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(童話)万華響の日々

いつもご訪問ありがとうございます、ブログ開始から大分心境も変わってきました

クラリモンド  テオフィール・ゴーチェ作 芥川龍之介訳

2013-12-08 20:00:15 | 生と死を想う

「怪奇小説精華」東 雅夫 編より 「クラリモンド」
筑摩書房 ちくま文庫 2012年発行

クラリモンド テオフィール・ゴーチェ(1811-1872) 芥川龍之介訳

六十六歳の牧師である一人の男の不思議な体験談
生まれながらに教会の中だけで生きてきた僧侶の卵が、よりによって正牧師となる式の最中に、周りにきていた群衆の中に一人の若い女と目と目があってしまい、瞬間的にその女の虜になってしまった


、その美しさ艶やかさは尋常ではなかった
その眼の輝きは天使か悪魔かどちらかである、彼女は男を誘惑し、聖職から離れるようにと言うのである、その代わりに美と若さと生命をあげようと言う、彼は神を捨てようとしている自分を感じた、女の名前はクラリモンドといった

それからしばらくたって、ある教会の牧師となった男のところへある知らせがきた、ある女の葬式をあげてほしいという、男はその屋敷に行った、そこで見た死んだ女は紛れもなくクラリモンドであった、死んでいるのに生きているかのごとくである、男はたまらずその唇に接吻する、

そして奇跡が起こった、クラリモンドは生き返ったのである、そして男が夜の眠りにつくたびにクラリモンドは現れ、騎士となった男と美食を楽しんだり、旅をしたり、その生命の喜びをともに味わうのである、しかし朝となると男は眠りから覚め僧職に戻るのであった

そのうち、クラリモンドは次第に弱ってゆくが男が彼の血を与えると再び蘇り若さと艶やかさにあふれるのである
だが、僧院長は知っていた、この危険な男の二重生活を、
彼は男を連れてクラリモンドの墓にゆき屍を暴き聖水をかけてしまう、すると彼女の屍は灰と骨になってしまうのである

その後、彼女は一度だけ男の前に現れた、そして「もうこれでわたしたちは終わりね、さようなら、きっとわたしを惜しむでしょう」といって消え去り二度と現れることはなかったという、男はその後クラリモンドを惜しみ、懐かしがったという

芥川龍之介の流麗な訳文である
この世とあの世にまたがる霊魂と肉体の交流を描いた悲しいというか怪奇な恋の物語である、
吸血鬼伝説に基づき作られた小説だ、怪談「牡丹灯籠」に似たところもあるが男はこの世的には救われた結果となった、クラリモンドとの恋がこのまま続いたのならどうなったのかと思いその筋書きでの成り行きもおもしろかったであろう、夢とうつつ、どちらが本当の世界かはわからない


ピンピンコロリンとはどういう生き方か、一つの憶測

2013-10-30 21:29:25 | 生と死を想う

きょうの某テレビ放送をみていたら、介護退職者10万人を超えた

という特集でした、40代で親の介護で職を辞めた人、60代で配偶者

の介護で退職した人、あるいは、その両方で退職のやむなきに至った

人、・・・・

そして、再就職しようとすると難しい関門が待っているとのこと、

まったくみていて同情などという生易しい気分ではいられません

収入はなくなってしまい貯えを食いつぶしてゆかざるを得ず、先に待っ

ているものは不安と暗闇です

わたしの場合は、両親の衰えや認知症の発症で介護に本腰入れ始め

たのは会社を定年退職したあとであったのでまだましです、

しかし、その後の再就職は望むべくもありません

本当に余裕などなく今日ををなんとか過ごして行ければと

いう心細い日々です 

多くない年金収入と心細い預貯金の切り崩しでやってゆくしかありませ

ん、だれもが長生きを望みながらも、施設に入ったり、病院入院せずに

最期を迎えたいと誰もが思っているわけです

こないだも、テレビ放送でご長寿の老人たちがお元気でダンス、

100メートルとかマラソンとかの陸上競技、水泳などなど、とにかく達

者で元気、パワフルです、これらの人たちはみないつまでも生きていた

いというのではなく、こういうスポーツなどに没頭してその最中にあっ

けなく心臓麻痺など起こして死ねたらいいという姿勢ではなかろうかと

(失礼、勝手な推論です、もしもそうでなかったらお詫びします)、すな

わち「ピンピンコロリン」を達成したいという生活努力であるとみました

ただ、こういう生き方が必ずしもいいかどうかは別物だと思います

人生は神聖であり、生は勿論,死も自分では決められないもので成り

立っているように思います、

だから、与えられた人生を、暮らしを精一杯努力して苦労して悩み、

生きるということしかないのではないかというのが自分としての結論です


姜尚中さんの小説反響のこと

2013-05-24 21:21:07 | 生と死を想う

NHKの放映でしたが

「小説反響息子の死と向き合って政治学者・姜尚中」をみました

息子さんが25才で亡くなってから4年たつそうです

その後、息子さんの死による心の痛みから、小説を書かれた

ということで、息子さんの本名をそのまま主人公の名前として使った

ということです

わたしはまだその小説を読んでいないので詳しくは分かりませんが

姜尚中さんは息子さんの苦しみを追体験でき、やっと新しい境地へ

達することができたということです

愛する肉親に死なれたその喪失感に襲われた人々は、3・11の

大地震と大津波でとんでもない多数に上りました

姜尚中さんは震災・大津波被災地へたびたび訪れ、同じ苦しみを

共有できる知己を得たといいます

人生の最大問題、生そして死の問題はこれが正解だというものはなく、

人それぞれでしょう

それぞれが自分の問題に直面して自分だけの解答を得るしかないと

思いました


「フルトヴェングラー」吉田秀和著 の場合

2012-11-28 22:06:36 | 生と死を想う

「フルトヴェングラー」吉田秀和
河出書房新書 2011年発行

 吉田秀和(1913ー2012年)は、東京大学仏文科卒、音楽評論家、水戸芸術館館長であった、2006年に文化勲章受章。
 本書は吉田が名指揮者フルトヴェングラーの音楽と生き方を熱愛した結果の力作である。吉田は1954年にパリのオペラ座でベルリン・フィルを率いるフルトヴェングラーの演奏を聴いた。そのときの感動は生涯衰えることがなかった。
 
 だが、フルトベングラーの演奏曲を具体的にあげて、その印象を語ることはやはり難しい、吉田にとっても然りで、本質的に感情的官能的である音楽演奏を言語で評価することは壁にぶつかってしまう。

 
 さてフルトベングラーが大戦中にドイツに残りナチスの支配下にいたが、アメリカへ亡命した名指揮者トスカニーニとの対比が興味深い。

 トスカニーニは第三帝国で指揮する者はすべてナチだと断じた。これに対してフルトベングラーは反論して、芸術は別世界のもの、芸術は政治を超越するものだという。彼はあくまでも祖国ドイツにとどまって運命を共にしたいといったという。
 亡命は逃避だともいった。演奏会はナチスによって禁止されず、民衆のほとんど唯一の楽しみであったそうだ。


 絵画の世界では違っていて、ドイツの画家たちは大概が国内に残って沈黙していた、描くことすら禁止されており一般の民衆と同じ生活を余儀なくされたという。吉田は、芸術家は国外に亡命できない、亡命すべきではないというフルトベングラーの思想に感動している。

 
 終戦後フルトベングラーはナチスに協力したという批判もあったが、吉田のこの文章によればやはりフルトベングラーは超越する巨人であったと思う。

 このことは我が国の茶道の巨人、千利休を思い起こさせる。秀吉から追随を迫られた利休は決然として茶道の王者として死ぬことを選んだ。

 芸術を平和を守りまたはつくりだすことといい換えれば、
時の暴力、狂気の専制権力に対抗する姿勢とはどんなに厳しいものか、計り知れない。


ヘルマン・ヘッセ  「庭仕事の愉しみ」  ゆったりとした暮らし方がそこにある 

2012-11-23 21:35:42 | 生と死を想う

読書「庭仕事の愉しみ」ヘルマン・ヘッセ 
   岡田朝雄訳 草思社文庫 2011年発行


 麦わら帽子をかぶり、農作業服をまとい、背中にはカゴを背負ったヘッセの写真がある。詩人・文豪として知られたヘッセは50才を過ぎて自分の家と庭を持ち、庭いじりに没頭するようになり、それは85才で亡くなるまで続いた。

 花木を育て、野菜など植え、庭仕事を日がな一日続ける日々が続いた。だが、いわゆる農夫ではなく、庭仕事をしながら哲学し瞑想したのであった。ゆったりとした暮らしがそこにある。

 
 特に木に対する愛着が大きかった。林や森に対してはもちろんのこと、一本独立して立つ木には、孤独な人間と同じようだといって尊敬の念を抱いた。木は神聖なもの、木と話をし、傾聴することのできる人は真理を体得すると。

 
 ヘッセは老化と共に眼や頭の痛みが酷くなるようになり、長時間の読書や著述ができなくなった。そのために心理的な気分転換が必要で庭仕事や炭焼き(焚き火)に身を入れ、同時に瞑想や想像の世界に浸り気持ちの集中を図ったという。

 
 
ヘッセによれば、世俗の国家、王朝や国民は滅亡し、明日にはもう存在しなくなることもあるが、結局、花たちが何千年も変わることなく、年ごとに草原に回帰することは反論の余地がないように、現代史の騒乱とはかかわりのない秩序がこの世に存在するのだ、そういう自然との交わりの中に身をおくこと(庭仕事)、その大きな秩序の中で絶対的な平安を得たという。
 
 ヘッセの老年になってからの著作「人は成熟するにつれて若くなる」も、孤独な散歩者ヘッセの老年哲学を著したものだ。
 そのなかで、「神の大きな庭の中で私たちはよろこんで花咲き、咲き終わろう」という文章がある。ヘッセの庭は神から与えられた庭であり、そこでの庭仕事は彼にとってやり遂げなければならなかったもう一つの仕事であったことであろう、

 そして彼もまた咲き終わった、しかし、彼を思い起こし、その思想にふれ共に瞑想するものにとって、ヘッセはいつまでも共に寄り添ってくれる友人である。


「僕の心には弓矢が刺さったまま」 柳田邦男氏の寄稿を読んで

2012-11-16 21:11:43 | 生と死を想う

「僕の心には弓矢が刺さったまま」
    
柳田邦男 朝日新聞夕刊10/24
 
  朝日新聞夕刊の連載「人生の贈りもの」でノンフィクション作家の柳田邦男氏が書いている、その八回目の寄稿についてである。

 
 氏の長男は脳炎後遺症の発作がたびたび起こるという、次男は中学時代の目の怪我から心理状態の異常が起こった、妻は心の病に苦しんでいて離婚にいたってしまった、など柳田氏の人生は家族の不幸に見回れ苦痛に満ちていた。

 しかし、さらに追いうちを掛けるように次男は25才の時、自死してしまった。
 その息子の生きた証を本として著したのが「犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日」や「「犠牲」への手紙」である。


 氏の次男の死による苦痛と苦悩はあまりに深い、その苦痛は自分の心に突き刺さった弓矢のようであるという。
 息子の死は心に弓矢として突き刺さり、いまだに抜けない、抜いたら自分が死んでしまう、ものすごく痛いけれどその痛みに耐えながら、生きなければいけない、息子が死をもって訴えたことを無視すれば、自分自身が生きている意味を失うことになる、というのである。

 
 愛する家族、しかも自分の子供の死とその意味を、ずっと背負いながら生き続けなくてはならないという、この生き方には身に詰まされるものがある。我々は、生きることで絆がつくられるのと同じように、死によって更に強い絆が結ばれるということだ。

 むしろ、死の方が生きているものと死んだものとの間に更に強い結びつきをつくり出すのだ。
 
それは人間同士に限定されるのではなく、動物(ペット)や花木のような植物もまた家族となるのであり、そこでは血縁関係はもはやあまり問題にされず、こころによってのみ結びつけられる大きな家族の一員であることに気づかされるのだ。


「人は成熟するにつれて若くなる」 ヘルマン・ヘッセから学ぶ

2012-04-09 17:29:48 | 生と死を想う

読書「人は成熟するにつれて若くなる」ヘルマン・ヘッセ 原田朝雄訳 草思社文庫

 ヘルマン・ヘッセは1877ー1962、詩人で文学者 ノーベル文学賞受賞者

人生の老年期に入ったヘッセの老年を思う気持ちはあくまでも若く生気に満ちている。人生の夏の終わり、彼は自然の姿の移ろいから生を学ぶ。死ということを考えることを決して恐れず逃げない

 「五十歳の男」という詩はこの本のある意味で頂点である。

その全文はこうだ。
「揺藍から柩に入るまでは
五十年に過ぎない
そのときから死が始まる
人は耄碌し 張りがなくなり
だらしなくなり 粗野になる
いまいましいが髪も抜け
歯も抜けて息がもれる
若い乙女を恍惚として
抱きしめるかわりに
ゲーテの本を読むわけだ
しかし臨終の前にもう一度
ひとりの乙女をつかまえたい
眼の澄んだ 縮れた巻き毛の娘を
その娘を手にとって
口に胸に頬に口づけし
スカートを パンティーを脱がせる
そのあとは 神の名において
死よ 私を連れて行け アーメン」

 ヘッセは死を予感し深々と吸い込む
 以下に作品から珠玉の言葉を抜粋する

「若さを保つことや善をなすことはやさしい

だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと
それができる人は老いてはいない

成熟するにつれて人はますます若くなる

老人になることをいつも一種の喜劇と感じていたからである
六十年、七十年来もうこの世にはいない人々の姿と人々の顔が私たちの心に生きつづけ、私たちのものとなり、私たちの相手をし、生きた眼で私たちを見つめるのである

 私は、ある人生の段階の最後の時期が、枯れて死ぬことへの欲求の色調を内蔵すること、それがさ
らにひとつの新しい空間への転進へ、覚醒へ、新たな開始へとつながって行く、そういう段階と期間が存在することに気がついた

はるかにすばらしいことは、過ぎ去ってしまわないこと、存在したものが消滅しないこと、それがひそかに生きつづけること、そのひそかな永遠性、それを記憶によみがえらせることができること神の大きな庭の中で私たちはよろこんで花咲き、咲き終わろう

 私が、妻と息子たちに次いで誰と、そして何と最も多く、最も好んでつきあっているかを一度調べ
てみれば、それは死者だけである、あらゆる世紀の音楽家、画家、の死者である。彼らの本質はその作品の中に濃縮されて生き続けている。

それは私にとって、たいていの同時代人よりはるかに現
在的で現実的である。そして私が生前知っていた、愛した友人たちの場合も同様なのである。
 彼らは生きていた当時と同様に今日もなお私と私の生活に属している。私は彼らのことを思い、彼らを夢に見、彼らをともに私の日常生活の一部とみなす。このような死との関係は、それゆえ妄想でも美しい幻想でもなく、現実的なもので、私の生活に属している。

 去ってしまった人たちは、彼
らがそれによって私たちに影響を与えた本質的なものをもって、私たち自身が生きている限り、私たちとともに生き続ける。多くの場合、私たちは生きている人とよりも、死者とのほうがずっとよく話をしたり相談したり助言を得たりすることができる。

 愛する人を失ったとき、死者に捧げる供物は、私たちの追憶によって、正確な記憶によって、愛する人を心の中によみがえらせることでなくてはならない。私たちがこれをなし得るならば、死者は私たちとともに生きつづけ、死者の心象は救われ、私たちの悲嘆が実り多いものになるように協力してくれる。」

兄弟である死

「私のところへもおまえはいつかやって来る
・・・・・・
来るがいい 愛する兄弟よ 私はここにいる
私を連れてゆけ 私はおまえのものだ」

本作品に載せられた詩と文章はヘッセが42才から84才までにわたっている。

本書の特徴はヘッセが迫り来る死と、愛する死者たちとの関係をどうとらえたかという点である。 ヘッセは老いと死を拒まず自然に受け止め、兄弟にたとえてさえいる。

 老いてから最も親密に付き合
っているのは死者であるという。なるほどと思わされる。この思想はすごく重要だと思う。愛する人を失った残された者は、その心をどう癒せばいいのであろうかという問いに対して、ヘッセは明確な答えを与えてくれた。

 死者を想い、偲び、明確な記憶によって心に呼び覚まし、ともに語り、
相談したり、おそらくは笑ったり悲しんだりもできるのだという。つまりは我々が生きて思いを巡らせることができる限り、愛する死者もまた共に生きている、というのである。

 認知症といわれる老人がもうずっと前に愛する亡くなった肉親を、まるで生きているかのように語るとき、それを病
気だと否定してはならない。彼らは死者と共に生きてこの世での暮らしを楽しんでいるのであるから。

 また、我々もまたヘッセにならって、親しかった肉親などの愛する死者を、心にいつも思い浮かべ、まるで本当に生きているのと同じように、我々がこの世で生を許される限り、共に生きていきたいと思うのである。


亡き娘の肖像画 画家諏訪敦の世界

2012-02-28 21:12:32 | 生と死を想う

2月26日のNHK「日曜美術館」再放送を観ました

ご両親は交通事故で30歳で亡くなった若い娘さんの肖像画を画家、諏訪敦さんに

依頼し、その完成までの半年にわたる肖像画の作成までの大変な過程を記録したもの

でした

写真は故人のリアルな面を正直に伝えます

しかし、細密な肖像画には写真からは得られない依頼主の願いが込められて現れてい

そうです

完成した肖像画をみると、その願いを画家、諏訪さんは本当に見事に達成していました

死んだ娘さんは両親の心の中で生きているのだそうです

ご両親は生き写しの娘さんの肖像画に向かって、

生きている娘さんに向かっているように話しかけることができるということです

愛する故人と会うということは、この世の重大な課題です

この記録もその一つの方法を示しているでしょう

 


ある女性ブロガーの死

2012-02-16 22:05:50 | 生と死を想う

一人の女性ブロガーがいました

なぜ過去形かというと、彼女は最近惜しくも亡くなったのでした

その人のブログは、美術関係の仕事に従事されているためもあり、

なかなかセンスの良いブログでした

つい最近までほとんど毎日一日も休まずに、

精力的にブログを更新されていましたが、体調を崩し

入院のやむなきに至ったのでた

治療、薬石の甲斐なく、突然の死であったとのことです

その結果はご主人が夫人のブログを通じて伝えてくれたのでわかりました

改めて生と死の厳粛なることが心を支配します

この方とはお会いしたこともなく、名前も知りませんが、

そのブログ名とともに、この方のブログの内容によって教えられたことは

計り知れないものです

匿名やニックネームであっても、一方通行的ではあっても、

交流できるということを感じました

つい最近まで、元気そうであった人が突然に世を去るということは衝撃です

しかし、彼女の残したブログや、人々に与えた印象がいつまでも、

親しかった人々の記憶となって残ってゆくでありましょう


田中好子さんの死

2011-05-31 20:39:15 | 生と死を想う


 もう大分時間が経ちましたが、もとアイドル・キャンデイーズ

のメンバーで女優の田中好子さんが4月21日に乳ガンで亡く

なりました。享年55歳。その告別式では生前(3月21日)の彼

女自身のテープ吹き込みによる別れの言葉(3分28秒)が流

されたそうです。新聞でもその全文が載せられました。

 これは実に異例のことです。誰にも知らされずに録音され、

式の参列者も本当に驚き且つ感動・感涙したそうです。改めて

そのテープを聴き、文章を読んで深く感動させられました。

 自身の死を意識したうえで、3・11の大震災の犠牲者に支援

の思いを述べ、今となっては天国で犠牲者のみなさんを助け

たいというのです。また、義妹の夏目雅子さんのように、復活し

てこの世に生きている多くの人々を助けたいといっています。

 これほどの辞世の言葉を聞いた覚えがありません。

 ”復活”は謎の言葉です、どう解釈すればいいのでしょうか。

 夏目雅子さんのようにと言っているところからすれば、彼女

映画が未だに多くのファンを魅了し続けていることや、白血

病の撲滅に向けた活動がいまも多くの患者さんを支えている

ことなどがあり、多分田中好子さんもそのような死んでもなおこ

の世界に生きるファンや弱者に勇気、力、感動を届けたいと思

っているのだと解釈したいと思いました。

 命の火が消えそうな時にいたってなお、肉体の死を乗り越え

て、彼岸にても此岸への思いを寄せるということは並大抵のこ

とではありません。


三浦光世著 「死ぬという大切な仕事」の意味

2011-04-22 20:43:05 | 生と死を想う

”生と死”について、三浦光世さんの著作に学んだところを書いてみます。

「死ぬという大切な仕事」 三浦光世著 光文社 2000年5月 
 
 
作家、三浦綾子の作品と聖書の箇所を紹介しながら、死ぬということが

いかに大切な仕事であるかを説く。

自伝「道ありき」では、死んだはずの正の寝息が十日間ほど聞こえた、肉

体は死んでも霊は滅んでいないと確信した。

綾子の妹の陽子は「氷点」にも登場する。6歳と2日で幼くして死んだ。

聡明な子であったという。

弟の昭夫は交通事故で45歳で死んだ。何日かたってこの昭夫が綾子の

夢に現れ”天国って、本当にあるわ、綾ちゃん”と言ったそうである。

”よく生きた者が、よく死ぬことができる””主の山に備えあり”

 旧約聖書に登場する人物の中で、死ななかった人物は、エノクとエリ

ヤ。”エノクは死をみないように天に移された。神がお移しになったので、

彼は見えなくなった”(ヘブル人第10章5節)

もう一人は、エリヤである。”エリヤはつむじ風に乗って天にのぼった”(列王記下第二章十一節)

作品「ちいろば先生物語」の榎本保郎牧師、

「岩に立つ」の鈴木棟梁、「氷点」での洞爺丸事件での二人の宣教師の

死、「泥流地帯」の村民、「母」における小林多喜二の母セキさん、すべて

その死が際だち光を放つ。

作家綾子の秘書の話

 夫、光世は1966年12月1日に旭川営林局を辞した。綾子の協力を全

面的にすることにした。そこで秘書を雇った、初代は夏井坂裕子であっ

た。1970年11月からであったが、結婚で1年8ヶ月で辞めた。二代目は

八柳洋子であった。元ナースであり、健康管理に気を配ってくれた。秘書

として優秀であった。しかし、1988年頃から肺癌に罹患していることが

わかった。旭川六条教会に寄稿した彼女の手記がある。そのなかで彼女

は癌にかかったことを、神さまからの大きなプレゼントであり、もはや全身

に転移し末期であることを知って、治療もかなわず家でゆっくり過ごすし

かないとわかった。現代医療から見放された。自らの人生をかえりみて

55年の生涯が実に幸せであったと述懐する。癌という病を得たことによ

り、より一層神さまのご臨在を実感したことは大きな恵みであると書い

た。「神の恵みは、私は罪深く、心弱く、おくびょう者ですが、神さまは弱

いときにこそ強くしてくださる、とお約束してくださった。私はいまこの御言

葉を実感しております。」彼女は26年間秘書として働いてくれた。

1999年3月1日死去 55歳 同年10月12日綾子死去 77歳であった。

長野政雄の犠牲死 「塩狩峠」1966年4月から2年半、「信徒の友」に連

載された。

 綾子が死んで、いま、どこにどうしているのか、さだかではないとして

も、再会の望みをいつも確信していてよいのであろう。むろん、この世に

おける妻としての存在を、そのままひきずるということではなく、もっと確

かな存在としてである。そのためには、やはりこの世における生き方が問

われるはずである。そして所詮、赦されなければどうしようもない人間で

あることに思いは至る。

 以上のような結びで三浦光世さんの著書は終わる。

 死ぬということは人生の最大のしごとであるという。イエス・キリストの死

こそは人類にとって最もありがたい死であった。

このように、仕事をいわゆる労働として狭くとらえるのではなく、隣人に対

する愛の実践として死に至る道程を踏むことが”仕事”なのだと主張す

る。”働かざるもの、食うべからず”は、文字通りの意味から拡大されて、

死に至るまで他人(隣人)に尽くすという生き方なのだといい、その完全

なる実践者はイエス・キリストであるとの主張は説得力がある。

癌という業病すらも、神のお恵みであると思う精神の高みは、神を信仰す

るものにのみ与えられ到達しうる恩恵の極致であろう。


千利休の命日

2011-02-28 16:35:43 | 生と死を想う

1591年の今日、2月28日は千利休が切腹した日です。

このとき利休は69才でした。

信長、秀吉と時の権力者に仕えましたが、茶道に関しては一歩も譲ら

ず、そのために秀吉の怒りを誘い、ついに切腹を命じられたのでした。

千利休こそは、茶道における天下人というべきで、

権力によってではなく、茶を味わい飲むという

ただそれだけの作法において、人の心を掴んだのですから驚きです。

利休の開いた境地を一言で表現するならば、”侘び・寂び”ではないでし

ょうか。

実に奥深い偉大な世界だと思います。


室生犀星 「後の日の童子」の印象

2010-11-23 17:57:03 | 生と死を想う

後の日の童子」室生犀星 創元推理文庫 2005年発行 日本怪奇小説傑作集Ⅰ

 夕方になると夫婦の家を訪れる童子がいた。童子は紅く塗っ

た笛を手にしていた。夫婦は童子の訪れを毎日心待ちにして

いた。童子は夫婦の息子であった。夫婦には最近赤児が生ま

れた。夫婦は赤児を童子には会わせない方がよいと思った。

 しばらく父母と話したり、遊んだ後、童子はいずこかへ帰って

しまうのであった。童子がいないときには、父親は近所の家に

住む子供を、どこか自分の息子の面影に似ていると思いなが

ら訪ねたりした。息子はそんな父を見て、自分と似た子を探さ

ないで欲しいと頼むのであった。父親は笛を吹いて息子に聞こ

えるようにと願うが、息子は自分の居るところまでは届かない

ろうという。父親は、おまえに聞きたい気持ちがあれば、聞こ

えるだろうというのであった。ある日、父は帰っていった息子の

後をつける。童子は蓮の花が咲く水田に消えてしまった。

童子はその後も訪ねてきたが、その姿は日を追うごとに何か

ぼやけたものになっていった。夫婦には共に息子の姿がかす

んで見え、影のようになっていくのをどうしようもなかった。

 夫婦は、息子が死んでもう三ヶ月経ったことをいまさらのよう

に嘆いた。童子もまた父母の姿がかすんで見えると訴えた。

父は、お互いの縁が次第に薄れてゆくためだと話した。

 それ以後、童子は訪ねてこなかった。夫婦は今まで息子が

訪ねてきたように感じたのは気のせいだったかと語り合った。

しかし、家の周りのどこかに童子の黒い影があるような気もし

て、父は笛を吹いてみるのであった。

 室生犀星(1889年ー1962年)は1918年に29歳で結婚

し、1921年32歳で長男 豹太郎が生まれた。しかし、翌年に

長男は死去した。本作品はこの悲しい経験から生まれたもの

であろう

 逝ってしまった小さな息子への慕情が何とも妖しい影のよう

な幻想を生み、それを夫婦ともども感じたというところが切な

い。日が経つにつれて息子の幻影がかすんでおぼろげになっ

てゆくというところも何とも悲しい人間の心の現実を表してい

る。

 幼子を亡くした多くの両親の気持ちを代弁しているような優し

いいけれども、裏哀しい感慨に満ちた作品である。


生と死を想う 「西洋中世奇譚集成 聖パトリックの煉獄」

2010-10-26 17:06:42 | 生と死を想う


西洋中世奇譚集成 聖パトリックの煉獄」マルクス/ヘンリクス 千葉敏之訳 講談社学術文庫 2010.5.12発行

本書はラテン語から翻訳されたものである。
本書で書かれた死後の世界への経験談は西暦1100年代の記録である。

第1部 トゥヌクダルスの幻視
修道士マルクスが修道院長に献呈したヒルベニア(現在のアイルランド)人トゥヌクダルス幻視の記録である。トゥヌクダルスは貴族の位をもつ騎士であったが、神への信仰心はさらさらなかった。あるとき、彼は発作を起こし三日三晩、死者のように横たわってしまった。トゥヌクダルスの魂は彼の肉体から離脱し、震えおののいていた。

トゥヌクダルスの魂は死の世界へとさまよった。神は天使を送りトゥヌクダルスの魂の同伴者とした。トゥヌクダルスは九つの特徴的な拷問場を巡り悪霊たちから多くの罪人の魂と共に懲罰に合せられる。そしてついに地獄へ案内され、人間の敵である悪魔に会わせられる。

無数の人間の魂と悪霊が集められ、地獄へと落とされていた。トゥヌクダルスは天使の助けにより地獄を離れ、闇を越え光の中へ導かれさらに上昇した。そして安心感と歓喜と幸福に満たされ、次から次へと九つの栄光の場を案内された。ついに世界の全貌が見渡せ、大いなる知識が与えられもはやなにも質問する必要もなかった。

トゥヌクダルスはこの場所にとどまりたいと思った、しかし、天使はトゥヌクダルスに元の肉体に戻り、見たもの全てを隣人たちのために役立てるようにと告げ、かつての悪しき行いから遠ざかるようにと諭した。そしてトゥヌクダルスは元の肉体に戻っていた。

 その後、彼は神を信じ、自分の持っていたものを貧者に分け与え、神の御言葉を大いなる敬虔さと謙虚さとで人々に説いて生きたという。

第2部 聖パトリキウスの煉獄譚
 聖パトリキウスの前に主イエスは姿を現されて、ある場所にある坑(あな)を示され、真実の信仰によって武装したものがこの坑に入れば、この坑を通り抜け悪人たちの拷問場や聖者たちの享楽の場をも見るだろうといわれた。聖パトリキウスによりその坑のある場所に教会が建てられ、抗は厳重な管理がされるようになった。
 
 ある年、オウエインという名の騎士が坑に入りたいと申し出た。司教による様々のテストの結果オウエインは入抗を許され煉獄に入った。たとえいかなる時も主イエス・キリストの名を呼ぶようにと、神の御使いが導いた。オウエインはその後、十の責め苦を次々と受けるが、そのたびにキリストの名を呼び難を乗り切ってゆく。第十番目の責め苦として現れたのは、冥府の川であった。その川の上には悪臭が充ち硫黄の火の炎が覆っていた。

 川に渡される橋を渡ると、そこには光輝く楽園があった。騎士は聖者たちと会い、天上の食物が供された。だが、この世に戻るようにといわれる。そしてこの世に戻ったオウエインは高潔で敬虔な生涯を送った。
 
 死後の世界を巡っていたそのとき、絶えず騎士を助けたのはイエス・キリストの名前を呼ぶことだったという。これこそが彼の守護者であり、神からおくられた聖霊であった。

 第1部、第2部共に死後の世界に行き、煉獄と天国を体験し、この世に戻った人の記録である。

 第1部の騎士は、臨死体験の結果、死後の世界をかいま見て、その結果、改心しこの世に戻ってからは、神を崇める敬虔な信仰の生活をおくった。 
 
 第2部の騎士は生きて肉体を伴ったまま、秘密の坑から煉獄と天国とを体験した。この世に戻ってからも以前にも増して敬虔な信仰生活を送った。
 
 興味深いのは、第2部の場合である。騎士オウエンは、臨死体験の場合のような幽体離脱をして死後の世界に行ったのではなく、肉体を伴って行ったのである。肉体を離れて霊魂だけになった場合もあったようではあるが明確ではない。この死後の世界への入り口の坑はかつては秘密のうちに管理されていたが、その後1497年に教皇の命令で破壊され閉鎖され不明になった。
 
 12世紀の前半といえば、十字軍が活躍した時代である。この中世の世界の人々のあいだでは死後の世界との交流が熱心に希求されていたが、それを実現できる人はごくごく限られた人であった。中途半端な気持ちで坑に入った人は二度とこの世に戻らず本当に死んだそうである。
 
 煉獄と栄光の場を無事に巡視してこの世に生還した人は肉体と霊魂に実体的な変化を遂げ、真に神の言葉を伝授しうる資質を備えたのである。
 
 ともあれ、現実の世界に死後の霊世界への入り口が存在していたということは、興味深い。

 第1部、第2部共に死後の世界に行き、煉獄を体験した二人の騎士は、主イエス・キリストから賜った聖霊の支えと導きが人生に欠かせないものであったことを実感し、この世に戻ったときにもその確信は増しこそすれ、衰えることはなかった。

 


生と死を想う 音楽家グスタフ・マーラーの場合

2010-10-08 16:39:29 | 生と死を想う

                             

作曲家の人と作品「マーラー」村井 翔 
   2004年 音楽之友社

音楽家のグスタフ・マーラーは1860年チェコ共和国で次男と

して生まれ、4才の頃からアコーディオンを弾きこなした。

6才で作曲し
た。15才でウイーン音楽院に入学、作曲と演奏を

学ぶ。この年に、弟を心臓病で失う。

18才で卒業した。29才の時、父母を相次いで失う。

35才の時、もう一人の弟が21才で自殺する


37才でウイーン宮廷歌劇場監督となる。

41才の時、《亡き子をしのぶ歌》を作曲する。この年、画
家の

娘で22歳年下のアルマ・シンドラーに求婚し42才で結婚し

た。同年、長女マリア・アンナが誕
生した。

 47才の時、マリアを4才8ヶ月で失った。マーラーも心臓病を

発症した。49才でニューヨーク・フィルハーモニーの主席指揮

者に就く。50才で心内膜炎で死去。

  《亡き子をしのぶ歌》の歌詞はフリードリッヒ・リュッケルトに


よるが、リュッケルトは自分の子供
を失ったときにこの詩を書い

たという。 マーラーの長女マリアは猩紅熱とジフテリアで死ん

だ。マーラーは《亡き子をしのぶ歌》の歌詞に作
曲したが、それ

はこの愛娘が死ぬ3年前のことであった。まさに運命を予感し

たような不思議な出来事
であった。そしてマーラー自身も娘の

死から3年後に死んだのであった。死因は心臓病であったそう

あるが、可愛がった長女マリアの死への悲痛と、早すぎた弔

いの曲への複雑な想いとがその死の原因と
いえないだろう

か。その3年間、妻のアルマは他の男性と不倫のなかにあり、

マーラー自身は心臓病の
悪化に苦しみつつ最後の音楽活動

に励んではいたのであった。