備忘録として

タイトルのまま

愛宕山

2011-05-22 22:21:32 | 江戸

 上の写真は幕末の江戸・愛宕山の石段である。下は昨日行って撮ってきた港区愛宕神社である。逆光で石段が鮮明じゃなかったので色と明るさを加工した。神社の正面が男坂で右に登る石段が女坂といい湯島天神にもあった。

 

 愛宕山は標高26mと低いが、江戸時代には360°江戸市中が見渡せた。上はスフィンクスの侍の記念写真で有名なベアトが1864年ごろ愛宕山から東方を撮ったものである。上の写真の左下は真福寺で山門がある。そこから右手に伸びる大名屋敷の文字通りの長屋をはじめ家屋が所狭しと建っていて、江戸は相当な都会だったことがわかる。下の写真の左奥には本では築地本願寺の大屋根も見えているのだが、写真を縮小しすぎたのでこの写真では見えない。今回、愛宕山から東京湾や皇居などベアトの写真までとはいかなくとも何がしか遠くの景色が見られると期待して行ったのだが、今の愛宕山周辺には愛宕山より高いマンションやビルが林立していて何も見えなかった。ビルの合間から先日の地震でアンテナの先が曲がった東京タワーが見えただけだった。当時を偲ばせるのは石段だけである。Google Earthで、立体視して遊ぶと愛宕山から北には皇居、西には武蔵野台地、東には東京湾が見える。ところが、”建物の3D表示”をONにした途端、目線より高いビルで視界が覆い尽くされ何も見えなくなる。Google Earthの衛星写真がもっと精密だったら、バーチャルで江戸時代の愛宕山からの眺望と比較できる。と喜んだ自分に腹が立つ。日本橋の上の首都高を消したり、亀戸天神の背景のマンションを消すという空虚な遊びにすぎない。汚染ということばは、海洋、地下水、土壌、大気だけに付けられるものではなく、景観汚染という言葉もあるのだと思った。

 幕末の写真は、神田の古本屋で買った「甦る幕末-ライデン大学写真コレクションより」という写真集からスキャンした。ライデン大学にはシーボルトが持ち帰った資料があり、植物園にはシーボルトの日本人妻の名を付けたアジサイの”オタクサ”が植えられている。

 石段の上は愛宕神社で、鯉の泳ぐ池があり三角点もあった。86段の石段は急傾斜で降りるのが怖いくらいだった。江戸時代にはこの階段を馬で駆け上った武士がいたらしい。

 上の浮世絵は広重の名所江戸百景「芝愛宕山」で、柱の札に”正月三日毘沙の使”と書いてある。、右手に大きな柄杓と左手に棍棒のようなものを持ち兜をかぶり裃で正装した使いらしき男が石段を登っている。ネットサーフィンすると、江戸名所図絵「愛宕山円福寺毘沙門の使ひ」(http://shangshang-typhoon.blog.ocn.ne.jp/photos/edo_1/0070rg.html)という図絵に次の文句が書かれていた。浮世絵は記載(赤字)の装束そのままで、影に2名の随員もみえる。”男坂を下る”とあり、男坂を上るとは書いてないので、女坂を上って男坂を下ったのかもしれない。

愛宕山円福寺毘沙門の使いは、毎歳正月三日に修行す。女坂の上愛宕おやといへる茗肆(みずちゃや)のあるじ、旧例にてこれを勤む。この日寺主を始めと支院よりも出頭して、その次第により座を儲け、強飯(ごうはん)をき饗す。半ばに至る頃、この毘沙門の使ひと称する者、麻上下を着し、長き太刀を佩(は)き、雷槌(すのりき)を差し添え、また大なる飯(いい)がいを杖に突き、初春の飾り物にて兜を造り、これを冠る。相従ふるもの三人ともに本殿より男坂を下り、円福寺に入りてこの席に至り、俎板(まないた)によりて彳(たたず)み、飯がいをもて三度魚板(まないた)をつきならして曰く、「まかり出でたる者は、毘沙門天の御使ひ、院家役者をはじめ寺中の面々、長屋の所化ども、勝手の諸役人に至るまで、新参は九杯、古参は七杯御飲みやれ御のみや。おのみやらんによっては、この杓子をもって御まねき申すが、返答はいかん」といふとき、この一臈(いちろう)たるもの答へて曰く、「吉礼の通りみなたべふずるにて候へ」と愛宕山円福寺毘沙門の使いは、毎歳正月三日に修行す。女坂の上愛宕おやといへる茗肆(みずちゃや)のあるじ、旧例にてこれを勤む。この日寺主を始めと支院よりも出頭して、その次第により座を儲け、強飯(ごうはん)をき饗す。半ばに至る頃、この毘沙門の使ひと称する者、麻上下を着し、長き太刀を佩(は)き、雷槌(すのりき)を差し添え、また大なる飯(いい)がいを杖に突き、初春の飾り物にて兜を造り、これを冠る。相従ふるもの三人ともに本殿より男坂を下り、円福寺に入りてこの席に至り、俎板(まないた)によりて彳(たたず)み、飯がいをもて三度魚板(まないた)をつきならして曰く、
「まかり出でたる者は、毘沙門天の御使ひ、院家役者をはじめ寺中の面々、長屋の所化ども、勝手の諸役人に至るまで、新参は九杯、古参は七杯御飲みやれ御のみや。おのみやらんによっては、この杓子をもって御まねき申すが、返答はいかん」といふとき、この一臈(いちろう)たるもの答へて曰く、
「吉礼の通りみなたべふずるにて候へ」と云々。
「しからば毘沙門の使ひは罷り帰るで御座ある」といひて、本殿へ立ち帰る。

 地図を見ると愛宕山周辺には真福寺をはじめいくつも寺があるが、この円福寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になったという。円福寺廃寺によって寺と神社が関わる毘沙門の正月行事までも消えてしまったのだろう。これは、南方熊楠が神社合祀反対の根拠とした伝統文化の破壊であり、明治の初め廃仏毀釈に対し熊楠のような反対運動は起きなかったのだろうか。


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