UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

「ぼくたちは美しいものだけを見たい」症候群・・・

2016-07-31 00:21:03 | 日記

昨夜、19歳になるネコが死にかかっていると、知人から電話がかかってきました。

19歳といえば人間なら90歳か100歳ぐらい、しかたないよネ、とネコの話が終わってから、若干こみいった話となり、GGIよ、あの話、もう一度仕切り直して考えてくれないかという知人の要望、妥協名人のGGI、まあ命にかかわるような話ではありませぬので簡単に応じることにしてしまいました

「今日の用件はこのぐらいにしてGGI、最近はどうなの?忙しい?」

「いやあ、閑中閑ありです。この暑さでうんざりというところですが、例の事件、726日に相模原市の障害者施設で19人もの知的障害者が殺害された事件、帝銀事件以来の大量殺人事件、なんともやり切れないというか・・・」

「あの事件の犯人、明らかに《アーリア人は卓越した人種である》とするナチス・ドイツの優性思想(人種政策)に影響されて犯行に及んだもののようですね・・・」

「そうですよね、ナチス・ドイツはユダヤ人大虐殺を開始する前の数年間におよそ20万人もの障害のある人々などを安楽死計画などにより殺したとされており、このことがユダヤ人大量虐殺の引き金になったとされています」

「そのとおり、そのような意味ではナチスの優性思想に影響された狂気にかられた人物による、極めて特異な犯罪というか・・・」

「そこなんですよ、GGIが問題だと思うのは・・・果たして、極めて特殊な人間による特異な、例外的な犯罪であるとして片付けてしまってよいのか・・・そこにGGIは少なからず引っかかっているのです」

「ひっかかるってどういうこと?」

「引っかかる理由、話すと少し長くなるのですが、あのですねえ、ボクたちの日常生活は、コマーシャリズムがもたらす様々な《美しいもの》に四六時中取り囲まれており、その影響を無意識のうちに受けているでしょう」

「確かにそのとおり、でもそのことがあの事件とどんな関係が・・・」

「あのですねえ、話が少し飛びますが、むかし、まだデジカメやスマホなどはなく、まだ個人が動画を手軽に簡単につくることができなかったころ、ビデオカメラが流行っていましたね。そのころ、ソニーかどこかのテレビコマーシャルに《ぼくたちは美しいものだけを見たい》というキャッチコピーが付されていたのを目にしたことがあるのです。このキャッチコピーに遭遇してGGI、ちょっとショックを受けたのです、ここまで露骨なもの言いをする時代になったのかと驚いたのです」

「そのキャッチコピー、どこがショッキングなの?」

「だってそうじゃないですか、コマーシャルの作り手は単に《わが社のビデオカメラを使うと美しい映像が撮れますよ》と言いたかっただけのことで他意はなかったのかもしれないけれど、このコピー、裏返せば《ぼくたちは美しくないものは見たくない》ということを意味いることに等しいのです。このコピーは《美しく感じられないもの、すなわち不快に感じるもの、汚らしいと感じるものは見たくない》ということをテレビの画面で視聴者に向かって宣言しているのと同じことです・・・・これほど露骨なもの言いはそれまでなかったように思ったのです」

「なるほど・・・確かに露骨といえば露骨ですね、汚らしいと感じるものは見たくないというのは・・・・」

「単に露骨なだけならいいのですが、このような露骨さは内に危険なものを孕んでいるのではないかGGIは思うのです」

「確かに・・・それで?」

「それに、ちょうと同じ頃だったと思うのですが、劇作家、つかこうへい氏がこんなことを言っていたのをGGIは記憶しているのです。《最近の新聞の見出しは酷くなる一方だ、たとえば『美人OL、殺される』というよう見出しがあったりする、このままでいくといまに『ブスOL、ブタに喰われる』などという見出しが現れたりするのではないか・・・》。つかこうへい氏が新聞の見出しの有り様に関して指摘していた問題は、この「ぼくたちは美しいものだけを見たい」というコピーが孕んでいる問題と同じ性質のものであろうとGGIには思われるのです」

「その問題と言うのをもう少し具体的に説明してくれない?」

「あのですねえ、さきほども申しましたが、ぼくたちは四六時中、コマーシャリズムがせっせとつくり出して私たちに提供するところの、その結果として消費者である「ぼくたちが見たい」と願ってしまうことになるところの、さまざまな「美しいもの」に取り囲まれ、それらを受け入れて暮らしているのです。」

「うん、それは否定しようのない事実だね」

「金儲けが目当てのコマーシャリズムは《ぼくたちが見たい》と願っているあらゆるものを提供します、さまざまな美しい、快適な、あるいはカッコいい、あるいは可愛らしい商品、美しい光景、快適で楽しい環境や空間、すなわち、不潔なものや不快なもの、汚らしいものなどが一切目に入らないようにつくられたレジャーや観光のための場所や施設、たとえば最近大流行のテーマパークなどの娯楽施設、「高級」を売り物にするさまざまな商業施設、たとえばホテル、デパートや商店、カフェや酒場、レストラン、遊園地、ゴルフ場などなど、これらの施設や場所では、美しからざる舞台裏を人目に触れないようにすることが鉄則です、不快に感じさせるもの、汚らしい、貧乏たらしいと感じさせるものなどはすべて排除されています。その結果、たえず《ぼくたちは美しいものだけを見る》ことになるのです」

「そのような状況はコマーシャリズムの影響が及ぶ範囲においては、避けることができないんじゃない?」

「おっしゃる通りです。ただ、ここで極めて問題なのは、このような状況は留まるとことを知らないということです。コマーシャリズムの影響が及ぶ範囲に内に留まっているのであればまだ問題は深刻とは言えないかもしれません。しかしながら、いまや《ぼくたちは美しいものだけを見たい》という症候群はコマーシャリズムの範疇をはるかに超えて広く社会の中に隅々まで浸透し蔓延しつつあるということ、このことこそが問題なのです」

「それはどういう意味?」

「それはですね、たとえばこの症候群は商業的なものではない、公共的な空間にまで、すなわち各種の文化施設、たとえば音楽ホールや美術館や図書館など、それに公園などといった公共的空間にまで広がっているのです」

「いつのことだったか忘れたのですが、東京都や大阪市が公園にいる浮浪者やホームレスの人々を公園から締め出したことがありました、公園から強制的に追い払ったのです、今でも締め出しているのかもしれません。役所はいろいろ表向きの理由を挙げていましたが,本音は美しい公園に汚らしい人たちはジャマだ、目障りだというわけでしょう。そしてお役所がこのようなことを行うだけでなく、まるでお役所のこのようなやり方を見ていたかのように、街を徘徊する少年たちが公園の片隅でかろうじて暮らしているホームレスの人々に石を投げつけたりして乱暴を働くという事件も起きています。少年たちは汚らしい人間なんか目にもしたくない、何をしてもいんだと思ったのでありませう。動機はお役所の場合と根は同じです」

「つまり《ぼくたちは美しいものだけを見たい》症候群が高じると、この症候群は、「ぼくたちは美しいと感じないもの、汚らわしいと感じるもの、不快と感じるものを見たくない」症候群に姿を変えるのです。このため、コマーシャリズムの範疇を超えて、目にしたくないと思うあらゆる不快なもの、汚らしいものをできる限り自分の身の回りから排除したいという空気が私たちの社会に蔓延しつつあるのではないかとGGIは危惧するのです。」

「一方において人権云々ということが言われながら、他方においてこのような空気が知らぬ間に広がっているのではないか、このような状況の延長線上において、このたびの障害者施設での大量殺害事件が起きたのではないか、とGGIは不安に感じているのです。」

「つまり私たちの《ぼくたちは美しいものだけを見たい》というコマーシャリズムに取り囲まれた日常生活が、どこか地下の深いところで、このたびのような残虐な事件を引き起こしかねない水脈と繋がっているのではないかという気がして、GGIはこの事件のことを考えるとなんともやり切れなくなるのです」

「そうかあ・・・そういうことだとすると、たとえば2020年の東京オリンピックに向けて、東京都では《ぼくたちは美しいものだけを見たい》運動が大規模に展開され、都内からあらゆる不快なもの、汚らしいものが排除されることになるかもしれないね」

「そうです。少なくともオリンピック関連施設周辺では《夾雑物》は徹底して底して排除されることになるでせう。前回の東京オリンピックのとき、赤瀬川原平氏らハイレッドセンターの面々が展開した《銀座歩道タイルの徹底掃除作戦》は、時代の空気を読んだすぐれたパロディでありました。がしかし、こんどはパロディではすまないでありませう、本気でありませう。」、

「そうかあ、それならGGIは東京に行ったら排除されるんじゃない?」

「その可能性はなきにしもあらずです。ですからこれまでに申し上げた意味から、このたびの障害者大量虐殺事件は私たちの日々の《美しいものだけを見たい》生活とは全く無関係な特異な事件であるとして片づけるわけにはいかないようにGGIは思うのです・・・こんな悲惨な事件の一方で、列島中がノーテンキなポケモン騒動、都では低俗スキャンダル・ジャーナリズムが知事選で大活躍、まったくどうなっているのでしょうね・・・」

GGIさんのお気持ちは良く分かりました、近いうちに某ビルの屋上、びわ湖を一望することができるビアガーデンで、美しいものけしか目に入らない景色を前にして!うさ晴らしを兼ねて暑気払いをいたしませう」

「了解です。でもあのビアガーデン、もうひとつ商売に気が入っていないというか、いいかげんなところがあって、結構目にしたくないガラクタが店の隅っこなんかに目につきますね!」

今日の写真は庵の近くを流れている小さな川の水面をとったものです。著中見舞い代わりにクリックしてご覧いただければ幸いでございます。

グッドナイト・グッドラック!

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ジャンボキュウリの園から芙蓉の園へ・・・

2016-07-30 00:42:12 | 日記

ここ数日、ジャンボキュウリ君たちのお世話をしておりましたら、わがガーデンのまんなかで芙蓉の花が咲きはじめておりました。

これから9月にかけて夏の間じゅう、毎日々々、次から次へと花を咲かせます、

わが八重葎庵ガーデンの夏、芙蓉の花が咲かなければ、ただ草々とバッタ君たちがバッコするむさくるしい緑のかたまりに過ぎないのですが、芙蓉の花のおかげで若干でありますが庭園らしき優雅な雰囲気になります、まことに芙蓉の花に感謝であります

芙蓉の花はGGIと異なりたいへんな早寝早起き、GGIが起きたころにはすっかり花は全開、でも午後少し日が傾きはじめますと、もう眠たげに花びらを閉じはじめます、一日花でありますのでこれで命を終えるのです。まことに「花の命は短くて」でありますけれども、毎日次から次に新たに花を咲かせますので、同じ花がいつまでも咲いているように錯覚してしまいます。

今日の写真は開園したばかりのわが芙蓉の園を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧くださいませ。

グッドナイト・グッドラック!

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そうや、こういうときは「キューリのように冷静に」って言うんや!

2016-07-29 00:06:02 | 日記

昨日の日記でわがジャンボ・キュウリ君、まだ3本残っていると記しました。

(昨日の日記に付した写真では二本しか写っていないように見えますが、1本は背が低いので頭だけがけがちょっぴり写っています)

昨日の午前中はあいかわらずイエロージャンボ・キュウリなど3本、依然としてわが庵の前の通りで鎮座していたのですが、夕方様子を見に出てみましたらキュウリ君は一本だけになっておりました!

あのイエロージャンボ・キュウリ君も無事だれかにもらわれていったようであり、GGIはほっといたしました。

残されていたのは背の低いややイエローふうのキュウリ君でありました。遠くからは目に留まりにくいので、心優しきGGIはこのキュウリ君を持ち上げて、カゴ代わりに用いた円筒形のゴミボックスの縁から半身が飛び出すようにしてやりました。

今日の写真は依然として街角で自分を連れて行ってくれる人を待っている最後のキュウリ君を撮ったものです。よろしければクリックしてごらんください。

この独り取り残されたキュウリ君、何やら寂しげであります

GGIのオッチャン、ボクだけが取り残されてしまった、なんか情けないなあ、ボク、嫌われたんやろか、心細いなあ・・・・オッチャン、どうしたええやろ・・・」

「まあ、そんな心配するな、そのうち誰かが連れて行ってくれるから」

「そうかなあ、ボク、もう待ちくたびれた、ボク、背は低いし、下半身は黄色くてボテボテに太っているし・・・それで嫌われるのかなあ」

「まあ、キュウリ君よ、そう心配するな、落ち着け」

とキュウリ君に慰めの言葉をかけた瞬間、とつぜん、半世紀以上の時空を飛び越えて「そうや、こういうときはas cool as a cucumberって言うんや!」と受験英語の記憶が闇を引き裂く雷鳴の如くブーメランのように戻ってきました。

この受験時代におぼえた慣用句、直訳すればキュウリのように冷静に、クールに、などという意味になるでしょうけれど、「非情に冷静に」「あくまでも落着きはらって」「涼しい顔で」と言ったことを意味する言い回しであるとされているのです。ラジオの受験講座で西尾ナントカいう先生が説明してくださったのをGGIは昨日のことの如く鮮やかに思い出しました。

そこでGGIは独りとり残されたキュウリ君に申しました

「あのなあ、何にも心配せんでええのや。君はキュウリやろ、むかしからキュウリは何があってもジタバタせずに冷静でいることになっているのや、だからそんな心配そうな顔しないで、もうしばらくここで鎮座していろ」

GGIのオッチャン、どうしてキュウリやったら冷静にしてなあかんのや、わけの分からんこと言わんといて!」

「あのなあ英語では昔からas cool as a cucumberということになっているのや、英語を話す国のキュウリはいつも冷静なんやろなあ・・・」

「オッチャン、ボクを英語の国のキュウリやない、日本語を話すキュウリや、そんなヘンなことボクに押しつけたりしないでよ」

さあて、この最後のキュウリ君の運命や如何に?

グッドナイト・グッドラック!

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ぼくたち、イエロー・キューカンバ―で~す!

2016-07-28 00:28:08 | 日記

昨日の日記に、知人のアドバイスにしたがって、GGIがもてあましているジャンボ・キュウリ君たちを一昨日の昼前に庵の前の通りに街角デビューさせたことを記しました。

はたしてどうなることか、半信半疑であったのですが、西武さんへ行って本屋で「1日3分見るだけ! ひめくり、まいにち眼トレ」という本を買ったりコーヒーを飲んだりして帰って来ましたら、デビューさせておいた4本のジャンボ・キュウリ君のうち二本が姿を消しておりました

やったあ~!やっぱり持っていく人がいるんだあ、と喜んだのでありますが、先日に日記でも紹介しました一番ジャンボなキュウリ君は残っておりました

でも日が暮れるころには、あと1本姿、消しておりました。残りは1本、でもわが知人の耕作地にはまだ収穫していないキュウリ君たちがいるのではないかと思い、すっかり畑地を覆っている草々をかき分けて探してみましたら、3本、やはりジャンボなキュウリ君たち、自らの重みに耐えかねて半分地面に横たわっているのが見つかりました

けれども、成熟しすぎたのか、日当たりが悪かったせいか、全身が黄色になっております。、まあ、これでも持っていってくれる人がいるかもしれないと思い、これら3本のキュウリ君たちの街角デビューに追加しました

そして昨日の昼前、デビュー・キュウリ君たちの様子を見に通りに出てみましたら、あの一番のジャンボ・キュウリ君は姿を消しており、黄色のキュウリ君たちも二本ばかり姿を消しておりました。そこで、これはもっとがんばらなくてはGGIは張り切りました。さらにわが知人の畑を荒らしまくりましたら、青い準ジャンボ・キュウリ君が1本、黄色のジャンボ・キューリ君たちが二本、草葉の陰に隠れているのを見つけました。

かようなしだいで、合計10本ばかりのジャンボ・キュウリ君たちを街角デビューさせたことになるのですが、昨夕の時点で、残っているのは3本です

昨日、お酒やビールやお米を頼みにGGIご用達の創業100年を越した近所の酒屋さんにいきましたときに、酒屋さんのおかもさんに、ジャンボ・キュウリで往生したと申していると申しましたら、おかみさん曰く

「キュウリは中途半端に大きいのは苦いだけで食べられないけれど、大きくなり過ぎたキュウリは冬瓜と同じように料理して食べればいいのですよ」

なるほど、胡瓜も冬瓜も瓜なのだからそういうことなるかとGGIは納得いたしました。しかしながら、GGIが冬瓜の調理法などという面妖なものを知っているはずはありませぬ。

おかみさんの話を聞いていて、いつであったか、ずいぶん以前、湖都からJRで20分ほどの町、その郊外の旧家で暮らしている広大な畑地を持っている知人が大きな大きな冬瓜をわざわざ持って来てくれて困惑したことがあったのを思い出しました。困惑の果て、GGI、結局はこの大きな大きな冬瓜、誰かに進呈してしまったのでありました。

キュウリの英語はキューカンバー(cucumber)であります。中学校のときに習ったのですが音の響きがなにかユーモラスでありますので、物覚えのわるいGGI、いぢ度でこの英単語を覚えてしまい、今に至っております

今日の写真は街角デビューしたイエロー・キュウカンバ―です。よろしければクリックしてご覧くださいませ

グッドナイト・グッドラック!

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ボクたちは大きくなり過ぎてしまったキューリで~す、よろしく~~!

2016-07-27 00:28:12 | 日記

先日711日の日記に、わがガーデンの中にある知人の耕作地で50センチ近くはありそうな大きなキュウリがなったことを御報告いたしました(よろしければ以下のサイトをご覧くださいませ)

http://blog.goo.ne.jp/ugugggi/d/20160711

その後も、耕作主が姿を現さないうちに何本も長さが40センチ近い大きなキュウリが何本もなりました。おそらく適切な時期に収穫しなかったので大きくなり過ぎたのでありませう。

このまま放置しておいても仕方がありませぬので、一昨日、依然として姿を現さない耕作主に代わってこれらのジャンボキュウリ君たちを収穫いたしました。

収穫はしたものの、以前にも申し述べましたようにGGIはキュウリに非常なる好意を抱いているわけではなく、キュウリ君たちのほうもGGIに好意を抱いているわけではございません。すなわち、収穫したキュウリ君たち、このままではただ放置されただけで、食されることなく、ただただ古くなり命を終える運命にあります

しかしながら、キュウリ君たちが不運な終わりを告げることはGGIの本意ではありませんので、誰かにキュウリ君たちをもらってもらうことにいたしました。

まず、若干の用事があった湖都に出てきた湖東の奥地に住む知人にジャンボ・キューリー、いらんか?とききましたら「オレのところも畑やってる、キューリ、もうどっさりある」と簡単に断られてしまいました。

そこで市内の住む畑なんかやっていない某知人に電話して「カクカクシカジカ、キュウリあげる!」と伝えましたら、「あのなあ、オレ、いま、歯の治療中、ばっさり歯ぬいて、入れ歯つくってもらっているところ、だからキュウリなんか噛めん」と断りの言が返ってまいりました。

キュウ地に陥ったGGI、そこで市内の別の知人に電話して、わがキュウリに関するキュウ―状を訴えました。

「あのなあ、カクカクシカジカでジャンボキューリができてしまってのやけど、オレはキュウリと相性良くない、そこでカクカクシカジカしたんやけど、貰い手がない、どうしたもんやろ、御教示願いたい」

GGIよ、そんなことで悩む必要はなし。あのなあ、とれたジャンボ・キューリ、かごにでも入れて《どうそ自由にもっていってください》などと書いて道のわきにでも置いておいたらええのや、すると誰かが知らない間に持って行ってくれる。おれ、以前駅前で小さな店やっていたときに、よく頼まれて野菜なんか店の前においていたもんや」

「あそこは結構人通りが多いから、そうかもしれんけど、わが庵の前の大通り、ろくに人通りがないからなあ・・・」

「大丈夫や、通りかかった人があんがい持っていくもんや」

かようなしなしだいで、昨日の午後、ジャンボキュウリ君たちをカゴならぬゴミ箱用の容器に入れてわが庵の前の通りに置いてみました。はたしてどうなることでありあせうか・・・

今日の写真は庵の前の道端で鎮座しております四本のキューリ君たちを撮ったものです。先日ご報告いたしました一番ジャンボなキューリ君も写っております。よろしければクリックしてご覧くださいませ。

グッドナイト・グッドラック!

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