とおちゃんの読書感想です
「死を想う」宇治土公三津子 二玄社 2003年発行
漱石(1867年生)の小猫は千駄木の夏目家に明治37年
(1904年)に迷い込んできた。この猫は「我輩は猫である」に
主人公として書かれたが明治41年(1908年)9月13日に病
気のため物置のへっついの上で死んだ。寿命はおそらく5歳ぐ
らいであったろう。
漱石は猫の死亡通知を書き、箱に詰めて書斎の裏の桜の木
の下に埋葬した。漱石41歳の時であった。
以後、13日を猫の命日として、鮭の切り身と鰹節かけごはん
を毎月供えた。漱石は1916年に死んだ。彼の死後、猫の十
三回忌に九重の石塔が建てられたが、猫の遺骨は雑司ヶ谷
の漱石墓地に移されていたという。
漱石やその遺族に愛された幸せな猫であった。漱石の「我輩
は猫である」を読んで猫好きになった人もずいぶんと多いと思
う。漱石は猫の地位を上げるのに大いなる貢献をした猫の大
いなる支援者であった。
漱石の五女ひな子は1910年明治10年3月2日生まれであ
ったが、1911年11月29日に死んだ(1歳8月)。夕飯の途
中、突然つっ伏してそのまま死んでしまったという。そのとき漱
石44歳であった。
小説「彼岸過迄」のなかの「雨の降る日」はひな子の死を想
って書いた章である(1912年)。宵子という幼児が食事の途
中で死んでしまうという物語。漱石はひな子の写真を死ぬまで
書斎に置いていた。漱石は49歳で死んだ。
ひな子が死んで5年後に漱石は世を去ってひな子の元へ行
った。最も可愛がった子であったという。ひな子の死の原因
は、今でいえば”乳幼児突然死症候群”という病気ではなかろ
うか。当時は病名も原因も分からず、親はさぞかし突然の死に
うろたえ悲しみに暮れたことであろう。今でもこの病気の原因
ははっきりしていないようである。それは兎も角、漱石はひな
子の死後、その死の悲しみは、”宵子”という別名の子を用い
て小説に表したほどであった。