備忘録として

タイトルのまま

バウンティ号の反乱

2013-10-06 17:38:09 | 

 旧知のアメリカ人Dr. Sは最近仕事で南太平洋のピトケアン島(Pitcairn Island)に行った。ピトケアン島はバウンティ号の反乱者が隠れ住んだ島として有名である。1789年、イギリス海軍のバウンティ号で反乱を起こした12人のうち8人がタヒチの島民を連れて当時無人島だったピトケアン島に移り住み自給自足の生活をはじめた。島では反乱者であるイギリス人とタヒチ人の混血の子孫たちが今も住んでいる。Dr. Sは反乱の首謀者フレッチャー・クリスチャンの子孫であるMr. Christianに会い話をしたという。古い英語を話したそうだ。Dr. Sはピトケアン島に防波堤を作る仕事で行ったのだが、反乱について書かれた本にあるとおり、島には船が寄港できるような入江はなく断崖に囲まれていたという。先週、彼は防波堤の材料にすると言って島で採取した玄武岩を持ってシンガポールの事務所を訪ねてきた。ピトケアン島は上の地図にあるように、タヒチから西南に2000㎞、さらに2000㎞のところにモアイ像のイースター島がある。タヒチはニュージーランドから4000㎞、ハワイから4000㎞である。

「バウンティ号の反乱」の話は冒険小説に熱中していた頃、「十五少年漂流記」、「神秘の島」や「白鯨」などと共に読んだ。何度も制作された映画は観ていない。一応、反乱の顛末を簡単に書いておく。

艦長ウィリアム・ブライの指揮するバウンティ号は、1787年12月にイギリスのポーツマスを出港し、喜望峰を回って1788年10月にタヒチに到着した。1789年4月までタヒチに滞在しパンノキなどの植物を採集し西インド諸島に向けて出航した。タヒチを出港してまもなく、トンガ付近で航海士フレッチャー・クリスチャンら12人が反乱を起こした。艦長と忠実な船員18人をボートに乗せて追放し、反乱者12人と他の乗員はタヒチに引き返した。反乱者のうち4人と反乱には加わらなかった乗員8人はタヒチに残ったが、クリスチャンら反乱者8人はタヒチ人の男女18人を連れてバウンティ号に乗りタヒチを離れ、隠れ住むに適したピトケアン島を東南海上に探しあてた。クリスチャンらはバウンティ号を解体し島で自給自足の生活を始めた。

ブライ艦長を乗せたボートは、47日間の漂流ののちティムールに漂着し、ブライ艦長は1790年3月にイギリスに戻り反乱を報告した。イギリス海軍は反乱者逮捕のため戦艦パンドラ号を派遣し、1791年3月にタヒチで反乱者を逮捕する。しかし、周辺海域の探索ではクリスチャンらを探し当てることはできなかった。逮捕された反乱者はイギリスへ送られ裁判の上3人が絞首刑に処せられた。

その後の話として、ピトケアン島では内紛やタヒチ人との確執などにより反乱者はほとんど亡くなり、1808年1月にアメリカ船が島に行ったときには水夫のジョン・アダムズだけが生き残り、クリスチャンの息子ら反乱者の子孫たち40名ほどが生活をしていた。1838年にピトケアン島はイギリス領となり現在まで続いている。ブライ艦長は、後オーストラリア・ニューサウスウェールズの総督になるがそこでも反乱(ラム酒の反乱)が発生する。

ピトケアン島では1832年に来たアメリカ人ジョシュア・ヒルが島を独裁支配した。1879年マーク・トウェインはジョシュア・ヒルを題材にした小説「The Great Revolution in Pitcairn=ピトケアンの大革命」を書いている。19世紀中頃には人口増加を解消するため住民の一部をノーフォーク島(オーストラリア領、オーストラリアの東、ニューカレドニアの南)に移住させている。2004年ピトケアン島での女児に対する性的虐待がイギリスの女性警官により報告され大きな話題になった。

反乱の原因は、反乱者がタヒチでの享楽的な生活に慣れ艦上生活に耐えられなくなったために起こったか、ブライ艦長の部下の扱いが過酷だったかのどちらかが有力である。1879年ジュール・ヴェルヌはバウンティ号を追放されボートでの漂流47日ののちティムールに到着したブライ艦長一行の話を短編「Les révoltés de la Bounty=バウンティ号の反乱」(上の絵はこの小説の挿絵)に書いているが、ブライ艦長は一人の死者も出さずに漂流を指揮したように、指揮官としての能力に疑いはないと言われる。また、部下の扱いも当時の他の士官や艦長と比べ特に過酷だったとか性格に問題があったということもなかったらしい。しかし、何度も制作された映画の多くは、ブライ艦長の部下の扱いに問題があったように描かれているという。


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