夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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日本史上、最初で最大の文化事件、79歳の私は、多々教示されて・・。

2024-04-14 12:04:59 | 喜寿の頃からの思い

先程、ヤフージャパンより配信されている記事を見ている中で、
『  「日本の文明」に圧倒的な衝撃を与えた「3つ目の黒船」の・・・
        史上「最初で最大」の文明的事件    』、
題された見出しを見たりした。

☆史上最初で最大の文明的事件

☆中国語学習ムーブメント

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


今回、松岡正剛さんの著作『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)より、
日本史上、最初で最大の文化事件を学び、79歳の私は、多々教示されたりした・・。

何よりも教示されたことは、《・・日本人が最初に漢字と遭遇したのは、
筑前国(現在の福岡県北西部)の志賀島から出土した、あの「漢委奴国王」という金印であり、
銅鏡に刻印された呪文のような漢字群でした。  

これを初めて見た日本人(倭人)たちは、それが何を意味しているかなど、
まったくわからなかったにちがいありません。

しかし中国は、当時のグローバルスタンダードの機軸国であったので
(このグローバルスタンダードを「華夷秩序」といいます)、
日本人は、すなおにこの未知のプロトコルを採り入れることを決めた。  

ところが、最初こそ漢文のままに漢字を認識し、学習していったのですが、
途中から変わってきた。

日本人は、その当時ですでに1万~2万種類もあった漢字を、
中国のもともとの発音に倣って、読むだけではなく、
縄文時代からずっと喋っていた自分たちのオラル・コミュニケーションの発話性に合わせて、
それをかぶせるように読み下してしまったのです。  

中国語をそのまま使っていくのではなく、
漢字を日本語に合わせて使ったり、日本語的な漢文をつくりだしたりした。
まさに文明的な転換がおこったのです。 ・・》



こうした普及した前提の要素としては、
《・・漢字の束を最初に日本(倭国)に持ってきたのは、百済からの使者たちでした。  
応神天皇の時代だから、4世紀末か5世紀初頭でしょう。

阿直岐が、数冊の経典を持ってきた。
当時の日本は、百済と同盟関係になるほどに親交を深めていました。  

阿直岐の来朝からまもなく、天皇の皇子だった菟道稚郎子が、
この漢字に関心をもち、阿直岐を師と仰いで、読み書きを習いはじめました。

これを見た応神天皇が、宮廷で交わしている言葉を、
文字であらわすことに、重大な将来的意義があると感じて・・》

これ以降、盛んに百済より使者と共に書物が到来・・・
こうした具体的な歴史の流れを私は初めて学んだりした・・。

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