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(童話)万華響の日々

いつもご訪問ありがとうございます、ブログ開始から大分心境も変わってきました

生と死を想う 画家ゴーガンの場合

2010-10-04 20:41:26 | 生と死を想う
                


最後のゴーガン」丹治恒次郎 2003年 みすず書房
 
 タヒチ島で、ゴーガンは愛娘の突然の死を知る。

  彼がもっとも愛した娘アリーヌは感冒をこじらせ急性肺炎で

19才で世を去った(1897年)。同じ年にあの大作《われわれ

はどこから来たか、われわれは何か、われわれはどこへ行く

か》が現された。

 またアリーヌの死はゴーガンに神への信仰への疑問をひき

起こした。彼はこの大作を「遺書」として残し、1898年には毒

薬自殺未遂も起こした。その後、裁判沙汰に翻弄され、1903

年に病死した。
 
 自殺未遂以後のゴーガンはもはや正常な心理状態ではな

く、かつての画家としての創作の熱情に満ちた彼ではなかっ

た。特に悲嘆の余り、信仰すら失ってしまったことには、教会と

の複雑な関係にあったらしいが、むしろゴーガンに同情を感

じ、気の毒に思う。

死を想う 「夏目漱石」の場合

2010-09-27 20:31:26 | 生と死を想う


とおちゃんの読書感想です

死を想う」宇治土公三津子 二玄社 2003年発行 
  
  漱石(1867年生)の小猫は千駄木の夏目家に明治37年

(1904年)に迷い込んできた。この猫は「我輩は猫である」に

主人公として書かれたが明治41年(1908年)9月13日に病

気のため物置のへっついの上で死んだ。寿命はおそらく5歳ぐ

らいであったろう。

 漱石は猫の死亡通知を書き、箱に詰めて書斎の裏の桜の木

の下に埋葬した。漱石41歳の時であった。

以後、13日を猫の命日として、鮭の切り身と鰹節かけごはん

を毎月供えた。漱石は1916年に死んだ。彼の死後、猫の十

三回忌に九重の石塔が建てられたが、猫の遺骨は雑司ヶ谷

の漱石墓地に移されていたという。

 漱石やその遺族に愛された幸せな猫であった。漱石の「我輩

は猫である」を読んで猫好きになった人もずいぶんと多いと思

う。漱石は猫の地位を上げるのに大いなる貢献をした猫の大

いなる支援者であった。

 漱石の五女ひな子は1910年明治10年3月2日生まれであ

ったが、1911年11月29日に死んだ(1歳8月)。夕飯の途

中、突然つっ伏してそのまま死んでしまったという。そのとき漱

石44歳であった。

 小説「彼岸過迄」のなかの「雨の降る日」はひな子の死を想

って書いた章である(1912年)。宵子という幼児が食事の途

中で死んでしまうという物語。漱石はひな子の写真を死ぬまで

書斎に置いていた。漱石は49歳で死んだ。

 ひな子が死んで5年後に漱石は世を去ってひな子の元へ行

った。最も可愛がった子であったという。ひな子の死の原因

は、今でいえば”乳幼児突然死症候群”という病気ではなかろ

うか。当時は病名も原因も分からず、親はさぞかし突然の死に

うろたえ悲しみに暮れたことであろう。今でもこの病気の原因

ははっきりしていないようである。それは兎も角、漱石はひな

子の死後、その死の悲しみは、”宵子”という別名の子を用い

て小説に表したほどであった。


宮沢賢治の遺書について

2010-09-02 22:02:56 | 生と死を想う

とおちゃんの読書感想です。

「死を想う」 宇治土公三津子編 二玄社 2003年発行より

東北採石工場の技師として肥料の販売のために上京したと

き、賢治の大トランクの中、裏蓋のポケット


二通の遺書と「雨ニモマケズ」の書かれた手帳が残されていた。

遺書の一通は両親宛で、もう一通は弟や妹たちに宛てたもの
であった。

そのうち両親宛のものは次のようであった。

”この一生の間どこのどんな子供も受けないような厚いご恩を

いただきながら、いつも我ままでお心に

背きとうとうこんなことになりました。

今生で万分一もついにお返しできませんでした

ご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれの

みを念願いたします

どうかご信仰というのではなくてもお題目で私をお呼びだしくだ

さい。そのお題目で絶えずおわび申し
あげお答えいたします。

                             九月二十一日

父上様 母上様”


文章からも確かめられるが、賢治は”次の生、また次の生”の

自分の(霊魂の)存在を確信していたこ
とが分かる。

賢治の書いた童話の中には、輪廻転生を内容にしたような作

品がいくつもある。彼は輪廻転生を信じる
法華経の信者だった。

だが、何故に賢治は輪廻転生ではなく、浄土への成仏を願わ

なかったのだろうか


賢治はその死後に輪廻の結果、どこへ転生したのだろうか、そ

れは分からない。

それはともかく、彼の精神と心は確実にその
文学作品に著さ

れ、それが、彼の遺族のみならず、数多くの賢治愛好者たちに

大きな慰めを与え続けて
いる。