備忘録として

タイトルのまま

シュリーマン その2

2009-10-15 22:08:47 | 
前回、梅原猛が「日本人の深層」という本の中で、東北人は想像力にまかせて話すうちに自分の言葉が嘘か本当かわからなくなると評したことを紹介した。シュリーマンには、もっとひどい大ぼら吹きだという評価があるらしい。
英語版Wikiには、批判(Criticism)の項が設けられていて、シュリーマンのトロイ発掘はトロイ戦争でギリシャ軍が破壊したよりもひどい破壊だったとか、プリアモス(トロイの王)の宝は彼の偽造だとか、奴隷商人だったとか、自身の見聞や発見を飾り立てる性癖があったとか記されている。“古代への情熱“に書かれた、あの有名な小さい時にギリシャやトロイの英雄たちの話を父親から聞かされて育ち、トロイ戦争が神話ではなく史実であると信じ、トロイを発掘して幼い頃の夢を果たしたという話も、研究者によって、シュリーマンが残した書簡の分析から、彼はある時期まで考古学にはまったく興味がなかったと結論付けられている。しかし、日本語版Wikiには批判はほとんどない。マルコポーロの英語版Wikiと日本語版Wikiの場合と逆であるのが不思議だ。

シュリーマンの旅行記“シナと日本“の内容を、Paul Keyserという人が「The Composition of “LA CHINA ET LE JAPON” An Introduction to Tendentious Editing」(”シナと日本“の創作、偏向編集の開始)という論文の中で批判している。Google Bookに全文は掲載されていなかったが、著者は、”シナと日本“の出版本と彼の日記(生前には出版されず)のうち、上海を出港してからの10日間の記述を読み比べて、以下のようなfraud(欺瞞)、distortion(歪曲)、exaggeration(誇張)があることを指摘している。

1.Ivogasimaの近くを通過し標高を833mとしているが、2500ftを1m=3ftで割った適当な値である。(この程度の適当は許してもいいのでは?)
2.火山は噴火していると日記には書かれているのみだが、出版本では、溶岩が4km先まで流れ、地鳴りを響かせている。
3.日記と出版本ともにIvogasimaは孤島であると書いてあるのに、近くに九州があると書いてあるので、この火山島は青ヶ島(八丈島の南)の間違い。(これは、後述するように論文の著者が間違っていると思う。)
4.火山を見た同じ日に、彼はトビウオが船に飛び込んできて船員が食べたと出版本に記すが、当日の日記にはそのような記述はない。後日、横浜のレストランで彼はトビウオを食べたと日記にあるので、その話をヒントにした創作だと思われる。
5.6月3日の出版本にシュリーマンは富士山を見たとあるが、日記では6月3日は悪天候で何も見えなかったとある。2週間後に富士山の記述があるのでそれを挿入したのだろう。
6.6月4日の日記に記録された以上の日本の風俗を出版本に付け加えている。例えば、二人のいれずみ男のこと、家の外観と内側、日本の食べ物、習慣、着物、風呂、銭湯、結婚、娼婦のことなど。
7.日記では横浜の道路の一部が舗装されているが、出版本では横浜の道路はすべて舗装されていることになっている。
8.日記では道路脇で2体の死体を見たと記すが、出版本では死体を道で踏みつけたことになっている。
9.6月4日の出版本には、日記にない3つのエピソードが挿入されている。ひとつは、正直な荷役人夫が正当な賃金しか要求しなかったことに驚いたこと、二つ目は疥癬持ちの人夫を取り換えたこと、三つめは役人が賄賂を拒否したことである。
10.日記では吉原のことを詳細に5ページにわたって描写しているのに、出版本では大きな規律ある遊郭に教養のある娼婦がいるとだけ述べられている。著者はシュリーマンが、吉原で一晩かそれ以上Enjoy(原本ママ)したはずだと推測している。
11.出版本では将軍の上洛の行列に出くわすが、日付から祭りの人出だったと推測する。日記で江戸から来た通行人の話として道路脇に3人の死体あったと聞いたのを、出版本では彼自身が死体を見たことになっている。

”古代の情熱”には、日本に来る前にすべての事業を清算し旅に出たと書かれているが、論文の著者は、シュリーマンは漆を取引しようとして日本に来たと書いている。シュリーマンは、その後商売には戻らず日本にきた3年後には考古学の発掘を始めている。
Academicな論文でもない出版物に、読者の興味を引くためのちょっとした誇張があってもいいのではないだろうか。火山の溶岩や地鳴りがなかったとしたら、少しやりすぎのような気もするが、論文の著者の指摘は厳しすぎるように思う。

歪曲や誇張の多いというシュリーマンの言葉を信じて、Ivogasima探しその2をするのは徒労なのだろうか?
上海を5月31日に出て6月3日夜には横浜についているのに誇張はないように、日記には何がしかの真実が記されているはずだ。シュリーマンの記述の真実と嘘を見分ければ、Ivogasimaの謎も解けると思う。論文の著者は、Ivogasimaが八丈島の南の青ヶ島だとしているが、この根拠は示されていない上、上海から日本沿岸を通過して横浜に行くには遠回りしすぎだと思う。当時の上海~横浜の航路図や西洋人による古地図にIvogasimaが見つかれば、Ivogasimaがどの火山島を指すかわかるはずだ。西洋人による古地図などの追加資料がいくつか見つかったので、近々に掲載したい。

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