極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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インド独立の捨石となった日本将兵

2014-06-12 09:13:01 | 戦後

 第2次大戦末期にインド北東部で日本軍が行なった軍事作戦にインパール作戦というのがありましたが、この作戦は日本がインドを独立させるためにとった軍事作戦とも言われています。
 当時インドはイギリスの支配下に置かれインド人は家畜同様、想像を絶する搾取を受けていました。搾取に継ぐ搾取でインドは益々貧しくなり、イギリスは益々富むようになっていました。当時のインド人の多くは、白人国イギリスに対しては、どんなに刃向かっても勝てないと思っていました。
 間もなく有志らによるインドの独立を目指す、インド国民軍が誕生しました。日本軍は彼らと協力してインドからイギリスを追い出すために、インパール作戦というものを実施しました。インドを白人の支配から解放、独立させるための戦いで日本には何の野心も無く正しく武士道の精神です。日本は心からインドの独立を手助けしました。
 インパール作戦は惨めな敗北となりました。戦争末期のことですから日本軍には十分な装備、糧食等がなかったのです。

迎え撃つイギリス軍は圧倒的な軍事力、日本兵はそれでもインド兵と一緒になってインド北東部のインパールで勇敢に戦いました。かろうじて戦闘を生き残った日本、インド軍にも食糧がありません。補給路を断たれていましたので、 マラリヤと飢え、栄養失調、脚気、その他の病気などにかかって3万人もの多くの犠牲者を出しました。
 インパール作戦は完全な失敗、無謀な馬鹿な作戦だった・・・異国の地で死んだ多くの日本兵、インド兵たちは犬死にだった、多くの人たちがインパール作戦をよくとりあげては、日本の無謀な戦いだと大きく非難し、現在でも非難されてる人が多いのも事実です。
 
 インパール作戦でイギリス軍は勝利し、益々インドに対する締め付けを強めようとしました。日本軍に協力したインド国民軍の生き残り将校をイギリスは軍事裁判にかけると発表、イギリスにさからった一般のインド人たちに厳しい刑を見せしめとして行い、インド人をますます隷属させようとしました。それまではおとなしく隷属していたはずの多くのインド人たちが、粗末な武器で突如立ち上がりました。
インド国民軍は、わがインドを愛した愛国者たちだ、彼らを救え!

インド全域で、民衆たちは反イギリスをかかげ、独立運動の炎を燃え上がらせたのです。人々は、議会での糾弾、新聞や集会を動員しての宣伝活動を行ない、激しい法廷闘争を始めました。また全国的規模で、デモ行進が繰り広げられ、人々はもはやイギリス政府の言いなりにはならなくなりました。

象徴的な出来事の一つが、インドの首都デリーでもたれたイギリスによる対日戦勝記念行事でした。日本軍に勝ったことを記念するこの行事を盛大に執り行おうとしたのですが、デリーの市民はこれをボイコット、人々は、家ごとに弔旗をかかげ、店も学校も工場も映画館も一斉に閉ざしてしまいました。鎧戸をかたく降ろして、「戦勝記念日反対」のビラがあちこちで撒かれ、貼り付けられました。
イギリスは、インドの独立を目指して戦ってくれた人たちを殺した、そんなイギリスを祝福するなどできるものか、という抗議です。こうして、インド人たちの独立運動は、もはや誰も止めることのできない勢いとなりました。当時のガンジーの非暴力運動も効果をあげましたが、非暴力だけでは現実に直面したと言われ、それだけではインドは独立しなかったでしょう。インド全域の民衆の心に火をつけたのは、むしろインド国民軍の献身的な大きな犠牲だったのです。ついにイギリスはインドを手放しました、もはやこんなインドを統治することは不可能と手を引きました。
インド国民軍のために弁明をなしたパラバイ、デサイ博士は、インドはまもなく独立する、その独立の契機を与えたのは日本である、インドの独立は日本のおかげで30年早まった。
 日本軍とインド国民軍が一緒になって戦ったことがもとになって、約300年間の奴隷状態から解放されました。あの3万人の日本人とインド人の犠牲者は決して無駄ではなかったのです!私は、犠牲者の霊たちに心からこう言いたいと思います。 「あなたがたのおかげで、インドはついに白人国イギリスから独立しました。他のアジア諸国も独立を果たせました。あなたがたの心は今、アジアに生きています!」
 
 インド国民軍を作ったのは藤原岩市という日本人です、陸軍中野学校の出身者です。特殊任務を養成する学校で、軍服を着ないで、私服でいろいろな国に行って隠密活動をします。妻にも子供にも親族にも決して身分をあかしません。
 彼らの目標は「日本を守り、アジア諸国を白人の支配から解放」することでした。彼らは、ビルマやマレーシア、インド、インドネシアなどにおいて、現地の独立運動を鼓舞し支援し組織していったのです。
 その任務につくにあたって「一切の名利も地位も求めず、人知れず働き、日本の捨て石として朽ち果てることを信条」としていました。そうした秘密戦士の中でも、藤原氏は最も目覚ましい働きをした一人です。彼はマレーシアを独立に導き、インドも独立に導きました。彼の言葉を聞いて、インドの多くの人々が独立運動のために立ち上がったのです、彼の働きなしには、インドの独立は決してなかったでしょう。

 戦後、藤原氏は、イギリス軍捕虜となりました。いろいろな裁判にかけられましたけれども、結局、容疑が晴れて釈放、しかし最後に連行されて、イギリス軍の陸軍大佐から質問を受けましたが、最後の日大佐は、あなたの工作活動は、グローリアス、サクセス(栄えある成功)であった、私は敬意を表する。しかし、なんとしても納得しかねる点があるのだ、それを説明してもらいたい。
あなたは短期間、大本営の情報、宣伝、防諜業務にたずさわっただけだった、この種の秘密工作の特殊訓練も、実務経験もない素人だという。
 語学にしても現地の言葉は話せないし、以前はマレー、インドの地を踏んだこともない。このたびの現地関係者とも、事前に何の縁もなかったという、さらにあなたの部下たちにしても、海外勤務の経験もない、実務の経験もない若手ばかりだった、そんなメンバーから成る貧弱な組織で、このようなグローリアス・サクセスを収めたといっても、私には理解できない、納得できる説明をしてもらいたい!対し、藤原氏は、それが事実ですから説明のしようがありません、と答えました。局長は満足せず、そんな説明では満足できない、あなたはどんな特別なテクニックを用いて、この成功に導いたのか! 藤原さんは、特別なテクニックなどありません、我々は素人ですと答えましたが、局長はますます不機嫌になって、それではいよいよわからない、もう一度、君の成功の原因を考えてみてくれないか、、、と言いました。藤原さんは、今一度よく考えたうえで、誠意をこめて次のように語ったのです。
 
 民族の違いと敵味方の違いを越えた純粋な人間愛、そして誠意、またその実践ではなかったかと思います。私は開戦直前に、何の用意もなく、準備もなく、貧弱きわまる陣容でこの困難な任務に当面し、まったく途方に暮れる思いでした。そしてハタと気づいたことは、これでした。英国もオランダも、この植民地の産業の開発や、立派な道路や、病院や学校や住居の整備に、私たちが目を見張るような業績をあげている。しかし、それは単に自分たちのためのものであって、原住民の福祉を考えたものではない。 そこには絶対の優越感と驕りがあるだけで、原住民に対する人間愛、思いやりがありません、原住民は、愛情と自由に飢えています。私は、私の部下と共に誓い合ったのです、敵味方、民族の違いを越えた愛情と誠意を、彼らに実践感得させる以外に道はないと・・・至誠と愛情と情熱をモットーに実践してきました、すると人々は、あたかも慈母の愛の乳房を求めて飢え叫ぶ赤ん坊のように、われわれにしがみついてきたのです、私はそれが成功の原因だと思います。
そう語ると、大佐は大いにうなずいて言いました、わかった、あなたに敬意を表する、私はマレー、インドなどに20数年勤務してきた。しかし現地人に対して、あなたのような愛情を持つことがついにできなかったと、、、

 インド独立運動の中心に、この藤原氏がいました、彼がいなかったら、インドは独立できなかったでしょう。彼の行動は、至誠と愛情と情熱に貫かれていました、それがインドの民衆の心を揺り動かしたのです。藤原氏はアジア解放のために、捨て石となって自分の人生を捧げました。多くの戦死した日本兵・・・インド独立の土台石となり現在もインド人の中に脈々と受け継げられています。
当時の日本人の多くは、本当にその時代を精一杯戦い、生き、白人に苦しめられた多くのアジアの国々の独立のため、心から応援した事実は多くのアジア人の心で生き続いています。
 
 ヨーロッパに旅行すると、特に日本人は豪華絢爛な宮殿を見て、感動、憧れを抱きますが・・・如何してこの宮殿が造られたかを考えると、間違いなく、アジアの国々で搾取した富でできています!

本当にどれだけ女、子供を含め有色人種が犠牲になったか!
過去の日本兵等の崇高さ、武士道等は決して飾りではないことが分かります。特に捨石、自己犠牲等は欧米人には理解できないかも知れませんが、、、日本国は武士道を実践していたすごい国なのです!
現日本は、戦後GHQに大きく舵をきらされました、しかし日本人の魂は生き続けてると信じています。


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