米酒の辛口を冷やして弐合ばかり呑むこともある。

私は呑兵衛であるので、ビールに関しても、ひとしお数多くの想い出がある・・。

サラリーマンの現役時代、
30代の頃は、家内とデパートの買物、都心の公園に散策した折、
銀座、新宿のビアー・ホールの『ライオン』に寄ったりしていた。
私はビルの屋上にあるビアー・ガーデンは、
一品料理のつまみの選定が乏しく、日中の暑さの余韻もあるので、苦手であった。

この点、ビアー・ホールは一年中営業をしているので、
それなりに一品料理に創意工夫され、美味なことが多く、
ドイツの田舎料理も楽しめる時もある。


この時代は、店内にドイツ民謡が流れ、ドイツの衣装を召した女性の店員が多かったのである。
周囲のお客もグループの方が多く、
生ジョキーをかたむけ、談笑に花盛りが多かった・・。

このような爽やかな賑わいの中、
私は壁際に展示されている10種類のジョッキーを見つめていたりしていた。

結果として、私は花瓶のような3リットル入り陶器のジョッキー、
家内は長靴のようなクリスタル・グラスの中ジョッキーを選定して呑んだりした。


私は数多くのサラリーマンと同様に多忙な身で、
休日を迎えると、何よりの開放感の面持ちとなり、
日曜日の昼食の時に、大瓶のビールを5本程度は呑んだりしていた。
その後、眠くなり、昼下りの数時間眠り、睡眠不足を補(おぎな)ったりしていた。


ある日、家内と夕方のひととき帝国劇場の付近にいた時、
小雨が降りだしてきたので、付近のシティ・ホテルに避難するように入った。
幸い地下は、レストランなどの食事処となって折、
手軽なビールで軽食をと思いながら、席に座ったのである。

ビールを呑み、単品の5品を家内と食べ比べをしたりしていた。
この時に、欧州人と思われる60代の男性が、
ヴィオリンを片手に近寄ってきた・・。

そして、何かリクエストの曲はありますか、
と片言の日本語で訊(き)かれ、
私は少しためらいながら、『アマポーラ』か『愛の歓び』のどちらか、
と云ったりしていた。

私は2曲も弾いてくれたので、細身のヴィオリニストに程々のチップを手渡した後、
ビールを追加したりしていた。



定年退職後は、夕食の時に、缶ビールの350miを2本ばかり、
コブレットのグラスで呑んだりしている・・。

『俺も弱くなったよ・・このぐらいで充分だょ・・
齢をとったのかなぁ・・』
と私は家内に云ったりしている。

『貴方の40代まで、黙っていれば大瓶3本ぐらいは呑んでいたじゃ・・ないの・・
もう一生分呑んでしまったのだから・・充分じゃ・・ないの・・』
と家内は笑いながら、私に云ったりしている。


家内と結婚した時、お酒を取り決めていた。
日本酒だったら弐合、ビールの場合は大瓶で2本までと誓言したりしていたが、
現役時代の休日は超えていた、と苦笑しながら思いだしたりしたのである。


定年退職後の数年は、月に数回は、主庭のテラスで、
樹木の木陰に寄り、風に吹かれながら、ビールを呑むこともある。

こうした折、若き頃は、キリンのラガー、アサヒはスーパー・ドライ、
サントリーはモルツと一時的にこだわったり、
やはりサッポロのエビスに限るなどと確信したりしていた時もあった。

今の私は、この中でビールであれば、
過ぎ去った日々に思いを馳せることが多いので、
どの銘柄でも、私のかけがいのある友となってくれる。

しかし私は国内旅行の時は、いまだに北海道はビールに関しサッポロ・クラシック、
沖縄の場合は泡盛が呑めない私は、オリオン・ビールとしている。


このようなささやかな思いがあったが、
昨年の2月より市の推薦のメタボの研修を受けて折、
保健師の麗(うらら)かで清純なしぐさの女医さんとの指きりの約束をしたせいか、
アルコールが大幅に変化して我ながら驚いている。

研修を受講するまでは、殆ど純米酒の辛口を2合前後を呑んだり、
ときおり缶ビールを500mlをコブレットに注(そそ)いで、2、3本を呑む晩もあった。

研修後の私は旅行、懇親会、冠婚葬祭以外の日常生活は、
殆ど缶ビール350mlを2本としているが、
ときには1本で満足してしまう晩もあるので、我ながら不思議と感じたりしている。


このように綴ったりしていると、若き頃の日々を思い馳せ、
懐かしき『アマポーラ』などの名曲を『YouTube』で聴いたりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=-dIOVI5J45c
☆ Nana Mouskouri - Amapola ☆


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亡き敬愛する山本夏彦氏の遺された名言に、私はうなだれ・・。

2010-07-25 09:42:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
ここ2週間ばかり、2002(平成14)年10月に亡くなわれた山本夏彦氏の遺された名言を、
たびたび思い浮かべ心は彷徨(さまよ)いつづけている。

この名言は、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(八月号)に於いて、
特別企画として『的中した予言50』と題された特集があり、
著名人の方が、各界で活躍された人の言葉を基軸に、
《われらの未来を考えるヒント》を目的として掲載されていた。

この中で、私は各界で活躍された人の言葉を数多く学んだりしたが、
特にジャーナリストの徳岡孝夫氏が山本夏彦氏を取り上げた寄稿文に、
心身叩きつけられた感じで、幾度も読み返したのである。

《・・
   驢馬(ろば)は旅に出ても、
       馬になって戻るわけではない
                    ・・》

この名言を山本夏彦氏を遺され、この言葉に徳岡孝夫氏が亡き山本夏彦氏に愛惜を深めながら、
解説されている優れた寄稿文である。

無断ながら一部を引用させて頂く。

《・・
(略)
人は新しい知識、新しい生き方を求めて旅に出る。
山野を歩かなくてもいい。
一冊の本の中へと旅立つことがある。
それまで想像もしなかった地平線がひらける。
また珍しい人と会う。
それまで知らなかった物の考え方を学ぶ。

驢馬は、そういう地図上、精神上の体験から学んだ末、
元の主人の家に戻る。
旅の間に賢くなり、せめて馬になっているはずだと自負するが、
詮ない希望である。

驚くなかれ彼は、出発前と寸分違わぬ驢馬である。

つまりアホは、いくら学んでも死ぬまでアホである。
非常な判決だが、真理だから仕方がない。

(略)
・・》
注)寄稿文の原文をあえて改行を多くした。


私は飛躍させて、自身の半生に置き換えて、今後の残された人生を思索させられたのでうる。


2004(平成16)年の秋の定年退職後、
まもなくして偶然にブログの世界を知り、
若き日々より中断したこともあったが日記を書いたりし、
これとは別の状況で色々と綴ったりしてきたが、
改めて何らかの形式で公表したく、これ幸いと幾つかのブログ、
ブログに準じたサイトに加入して綴ってきた。

定年退職後の身過ぎ世過ぎの日常で日々に感じたこと、
或いは思考したことを心の発露とし、明記してきたことはもとより、
幼児からサラリーマンの退職時までの色々な思いを
書き足らないことも多々あるが、余すことなく綴ってきている。

誰しも人それぞれに、苦楽の光と影を秘めて日常を過ごしているのが人生と思っているが、
私なりに時には、ためらいを感じながらも心痛な思いで、
綴ったりしてきたこともあった。


私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けたこと、
祖父や父が長兄、次兄と後継ぎ候補の男の子に恵まれたので、
秘かに今度は女の子を期待していたらしく、私は何となく感じて、いじけたこと。
そして、小学生に入学しても、兄ふたりは優等生で、
私は中学生までは劣等生だったこと。

小学2年の時に父が42歳の時に病死され、まもなく祖父も亡くなり、
農家の旧家でも大黒柱のふたりが亡くなることは、没落し、貧乏になること。
そして、幼年期には本といえば、『家の光』しかなく、
都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、愕然としたこと。


高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、
遅ればせながら読書にも目覚めたり、小説らしき習作を始めたこと。

そして大学を中退してまで映画・文学青年の真似事をしたり、
その後は幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、落胆したこと。

この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたこと。

そしてまもなくレコード会社に異動させられて、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいる、と勘違いしたこと。
この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したことや、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたこと。

そして、定年の5年前に出向となり、都落ちの心情になったこと。


このように私は大手企業のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は自慢史が多いと云われているが、私は程遠い存在である。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。


私は定年退職時の5年前頃からは、
漠然と定年後の10年間は五体満足で生かしてくれ、
後の人生は余生だと思ったりしている。

昨今の日本人の平均寿命は男性79歳、女性86歳と何か本で読んだりしているが、
私は体力も優れていないが、
多くのサラリーマンと同様に、ただ気力で多忙な現役時代を過ごしたり、
退職後も煙草も相変わらずの愛煙家の上、お酒も好きなひとりであるので、
平均寿命の前にあの世に行っている、確信に近いほどに思っている。

世間では、よく煙草を喫い続けると五年前後寿命が縮じまるという説があるが、
身勝手な私は5年ぐらいで寿命が左右されるのであるならば、
私なりの愛煙家のひとりとして、
ときおり煙草を喫ったりしながら、思索を深め日々を過ごす人生を選択する。
そして、昨今は嫌煙の社会風潮があるので、
私は場所をわきまえて、煙草を喫ったりしている。


このように身勝手で屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

何よりも多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


このように思い続けてきた私は、7月10日に発刊された総合月刊雑誌の『文藝春秋』(八月号)に於いて、
徳岡孝夫氏が亡き山本夏彦氏に愛惜を深めながら、山本夏彦氏を遺された名言を精読して、
私は拙(つたな)い半生を思い馳せながら、うなだれたりしたのである。

果たして、私の念願の清貧の数寄者になれるか、
或いはあえなく挫折するかは、現在の私としては判らないでいる・・。

ただ確かなことは、願望ばかりで努力もしないことは、
もとより何事も望みが叶えることは出来ないので、
残された人生に独創性ある文章修行して、圧倒的な筆力を学ぶしかないと思ったりしている。


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夏の風物詩の『花火』大会の想いで・・。

2010-07-24 21:19:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
夕方の6時半に入浴した後、
作務衣の姿で薄暗くなった玄関の軒下で煙草を喫っていた・・。

まもなく、雷鳴のような音響が響き、
『あれぇ・・待ち焦がれた雨が降るのかしら・・』
と私は心の中で呟(つぶや)きながら喜んでいたら、
前方の彼方の夜空が、オレンジ色に染められ、
私は地元の調布市の京王多摩川の花火大会の開催日だった、
と気付き、苦笑したのである。

昨今の私は、暑さに苦手上、人手の多いところは何かと敬遠している。
しかし、夏の風物詩のひとつの花火大会は、
ささやかな私なりの想いでがある。


私は小学生の高学年の1955(昭和30)年の前後の頃は、
京王多摩川の花火大会に2度ばかり行き、川べりの近くで、
打ち上げ花火を観たりし、『綺麗だ・・凄い・・』とか歓声をあげたり、
仕掛け花火の移ろう華麗な情景に見惚(みと)れたりしていた。
しかし、帰路の電車は満員で、子供心でも懲(こ)りたのである。

その後、和泉多摩川は家から直線の路をたどると30分前後で歩いて行けたので、
中学生の時に2度ばかり観たりしていた。

二十歳過ぎになると、高校時代の悪友が花火を観たい、と云うので、
この頃、私の母が多摩川のまじかな登戸に住んでいたので、
私は友人を誘ったが、彼は照れ屋であり、私は母からビールの大瓶を2本頂き、
私達は川原に近いところで、ビールを呑みながら観賞したのである。

この後は、私が40代の半ば、夏季休暇の時、
家内と山陰から四国の周遊団体観光ツアーに参加した折、
玉造温泉の宿泊し、夕食後のんびりと部屋でくつろいでいた時、
少しばかり遠方の宍道湖の湖上から打ち上げられた花火を偶然に観たのである。
私は和室に横たわり、一時間ばかり観ながら、
『XXちゃん・・こうして観るのが一番・・楽だねぇ・・』
と私は家内に云ったりしていた。

私が55歳を迎える時、民間会社の本社に勤務していたのであるが、
リストラ旋風の中、無念ながら2月に出向となり、気落ちした・・。
夏のひととき、家内と久しぶりに『新百合ヶ丘』駅のまじかな映画館に行った帰路、
小田急線に乗車し、最寄の『成城学園前』駅に向っていた時、
偶然に和泉多摩川で花火大会の当日と知った。

私達は『和泉多摩』駅で途中下車して、
和泉多摩川の川原の近くで、打ち上げられる花火を見上げたりし、
火薬の匂い、煙がまじかに感じられ、花火の包まれた紙の破片が空中を彷徨(さまよ)いながら、
私達の付近に舞い降りてきた情景を幾度も体験した。

この帰路、私は気落ちしていた出向が、何かしら吹っ切れ、
これ以降、私は前向きに業務をこなし、5年ばかり奮闘して定年退職を迎えた。


このような私の花火の思いでがあるが、
定年後の年金生活を過ごすと、暑い夏はもとより苦手な上、人出の多いところは齢を重ねるたびに、
なるべく避けるようになっている。

こうした思いなので、夏のひととき毎年、
都心の『隅田川花火大会』がテレビ実況されるので、
家の居間のクーラーの冷気の中で、
家内とビールを呑みながら早めの夕食を頂き、テレビ中継を視聴したりしている。

尚、昨今の私は、夏の花火より、冬の花火に魅了され、
過ぎ去った人生の愛惜を深めたり、残された歳月に思いを考えることが多いのである。



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『地蔵盆』、古来からの行事を初めて学び・・。

2010-07-24 10:32:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ていたら、『地蔵ぼん』と明記されており、
私は恥ずかしながら無知であったので、
ネットで検索し、フリーの百科事典として名高い【ウィキペディア】にすがり、
精読したのである。

《・・
地蔵盆(じぞうぼん)は、地蔵菩薩の縁日(毎月24日)であり、
なおかつお盆の期間中でもある旧暦7月24日に向け、
その前日の宵縁日を中心とした3日間の期間を指し、
またそのうちの日を選んで行われる地蔵菩薩の祭のことをいう。

地蔵盆は一般には寺院に祀られている地蔵菩薩を対象とした祭りではなく、
道祖神信仰と結びついた路傍あるいは街角(辻)の地蔵が対象となっている。

旧暦7月24日以外の地蔵菩薩の縁日の24日は、
地蔵会(じぞうえ)、地蔵祭と呼ばれるが、
旧暦7月24日については盂蘭盆(お盆)期間中であり、
それにちなんで地蔵盆と呼ばれるようになった。

現代では、参加する人々の仕事などに合わせ、
多少日程をずらして土日に行うところも増えている。
地蔵盆が新暦の7月24日前後もしくは8月24日前後に分かれるのは、
お盆を新暦に改めて勤めるのか、それとも旧暦風に8月に行うのかの差異であり、
この差異についてはお盆の項を参考にされたい。

地蔵盆は全国的に行われている風習であるが、
滋賀県、京都府、大阪府、福井県若狭地方など近畿地方を中心とする地域で特に盛んである。

地蔵祭では、地蔵のある町内の人々がこの日にかけて地蔵の像を洗い清めて新しい前垂れを着せ、
化粧をするなどして飾り付けて、地蔵の前に集って灯籠を立てたり供え物をしたりして祀る。

地蔵盆の前後には、地蔵の据えられる家や祠の周囲などに、
地蔵盆独特の提灯が多く飾られる。
京都では子供が生まれると、その子の名前を書いた提灯を奉納する風習がある。
おおむね女子は赤、男子は白で、その子が地蔵盆に参加しているあいだは、毎年飾られる。

地蔵菩薩は中近世以降子供の守り神として信仰されるようになった。
広く知られた伝説によれば、地蔵菩薩が、
親より先に亡くなった子供が賽の河原で苦しんでいるのを救うという。

このことから地蔵祭においては特に子供が地蔵の前に詣り、
その加護を祈る習わしになっている。

ところによっては、仏僧による読経や法話も行われるが、
おおむねそれらの多くは子供達に向けたものである。
地域によっては、地蔵盆当日の朝に「数珠回し」を行う。
これは、町内の子供が、直径2~3メートルの大きな数珠を囲んで座り、
僧侶の読経にあわせて順々に回すというものである。

今日では地蔵盆は子供のための祭とも言え、
地蔵に詣った子供達は地蔵の前に集まった席で、
供養の菓子や手料理などを振る舞われる場合が多い。

(略)
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E7%9B%86
☆ フリーの百科事典【ウィキペディア】『地蔵盆』 ☆


私は1944(昭和19)年9月に、
今住んでいる北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)近くの実家で生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊として乳児の時を過ごした・・。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

敗戦後、まもなくして農地改革で田畑は減少したが、
幼児の私には、それなりの田畑、湧き水、小川、蓮(ハス)専用の田んぼ、
池、防空壕などの数多くの情景が鮮明に残っているが、
私は記憶違いなのか、少しボケたのが、
幼年期に『地蔵盆』の風習、行事が行われたことがない、と思ったりしたのである。


やむえず別のサイトを開き、思わず私は微苦笑させられたのである。

《・・
地蔵盆は京都生まれで、近畿地方の行事として古くから行われてきました。
また、北陸地方や新潟、信州では長野市周辺で盛んに行われていますが、
東海や関東には、ほとんどないそうです。

なぜ関東には定着しなかったのでしょうか。
それは地蔵信仰の歴史のちがいによるもののようです。
京都では室町時代に地蔵盆が大流行しましたが、
東京では江戸時代になって、やっとお地蔵さんが作られたのです。

その上、江戸ではお稲荷さん信仰が盛んだったのです。
(略)
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。

http://www.echizenya.co.jp/mini/colum/jizoubon.html

私は近所を散策すると寺院は例外として、
稲荷神社を見かけ、入り口の近くにお地蔵さまを見かけたり、
道しるべとして、お地蔵さまを見ることがある。

そして、私は国内の各地を訪れた時、多くのお地蔵さまを見かけたり、
道祖神を見たり、或いは賽の河原に幾たびかで手を合わせてきた。

恥ずかしいことを告白すれば、
お地蔵の像に前垂れが着せられているが、
赤、白色には余り気にとめなかったのである・・。
そしてネットで解説された《子供が生まれると、その子の名前を書いた提灯を奉納する風習・・女子は赤、男子は白・・》
と再読したりすると、
賽の河原で見た小さなお地蔵の像の前垂れの赤は女の子、白は男の子だった、
と私は思いを馳せたりしている。

私は齢ばかり重ね、無知なことが多すぎる、と苦笑したりしている。


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『大暑(たいしょ)』の時節に応じて、猛暑の日々に苦笑し・・。

2010-07-23 13:07:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ぼんやりとカレンダーを見ていたら、『大暑(たいしょ)』と明記されており、
過日の20日は、『土用』と明示していたので、『土用の丑』のことかしら、
と苦笑したりした。

今年の夏は過日の17日に梅雨明けの後、連日の猛暑となり、
暑さに苦手な私は、降参しますょ、と時折呟(つぶや)いたりしている。

私は年金生活の身であるから、午前中のひとときに買物、散策を終えれば、
午後は居間でエアコンの冷気に身を寄せたりしている。

しかし、現役で勤務される諸兄諸姉は、厳しい暑さが続き、
お気の毒と思ったりしている。

私も現役時代は数多くのサラリーマンと同様に多忙な身であったので、
帰宅後、疲れ果てながら、ビールを呑みながら、
食欲の増す料理を食べていた。

江戸時代の頃から、『土用の丑』と称せられ、
栄養価の高い『うなぎ』などを食べて、何とか暑い日々を乗り切ろう、
と心情は痛いほど理解できる。

私は現役時代に、昼食の外食で食事処でうなぎを選定したり、
自宅で早くても9時過ぎの夕食で、
家内が買い求めてきたうなぎを食べたりしていた。


今の私は、体力も衰えた65歳の高齢者の身となり、
うなぎより江戸前寿司の方が食欲を増すので、
ときおり近くの寿司屋さんに電話をして、配達して貰うことが多く、
齢かしら、と微苦笑している。



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『日本熱島』に、年金生活の私でも、戸惑いながら・・。

2010-07-23 10:54:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過日の17日に梅雨明けの後、連日の猛暑となり、
昨日の22日は36度となり、本日の23日も35度前後が予測され、
暑さに苦手な私は、戸惑どっている。

夏の早朝に、この時節は朝涼(あさすず)のひとときが平年の慣(なら)わしであるが、
死語になったのかしら、と苦笑したりしている。

そして、すっかり雨が遠のいているので、
天上の気候の神々に雨乞(あまご)いもしたくなりたい、
と燦燦と夏の陽射しが照らす庭を眺めたりしている。

今朝、いつものように読売新聞を読んでいて、
《 日本熱島 》と見出しされた記事を読んだりすると、
微苦笑させられたのである。
この記事に準じた記事は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されているので、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
       日本「熱島」144地点で「猛暑日」

日本列島は22日も、太平洋高気圧に覆われて各地で気温が上がり、
岐阜県の多治見市では今年最高の39・4度を記録する今年一番の暑さとなった。

全国921の観測地点のうち、
今年最多の144地点で35度以上の「猛暑日」を観測した。

東京都心部も猛暑日となり、都内のビアガーデンは大盛況。
東京タワーや六本木ヒルズを間近に望める港区六本木の「六本木ビアガーデン」では、
日中の暑さに耐えたサラリーマンらが、ビールジョッキを傾けていた。

(2010年7月23日03時04分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100723-OYT1T00113.htm
☆【YOMIURI ONLINE】 日本「熱島」144地点で「猛暑日」 ☆

私はこの写真を見た時、
《・・日中の暑さに耐えたサラリーマンらが・・》を読みながら、
判るよなぁ、と心の中で呟(つぶや)いた。


私の現役時代は、中小業の民間会社に勤め、
大半は本社の六本木に25年ばかり通勤し、私になりに奮闘していた。
そして、気さくな先輩、同僚、後輩たちと、
週に一度ぐらいで、勤務から解放された後、居酒屋など懇親を重ねたりしていた。

この時節になると、ときおり有楽町などで、
銀座の夜景を観ながら、ビアガーデンで談笑したりした。
この当時は六本木には、ビルの屋上にビアガーデンが見当たらず、
有楽町、渋谷などに、互いの業務の終りを配慮した上、
集合しながら、談笑したのであった。

ビルの屋上のビアガーデンは、日中の暑さの余韻が残っているが、
開放感につつまれ、ときおり微風が吹くと、
日中の激務を忘れさせてくれるような心情となり、
ビールの祝杯を重ねたりしていた・・。

このようなささやかな想いでが思い浮かべ、私は微笑んだりしていた。


今の私は、年金生活の6年生になり、
午前中のひとときに買物、散策をした後、午後はエアコンの冷風の中で過ごしているが、
現役のサラリーマンの諸兄諸姉に、猛暑の続く日々はなおのこと過酷だと、
私の現役時代を重ねたりしている。


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扇子(せんす)と団扇(うちわ)、この夏も愛用し・・。

2010-07-22 18:03:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過日、梅雨明けの後、連日の猛暑で、暑さに苦手な私は、
買物や散策する時に扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、
大通りの歩道や遊歩道を歩いたりしている・・。

帰宅後、洗面所で顔を洗った後、
居間のエアコンの冷風の下で、着替えて、冷茶を飲みながら、
団扇(うちわ)を取り出して、冷房の中、扇(あお)ぐ時も多い。

私の現役時代の時、退社後に駅で電車を待っている時、
プラットホームは暑いので、扇子を取り出し、扇(あお)いだりしていた・・。

以前、会社の業務に知り合った英国の方が帰国する際、
私は彼に、奥様にと扇子をプレゼントしたことがあった。

雪花染めといって、こうぞ紙を一枚一枚に手染めで仕上げた
若草色した華やかさがあり、
雪の結晶のような模様をした扇子であった。

2週間後、この奥様より、丁重な礼状が着いた。
今では私の大切な宝物になっている。


たまたま私が愛用している団扇(うちわ)は、
昨年の2009年の『祇園祭』を観に行った時に、
ひととき貴船の川床料理を頂き、料亭を辞する時、
仲居さんが微笑みながら手渡して下さった団扇(うちわ)である。

もうひとつは、ご近所の寿司屋さんから、
我が家に配達で来宅した時、お得意様にと頂いた団扇(うちわ)である。

この二本の団扇(うちわ)をその時の心情に応じて、
使い分けている。

ときおり、私は60年前の幼年期に、
祖父、父たちが畳の上で団扇(うちわ)を扇(あお)ぎ、
家族団らんのひとときを過したのであったが、
この時の情景を思い馳せたりしている。



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ふたたび、私の『心のふるさと』は・・。

2010-07-22 13:29:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過ぎた日々の半生を振り返えり、私の心の源泉は、
と問い続けたりすることがある。

そして、どなたも同様と思われるが、
やはり私は幼年期、少年期にときおり思い寄せたりしている・・。

幼年期、少年期に関しては、
このブログの【年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~】に於いて、
カテゴリー『幼年・少年期の想いで』と称して、
66編ばかり残している。


私は1944(昭和19)年9月に、
今住んでいる北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)近くの実家で生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊として乳児の時を過ごした・・。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らない身ひとりでもある。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

敗戦後、まもなくして農地改革で田畑は減少したが、
幼児の私には、それなりの田畑、湧き水、小川、蓮(ハス)専用の田んぼ、
池、防空壕などの数多くの情景が、
今でも鮮明に残っている・・。


長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは3番目は女の子を期待していたらしく、
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
いじけた可愛げのない幼年期を過ごした。

そして、祖父と父は大学に学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

長兄は当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
初めて国立の中学校に入学できて、
周囲の期待に応(こた)えたのである。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。


このした中で、私は小学校に入学しても、
通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等性であった。
父が小学2年3学期、祖父がまもなくした小学3年の一学期に死去し、
大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

私はお兄さんは出来たのに、と担任の先生のため息もさることながら、
相変わらずの劣等性でいじけた影の子であった・・。


後年、都心の私立の高校に通った頃から、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに純粋に伸び伸びとして育ち、
文学、歴史などに深く興味を持つ普通の子となったのである。

この後、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした後、
何とか大企業の中途入社でき、
まもなくこの中の音楽部門のひとつの大きなレーベルが独立会社として新設され、
私も移籍させられてレコード会社に35年ばかりサラリーマンとして勤め、
定年退職を迎えたのである。


私は20代のなかばの頃まで、
地元を振りかえることをなるべく避けていた・・。

中学生の頃までに、田畑、竹林、雑木林が急激に住宅街への変貌する情景に、
心身の波長が耐え切れなかった面があったが、
何よりも劣等性だった小・中学時代を思い出すのも、
負い目もあり、つらく、ふるさとなんかは、と愛憎を重ねたりしていた。

30代のなかば、実家の近くに家を構えた時、
家内を誘い、周辺を散策するたびに、小・中学校に通った路とか、
かっての幼年期、少年期の情景を語ったりした。

そして定年退職後、私は方書きの名刺をなくなったので、
やむえず、調布の里っ子、と明記した名刺を財布に入れて、
友人らに恥ずかしげに手渡しをしたりしていた。

このように若き頃に劣等感が多く、独断と偏見もあり、屈折した心持ちもあり、
つたない半生だったので、せめて残された人生は、
念願の清貧の数寄者をめざし、日々投稿文を綴り自己鍛錬をしている。


尚、ここ30数年に於いて、
心のふるさと・・しばしば各界で使われているが、
この言葉を最初に使われたのは、私のつたない読書歴のメモに記載している。

旅行雑誌の『旅』の編集長をしていた紀行作家・岡田喜秋が、
作家・立原正秋に紀行文の連載を依頼した時、
『心のふるさとをゆく』とタイトルを命名されたのである。
1968(昭和43)年の新年号から1年間連載されていた。

私は紀行文をそれなりに乱読してきたが、
今は亡き立原正秋・著の『心のふるさとをゆく』には、
私なりの自己形成のひとつの基幹となしたことを付記する。



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八代亜紀さんの『雨の慕情』を心の中で唄い、雨乞いし・・!?

2010-07-22 09:05:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の身であるが、
過日の17日に梅雨明けの後、連日の猛暑となり、すっかり雨から遠のいている。
18日は31度、19日は33度、一昨日の20日は34度、昨日の21日は36度となり、
本日も34度前後が予測され、炎天下の快晴に恵まれすぎて、
暑さに苦手な私は、先程も戸惑いながら空を見つめたりしている。

このような思いでいると、天上の気候の神々に雨乞(あまご)いをしたくなり、
私は思わず、

♪心の中が忘れた あのひとも
 膝の重さを 覚えてる

【『雨の慕情』 作詞・阿久悠、作曲・浜圭介、編曲・竜崎孝路、唄・八代亜紀 】

心の中で唄いだした。

私は苦手な八代亜紀さんであるが、
亡き作詞家の阿久悠さんには敬愛している身なので、
私なりに唄った・・。


♪雨雨ふれふれ もっとふれ
 私のいいひと つれて来い

【『雨の慕情』 作詞・阿久悠、作曲・浜圭介、編曲・竜崎孝路、唄・八代亜紀 】


もとより私は齢を重ね声も衰えた身であり、
とても八代亜紀さんのように巧く唄えないが、
せめて天上の気候の神々に祈願するように心の中で唄ったりした。

この後、主(あるじ)の私は音痴なのせいか、少し心配をしたりしている。

そして、私はこの歌のように、
情愛を深めたいいひとに、それほどめぐり逢えなかったことを気付き、
私としては雨乞うの歌には相応しくない、
と思ったし、駄目かしらと少しばかり反省したりした。


この後、私は水を大切にしましょうと叫ばれている今日、
ご近所の方から、非国民と非難されないように、
こっそりと夏の草花だけに水を散水したのである。

私は住む街は、真夏日が続き、
すっかり雨から嫌われ、どうしてなの、
と今朝も天上の気候の神々に問いかけている。


http://www.youtube.com/watch?v=4pPDPSPAL-M&feature=related
☆【『雨の慕情』 作詞・阿久悠、作曲・浜圭介、編曲・竜崎孝路、唄・八代亜紀 】☆


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夢の中の『ぶなの森』は・・。

2010-07-21 16:45:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過日、梅雨明けの後、連日の猛暑で、暑さに苦手な私は、
買物の後の散策も短かなコースとなっている。

その後、午後のひととき居間のはずれで簡易ベットに横たわりながら、
エアコンの冷風を受けながら、本を読んだりして、
少し昼寝をすることが多い。

先程、昼寝を一時間半ばかりし、ぼんやりと顔を洗った後、
テラスのはずれの樹陰で、煙草を喫ったりし、
先程の昼寝でみた夢を思いだしながら、微苦笑した。


私が独りでブナの森の中の歩道を歩き、
3時間ぐらいの徒歩コースであったが出口が見つからず、
木のベンチに腰かけて、どうしてなの、困り果てた。
その後、亡き祖父が私の前に現れて、
いつまでも子供じゃ、と云いながら、出口の方に私を導いてくれた。
私は呆然としながら、祖父の後について云ったが、
私の小学時代に亡くなった祖父が、どうして・・、と思いながら歩いた。


このような夢であったが、不思議な夢であり、
ブナの森かょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
私はぼんやりと過ぎ去った日々を思い返したりした。

そして、私達夫婦の結婚して35年目となり、
記念旅行と称して北東北地方の青森県の一部を周遊した。
この旅の終りの頃に十和田湖の奥まった『蔦温泉』に連泊した時、
周辺の『ぶなの森』の鮮烈な思いが残り、こうしたことが飛躍して、
現実ではありえない夢となった、と微苦笑させられた・・。


この記念旅行と称した周遊旅行に関しては、
【若葉の彩(いろど)る頃の青森紀行・・。【2010.5.24.~6.2.】】
と題し、10話に及びこのサイトに投稿しているが、この中の一部を再掲載する。

【・・
       第8章 ブナ林に囲まれた『蔦(つた)温泉』は・・。

5月31日の10時過ぎに『酸ヶ湯』からは、十和田湖方面の路線バスに乗車し、
芽吹き、新緑、そして若葉がそれぞれの落葉樹により異なるが、
みずみずしいたわわな葉は陽射しを受けてきらめいたりする中、
バスでわずか30分足らずで、『蔦温泉』に到着した。

この広いブナを中心とした中で、たった一軒の宿である。

http://www.thuta.co.jp/index_p.cgi
☆『蔦温泉旅館』ホームページ☆

このホームページの『ぶなの森』の欄で掲載されている通り、
《・・
蔦温泉の周辺にはぶなの森を縫うように約2.4Km、
時間にして約一時間程の遊歩道が整備されています。

この遊歩道をひとまわりすると、蔦七沼と称される湖沼群の内、六つの沼を巡るこ
とができます。
大小様々な沼の水面に映るぶなの森が人々を魅了します。
・・》
このように解説され、私達は旅立つ前に調べたりしていたので、
チエック・イン前に歩き出した・・。

整備された遊歩道を歩き、ヤチダモ、オニグルミ、サワグルミを見たり、
ブナ、ミズナラの大木は、聳え立つように数多くあり、
私は圧倒された。

私は見惚(みと)れたり、デジカメで10数枚を撮ったりしていると、
たまたま通りがけの70代なかばの男性で、この付近にお住まいの方から、教えて頂いた・・。

ほんの一ヶ月前の頃は、落葉していた広葉樹が冬芽から春芽に育ち、
若葉が芽吹く直前に、
紅葉や萌黄色になる数週間の樹木の芽は鮮やかに萌える彩りとなる。
こうした光景を古来の人たちから、春もみじ、と称してきた。

この地のブナ林は、5月初めに芽吹き、そして萌黄色の葉、そして新緑となり、
下旬の頃には若葉とまたたくまに色合い染める。

このブナ林は、原生林だったが、
明治の初期の頃は薪や木炭を作る為に伐採されたりしたが、
秋に数多くの落ちた種子が自然に発芽して育ったブナで、樹齢100年前後が多い。
しかし中には、伐採されなかった数百年の大木も数多くある。

そして紅葉の10月中旬から下旬になれば、
ブナ、カツラ、トチノキの大木は、黄色に染めはじめて、
やがて葉が散る頃に、
ヤマモミジ、カエデ、ナナカマドが朱紅色、紅色に染められて、
数週間後には雪が舞い降る、
と錦繍期の情景も教示してくれた。

このような確かな言葉に、私は礼を重ねた後、別れた。


私達はブナ、トチノキ、カツラなど見たり、見上げたりしていると、
カエルの鳴き声と共に、蝉(セミ)の鳴き声が響いてきたので、
この時期にどうしてなの、と驚いたのである。
この後、温泉旅館で夕食を頂く前に、
エゾハルゼミですわ、と仲居さんから教えられた。
私は、蝦夷・・春・・蝉・・、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この豊かなブナ林で、渓流もあり、
私はムラサキ・ヤシオ・ツツジにも魅了された。
紫色に濃い桃色、或いは桃色に紫色を混ぜ合わせた色合いで、
渓流の中にある小岩に根を下ろして、恥ずかしげに咲いていた。
こうした情景を眺め、しばらく私はたたずんだりした。

私達はゆったりとブナ林をさまように2時間ばかり歩き、
お互いに至福の思いで、温泉旅館に向った。
・・】

このように投稿しているが、夢幻と現(うつつ)の違いに、
私は独り苦笑している。


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『玉すだれ』の白い花が咲きはじめ・・。

2010-07-21 12:05:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の身であるが、
過日、梅雨明けの後、連日の猛暑となり、本日の昼下がりは36度前後が予報されている。

昨夕、玄関の軒下で煙草を喫いながら樹木を眺めていた時、
足元の近くで、玉すだれが咲きはじめていたので、驚いたりしている。

白く清楚な花は、この時節から咲きはじめ初秋の頃まで彩(いろど)ってくれるので、
私はこの時節の楽しみのひとつである。

http://takamiya.com/garden/plant/tamasudare.html
☆『妖精が棲まう庭』のサイトから、借用させて頂きました。☆


この玉すだれ、唐糸草(カライトソウ)、秋海棠(シュウカイドウ)、半化粧(ハンゲショウ)などの草花は、
我が家を建てて、まもない時に、家内の茶事の師から頂いた・・。
あれから30数年は過ぎ、小庭のそれぞれ群生させている。

あと数週間過ぎた頃になれば、
玉すだれの群生さぜた処は、五箇所あるが、
夕暮れ時から、夜にかけて、白い花が浮いているようで、
ほのかな妖艶を感じたりしている。

日中は清楚さを、夕暮れ時からは妖艶と、
私なりの秘かな女性のしくざを感じたりして、ここ30数年過ぎている。


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我が家は、『毘』の戦旗の小旗が揺れ・・。

2010-07-21 10:28:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
居間の簾(すだれ)越しに、庭を眺めたりしているが、
燦燦と夏の陽射しを樹木や草花を照らしている。


私は居間の一角にパソコンを置いた机に向かっているが、
この机の隅に、この小旗を立てかけたのである。

紺色に染められた生地に白く『毘』と明字され、
エアコンの冷風を受けて、小さいながら一人前に揺れながら、
はためいているのである。

この戦旗は、一昨年の2008(平成20)年の夏、
私達夫婦は家内の母を誘い、佐渡島の秋津温泉に3泊4日で滞在した旅行の時に、
買い求めた小品であった。

佐渡島へ行く途中、直江津港のフェリーに乗船する前、
上越市の外れにある『上杉戦国物語展』の会場に入場した。

私は戦国時代の名将のひとり上杉謙信には、
余り知らないが、展示品を早めに観た後、
会場の外側にある喫煙場で煙草を喫ったりしていた。

会場の門前の周辺にし、上杉謙信の戦旗を模した数多く軍旗が、
風を受けてはためいていた・・。

家内たちは、展示会場にいるらしく、
私は売店の近くの椅子に座って、待機していた。

売店の背面に、戦旗が、
紺色に染められた生地に白く『毘』と明字され、
或いは白生地で朱色で鮮やかに『毘』と書かれた旗もあった。

いずれも白いプラスチックの旗軸は180センチの高さであり、
旗本体は120センチの長さ、横幅は30センチ前後である。


私は家内たちを待っている暇があったので、
売店の50代の男性に、
『立派な戦旗ですね・・』
と私は声をかけた。

『お誉め頂き・・有難う御座います・・よろしかったら、1500円で・・』
と男性は、私に微笑みながら云った。

『私は・・新潟の上越出身であったら・・
2本買い求め・・自宅の門扉に差して置きますが・・
残念ながら、東京の田舎者でして・・』
と私も微笑みながら、男性に云った。

『私の場合は・・部屋の暖簾(のれん)にしていますよ・・』
と男性は私に云った。

『地元のお方でしたら・・それも素敵ですね・・』
と私は男性に云った。

この後、売店のショー・ケースの上に、
旗軸は30センチの高さの可愛らしい小旗が3本ばかりあったのに、
気付いたのである。

『この小旗だったら・・部屋でも飾れそう・・』
と私は云いながら、たった1本を買い求めたのである。


このように我が家の居間で、小さいながら一人前に揺れながら、
エアコンの冷風を受けて、はためいているのである。

たった650円の品であるが、
時折こうした戯(たわむ)れを私はするのが、悪い癖のひとつである。

この『毘』の由来は、
戦国武将の上杉謙信公が信愛していた、毘沙門天から命字されたいる。

http://uesugi.yonezawa.info/?p=log&l=68359

この小旗が夏から秋にかけてはためいた後、
翌年の2009(平成21)年の初めから、なぜかしらNHKの大型連続ドラマの『天地人』が放映され、
ときおり観る『毘』の戦旗に私は微苦笑を重ねたりした。


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簾(すだれ)越しに、夏の季節を過ごせば・・。

2010-07-20 23:34:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の身であるが、
過日、梅雨明けとなった後、急激に連日猛暑となり、私は戸惑っている。

私は暑さが苦手の身であるが、殆ど毎日、スーパーに買物に行ったり、
散策をしたりしているが、
ときおり庭の手入れし、国内旅行を除き、大半は家の中で過ごすことが多い。


我が家は子供も恵まれず、たった家内と2人で、
古びた一軒屋に住んでいるが、毎年、梅雨の晴れ間から秋の彼岸の頃まで、
簾(すだれ)で夏の陽射しをさえぎったりしている。

簾を各部屋に掛け、家内の指導の下で、私は助手となっているが、
のろまな私は役立たずで、家内が殆どしているのが実態である。

洋間の場合は、雨戸、網戸、ガラス戸となっているが、
この季節はカーテンを外して簾とする。
そして和室も同様に、雨戸、網戸、障子であるが、簾をつけたりしている。

朝涼(あさすず)が残る朝の9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾にして、庭越しの風を通したりしている。

私は居間で机の上に置いているパソコンに向かったり、
ソファーに座り庭を眺めたりする時、ほのかな暗さがあり、
樹木、草花が涼しげに見えるのである。

先程、朝の庭を眺めていた時、ひとつの句が甦(よみがえ)ってきた・・。

    世の中を 美しと見し 簾かな

                 詠み人・上野 泰


この句は、長谷川櫂氏に導かれて知ったひとつである。

氏の解説に寄れば、下記のように綴られている。

《・・
陽はさえぎるが風を通す簾は、蒸し暑い日本の夏には重宝なもの。
王朝の昔、高貴な女性の中には、そのかげで一生を送る人もいた。
簾を透(とお)すと何もかも涼しげに見える。
古き世も人も過ぎ去り、今は簾だけが風に揺れている。
・・》

詠(よ)まれた俳人は、大正7年に生を受け、
昭和48年に亡くなわれた人であるが、
私は昭和のよき情感をとおして、
遥か彼方の古人の人たちへの愛惜を感じたりしている。

私は庭の樹木、初夏の草花を眺めながら、
とりとめなく千年前の女人のしぐさに思いを馳(は)せたりしている。

このような夢想の後は、ガラス戸、障子などを閉めて、
エアコンの冷風で涼しげな居間としたりしている。


私の現役時代は、数多くのサラリーマンと同様に、
多忙な歳月を過ごしてきたので、退職後の年金生活で初めて、
陽のうつろいと共に簾(すだれ)越しに、夏の季節を過ごし、
早や6年の夏を迎えている。


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