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極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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吉田松陰と高須久子

2016-03-23 19:01:14 | 日本社会
草莽崛起(そうもうくっき)・・・草莽とは一市民、在野の民衆の意で、崛起は立ち上がれと言う意味です。
志を持った在野の人々こそが変革を担う!
今の権力者達では本当の改革は出来ない、身分を問わない志高い者が立ち上がって新しい時代を築くことが重要と幕府への批判、明治維新の父とも言われる吉田松陰、維新への決起を促した言葉です。

当時の日本は武士が政治、軍事等を担当し、例え高い能力があっても農民等がこれらに関与することはありませんでした。社会のルールであり、これらに触れることは許されずタブーであったようです。

吉田松陰(武士、長州藩士、思想家、教育者。山鹿流兵学師範、一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者)と言うと日本人の生き様、心、至誠(きわめて誠実なこと)、自己犠牲等々を説くと共に、身分に関係なく能力ある人の登用が未来の日本の発展には不可欠と、人材の重要性を説いています。
戦後日本は吉田松陰の教育等はご法度となってしまいました。この思想、意思を受け継いだ、志ある能力が高い伊藤博文(極めて低い身分、武士の最下層、足軽)、山形有朋、乃木将軍等々、は明治維新の原動力となっています。
一説では明治維新は欧米に屈した策に過ぎないと言う方もおられるようですが、明治維新により制度、文化も大きく変わり、秩序を重んじる武家社会から利益を重んじる公家社会へと転換したように思います。

三島由紀夫(昭和45年11月25日、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺した事件)は吉田松陰等を志とし、将来の日本を危惧し市谷自衛隊のバルコニーで演説をしました。自分が犠牲になっても日本を良くしたい・・・丁度吉田松陰が斬首された日、5月25日に決行、割腹自殺、最後仲間に斬首されています。
多くの人は三島由紀夫は異常者と言う方が多いかも知れませんが、自国憲法さえ無い、日本の戦後体制への疑問、更に拉致事件真相の一部を知り、日本の未来のためと信じた行為と言う方も多いようです。
欧米人には理解できないと言われる日本人の自己犠牲の精神
多くの報道で三島由紀夫は異常者と報道され、否定された日本人になってしまいました。

吉田松陰の思想形成等に影響を与えたと言う高須久子(たかす・ひさこ)・・・野山獄中で知り合った不思議な縁、あまり聞いたことがない名前かも知れませんが、高須久子は当時の日本社会、士農工商の理不尽さを説き最後は投獄されてしまいました。
高須久子は、明治以降の四民平等と言う改革に大きな一石を投じた人物と言えると思います。NHKドラマ、花燃ゆでは、高須久子を余りにもドラマ風にしてるように思えます。

高須家は毛利家に代々仕えた毛利家臣(毛利の武家等に仕える人)、杉原三家の1つの名家で萩城下、土原馬場丁に居を構えた高300余石の地方知行(土地、及びそこの付随する百姓の形で与え、支配させること。)を持っていたそうです。高杉晋作とは遠縁にあたるそうです。
以後、吉田松陰に大きく影響を受けた高杉晋作、吉田松陰の思想形成等に影響を与えた高須久子、この3人は日本の未来の舵取り先導役となったように思えます。

高須久子は生来陽気、三味線好き、三味線好きはしだいに昂じて浄瑠璃や京歌等に凝りはじめたそうです。こうした流行歌などの芸能は被差別民(士農工商の下に存在したエタ、ヒニンがありエタは主に宗教上等で差別された人、ヒニンは犯罪者等でエタの下と言われ、芸能等はエタを示すと思います・・・エタをとも言います。河原など課税されない土地に住み、牛馬と畜などを行なって生活していた人々ですが手工業者なども含まれていました。更に芸能を職とする者もいて,中世の文化を担ったと言われ芸能は差別民のやることと言われていたようです。現在は・・・)が関わっており、高須久子の芸能好きが被差別民との接触のきっかけとなったと言われています。

特に親しくなったのは弥八と勇吉、この2人は歌や三味線が上手だったそうです。弥八は美男子で特に仲がよかったようです。人品もいやしからず、京歌を得意としていました。そこで久子は、3、4年にわたって弥八を贔屓(ひいき・・・自分の気に入った者に対して肩入れし、援助すること。)にし、祭礼の日などには彼らに人形芝居などをさせ、ときには夜中に手踊りなどにぎやかに踊らせ、親類も近所の者も見物に来たりしていたと言われています。
武家の女が被差別民と密通(現代風にいえば不倫)した例は古今未曾有で、当時では不義のみならず人倫の外れという行為に当たり、親族の面目も丸つぶれであったと言われ、こうした経過を経て、嘉永六年(1853)2月久子には野山獄(長州藩の武士関連の者を収容する牢)入りが言い渡されています。
勇吉と弥八の2人は、身分も憚らず武士の家に出入りした大胆乱法の所行を理由に、晒しの刑(罪人の名誉や社会的地位を奪う目的で一定の手続きのもとで公衆に晒すこと。江戸時代では主に付加刑として、罪人を縛り上げ路傍に置き 見せしめにする刑として晒があった。)に処されました。

1853年7月、黒舟来航に際し、松蔭と倉之助(農民出身)は小船で黒舟に向かい乗船し米国行きを熱望しますが船長は却下追い返されます・・・黒舟密航の罪で松蔭と倉之助が投獄、松蔭は武士用牢(野山獄、1人1室)、倉之助は農民出身なので多人数の雑居房(衛生状態は極めて悪い)で身分を分けた牢に入れられます。衛生状態が悪い雑居牢に入れられた倉之助が病死します。武士用牢に入れば衛生状態が良く病死しなかったであろう・・・身分を分けた牢に松蔭は疑問を呈し、更に高須久子の考え(士農工商の理不尽さを説いていた。)に大きく影響を受けたと言われています。

当時、野山獄には11人の囚人がおり、長期者は在獄罪42年で74歳の大深虎之助、短いのは1年の平川梅太、37歳の富永有燐らがおり吉田松陰は25歳の最年少でした。その囚人の中に唯一の女性、在獄2年、37歳の高須久子がいました。
藩命による処罰の入牢者はわずか2人だけで、他の9人はいずれも親戚からの申し出によるものです。但し、松陰のように身内からの申し出の形をとってはいるものの実際の意向は藩からでている者は4人だったとされています。

1868年、明治新政府樹立、野山獄は廃止、高須久子も出獄しました、51歳でした。
高須家との関係は最後まで修復されることはなく、高須家には戻らなかったと言われ、その後のどのような生活を送ったのかは記録が無いようです。明治37年、88歳でこの世を去っています。
当時の身分社会、能力あるものが登用されない理不尽さ・・・吉田松陰の心の支えとでも言える高須久子、私達に四民平等、差別廃止の必要性を、松蔭は至誠、自己犠牲、無為無私、能力ある者の登用の必要性等を忘れないよう訴えかけてるように思える時があります。

草莽崛起(そうもうくっき) 吉田松陰
私は30才、四季はすでに備わっており、花を咲かせ実をつけて居る筈である。
それが単なる籾殻なのか成熟した栗の実であるのかは、私の知るところではない。
もし同士諸君の中に、私の真心を哀れみ受け継いでやろうと言う人がいるなら、
それは撒かれた種が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じである。

吉田松陰は、私達に日本人の心とはを説き、高須久子は四民平等等々を説きました。
日本人が忘れてはならない吉田松陰、高須久子・・・2人が現日本を見たら何と思うかと思う昨今です。

文はネット、別冊宝島・吉田松蔭と松下村塾、NHK・その時歴史が動いた等々を一部参考にしています。


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