備忘録として

タイトルのまま

種田山頭火

2008-11-19 20:19:31 | 近代史
梅原猛の“百人一語”を一日一語、便座に座る毎に読んでいる。
やっと半数の50人を過ぎたところだが、次の種田山頭火の俳句が最も心に残った。

“どうしようもない自分が歩いている”

自分自身が後ろ指を指されているように感じて、どきっとさせられた。
これほど簡潔で、客観的に自分を見、的確に自己の内面と漂泊人生を表現した言葉を知らない。
Wikiによる彼の略歴は以下のとおり。
山口県西佐波令村(現・山口県防府市大道)の大地主の出身。11歳の時、母が自殺。旧制山口中学(現山口県立山口高等学校)から早稲田大学文学部に入学するが神経衰弱のため中退。帰省し療養の傍ら家業である造り酒屋を手伝う。1910年(明治43年)結婚し一児をもうける。1911年(明治44年)荻原井泉水の主宰する俳句雑誌『層雲』に寄稿。1913年(大正2年)井泉水の門下となる。1916年には、『層雲』の選者に参加。その後、家業の造り酒屋が父親の放蕩と自身の酒癖のため破産。妻子を連れ熊本市に移住。古本屋を営むがうまくいかず、1920年(大正9年)離婚。妻子を捨てて東京へ出奔。その後、弟と父親は自殺。1923年(大正12年)関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ逃げ帰る。生活苦から自殺未遂をおこしたところを市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に助けられ寺男となる。1924年(大正14年)得度し「耕畝」と名乗る。
1925年(大正15年)寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行う。1932年(昭和7年)郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)に「其中庵」を結庵。1939年(昭和14年)松山市に移住し「一草庵」を結庵。翌年、この庵で生涯を閉じた。享年57。

略歴からは、どうしようもない奴だったかはともかく、どうしようもない業を背負っていたことは事実のようだ。
新山口駅に銅像が立っている。

百人一語で印象に残った言葉は他に、
葛飾北斎
”一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生くるが如くならん”
73歳にしてやっと鳥獣虫魚の心に通じる絵が描けるようになった。80歳、90歳と進歩し、100歳で神品を、110歳にして一点一格が生けるが如き絵を描きたいと言ったらしい。90歳まで生きた北斎は最後まで向上心を持ち続けたことだろう。芸術の深さと北斎の執念を感じる。

与謝野晶子
”親は刃をにぎらせて 人を殺せと教へしや 人を殺して死ねよとて 廿四までを育てしや”
日露戦争に出征する弟を思って詠んだ有名な”君死にたまふことなかれ”の一節である。梅原猛は、”今後また、いつか、誰かがはっきりと「君死にたまふことなかれ」と言わねばならぬ時代が来るような気がする”と不吉なことを言う。

折口信夫 
一語を引用した折口の”死者の書”を買った。大津皇子が殺され、肉体は腐っていくのに、霊は目覚めて言葉を語るのである。死者の書をぱらぱらとめくったが、なんだこれはという印象である。梅原でさえ難解でまだわからないところがあると言うのだから、読むには覚悟が必要だ。

聖徳太子
”便(すなわ)ち財在るものの訴は、石をもて水に投ぐるが如し。乏(とも)しき者の訴は、水をもて石に投ぐるに似たり。”
すなわち、聖徳太子は、金持ちの訴えは100%受け入れられるが、貧乏人の訴えは100%退けられると言う。裁判の公平と法の平等性の重要性を言うのである。さすが聖徳太子である。

最新の画像もっと見る