UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

「ボクは青空が嫌いだ」と訴える少年・・・

2021-09-27 01:08:26 | 日記
秋になりました、澄み切った青空が広がる季節です。でも、昨日の日曜日(9月26日)はどんより曇ってときおり小雨が降るはっきりしない天気でした。

むかし、GGIがまだ幼きのころ、「あした天気になあれ」とわらべ歌を口ずさんで履いている片方の下駄をほうり投げて、表が出たら晴れ、裏返ったら雨というという遊びがありました。「あした天気になあれ」というのは、あしたも晴れたらいいなあ、という子供の気持ちを表したものですが、小さな子どもでなくても、ほとんどの人は、天気続きで水不足などということが起きていない限りは、明日は雨が降るよりは天気の方がいいなあ、青空になるといいなあと思うのが世の常でありませう。

かようなしだいで、今日ははっきりしない、うっとうしい天気だなあ、買い物に出て雨に降られてもなあと思いながらグズグズと朝刊を眺めておりましたら、ある記事のなかに(朝日9月26日「日曜に想う」と題された記事)、どうしても「あした天気になあれ」などと言うことができない少年のショッキングな話が記されていました・・・

以下にこの少年の話の部分だけを、すこしだけリライトして引用いたします

2012年、アフガン国境に近いパキスタンの村の畑でズバイルという名の12歳の少年が米軍の無人攻撃機に襲われ、一緒にいた祖母を失い、自らも深い傷を負いました。翌年、ズバイル君は米国の議会に招かれました。彼は議会で訴えました。「ボクは青空が嫌いだ。曇り空が好きだ。無人機が飛んでこないから」

アフガンやアフガン近辺で用いられた米軍の無人攻撃機は、遥か離れた米国本土にある米軍の基地から衛星を介して遠隔で操縦されていました。

(なお、調べてみましたら、この少年と彼の家族による米議会での証言については、2013年10月31日付けの「しんぶん赤旗」が、無人機に襲われたときの様子などを報じていました。よろしければご覧になってください)

いわゆる「9・11同時多発テロ」に対する報復として、9月11日からひと月足らず後の2001年10月7日から開始されたアフガン空爆に端を発した、ローマ法王をして「第三次世界大戦」と言わしめたアフガン・イラク戦争は、みなさんご承知のように、先日、8月末、米軍がアフガンから撤退したことにより、かろうじて終わりを告げました。

二十年に及ぶ米国にとって最も長い戦争・・・どこまで正確なのかは分りかねますが、米国ブラウン大学の研究によれば、この間の米国の戦費はおよそ880兆円、米兵の戦死者は約7000人、アフガン・イラク人の死者は90万人などとされています。

そして、在日米軍基地から戦場のアフガン・イラクへと発進する米軍機、イラクへの自衛隊派遣など、日本は様々な形でこの米国による二十年に及んだ意味なき戦争を積極的に支持・支援してきたのでした・・・・

今日の写真は夏の終わりに青空を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧になってください。

注1:上記の新聞記事では、米軍の場合、戦死者の他に、「対テロ戦争で身体や心に障害を負った帰還兵は180万人とされる」と報じられています。また上記の米ブラウン大学の研究では戦費880兆円のうち約200兆円あまりは退役軍人やはこれらの傷病兵などの今後の治療などに2050年までに要する費用とされています。

注2:イラク戦争開始以来、イラクにおける民間人の死者数の調査を行っている「イラク・ボエィカウント」という英米の市民団体(https://www.iraqbodycount.org/)によれば、昨日の時点で、イラクにおける死者数は約28万8000人(民間人約21万人、戦闘員約8万人)とされています。イラク・ボディカウントの数字は複数のメディアにより死亡が確認された者だけを死者としてカウントしているため、英国の著名な医学雑誌「ランセット」は2006年に、実際にはメディアでは扱われていないものの病院などで死亡した人々を加算するなどして統計学的手法を用いてイラク全土における死者数を推算すると、イラク・ボディカウントの数字の数倍から十倍にも達するだろうとしています。これらのイラクにおける死者数の数値にアフガンでの死者の数字を合算すると、上記のブラウン大学による死者90万人という数字は小さぎるのではないかとも思われます。

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月に叢雲ってステキだ!花に風ってもっとステキだ!

2021-09-24 00:53:46 | 日記
名月の季節ですね、中秋の名月、一年で一番美しいお月さまです。明月と言えば、「月に叢雲(むらぐも)花に風」などと申しますね、この言い回し、せっかくのまん丸のお月さんが雲に遮られたり、せっかく満開の桜が風で散ったり、物事うまくいっているときに邪魔が入ったりすることのたとえとして用いられるのですが、果たして雲や風はそんなに邪魔者であるのでせうか?

満月のお月さま、確かにキレイです、でも、夜空にただひとりポッカリ浮いている丸いお月さま、ポエチックではありますが、なにやら間が抜けて見えないこともありませぬ、満月なるものは目にした瞬間は、わあ、キレイだあ、と感心いたします、が、しばらく眺めておりますと、はっきり申し上げて退屈とまではいかずとも、もう十分という気になってまいります。ですからイジルワ名人のGGIは「おい、お月さんよ、君はただぽっかり夜空に浮いているだけか、芸がないなあ」などと冷やかしたくなったりもいたします

しかしながら、まん丸のお月さまの近くに雲が侍って親愛の情を示し、適切な程度にお月さまと仲良くしておりますと、何やらいい雰囲気であり、とてもステキな光景です、絵になります。かようなしだいで、GGIは「月に叢雲はステキだ!」と確信しております。いにしえの歌人も月に叢雲の素晴らしさを詠んでおります。

「秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ」
                           左京大夫顕輔:百人一首

また、GGIの考えますところ、以下に申し述べますように、花と風の関係は、お月さまと叢雲の関係以上にステキであります。

満月のお月さまがキレイであるのと同様、満開の桜もキレイでステキです。満開の桜のキレイさは満月のお月さまのキレイさは甲乙つけがたく、ほぼ同等でありませう。満開の桜もはじめて目にしたときには、わあ、キレイ!と感じ入るのですが、しばらく見入っているうちに、ただキレイなだけで、それ以上発展性がありませぬ、そのためやがてタイクツして・・・というところが満月のお月様と同じでありますが、それでも人々が花見にでかけるのは、満開の桜がステキだからというよりは、桜をサカナに食べたり飲んだりすることが楽しいからに他なりませぬ。まあ、人間界では「花見酒」と申しますように「花にお酒」が実態でございます・・・

でも、満開の桜、そよ風が吹きますとちらほらと散ります、一陣の風が吹きぬけると一瞬のうちに散ってしまいます、音もなく散る桜花、ときには予期せぬ桜吹雪、これほど素敵な光景はありませぬ。花は散り際と申しますように、満開の桜花も美しいのですが、風に散りゆく花びらの美しさに及ぶべくもありませぬ・・・

「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」 紀友則 (百人一首)

かようなしだいで本日の結論は、月に叢雲は邪魔者ではない、花に風も邪魔者ではない、すなわち、月に叢雲はステキ、花に風ももちろんステキ、ということでございます。月に叢雲、花に風は、素晴らしき自然が生みだす巧まざる美でございます・・・

今日の写真は一昨日に撮った「月に叢雲」です。クリックしてまん丸のお月さまと叢雲さんのむつまじき美をお楽しみくださいませ

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お彼岸の想ひ出・・・スクーターの若き尼僧や曼珠沙華・・・

2021-09-20 23:18:30 | 日記
お彼岸になりました。昨日は真夏のような暑い一日でしたが、GGIは感心なことにわがマザーの墓参りにいきました。残念ながら自発的に参ったのではございませぬ。わがマザーが生前お世話になっていた教会から、教会での礼拝のあと、午後、教会の墓地で永眠者のための礼拝を行うので出頭されたいと命令があったからでございます。

国道1号線沿いの急な斜面につくられた大きな墓地の一角に教会の墓地があります。墓地は琵琶湖を眼下に一望できる高い場所にありますので、急な坂道を登ったり下ったり、下ったり登ったり、老骨に鞭打ちの連続、すっかり疲れてしまいました。

帰り道、ああ疲れたなあ、寄る年波が次々に打ち寄せてくるなあと思いながら、わが母高校の脇の細い道を疲れた足を引きずってあるいておりましたら、校舎を囲むフェンスの根元に彼岸花が見事に真っ赤な花を咲かせておりました

彼岸花が咲いているのを目にますと、ほんとうに彼岸花って不思議な花だなあと、つい思ってしまいます。ほかの花は年によって咲く時期が多少異なったりすることがあるのですが、彼岸花は彼岸が近づくと寸分も時を違えず咲きます。まるで目ざまし時計をかけておいたかのように正確に、毎年お彼岸が近づきますときちんちと花を咲かせるからです。ですから、それまですっかり忘れていても、彼岸花が咲いているのを目にして、はじめて、あっ、もうお彼岸なんだと気がついたりします

真っ赤に咲いた彼岸花をぼんやり眺めていましたら、ある俳句を思い出しました

《 スクーターの若き尼僧や曼珠沙華 》 (詠み人知らず)

曼珠沙華(まんじゅしゃげ)というのは彼岸花の別名でございます。道端に咲いた彼岸花、その脇をスクーターに乗った若い尼僧が軽やかに走り抜けていく・・・路傍に咲いた真っ赤な彼岸花とまっ白の尼僧頭巾と真っ黒の法衣のコントラストがステキです。真っ赤な彼岸花の脇を爽やかな秋の風に法衣をなびかせて軽やかに走り抜ける尼・・・スクーターの色はおそらくは白でありませう・・・この句を目にしただけでお彼岸の光景、秋らしいさわやか情景が目に浮かびます。

彼岸花の脇を走り抜けていったのがオッサンのお坊さんであったり、若からぬ尼僧さんであったり、乗っていたのがオートバイだったり(もっとも尼僧さんはオートバイにまたがったりはしないでありませう!)乗用車だったりしたら絵にはなりませぬ。「スクーターの若き尼僧」としたところがお見事であります。また、「彼岸花」ではなく仏典に由来した「曼珠沙華」としたところもまことにグッドです(もともとはサンスクリットで「赤い花」の意)。あまりにも見事なのでGGIは一度でこの句はしっかり記憶に定着、いまでも覚えているしだいです・・・・

が、しか~し、正直に申し上げますと、実はこの俳句は詠み人知らずではありませぬ、詠み人はわかっております。すなわち、詠み人はわがマザー・・・これはわが亡きマザーの作品、遺作でございます。

いまを去ることウン十年前のことです。わがマザーは俳句を作る趣味は持ちあわせていなかったのですが、あるとき、ふとこの曼珠沙華の句を思いついて、GGIに詠んで聞かせたのです。自信作であったようであり「GGIよ、どう思う?」と尋ねたのであります。

そのとき上述のような適切なる感想を述べてベタほめすればよかったのです。でありますが、アホ丸出しの無教養GGI、「まあ、まあまあのできだね」などとまことにテキトー且ついい加減な返事をしてしまったのであります。わがマザーは若干気落ちしたようでありました・・・

ひとの気持を察しない、まことに不肖のデキのワルイ息子でありました。いまさらながらまことに遅きに失し過ぎているのでありますが、お彼岸にあたり、深く深く反省、わがマザーに心から陳謝するしだいでございます

ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ・ゴメンナサイ・・・
このくらい謝ればいいかなあ・・・

今日の写真は近くのお寺の裏手にある小さな公園に咲いている彼岸花を撮ったものです。珍しいものではありませんが、よろしければクリックしてご覧くださり、見事に咲いた彼岸花を愛でてやってくださいませ

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選挙近し:宣伝カーの看板、JAROさん、これって誇大広告ではありません? 

2021-09-18 00:23:22 | 日記
コロナ禍やや静まってはいるものの安心はできません。しかしながら、そんなことお構いなしに、やがてセンセイさんの季節と申しますか選挙の季節が到来・・・ところで自民党の総裁選、やっと最後になって森友問題などは再調査の要ありと明言する候補者が出てきましたね、野田聖子さん、GGIはあなたのことはまったく存じ上げないのですが、この公約ひとつでGGIはあなたを信頼することにいたします。がんばってください!

総裁選後に新政権が発足しますと、今度は衆院選、議員のセンセイ志願者の方々が市民にめったやたらにペコペコする季節、センセイになりたい方々はこれからお忙しいことでありませう

かようなしだいで、前回の日記にも書きましたが、わが庵の近くの空きビルに地元選出与党議員の選挙事務所が出現いたしました

昨日、この事務所の前を通りかかりましたら、宣伝カーが停まっていました。宣伝カーの屋根にはいろんな公約らしきものを記した看板が取りつけられていました。今日の写真はこの宣伝カーを撮ったものです。よろしければクリックして、しかとご覧になってくださいませ

看板にいろんなことが書いてありますね

「皆様とつくる新しい自民党」
「夢を実現する」 
「教育と子育て」
「安心と支え合い」
「福祉と地域社会」 
「国民のために働く」
などなど

いろいろなことが書いてあって、その相関関係がいささか分りかねるのですが、これらはすべて公約のつもりなのでありませう、でも何だか軽い思いつきであれこれ並べてみただけという何やら安易な感じを免れません・・・それに、これらのフレーズが公約であるとすると、なんだか全体的に誇大広告ぎみではないか、というのがGGIの感想でございます。選挙になりますとみなさん大風呂敷を広げるのが常であり珍しいことではありませぬが、この宣伝カーが掲げる公約、何だかあまりにもお手軽大風呂敷ではないでせうか・・・

いろいろ議員さんや議員になりたい方はご事情があるのでしょうけれど、誇大広告はイケマセン、誇大広告は悪徳、ウソは泥棒のはじまりであります。そこでGGI、日夜、誇大広告などを見張っているJAROさん(公益社団法人日本広告審査機構)に聞いてみました

「あのですねえ、うちの近くに自民党さんの宣伝カーが停まっていて、その屋根にいろいろなことを書いた看板が取りつけらえているのですが・・・・たとえば《皆様とつくる新しい自民党》とか「国民のために働く」とぁなんとかかんとか書いてあるのですが、これって誇大なことを公約として宣伝しているのではありませんか、これは誇大広告ではありませんか?」

「う~ん、なるほどねえ、《皆様とつくる新しい自民党》なんて、いかにも嘘っぽいですねえ、誇大というよりは虚偽の広告といったほうが適切かもしれませんね」
「でしょ?JAROさんはもちろん虚偽の広告も取り締まっておられますよね!」

「たしかに虚偽の広告も監視の対象としれおりますが、私どもが審査の対象とするのは主に商品として売られるものです。たとえば、ベッピンではない女性がすぐにベッピンになる化粧品とか、毎日のめばアホが賢くなるとか、すぐに若返るなどと宣伝する医薬品もどきや健康食品とかいったものを対象としているのです。ところが公約というのは商品ではございませんので・・・」

「商品ではないとおっしゃいますが、公約で票を集める、つまりおカネの代わりに票を集めてセンセイになって儲けようというのですから、公約も商品の一種みたいなものではありませんか?」

「いいかげんな調子のよい公約を見て憤慨されるお気持ちはわかりますが、公約と言うのは私共の仕事の対象ではありませんので、そういう政治的な要素がからむようななことには私どもには・・・」

「でもですねえ、今から十年以上前、福島第一原発が大事故を起こす以前、2008年の11月末に、電気事業連合会(電事連)が雑誌に掲載した『原子力発電はクリーンな電気のつくり方』という広告のコピーについて、JAROさんは「原子力発電にクリーンという表現を使うことはなじまない」という立派な勇気ある裁定し、電事連に表現の再考を促したことがあるじゃありませんか、だからインチキ公約広告にも勇気ある勧告を行ってもいいのではありませんか?」

「うわっ、なかなかの記憶力でございますね。たしかにそういうことがございました。確か、朝日新聞などの全国紙にもプロ野球の星野仙一氏が登場して『原子力はクリーンなエネルギー』とにこやかに言っている全面広告が掲載され、問題になりました(注:この問題についてはGGIはヨッサリアンという名で、別のブログの2010年11月17日の日記2010年12月22日に日記に書いておりますので、よろしければご覧になってください)。そのときも、発電の段階だけをとらえれば温暖化ガスを出さないと言う意味でクリーンかもしれないが、その他の面ではたえず放射能の危険性が存在しているのだから、原子力はクリーンと表現するのは虚偽に近いということで勧告を行いました。と申しますのは、電気なるものは消費者に販売されるものですので商品の一種である、という意味でJAROの審査の対象になるからです。おわかりいただけたでせうか?」

まあ、JAROさんのおっしゃる通りでありませう、しかしながら、いいかげんな虚偽の疑いが濃厚の公約を羅列して大きな声で宣伝して回るという行為は公害であるとは言わないまでも、少なくとも公序良俗に反するのは明らかでありませう・・・それとも、フェイク話がネットなどでまん延しているだけではなく現役の首相までもが見え透いたウソを平気でつく今日、人間ウソをつくのはあたりまえ、公序良俗などと言う言葉はもうとっくに死語になってしまっているのでありませうか・・・・

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寂しきスガ君・・・でも、まだチャンスはあるので~す!

2021-09-12 01:45:26 | 日記
先日、近くの空きビルの前を通りかかりましたら、当地選出の自民党国会議員と菅首相のポスターが貼ってありました。どうやら、このビル、来る衆院選の選挙準備事務所に衣替えしたようです

ビルを見上げましたら、二階の窓際に菅君が寂しげにポツンとひとり突っ立っておりました。今日の写真はこの菅君の姿、すなわち菅君のポスターを撮ったものです。このポスターには菅君の名前も自民党総裁、内閣総理大臣の肩書も記されていません。すべて省略されています。ただ、左下に小さく「政治は国民のため:自民党」と記され、右側に、写真には写っていませんが、縦書きで大きく「国民のために働く」と記されているだけです。よろしければクリックしてご覧になり、しかとご確認くださいませ

このポスターを眺めていて、GGIは「あ~あ、スガ君、可哀そうやなあ、まだ現役の首相であるのに、はやくも肩書まで奪われてしまって・・・・」と少なからず同情いたしました

彼の寂しげな姿を眺めながらあれこれ妄想をふくらませておりましたら、菅君を元気づける方方を思いつきました・・・

そうや、辞任するつもりであるとは言ったけれど、まだ辞任したわけではないんや、それなら総裁選立候補受け付けの当日、会場に姿を見せて、「過日辞任すると申し上げましたが、撤回いたし、総裁選に立候補することを決意しました!」と高らかに宣言すればいいのだ、あきらめることはない、まだまだチャンスはあるのだ・・・

以下はGGIの妄想に基づく菅君との会話でございます

菅さん、あきらめるのはまだ早い、辞任を撤回、立候補を表明するという方法が残されているのです!あなたは続投する意思を表明した翌日には辞任を表明したという豹変の前歴がすでにあるのですから、もう一度豹変してらいいのです!カンタンな話です

わかった!でも立候補する理由はどうするのだ

簡単です、説明不足といっていつもあなたは酷評されていますが、今度だけはご自身のことですからちょっぴり丁寧に順序立てて説明してください

どんなふうに?

そうですね、あなたがコロナ禍への対策とコロナ禍中にオリンピックを強行することに懸命に努力されているあいだ、高みの見物を決め込み、政権を支えるた努力をなにもせずにゴロゴロしているだけで、そのうえ国会をさぼり倒していたアベ君、アソー君、ニカイ君などをはじめとした自民党幹部と平の議員たちへの恨みつらみを率直に述べればいいのです、ほんとうは下品な関西弁を駆使されるが一番なのですが、ここは下品を避け、ひとつ格調高い日本語でおっしゃってください。政治家は言葉が命、格調高き言葉が必要です。アベ君やアソー君などは格調とはおよそ無縁の品性なき政治家です。そういうヤカラのマネをしてはいけません。原稿を読み上げるのは結構ですが、今度は読み飛ばしたりせずに、一言一言、区切るようにして力強くお話になってください

どんなふうに?

たとえば、こんなふうにでございます
------------------------
私がこのたび再任を目指して、辞任表明を撤回し立候補することにしましたことの直接的な原因は、先日ニカイ君から「恩知らず」というまことに見当違いの下品極まる言葉を浴びせられたからであります

そもそも昨秋、私がやむを得ず、不本意ながら自民党総裁、総理大臣になるに至ったのは、国難とも言うべきコロナ禍とコロナ禍の中での二回目の東京オリンピック開催という非常識な難題を前にして、恐れをなしたアベ君が、恥知らずなことに、急に仮病を使って敵前逃亡を決め込んだために他なりません。これが無責任でなく何でありませうか!

国難と難題を前にしての彼の意図的な敵前逃亡が万死に値することは火を見るより明らかであります。アベ君やニカイ君に「首相の座を継ぐのは君しかいない、この非常事態を乗り切ることができるのは君しかいない」などと泣きつかれて、私は不本意でありましたが、お国ために、あえて自らが窮地に陥るリスクが極めて大きいことを分かっていながら、火中の栗を拾うべく貧乏くじを引いたのであります。その結果、私はアベ傀儡政権を樹立し、自民党政権の危機を救ったのであります。あのとき私が固辞して新政権の発足が遅れていたならば、コロナ対策やオリンピックの準備はいったいどうなっていたでありませうか。このことを忘れて私に向かって「恩知らず」とは何事ですか、恩知らずなのはどっちですか、ニカイ君、君と安倍君の方ではありませんか!筋違いの言辞を弄して現首相を見下すという非常識、恥というモノを知りなさい、恥を!

また、私どもはコロナ対策についてなにやかや批判をあびてきましたが、もし私ではなく他のどなたが首相になっておられたとしても、私が行ったこと以上のことを果たしてどれだけできたでありませうか?おおいに疑問であります。私はコロナ対策で十分な成果を上げたと申し上げるつもりは決してありません。しかし、失敗だったと言われるGO TO ナントカは景気のことカネのことしか考える能がない財界や経産省のアホな要望に押し切られたからに他なません。ワクチンの輸入が遅れたのもお調子者で口先だけが達者なコーノ君のせいです。もちろんコーノ君にワクチン調達役を命じたことの任命責任は私にございます。その点を誤魔化すつもりは毛頭ございません

それに、コロナ禍の中でのオリンピック強行にしましても、元を正せば何の必然性も存在していないにもかかわらず、目立ちたがり屋でも軽薄な甘ったれワガママ坊やであるアベ君が気まぐれに、自らの人気取りのために誘致したからであり、またJOCがカネでオリンピックを買うという犯罪とも言うべき破廉恥な行為を行ったからに他なりません。すなわち、私は傀儡政権の首相として、恥ずかしげもなく敵前逃亡したアベ君がすでに敷いていた路線に従わざるを得なかっただけであります

一方、私どもがモリカケ問題や花見問題などの真相究明に努力しなかったことは事実でありますが、実は何が何でも誰にも真相究明を行わせないことこそが、アベ君とニカイ君が私を傀儡政権の座につけたことの最大の理由でございます。見苦しいだけの言い訳だと思われるかもしれませんが、これが歴史の真実でございます。このような事情があったとは言え、今振り返ってみますと、わたくしの不徳の致すところであり、まことに忸怩たる思いがいたします

それに日本学術会議会員の任命拒否問題にしましても、私が率先して行ったわけではありません。この問題はもともとは前内閣時代に安倍君により画策され、引き起こされたものです。すでに以前から、安倍君が市民を監視することで治安を強化することを使命とし且つ生きがいとしている元警察官僚の杉田副官房長官に命じて学術会議に干渉していたのでございます。私はこの問題を押しつけられたに過ぎないのです。任命拒否の理由を頑としてご説明しなかったのは、私がわざわざ説明しなくても国民のみなさんはとっくにその理由をご存知であったからに他なりません。説明を要しなかったからです。すなわち、ここではっきりと申し上げますと、任命されなかった諸氏はいわば「思想が悪い」人物であるとアベ君と副官房長官が判断したからです。国家にとって危険で不快な人物であるとアベ君がみなしたからであります。もちろん、任命拒否が思想・信条の自由と言う憲法で保障されている基本的人権を権利を侵害する行為であることは明らかであります。

等々、私の政権に大きな失敗があったとしても、すべてその真の原因はアベ君にあるのであります。ところがこのたびの総裁選、立候補を予定されているほとんどの方は、何ら躊躇することなくアベ君に公然とおべっかを使っているのであります。その証拠にキシダ君もコーノ君も、早々と森友問題の再調査は行わないと明言しております。アベ君の忠実な子分であるタカイチ君に再調査の意思がないことはいうまでもありません。すなわち、総裁選の立候補予定者のほとんどが自ら進んでじアベ君に恭順の意を表明しているのです。アベ君の小汚い汚職行為から目をそむけ自ら見て見ぬふりをしようとしうのです。これは異常な事態です。明らかなる悪事から目を背ける、見て見ぬふりをする、そのような連中が総理になりたがる、何ということでありませうか、これこそ腐敗の極み、これは自民党の危機であるだけではなく、まさに日本の危機であります。このままでは誰が首相になろうとも何も変わらないであろうことは私が明確に保障いたします。

かようなしだいで、アベ傀儡政権のトップを務めてきた私は、深く過去を悔い、「恩知らず」などと筋違いな言葉を投げつけられようとも、国民の皆さんの為に辞意を撤回することを決意したのでございます。勝敗は問題ではありませぬ、いま必要とされているのは、真の意味での「国民のための政治」でございます。かようなしだいで、みなさんのご理解のほど心からお願い申し上げるしだいでございます。

私のポスターの左下に、小さな字ではありますが、《政治は国民のため》と記してございます。しかしながら、今や現実は《政治は政治家のため》と化している、より具体的には《政治は自民党政治家のため》と化していることは明らかであります。いまや私には失うものはなにもありません。決意を新たにがんばるしかありません。どうか皆さん、お力をお貸しください!平に付してお願いもうしあげます。御静聴、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
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こんな感じでいかがでしょうか?菅さん

ええなあ、なるほどなあ、メリとハリがあるというか、結構格調あるなあ、オレ、やる気が出てきた、ありがとう!

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・

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