備忘録として

タイトルのまま

阿弥陀堂だより

2009-07-15 23:16:52 | 映画

録画していた「阿弥陀堂だより」を観終わると、偶然テレビで昨年7月にガンで亡くなったニュートリノ物理学者の戸塚洋二の最後の日々が紹介されていた。戸塚洋二の恩師は2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊博士である。阿弥陀堂だよりの淡々とした田村高広の最後にくらべ戸塚洋二の最後の日々は強烈だった。この印象の差は、最後を迎える人の個人差によるものと思う反面、現実はフィクションより重いという感覚によるものとも言える。

末期ガンの田村高広は死を諦観している。妻の香川京子が満州を引き揚げる時に一人娘(息子?)を亡くしたことを、後にシベリアから帰還した田村が聞いたとき”天命”ということばを返した。田村は同じ心持で最期を迎えたように描かれていた。

戸塚洋二は自身のブログの読者でステージ4大腸がん患者であるAさんの”最後の時間をどのように過ごせばいいのか”という質問に次のように答えている。
”見る、読む、聞く、書くに今までよりももう少し注意を注ぐ、見るときはちょっと凝視する、読むときは少し遅く読む、聞くときはもう少し注意を向ける、書くときはよい文章になるように、と言う意味です。これで案外時間がつぶれ、「恐れ」を排除することができます。この習慣ができると、時間を過ごすことにかなり充実感を覚えることができます。”

別の日には、どこかのブログから探してきた正岡子規の『病牀六尺』の次の言葉を紹介している。
”悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた。”
続けて、”更なるコメントは必要ないと思います。”と戸塚は書いている。

更なるコメントを推し量ってみると、
”如何なる場合”とは、子規の場合は”激痛”のことであり、悟りとは激痛の中でも平気で生きる事である。悟りが達成し難いものだとすれば、子規は激痛を平気ではいられないと吐露していることになる。戸塚の痛みも激しいものであったと思われる。
映画は、田村の死が淡々と語られたので、このような生身の叫びが聞き取れなかった。

”阿弥陀堂だより”2002、監督:小泉堯史 出演:寺尾聡、樋口可南子、田村高広、香川京子、北林谷栄、吉岡秀隆、小西真奈美 都会で疲れた樋口は、信州の自然や人々に癒されていく。田村の死に様と同様、映画は淡々としていて、クライマックスのない平坦なつくりだった。それはそれで癒される映画になっていて嫌いではない。小泉堯史の前作「雨あがる」も同様に若干盛り上がりに欠けた。阿弥陀堂では寺尾が妻を労り、「雨あがる」では逆に寺尾の妻の宮崎美子が優しく夫を見守っていた。監督は映像美や観念美にこだわった黒澤明の晩年の作品の後継者ということか。最盛期の黒澤明ファンとしては物足りなかったので ★★★☆☆



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