UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

夏の終わりに:入道雲、海、超弩級、メガトン級、軍国少年・・・

2018-08-31 01:38:54 | 日記
八月が終わります、夏の終わりのはずですが大空では入道雲クンたちがまだまだ元気です。

今日の写真は元気いっぱいの入道雲クンです。昨夕撮ったものです。よろしければクリックしてご覧くださいませ

「お~い、入道雲クンたちよ、そろそろ夏が終わりというのに、君たちやけに元気だなあ」

「おい、GGIのオッサンが何か言っているぞ」

「ほっとけ、ほっとけ、どうせあのオッサン、晩夏は八月の終わりまで、九月は晩夏ではないなどと勝手な理屈こねて、オレたちにからんでくるつもりだから無視しておけ」

夏の主人公は入道雲と海。ですから次は海のお話です。海を詠った詩歌はたくさんありますが、GGIが気にいってるのは川崎洋という詩人(1930~2004)の「海で」と題された詩です。以前にもこの日記か別の日記で紹介していますので、再登場です

海で

 今年の夏 ついこのあいだ
 宮崎の海で 以下のことに出逢いました
 浜辺で
 若者が二人空びんに海の水を詰めているのです
 何をしているのかと問うたらば
 二人が云うに
 ぼくら生まれて初めて海を見た
 海は昼も夜も揺れているのは驚くべきことだ
 だからこの海の水を
 びんに入れて持ち帰り
 盥にあけて
 水が終日揺れるさまを眺めようと思う
 と云うのです
 やがて いい土産ができた と
 二人は口笛をふきながら
 暮れかける浜から立ち去りました
 夕食の折
 ぼくは変に感激してその話を
 宿の人に話したら
 あなたもかつがれたのかね
 あの二人は
 近所の猟師の息子だよ
 と云われたのです

思わず笑ってしまいますね。でも世の中が進み過ぎたせいでせうか、あるいは荒んでいるからでありませうか、このような上等のウソをつく若者も、それにだまされる大人も、もう今ではいないではないでせうか

つぎにGGIの記憶にある川崎洋の詩をもうひとつ紹介いたします。「喜び」と題された詩です

喜び

 一生に一度くらいは
 ありきたりのそれと違う
 脳天を突き抜けるような
 超弩級の喜びが
 ありますように

 一人一人
 誰にでも皆に

 悲しみは
 願わずとも
 数え切れぬほどですから

なかなかいい詩です。でも、GGIには一つだけ気にかかることがあります。

それは「超弩級」という表現です。言わんとするところはよく分るのですが、でも、わが身をわきまえず、少しエラソーなことを申しますと、この言葉、「超弩級」という表現、はっきり申し上げてあまりポエチックではありませぬ

というのは、「超弩級」という言葉はここでは「桁外れに大きい、並たいていではない」と言った意味で用いられているのですが、元々は軍事用語であるからです。

語源は戦艦の大きさや攻撃力や破壊力を示す用語です。第一次大戦のときに建造されたイギリスの大型戦艦「ドレットノート」の「ド」をとって「弩級」の戦艦と称されたのが始まり。先の大戦では、この戦艦を超える威力を誇る戦艦という意味で「超弩級」という言葉が用いられていたのです。さしずめわが戦艦大和や戦艦武蔵は「超弩級」に相当するのでありませう。

ですからGGIの勝手な希望といたしましは「超弩級」などという無神経な荒々しい表現ではない、人々の喜びを表現するのにふさわしいもっとポエチックな表現であってほしかったのです。まことに残念です。この作者は1930年生まれ、戦時中が少年時代、ですから思わず「超弩級」という言葉が口をついて出たのでありませう。

「超弩級」のいえば、類語ともいうべき「メガトン級」という言葉があります。たとえばプロ野球などで強力な打線のことを「メガトン級の打線」などと言ったりします。

この言葉について、いつであったか、ずいぶん以前のことですが、新聞記事を眺めていて、わが長兄が以下のように申しました。

「おい、この《メガトン級》の打線云々という言葉は無神経やなあ、あのなあ、メガトンというのは核兵器の破壊力を示す言葉だぞ、そんな言葉を安易に用いてどういうつもりや、アホちゃうか!教養ゼロ、救いようがない」

おっしゃる通りであります。1メガトンというのはTNT火薬100万トンの爆発に相当するエネルギーを意味しています(メガは100万を意味しています)。ちなみに広島に投下された原爆はTNT火薬に換算すると15キロトン(1万5000トン=0.015メガトン)とされていますから、1メガトンはいかにすごい破壊力であるかがわかるでありませう(TNTとはトリニトロトルエンの略。一般的に用いられる爆薬です)。

わが長兄は終戦時に9歳、オレは軍国少年であったと言っております。いつであったか、半ば冗談半ば本気のような、若干怒気を帯びた声で申しました

「8月15日、終戦の日の夜、もう空襲はない、灯火管制もないので電燈を自由につけることができると、敗けてしまったのに大人たちがにこやかに笑っている姿を目にして腹が立った。オレは日本の勝利を信じきっていた。敗けて悔しかった、国にだまされた。このときからオレは国家というものを信用しなくなった」

9歳にして国家を信じなくなったという言葉にGGIは妙に感心して兄の背中をドーンとたたいてやりました

長兄は「軍国少年なんか簡単にできあがる、五年もあればじゅうぶんや」とも申しておりました。

今日もまた、まとまりのない話になり失礼いたしました。

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

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夏の終わりに:それがどうした!ではすまない短歌・・・

2018-08-29 01:59:56 | 日記
この夏のはじめに読書家の某知人から、なかなかの作品だよと勧められてある小説を読みました。「キジムナーkids」という本(2017、現代書館)です。GGI、昔は少しは小説を読んだのですが、文学ともあまり縁なき衆生でありますので、高齢者になってからは最近著された小説はほとんど読みませぬ。でも、知人が勧めてくれただけあって、なかなかの作品でありました。この小説、最近になって坪田譲二文学賞を受賞しています。

今日の写真はこの本の表紙を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧くださいませ

題名にある「キジムナー」というのは沖縄でガジュマルなどの大きな樹に棲んでいるといわれる妖精(あるいは妖怪?)のことです。著者は「ウルトラマン」などのかつての人気テレビ番組の脚本を数多く手掛けた沖縄出身の上原正三氏(80歳)。

敗戦の翌年に疎開先の熊本から沖縄に帰ったという上原氏の自伝小説です。沖縄戦を奇跡的に生きぬき、法律もなし、政府もなし、日本軍は壊滅、戦火で荒廃した沖縄の島にいるのは米軍だけという敗戦直後の混乱期をいつも空腹に悩ませられながらも元気いっぱい、たくましく生きる五人の少年たちを主人公にした物語。食べ物などを求めて米軍にもチャレンジする裸足の少年たちの明るくたくましいヤンチャぶりだけではなく、「鉄の暴風」といわれた米軍の凄まじい艦砲射撃、「ひめゆり学徒隊」や傷病兵たちの悲惨な最後など、「ウチナーイクサ」(沖縄戦)の実相も描かれています。

「ひめゆり学徒隊」というのは、ご存知の方が多いと思いますが、沖縄戦の最中、米軍上陸を目前に控えて1945年3月末に軍の命令により編成された女生徒(沖縄師範学校女子部の生徒と沖縄県立第一高女の生徒)による傷病兵看護のための学徒隊です。両校生徒222人と教師18人が軍と行動を共にしました。

しかし、敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、女生徒たちは先生に引率されて銃火の飛び交う危険な戦場をあてもなく彷徨うことになります。解散命令から約一週間の間に多数の犠牲者が出ており、最終的には教師・学徒240人のうち半数以上の136人が命を失い、このうちの十人(教師一人と生徒9人)は荒崎海岸で集団自決したとされています。

その最後を上原氏は次のように描いています。

「陸も海もアメリカ軍に包囲されている・・・火炎放射器を装備した戦車を先頭に戦車隊が轟音を立てて迫る。掃討の輪は刻々と迫る。逃げ切れないことを悟った少女たちのなかには配られた手投げ弾を抱いて自爆する者がいた。手投げ弾のない者は崖の上から切り立った岩場に飛び降りた。難民たちもまた同じ運命を選択した。摩文仁の海浜にはそんな死体が積み重なり、満ち潮にあおられ藻のように揺れた」

この本を勧めてくれた知人、7月の末に、京都新聞(7月27日)のある新聞記事のコピーをくれて、

「GGIよ、ここを見てごらん、この記事の中で引用されているこの短歌・・・」

《沖縄文学への道しるべ④:「詩の島」の短歌と俳句》と題されたコラムです。この記事にいくつか短歌が紹介されているのですが、知人がGGIの注意を喚起してくれた短歌は・・・

『先生! もういいですかと手榴弾を握りしめたる乙女らの顔』

作者は仲宗根政善という人物。言語学者として高名な方とのことですが、この人物、沖縄戦で「ひめゆり学徒」を引率して戦場を彷徨った、と記事に書かれていました。「蚊帳のホタル」という歌集に収められている作品です。

GGIは8月13日の日記に、俳句や短歌には、読み終わって「それがどうした!」で済ませることができる作品と「それがどうした!」では済ますことができない作品があると、まことに勝手な俳句・短歌鑑賞法を記しましたが、この仲宗根氏の短歌、まさに「それがどうした!」なとど軽口をたたくことなど許されない作品というべきでありませう

ところで、わがマザーの姉の夫は、徴兵されて満州へ、次いで沖縄に「転戦」、五人の子どもを遺して沖縄戦で命を落としています。戦死したということになっているようですが、遺骨はありません。沖縄海洋博のときGGIは沖縄出身の友人の案内で沖縄を旅しました。そのおり摩文仁の丘の平和記念公園で、熊本県出身の戦死者の名前が刻まれた石碑にこの人物の名前が刻まれていることを確かめました。

また、もう一人、わがマザーの弟はビルマで戦病死したということになっています。しかし、詳しいことは不明、敗戦から数年後、戦友が届けてくれたわずかな遺品のみ、遺骨はありません。ひょっとしたら。あの「白骨街道」で亡くなったのでせうか・・・

二人の叔父、いったいどのような最後であったのだろう、どのような思いで死んで逝ったのだろうと、思いを巡らす夏の終わりです。

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

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戦後史断片:「おじさんのこの右手がバチ~ンと彼のほっぺたを・・・」

2018-08-27 01:20:49 | 日記
8月24日の朝日新聞朝刊に、昭和天皇についての記事が大きく掲載されていました。昭和天皇が亡くなるときに侍従を務めていた人物の日記を共同通信が家族から入手し、その一部を公開したというニュースです。

今日の写真はこの朝日の記事を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧くださいませ。デジタル版にも掲載されています

記事の見出しは、《「戦争責任いわれる」昭和天皇の苦悩、晩年の心情 侍従日記に》とされています。

日記では、1987年4月6日の夕刻、天皇が「…長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことを言われる」と述べたとされています。この天皇の言に対して侍従なる人物は「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と話したとされています。

天皇の言、「兄弟など近親者の不幸」が何を具体的に意味しているのか定かではないのですが、87年2月に亡くなった弟の高松宮のことなどを指しているのかもしれません・・・

(高松宮は太平洋戦争が始まる以前から海軍の軍人でもあり、対米開戦慎重論を天皇に伝えたとされています。戦時中は大戦初頭から和平を唱え、弟・三笠宮などの和平派皇族や、和平派の政治家や軍人に協力したと伝えられています。戦後、高松宮が戦時中の終戦派としての働きを記した手記を発表した際、昭和天皇は激怒したとも伝えられています)。

それはともかくとして、みなさんはこのニュースに接してどのようにお感じになったでせうか

GGIの感想は、結局、昭和天皇は自らの戦争責任について何も語らずに逝ってしまったのだ、でも、果たしてそれでよかったのかなあ・・・ということです。

昭和天皇が先のアジア・太平洋戦争に実質的に果たしてどの程度関わっていたのか、という点については議論があるところですが、とにかく戦前の日本における飾り物ではない正真正銘の国家元首であり、いわゆる「大元帥」として軍の統帥権を持っており、先の大戦における日本側の最重要なキーパーソンであったことは間違いなく、その意味において昭和天皇が歴史的な存在であったことは確かです。ですから、戦後、自らの戦争責任を否定するにしろ肯定するにしろ、何らかの形で、国民に向けて公の場で自ら戦争責任について明確に言及すべきではなかったのか、というのがGGIの思いであります。

すなわち、戦争が終わった後、「自らの戦争責任について自ら判断を下し、それを公にすること」が昭和天皇の最低限の「戦後責任」であり、彼の歴史に対する責任ではなかったかと思うのですが、ついにその責任を果たさずに逝ってしまった、これは日本の一市民としてまことに残念かつ遺憾の極み・・・とGGIは慨嘆せざるを得ませぬ

と申しますのは、実は、昭和天皇は生前、少なくとも一度は、自らの戦争責任について公の場で正面から語る絶好の機会があったからです。

昭和50年(1975年)10月31日、訪米後、帰国してから日本で行われた記者会見において、米国の記者が、戦争責任についてストレートに質問したときのことです。記者の質問と天皇の答は以下のとおりです

「陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、『私が深く悲しみとするあの戦争』というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?」(ザ・タイムズの記者)

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」

上記の「言葉のアヤについては」というのは、《「私が深く悲しみとするあの戦争」という私の発言が戦争責任を認めたことになるのかどうかについては》ということを意味しているものと思われます。

日本の根性なしメディアはこんなストレートな質問をする勇気をまったく持ち合わせておりませんので、米国の記者さんにまことに大感謝であります。しかし、天皇は見事に逃げ切りる
と申しますか記者たちを煙に巻いて、戦争責任について正面から語ることを行いませんでした。自らの「戦後責任」を果たす絶好の機会であったのですが、その機会を自ら台無しにしたのです。

(GGIはこの記者会見のシーンをテレビで見ていた記憶があります。この天皇の答を聞いて、一瞬、何を言っているのか理解できませんでした。「おいおい、オッサン、何を言うてるのや、文学方面云々という話とはちがうやろ」と思ったのでありました。ですから、この米国の記者さんにここでもう一歩突っ込んで質問してほしかったのですが、彼はこれ以上は質問しませんでした。数多くの記者が同席していたのですが、他の記者諸氏も、誰ひとり質問しませんでした)

もっとも、どの程度反省の気持ちがあったのかは定かでありませんが、敗戦の翌年から数年にわたり昭和天皇はいわゆる「戦後巡幸」なるものを行い全国各地へ足を運んでいます。戦後の混乱する日本国内を直接視察し、復興に携わる国民を「激励」し、戦災者や戦没者遺族などを「慰問」することを目的としていたとされています。

以下はこの《巡幸》に際して天皇と直に接して話したことがある某人物から直接聞いた話です。

この某人物はわがファザーと旧制高校・大学時代をともにした、生涯を通じてわがファザーの親友であった人物です。某大手製薬会社の優良子会社の社長さんでありました。我が家は子だくさんでビンボーでありましたので、戦後まだまだ貧しき頃、この温厚で紳士然とした社長さん、ときおり神戸なんかの高級お菓子屋さんのケーキなどをおみやげを手にしてわがオンボロ庵を訪問、ですからこの人物が来るのをいつも心待ちにしておりました。

いつごろのことか記憶は定かでないのですが、あるとき、この人物がやってきて、大きく引き伸ばした一枚の写真を見せてくれました。

写真の左側にはこの社長さん、右側には昭和天皇が写っております。黒板を前にして社長さんがなにか天皇に説明しています。天皇、血色は良好、健康そのもの、意気軒昂という感じです。社長さんのほうが少し背が高く、天皇は後ろ手でやや反り返って、社長さんの説明を聞いています。ときおり「あっ、そう」などと言っていたのでありませう。社長さんは何やら右手を振り挙げております。

「おじさん、これ何しているところなの?」

「これは天皇がおじさんの会社の工場を視察にきたときの写真、工場の仕組みや様子を天皇に説明しているところ」

「ふ~ん、おじさん、右手を大きく振り上げているけれど、どうしたの?」

「これはなあ・・・そうだなあ・・・このあと、この右手を思いっきり振り回して、天皇のホッペタにバチ~ンと一発・・・」

まことにワッハッハ、愉快で明るいオジサンでありました。別にこの人物、過激な思想の持ち主ではありませぬ。皇族には誰であろうと、たとえ幼女であろうと「さま」付けにしなくはならないなどという昨今のヘンな風潮とは異なり、戦後しばらくは、この人物のように、多くの市民は、もう天皇はそんなにエラクはないんだいう感覚が強く、巷では人々は今どきよりもずっと自由にモノを言っていたような気がいたします。

たとえば作家の坂口安吾は、その著作「堕落論」かあるいは他の著作のなかで、「天皇は何を浮かれて全国あちこち歩き回っているだ。戦争に負けたのだから三年ぐらいは皇居に蟄居していろ。そのあとで、天皇が誰もお付の者を連れずに銀座を一人で歩いてきたら、オレは道を開けてやるぐらいの礼儀は持ち合わせているさ」といった意味のことを書いておりました。

そういえば、GGIは昭和天皇には直にお目にかかったことはないのですが、現天皇には近くからお目にかかったことがあります。たぶん現天皇が皇太子のころではなかったか思うのですが、彼が夫人を連れて湖国で植樹祭が行われたときにわがガーデンの前の大通りを車で通りすぎたときのことです。そのおりGGIはステテコ姿でごあいさつしたことがあるのを思い出しました。そのときのことは今年はじめに日記に書いております。GGIのステテコ姿なんてどうでもいいけど、読んでもいいよ思われる方はご覧になってくださいませ。

またまた、まとまらない話になりました。お許しくださいませ

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残暑の北向き地蔵さま、熱くないですか?

2018-08-25 01:58:10 | 日記
台風20号が去りました。台風一過なのですが、涼しくはなりませぬ。残暑厳しき候が続いています。

昨夜八時ごろ北向き地蔵さまの前を通りかかりましたら、すこし人だかりがしており、北向き地蔵さまが鎮座されているお堂の前で白い煙と炎が上っておりました

GGIは仏事とは縁無き衆生でありますのでよくわかりませぬが、願い事が書かれた護摩木でも燃やしているのでありませうか、何か夏の終わりの行事なのでありませうか・・・・

残暑の夜、闇のなかに輝く炎と立ち上る白い煙、なかなかきれいで結構でありました。

「お地蔵様、熱くはないですか?」

「これこれGGIよ、心頭滅却すれば火も亦た涼しというではないか」

「そうですよねえ、だって喉元過ぎれば熱さ忘れるといいますからね・・・」

「これこれGGIよ、それはまったく意味が違うだろう、何でも思いついたことを口にすればいいというものではない、反省しなさい」

「はい・・・・」

今日の写真はこの炎と白煙を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧になり逝く夏を惜しみ、あなたの願い事を唱えてくださいませ

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青天のヘキレキ:いきなり「家計簿をつけろ!」と言われてもなあ・・・

2018-08-23 14:41:20 | 日記
今日は、世の中、まったく想定外のことが起きることがほんとうにあるというお話でございます

昨日、町内会の当番の方が何やら紙切れを郵便受けに入れていきました。町内会の何かのお知らせかと思ったのですが、そうではありませんでした。

今日の写真はこの紙切れを撮ったものです。いつもながらお手数ですが、クリックしてご覧になってくださいませ。

紙切れの表紙には以下のような文言が記されております

《家計調査の調査員がお伺いします:お住まいの地域が「家計調査」の調査地域に選定されました。総務省統計局では、都道府県を通じて「家計調査」を実施しています。調査地域の世帯名簿を作成するために、調査員が、この地域のお住まいの方すべてのお宅を訪問して、世帯主のご氏名などをお尋ねしますので、ご多用のところ恐れ入りますが、よろしくお願いいたします。》

《家計調査は「統計法」という法律に基づいて行われる「基幹統計調査」です。「統計法」には、報告の義務、調査に携わる者の守秘義務、調査情報の適正な管理などが定められています。提出された調査票は、統計作成後、溶解処分するなど、秘密の保護には万全を期しています》

まあ、GGIは日本国民としての意識は人並みには持ち合わせているつもりでおります。忠良なる臣民とは言い難いのですが、良識ある市民であると思っております。したがいまして、国に知られて困る様な秘密は隠匿しておりませぬ。

それに、GGIは気まぐれにときおり知人たちのお尻にくっついて、行政に対して公金の不正支出などはやめなさいと裁判に訴えたり、某警察署長あてにお手紙を差し上げチャチな事件でわが知人をいつまでも拘留するのは人権侵害であると注意を喚起したり、総理大臣のアベ君や法務大臣さんへ死刑という残虐行為を実行することは国家による犯罪に等しいと説教したり、沖縄の基地内にちょっぴり地面を所有しているために沖縄防衛局にいろいろお手数をおかけしたり、原発はもう時代遅れ、核廃棄物を地下に何万年も保管するなんてほんとうに可能なのかと国の関係者と議論したり、そのついでに脱原発のデモをしたりということを行っておりますので、とっくのむかしにGGIのプライバシーなんか丸裸にされております。

ですから、調査員さんが世帯主名簿作成のために御来宅になっても何ら困ることはありませぬ、しかしながら、問題は次の段階です。

この紙切れにはもっと詳しい説明書きの紙が一枚付されておりました。この紙切れには以下のように記されております

《このたび湖都のあなたがお住まいの町の一部の地域で、平成30年10月から平成31年9月までの1年間、統計法に基づく総務省統計局の「家計調査」を行うことになりました・・・・この調査は、毎年、全国で9,000世帯が選ばれます。この調査に先立ち、調査世帯を抽出するための調査区域内の世帯状況の確認をするために、調査員が全世帯にお伺いいたします。
 その後、無作為抽出で調査世帯に選ばれた世帯主様には、半年間(単身世帯は3カ月間)、家計簿のご記入などをお願いすることになります・・・》

これはエライことであります!世帯主などの調査のあとに、GGIの庵が全国で9000世帯のうちの一軒に選ばれてしまったら、しばらくのあいだ「統計法」なる国の法律により「家計簿」をつけることを、GGIはお国から命じられることになるのです・・・

良識ある市民はこの国の命令に従わなければならないのでありませうか。GGIはここまでなんとか長生きしてきたのですが、まさか国からこんな無茶なことを場合によっては命じられることになるとは思ってもみませんでした。これはまったく想定外、青天のヘキレキ・・・GGIよ、たまにはお国のためにつくしなさいというわけです・・・

全国の世帯数は総務省の調査では約5300万世帯、そのうちの9000世帯が調査対象ですから、調査対象に選ばれる確率は9000÷53000000=0.00017、すなわち0.017%、まあ宝くじに当たる確率より低いのではないでせうか、その低い低い確率でGGIが選び出されることになるかもしれないなんて・・・

GGIは生まれてこのかた家計簿なんかつけたことはまったくありませぬ。アバウトな生活ですから、ポケットにお金が入っていれば使う、あまり入っていなければ仕方がないからお金をできるだけ使わないようにする、ポケットにお金が入っていなければヒトにたかる、といった程度の経済観念しか持ち合わせておりませぬ。

もちろん、お金持ちには程遠い暮らしであります。ですからGGIはケチンボではありませんが、ときには気まぐれに節約に努めたりいたします。たとえば外で知人たちをコーヒーなんかを飲んだりしますと、お金を払う段になって、「すまん、おれ今日は小銭が全然ない、万札しかあらへん」などと知人たちに聞こえるようにつぶやきます。そうしますと、ときには気のいい知人が「そうか、それならGGIの分、今日はオレが払っておく」とあたたかきお言葉をのたまうことがあり、GGIの節約策は功を奏するのであります・・・

町内会の会計係を二度ほどした経験があるのですが、GGIが最も苦手なのは会計簿に正確に細々した数字を記入して、細々と計算することです。自分のお金は足りていても足りなくてもどうにでもなるのですが、町内会の公金となるとそうはいきませぬ。手元にあるお金の額と帳簿上の残金の額がなかなか一致いたしませぬ。何度計算し直しても多すぎたり少なすぎたり、いささか苦しい思いを致しました

お国のために家計某をつけるとなるとタイヘンです。チョロチョロと合わない数字を誤魔かしたりしたら、国による調査の信頼性が疑われることになってしまうからです

かようなしだいで、「GGIの家計なんかを調査するよりもあの加計のことを調査したらどうなんだ」なとと思いながら、今はひたすら「家計調査」の世帯に選び出されることがないよう祈るのみです。明日、台風が通り過ぎたら、あの何でもお願いを聞いて下さるという心優しき北向き地蔵様に参らなくてはと思っております。

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・

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