夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『朝・・有ったのに・・どうして・・ないの・・!?』

2008-02-02 15:06:00 | 定年後の思い
我家の艇惜は、朝、?E⇒爾板?E?E悗里茲Δ法?br>小鳥が飛来してく?E?br>
私は雀(スズ?Eは判?E♤¬槐?Eメジ?E、四十雀(シジュウカ?E、ヒヨドリが来てい?E蕕靴∮?br>ときお?E汎發剖気┐凸磴辰討い?E♤召阿頬困?E討靴泙Δ里任△?E?br>
今の時節、餌(えさ)不足のせいか、
白梅、紫木蓮(シモク?E?Eの莟(つぼみ)を?Eつい)ばんで、
?E鯒和臠梢④戮蕕?E屬蕕④呂犬瓩榛△蓮?br>おかしな花模様となっていた。

私は半分ぐらいは止む得ないと思ってい?E♤?br>『全部は食べないで・・』
と飛来のたびに、懇願してい?E?br>
今年から家内も対策として、付近のモミジなど樹木に、
ミカンを輪切りしたのを毎?E泙弔个㎠蝓⊂翩廚併淦茲房佑靴討い?E?br>
こうして朝に飛来し、既績の声を挙げながら?E个漾?br>?E宛紊砲癲▲瓮献隼廚?E?E?E擦?E个鵑任い燭♤?br>ミカンは地上に李脆したりしてい?E?br>
その後、遅?E討④疹擦蓮▲皀潺犬了泙㎠藥泙飽椶辰晋紂?br>『朝あったのに・・どうして・・ないの・・』
といったように小首をかしげていた。

偶然に私達は見ていたが、
家内も微笑み、私は笑ってしまった。


塀の近くに白玉椿(シラタマ・ツバキ)の純白な花が咲き初めてい?E♤?br>この花の密を吸おうと小鳥が柔らかな枝に
止まっていた。

枝葉は微かに揺?E董⊂擦呂擦辰㎠量④㎠蚓イ?E泙い函?br>しがみついて身体を反転していた。

私はこの純白で気品のあ?E魘鳴悗蓮?br>こよなく好きであ?E♤∋澆狷世覆い犯?E个靴燭蠅靴討い?E?br>

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初めて『都電』に乗った想いで・・♪

2008-02-02 12:07:00 | 定年後の思い
若い世代の人には、都電と綴ってもお解りにならないと思うが、
東京の都心で昭和30年代は路面電車が隈(くま)なく走っていた・・。


私が小学6年の昭和32年の時、
次兄から有楽町で洋画のロードショーを観に行こう、と誘われた。

私は最寄駅から新宿のデパートなどは行ったことがあったが、
乗り物に酔いやすい少年であった。

新宿まで京王線で30分前後で到着したが、
何となく気分が悪かったのである。

新宿より数寄屋橋まで都電を利用する為に乗車した。
電車賃は終点の築地まで乗っても、確か13円と記憶している。

都電は一両編成で、大通りを走ったが、
自動車も両脇に走って折、繁華街、ビル街が車窓から観え、
その上、都電は揺れるので、気分が悪くなった。

私は次兄に、
『まだ・・遠いいの・・』
と私は云った。

『もうちょっと・・我慢・・13円だから・・』
と次兄は云った。

一区間が13円で降りたら、もう1度支払う必要があると、
次兄から乗車前に聴いていた。

私は皇居のお堀が観えた頃、
『もう無理だから・・降りよう・・』
と私は次兄に懇願した。

結果として、目指した数寄屋橋のひとつ手前の日比谷で降りた。

私は青白い顔で次兄に謝(あやま)り、
とぼとぼとお堀端を歩き、数寄屋橋の映画館に到着した。

映画は『朝な夕なに』であったが、
綺麗な白人女性の教師とトランペットを吹く生徒が心に残った。

後年になると、私としては洋画の初めてのロードショーであり、
綺麗な女性はルート・ロイベリックで、
映画の主題歌は『真夜中のブルース』が流行した、
と判明した。


私は都電を観るたびに、苦手意識を持っていたが、
その後、高校の新宿から中野までの通学は都電を利用し、
この区間の沿線に美術短期大学、女子高校等が三校あり、
車内で数多くの綺麗なお姉さんに気を取られ、
乗り物酔いなどは忘れ去ってしまった。

私が卒業する頃は、この区間の都電は廃線となり、
地下鉄に変貌した。

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私が初めて文章を綴ったのは・・♪

2008-02-02 08:52:00 | 定年後の思い
私は昭和19年に、東京の郊外の農家の三男坊と生を受けた。

初めて文字を書いたのは、小学校に入学したからだった・・。
この頃は、私の住む村では幼稚園が出来たのは、私が小学校3年頃だったと思う。

私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。

小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。

そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、今の時代で云うと粗雑な藁半紙で書かされたのである。

この頃に家にある本と云えば、
農協の発刊する『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
書棚に本が並んでいたを見たときは、
子供心でも眩暈(めまい)を感じたのである。

夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。

私が都心にある高校に入学してから、
突然に読書に目覚めて、高校二年の夏に小説の真似事の原稿用紙に習作をした。

東京オリンピックの直前に、私は大学を中退し、
映画青年、文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

確固たる根拠もなく、シナリオとか小説の習作していたが、
お彼岸に親戚の小父さんから、
『30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は自身のつたない才能に自信を失くした。

この後、大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年通った後、サラリーマンの一員となった。



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