UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

オウム関係者大量処刑の衝撃・・・死刑問題シンポジウムのPRです

2019-02-27 01:57:11 | 日記
昨年、法務省(川上陽子法相)は7月にオウム真理教幹部ら13人に対して二回に分けて一挙に死刑を執行しました。

《大量処刑》とも言うべきこれまでに類をみない死刑執行であり、死刑に賛成であるか反対であるかを問わず、日本には「死刑」という制度が存在しているのだという当たり前の事実の重さを多くの市民があらためて実感したのではないでせうか。GGIはこれまでの死刑執行の時とは異なる何か重苦しい空気がとつぜんあたり一面に覆ったような気がいたしました。多くの市市民にとってオウム関係者の大量執行は衝撃的であったと言ってよいでありませう。

このためでありませうか、この大量執行の後、死刑に関する世論に変化が現れています。

内閣府は5年に1度、死刑制度について世論調査をしていますが、最近の調査では各回ともに、8割程度の人々が制度を「やむを得ない」と答えており、たとえば最新の2014年調査では死刑に賛成の割合が80.3 %に達していました。大半の国民が死刑に賛成あるいはやむを得ないと考えていることになります。

ところが、オウム関係者の大量執行が行われた翌月の8月14日~28日に朝日新聞が行った調査では、これまでの内閣府の調査とは少々異なった結果が現れています。調査方法や調査対象の人数など調査の条件が内閣府による調査とは異なっているものと考えられますので、この二つの調査結果を単純に比較することはできないのですが、そのことを差し引いて考えても、死刑に関する市民の考え方に、オウム関係者の大量執行の後に何らかの変化が現れているのではないかとおもわれます。

朝日の調査結果は以下のとおりです(回答者総数2051人)。

あなたは、日本に死刑という刑罰が必要だと思いますか?

•絶対にあったほうがよい977票 47.6%
•どちらかといえば、あったほうがよい237票 11.6%
•どちらともいえない61票 3.0%
•どちらかといえば、廃止すべきだ200票 9.8%
•絶対に廃止すべきだ  576票 28.1%

死刑に賛成の人とどちらかといえば賛成の人をあわせると59.2%、死刑を廃止すべきとする人とどちらかといえば廃止すべきという人をあわせると、37.9%です。オウム関係者の大量執行後でも依然として死刑に賛成している市民は全体の3分の2近くを占めており、世論調査では死刑が支持されていることに変わりはありません。

また、昨年7月29日、30日に毎日新聞が行った調査では死刑賛成は58%、昨年8月5日にNHKが行った調査では賛成は58%であったとされています

しかし、内閣府による調査では死刑に賛成が80%台でした。ですから、先に述べましたように調査の条件が異なっていますから、どの程度実際に変化が現れているかを正確に評価することは容易でないのですが、これらの調査結果から何らかの有意な変化が、死刑に賛成する市民が減少し廃止を求める市民が増えるという変化がオウム関係者の大量執行を受けて現れているのは明らかではないかと考えられます。

これまでに類を見ない「大量処刑」の報に接して、死刑に疑問を感じる市民、死刑は廃止すべきだと感じる市民が増えているのではないかと考えられます。少なくともオウム関係者に対する死刑執行を機会に死刑問題への関心がたかまりつつあると言えるのではないでせうか。

昨年はオウム関係者に対する執行も含めて計15人が執行され、一時中断されていた執行が再開された1993年以降では2008年と並んで最多の執行件数となりました。

一方、今年は天皇の代替わりの年、「慶賀」すべきとされる今年、天皇家の宗教である神道は「死」を「穢れ」として忌み嫌いますから、法務省は死刑執行を見合わせるでありませう。また来年は、これまた国民的慶賀行事とされるオリンピック開催の年でありますから、オリンピックを控えての、あるいは開催中の、死刑執行となれば、いまや世界の3分の2の国々(142カ国)が死刑を廃止している国際社会から非難を浴びかねません。このため来年は少なくともオリンピックが終了するまでは、法務省を執行を見合わせるであろうというのがGGIの希望的観測です。

死刑に反対するGGIとしましては、この一年半以上におよぶ死刑執行一時停止という絶好の空白期間を機会に、日本が何とかして死刑廃止に向けての第一歩を踏み出してほしいと願っています。

死刑問題に関しては弁護士さんの間でも意見は様々です。死刑に賛成あるいは死刑廃止に躊躇する弁護士さんも珍しくありません。弁護士さんだからと言って死刑に反対とは限らないのです。すこし以前のことですが、弁護士さんたちが何人も集まっている場で、立ち話でGGIが死刑は廃止すべきであると口にしましたら、「自分は死刑に賛成だ、必要だ」と自信を持って明言する弁護さんがいましたので驚いたことがります・・・

しかしながら、日本弁護士連合会は2016年の「人権擁護大会」で、2020年までに死刑制度の廃止を求める宣言を採択しています。2020年にはオリンピックだけではなく死刑廃止を日本に勧告している国連による刑事司法分野の最大規模の会議、「犯罪防止刑事司法会議」が京都市で開催されますので、日弁連は2020年に目標を定めているのです。

そしてわが湖国の弁護士会、滋賀弁護士会はこの日弁連の宣言に先立ち、単位弁護士会(各都道府県単位の弁護士会)のなかで最初に死刑廃止を決議しているのです!

こうした状況の中で、滋賀弁護士会が主催する(共催:日弁連)「死刑廃止の実現を考える日」と題されたシンポジウムが来る3月16日(土)午後2時から大津市内の公共施設「ピアザ淡海」で行われます(無料、予約不要、手話通訳あり、託児あり)。

滋賀弁護士会による、死刑廃止に向けての取り組みについての報告が行われた後、基調講演が行われます。講演者は弁護士の安田好弘氏(東京第二弁護士会)です。演題は「死刑制度の問題点~オウム関係者の大量執行を踏まえて」です。

安田弁護士はオウム真理教裁判で教祖の浅原彰晃の主任弁護人を務め、また和歌山毒カレー事件、光市母子殺害事件など数多くの死刑裁判で弁護を担当されてきました。新宿西口バス放火殺人事件では、死刑の求刑に対して無期懲役の判決を得ています。著書に「死刑弁護人、生きるという権利」(講談社)などがあります。

GGIは知人らと協力して数年前に安田氏の活動を追ったドキュメンタリー「死刑弁護人」(東海テレビ制作)の上映会を行ったことがあるのですが、この映画のなかで安田氏は次のように述べています

最高裁の弁護人は死刑執行まで背負う。遺体を引き取き、葬式を出す

《付き合っている人やで、「ほな、さいなら」とはいかんやないか》

死刑問題に関心をお持ちの方、賛成であっても反対であっても、よろしければ滋賀弁護士会のシンポジウムに足をお運びくださるよう、滋賀弁護士会に代わってお願い申し上げます。

今日の写真は滋賀弁護士会によるシンポジウムのチラシを撮ったものです。クリックしてご覧になってください

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マッカーサー声明vs安倍総理大臣の「大和心」・・・

2019-02-25 00:38:29 | 日記
前々回の日記、2月21日の日記に1948年12月23日早朝に7人のA級戦犯が処刑された日のマッカーサー声明について書きました

《この日、全日本国民は世界に平和が続くよう、神に祈るべきである》

日本の歴史上例のない「敗戦」という難局に直面した日本人がこの難局を乗り越えるためには平和が続くことを神に祈る以外に他に方法はないと言う意味でありませう。

声明の趣旨は明解なのですが、この声明の難点はわが日本には「神」はいないということです。おそらくマッカーサーは西欧的な意味の「神」すなわちGODを念頭においてこのような声明を出したのであろうと思われるのですが、クリスチャンは別として、日本人の大半はGODなるものの存在とは無縁だからです。神社やお寺にお参りして「拝む」ことはしても「祈る」ことはいたしませぬ。仏様や実体の定かではない神道の「八百万の神」(やおろずの神)を拝むのです。たとえお祈りはするとしてもGODに対する祈りとはかなり概念の異なるものでありませう。

「祈る」は英語ではpray、拝むは英語では「worship」と表現されるとされていますが、この解釈が正しいかどうか、今日は比較文化論のお勉強時間ではありませんので棚上げしておきます・・・また、GODとは何なのだという問題も少なからず厄介な問題でありGGIの手に余りすぎますので同じく棚上げしておきます・・・

とにかく、ここで言いたいことはマッカーサーの「神(GOD)に祈るべきである」という声明は大半の日本人にとってはちょっと無理があった、あるいは違和感のようなものがあったのではないかということです。

では、GODなき日本では、難局に直面して何を頼りにするのでありませうか。

実は、わが総理大臣であることころのアベ君は、このマッカーサー声明から70年後の2019年1月29日、施政方針演説の冒頭で、声高らかに日本人は何をたよりに難局を乗り切ってきたか、乗り切るべきかについて自説を高らかに述べています。

施政演説なる退屈なモノはどうでもいい、一部関係者以外は誰も本気で耳を傾けたりしないようなものと付き合うのゴメンだと思われる方も、とてもビックリするようなことが述べられていますので、しばしおつき合いください

冒頭部は「はじめに」と題されていますが、いわば総論的なものと考えてよいでありませう。いわばアベ君の政治家として哲学あるいは基本姿勢を示す部分であると言ってよいでありませう

「はじめに」の最初の3分の1ほどには、現天皇についての言辞であり、即位以来、天皇夫妻が様々な自然災害の災害地などを訪れて親しく被災した「国民」と接したことを称賛する言葉が続きます。この部分の内容はみなさんもご存知のことばかりですので省略いたします。アベ君はこの天皇称賛の言葉の後に次のように述べています。

《東北の被災地でも、地元の皆さんの情熱によって、復興は一歩一歩着実に進んでいます。
平成は、日本人の底力と、人々の絆(きずな)がどれほどまでにパワーを持つか、そのことを示した時代でもありました。》

そしてこのあとに、上記の言葉を裏付けるものとして、明治天皇の和歌が突如として現れます

《 「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」
 
明治、大正、昭和、平成。日本人は幾度となく大きな困難に直面した。しかし、そのたびに、大きな底力を発揮し、人々が助け合い、力を合わせることで乗り越えてきました。》

この明治天皇の和歌の意味はおおむね次のようなものでありませう

「日本人が誇りとする雄々しい大和魂は、平生はあらわれなくも、一朝事のある時には、決然としてあらわれるのだ!」

みなさん、このアベ君の言辞を目にして、どうお感じになりましたか。突然「しきしまの大和心」の登場であります。何をピント外れのノーテンキなことを言ってるのだと思われる方もおられるかもしれませんが、これは総理大臣という一国の政治家を代表する人物の演説の一節です。しかも施政方針演説をいう最も重要な演説の冒頭部分の一節です。ですから、何を自己満足的なことを言っているのだと笑い飛ばしたりして看過するわけにはいきませぬ

このアベ君の言葉は、日本が明治維新以後のさまざまな難局を乗り越えることはできたのはひとえに明治天皇がいうところの、わが日本が誇るべき「大和心」(大和魂)のおかげであるとアベ君が信じていることを意味しています。

当然、このアベ君の言辞、事実関係に多々疑問が存在しているのでありますが、それよりもまず気になるのは、いつものことでありますが、アベ君は都合の悪いことには触れない、平気で無視するということです。

上記の演説の内容、明治天皇の和歌まで引用して明治維新から150年、日本の近現代史を振り返っての誇り高き演説のつもりなのかもしれませんが、自然災害などの出来事には触れても、人為的大災害とも言うべき、先の大戦における原爆投下の末の徹底的な歴史的敗北、未だに先行きまったく不透明な福島原発事故など、すなわち日本の近現代史上もっとも重要なだけではなく世界史的にも重要な、忘れることはできない、無視するわけにはいかない出来事についてまったく触れていないのです。

この二つの出来事は日本の近現代史における日本の決定的な挫折を意味する出来事であることはだれの目にも明らかなのですが、アベ君はあえて平気でスルーするのです。「大和心」がまったく無意味なだけでなく有害ですらあった出来事はなかったことにするのです。これでは歴史の偽造・歪曲そのものであることは小学生でも容易に理解するでありませう。

このような単純で乱暴かつ恣意的な歴史観は歴史観と言える代物ではありません。したがってアベ君による大和心云々いう言辞はとうてい施政方針演説の名には値しません。一国を代表する政治家の施政方針演説とはとうてい思えませぬ、あまりにもお粗末です。見識に著しく欠ける、歴史を直視することから逃げたご都合主義の妄言に過ぎないとしか申せませぬ。

そして、アベ君の施政方針演説の見落とすこのできない中心的な題点は、もうお気づきかと思いますが、「大和心」というまことしやかな古めかしい代物です。彼が誇らしく明治天皇の和歌を引用して、先の大戦における敗戦や福島原発事故には目をつぶって、わが誇るべき「大和心」さえあればどんな難局でも乗り切っていける、現に明治維新以来あらゆる平成の終わりまで難局を乗り切ってきた、これからも乗り切っていけると断言しているのです。

アベ君は「大和心」をタイヘン頼りにしているようですが、「大和心」というのはほんとうにそんなに偉大なものなのでせうか・・・「大和心」というのはまったく実態のないご都合主義の、単なるできの悪いフィクションに過ぎないのではないかと言うのがGGIの考えです。と申しますのは「大和心」なるもの、この言葉の定義が不明だからです、定義が存在していないからです。

以前の日記にも一度書いたことがりますが、彼の本居宣長は大和心について以下のように述べています。

《敷島の 大和心を 人問わば 朝日ににおう 山桜花》

この和歌の意味は、関西弁ふうに申しあげますと、大和心とは何かと人に尋ねられたら、ちょっと困るよなあ、まあはっきりしたことはよう言わんけど、朝日に照り映える山桜の花のようなものや、とでも答えておこうか・・・ということでありませう。しかしながら、これでは何の事だかさっぱり分りませぬ。本居宣長も大和心の定義に自信があるわけではないのです。宣長の考えは「強いていうならば、あのなあ、大和心というのなあ、まあ私の個人的な考えだが、あの朝日に輝く桜の花のようにキレイなんや、清らかなんや」というところでありませう。

神道の真髄は結局ところ「清き明けき心」ということだそうでありますが、これもまったく意味不明であり、どうにでも解釈可能です。大和心もこの神道の真髄なるものと関連を有する、どうにでも解釈可能な曖昧模糊とした存在というべきでありませう・・・

しかし、これではまるで禅問答・・・答を聞いた方は、「おい、大和心は桜花のようにキレイなのか、それがどうしたというのや、それだけか、大和心って何かもっとタイソウなリッパなものものと違うのか、ふざけたらアカン、そんなわけのわからん中身のないものが何故そんなに大切なんや?アホも休み休み言え、きれいな花なんか桜でなくもいくらでもあるぞ、オレは梅のほうが好きや」などと言いたくなってしまいます。

アベ君はこのようなわけの分からないフィクションそのものの「大和心」を全面に押し出して、明治維新以来ずっとわが日本は誇るべき大和心で「国難」を乗り切って来た、これからも大和心で難局を乗り切ろうと張り切っているのです。これではフィクションとさえ言えません。単なる思いつきのヨタ話にすぎません・・・

こんなフィクションともいえないヨタ話を下敷きにして、アベ君は施政方針の「はじめに」の最後の部分でまことに平凡なる美辞麗句を羅列しております。

「急速に進む少子高齢化、激動する国際情勢。今を生きる私たちもまた、立ち向かわなければならない。私たちの子や孫の世代に、輝かしい日本を引き渡すため、共に力を合わせなければなりません。 平成の、その先の時代に向かって、日本の明日を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。」

これは何も言っていないも同然です。というのは、この最後の言葉は日本に限ったことではなく、おそらく多くの国にあてはまることだからです。これからは大変な時代だ、国民はみんな力を合わせてガンバロウと言っているだけです。こんなこと小学生でもいえます。

アベ君が頼りにするところの「大和心」は要するに乱暴に申し上げますと「神頼み」ということでありませう。しかしながら、「神州不滅」という根拠なき神頼みをしたものの神風は吹かず大敗北を喫し、同じく根拠なき原発の「安全神話」にあぐらをかいてチェルノブイリと並ぶところの、「大和心」を以ってしても克服極めて困難な、大原発事故を起こしてしまったのです・・・

もう、いいかげんにこのような超低レベル政治家は退場すべきでありませう

みなさん、今日は退屈なアベ君の演説についての話でご迷惑をおかけしました、どうかお許しください。

今日の写真は「大和心」の写真をネットさんから借用したものです。クリックしてご覧になり「大和心」についてお勉強なさってくださいませ

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今冬の若干の収穫・・・

2019-02-23 01:42:28 | 日記
近年、バレンタインデーの収穫はまったくなかったのですが、今年はめずらしく若干の収穫がありました。まことに慶賀すべきことであります。

今日の写真はこの収穫物を撮ったものです。わざわざご覧になるほどのものではございませんが、よろしければクリックしてご覧ください

写真、上のほうに写っているチョコレートは、花のJKを自称しているもののオッサン化しつつある、受験に悩める高校二年生がくれたものです。

二年前のいまごろ、GGIの高校時代の友人が闘病生活の末に亡くなりました。彼の二周忌に近い先日の日曜日、遺族宅を訪れましたら、膝小僧あたりがすこし破れているジーパンを身に着けた遺児の女子高校生がくれたのです

「オッチャン、二年前はいろいろ世話になったし、これそのときのお礼・・・」
「そうかあ、感心やなあ、このチョコ、ネスレのチョコか、フランス語で書いてあるなあ、ネスレってフランスの会社か?おかしいなあ・・・ああ、スイスて書いてあるなあ、スイス語ってないのか・・・」
「オッチャン、なに言うてるの、スイス語なんあらへん」
「そやなあ、聞いたことないなあ・・・」
「でも、フランス語読めるの、カシコイなあ・・・」
「まあな、でもインチキおフランス語や、それより英検通ったの?」
「通った、英検2級や、たいへんやった、落ちたと思ってたからラッキーや!」
「賢いなあ、オレより賢い、そのままドンドン賢くなれ」
「それがなあオッチャン、成績、もう頭打ち、低空飛行や、危険のアラームが鳴ってる、もうすぐ地面に激突や・・・」

などと話しておりましたらこの元気JKの母親が作ったおでんが出てきました。このJKさん、さっそくおでんに入っていたすじ肉をお箸でつまみました

「オッチャン、私、すじ肉、大好きなんや・・・」
「あのなあ、そんなもの、オッサンがコップ酒飲みながら食うものやぞ」
「そうや、わかってる、あのなあ、私、最近ドンドン、オッサン化してるんや、もうダイエットも止めた、どんどん太る、どうしたらええやろ」
「そやなあ、解決策はないなあ、ドンドン太って、それにつれて成績がドンドン落ちてアラームが鳴って冷や汗たっぷりかいたら、ちょっとは痩せるやろ、そうなれば身軽になって低空飛行を脱出、あとは高度を上げてエンジンふかせて成績良くなる一方や、がんばれ!」

写真の下に写っているチョコは知り合いのオバサンがめぐんでくれたものです、知人の知人であるところのオバサンです、先日西武の近くで偶然出会ったのです

「あら、GGIサンやない、お元気?こんなところで何してはるの?」
「お元気はお元気やけど・・・でもなあ、トシとると、な~んもええコトないしなあ・・・それでブラブラ、群衆の中の孤独を味わっているんや」
「そうかあ、それはお気の毒さま・・それならこれあげるわ、でも孤独は最近の流行らしいから、GGIさんは流行の最先端や!」
「何、これ、チョコレートかあ・・・」
「そう、バレンタインやし、これGGIさんにあげる、うれしいやろ?」
「バレンタインにしてはこのチョコ、もうひとつやなあ・・・ちっともバレンタインらしくないなあ、どこのスーパーでも売ってるチョコやなあ・・・」
「封切ってあるけど、まだ二、三個は小さなチョコ入ってるから」
「なんや、残り物をくれるというわけかあ・・・」
「貰う身で何ぜいたく言うてるの、感謝しなさい。人間、感謝の気持ちがだいじ!何事にも感謝してくらしていたらコドクは逃げていきます、わかった?」
「わかりました、感謝します。でもなあ、来年はもう少し張り込んでください、もっともっと感謝するから」

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《この日、全日本国民は世界に平和が続くよう、神に祈るべきである》

2019-02-21 01:59:06 | 日記
2月18日の京都新聞(デジタル版)に以下のような見出しの記事が掲載されていました。

《大事件報じた新聞・・・戦犯の死刑号外も 京都の男性が寄贈》

京都府城陽市の男性(87歳)が、1928年(昭和3年)から2011年(平成23年)までの重要事件が掲載された新聞1907点を城陽市の歴史民俗資料館に寄贈したというニュースです。

寄贈された新聞のなかには、東京裁判(正式名称は極東国際軍事裁判:1946年5月3日~1948年11月12日)でA級戦犯とされた7人の死刑執行を報じる京都新聞の1948年12月23日の号外もあり、記事にはこの号外の写真が付されていました。当時にしては珍しいカラー印刷と申しますか、赤黒緑の3色刷りです。

今日の写真はこの号外を撮ったものです。どうかクリックしてご覧ください。

ご覧のように、この号外には死刑執行についての「マッカーサー元帥声明」なるものも掲載れています。

《今早暁、東條以下の絞首刑執行さる:東條、廣田、板垣、土肥原、松井、木村、武藤ら七戦犯に対する絞首刑は今暁巣鴨拘置所において第八軍当局により執行された旨発表された》

《この日、全日本国民は世界に平和が続くよう、神に祈るべきである マッカーサー元帥声明より》

これは声明とされていますので、マッカーサーによる連合軍最高司令官としての公式の言であるものと解されます。

GGIはこの号外をはじめて目にしました。まず、事実のみが極めて簡単にしか報じられていないことに少なからず驚きました。歴史的事実としてすでに十分に知っていることですけれども、それでもこの事実を伝える号外はやはり衝撃的であります。

処刑された7人は「平和に対する罪」を問われ有罪とされた、いわゆるA級戦犯。7人のうち近衛内閣の外相を務めた廣田氏一人だけが文民、他の6人はいずれも軍人です(いずれも陸軍、海軍でA級戦犯とされた軍人は数名いますが、処刑された者はいません)。

この戦犯とされた7人の処刑は日本による戦争行為に対する決定的な断罪を意味しています。明治維新以来の富国強兵に基づく、何が何でも「列強」に伍したいという大国あるいは強国志向の行きついた先が日中太平洋戦争であったことを考えるならば、明治維新以来の日本の国のあり方が決定的に断罪された、あるいは全否定されたとも言えるのではないでせうか。この意味から、この7人の処刑は日本近現代史における最も大きな出来事であることは確かであるといってもよいでありませう・・・もちろん世界史的にもナチス・ドイツの敗北に並ぶ極めて大きな出来事であることは言うまでもありません。

そして、マッカーサーの声明も7人の処刑の報道に劣らず衝撃的でありました。GGIはこのような声明が出されていたことはまったく知りませんでした。マッカーサーの声明はなかなか厳しいものです。この声明は「全日本国民」に「世界に平和が続くよう祈れ」と命じているも同然であるからです・・・

当時、すでにGGIも「全日本国民」の一人であったのですけれども、国民はこのマッカーサーの声明をどのように受け止めたのでありませうか・・・

70年を経た今考えますと、このマッカーサー声明、「えらく厳しいなあ、何を偉そうなこと言ってるのや・・・」という感じがしないでもありませぬ。当時いくらマッカーサー元帥が天皇よりエラかったとはいえ、また連合軍最高司令官であったとはいえ、そこまで外国の一軍人に過ぎない人物に言われたくはないと思わないわけでもないからです。

しかしながら、まだまだ日本全土に空爆の傷跡である焼野原が広がっていたことを考えれば、当時の日本人の大半は、おそらくマッカーサーの言を、当然のことであるとして、それほど抵抗なく受け止めていたのではないかとGGIは思います・・・

このマッカーサーの言葉は日本人の胸の内にまだ生きているのでせうか、あるいはすっかり過去のものとなっているのでありませうか・・・

この号外をご覧になって、またマッカーサーの声明をお読みになって、みなさんはどうお感じになるでせうか?・・・

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

(この日記、つづくかもしれません)

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薔薇の秘密、綺麗な薔薇にだけ棘があるわけではないのだ・・・

2019-02-19 00:18:06 | 日記
二月も半ばを過ぎ日が長くなっていまりました。まだまだ春は名のみですが、近くまでは来ているようです。春さま、どうか寄り道したりしないでまっすぐにおいでください

昨日の午後、明るい日差しのなかをぶらついておりましたら近くの川沿いにある民家の板塀にバラの蔓(茎)が一面に展開していました

今日の写真は板塀に大展開しているバラの蔓さんたちを撮ったものです。よろしければクリックしてご覧ください

この蔓クンたち、写真をご覧になればお分かりいただけますように、見事に全身に棘をつけております。全身棘だらけです。刺刺しいどころではありません。GGIはその勇姿におもわず見とれてしまいました。君たちはそんなに頑張って、いったい何を警戒しているのかね・・・

むかしから「綺麗な薔薇には棘がある」などと申しますね。ベッピンさんは鋭い棘を隠し持っていて男性のプライドなんか一瞬にして葬り去られてしまうので、みなさん気をつけましょう、という意味であるとされております。まあ、分かりやすく申し上げれば、薔薇の棘は悪いムシがつかないようにとの防衛手段なのでありませう・・・

しかしながら、これは正確な解釈とは申せませぬ。と申しますのはこの格言?の元となった英語は以下のようなものだからです。

there is no rose without a thorn; every rose has its thorn.

棘は英語でthornというのですね、GGIこの年になるまで知りませんでした・・・でもこの単語thornではちっとも痛そうでありませんね、「棘」あるいは「刺」のほうがよっぽど痛そうですね。「刺々しい」は英語でthornyとも表現するそうですけてども、なんかシャンとしないですね、ちっとも刺々しくはありませぬ。

それはともかく、上記の英文から明らかなことは、棘は綺麗な薔薇だけにあるとは限らないということです。つまりベッピンさんだけに棘があるとは限らないということです。つまりどんなバラにそれぞれに特有の棘があるのですから、ベッピンであるか否かを問わず各自特有の棘をお持ちであるということになります。ですから世間は棘に満ち満ちているということになるのです。刺々しい社会なのです。みなさん、世間に散らばっている棘に気をつけませう・・・・

でも、なぜバラにだけ棘があるのでせう?これはちょっとした謎です。ネットさんの子ども科学教室みたいなサイトでは以下のように説明されていました。

《まだ茎がやわらかいうちにとげをとると、とった後のきずがなおらなくなり、きずあとは、そのまま残るだけではなく、茎も折れやすくなります。とげは、いらないものではなく、バラにとっては、大事な服のようなものであるといえます。
バラのとげは、若いときには、茎と同じ色をしています。緑色をしたとげは、茎の太さを倍近くにふくらませて、茎の働きを助ける役目をしています。つまりバラのとげは若いときに必要なものなのでしょう。ただ、それ以上くわしいことはよくわかっていません。
バラはとげで敵から身を守っているということをよくいわれますが、本当のところ、とげにはそこまでの力はありません。人間がさわると、たしかにとげはいたくていやなものですが、バラの一番の敵である虫たちはとげなどまったく気にしておらず、平気でバラを食いあらしているのです》

他にも植物学的な説明がありましたが、どうもはっきりいたしません。若いときは茎の働きを助けているとのことですが、ほんとうでせうか。他の植物の茎は棘なんかなくても無事成長していくのですから・・・シカなどおおきな動物に食べられてしまわないようにするためであろう、などという説明もありましたが、結局、もうひとつ確かな説得力のある科学的な説明は見つかりませんでした

でも如何なるバラにも綺麗な薔薇にも綺麗ならざる薔薇にも棘があるのは厳然たる事実でありますから、みなさん、うっかり棘で大怪我しないよう、注意して暮らしませう

しかしながら、上述のネットさんの説明にもありますように、いくら棘があっても薔薇にはムシがつきやすいのも厳然たる事実です。もちろん悪いムシもつきます。ムシは棘なんかものともいたしませぬ。棘をお持ちのみなさんに申し上げまておきます。棘は決してご自身をお守りいたしませぬ。防虫スプレーも完ぺきではありませぬ、せいぜいご注意くださいませ!

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