野坂昭如(1930年生まれ)という作家がいました。彼は先年、日米開戦の日の翌日にあたる2015年12月9日に亡くなりましたが、彼の著作のなかに《「終戦日記」を読む》という作品(NHK出版2005年、朝日文庫)があります。
この作品、本の帯には以下のように記されています。
《「読む」のではなく、ぼくにとって、もう一度、あの時代を生きる、少し辛い作業だった-昭和20年8月5日、広島の女学生・森脇瑶子さんは「一生懸命がんばろうと思う」と日記に書き、その翌日、原子爆弾の犠牲となった・・・あの時代、大人たちは何を考え、どう生きてきたのか-山田風太郎、高見淳、大仏次郎、永井荷風、渡辺一夫、德川夢声、中野重治、海野十三、伊藤整らの日記を読む》
つまり、野坂氏のこの作品は、「終戦」を目前にして、作家らや様々な市民が先の戦争をどのように捉えていたのかを、様々な人の手になる「終戦日記」を読むことにより追ったものです。
ところがこの本、「まえがき」にいきなりかなり考え込まされることが書かれています。
《・・・また、同じころから(昭和32年ごろ)、戦時中四十台だった方に、いつごろから日本は負けると感じなさったか、不躾を承知で、誰彼なしに伺い、また戦争に至るまで、戦中戦後、いろいろな立場で、書いた本を乱読、これは今でも続いている。ことさら特別なぼくの感慨でもないが、つくづく、日本人は戦争を知らなかったと思う。四面海もて囲まれているお国柄と、国境を接しているヨーロッパじゃまるで違う。知らなかったことは、また、最前線で、銃を手に、敵と対峙した兵士は確かに戦った。内地じゃ、戦争は空襲が始めるまではよそごと、もちろん肉親を戦場で失った方々にとっては、戦争は悲しくも切実なことだ。ただ、小説で読むだけだが、遺族の受け止め方が欧米とはやはり違う。どう違うか明確にし得ないが、一言でいってしまうと、日本人は戦争を天災の類とみなしている。・・・・》
確かに日本本土への米軍による本格的空襲が始まったのは1944年末からですから、太平洋戦争が始まった1941年末から三年間は、あの戦争の大半の期間は、つまり日本の敗色が歴然となるまでは、本土にいた日本人にとっては、野坂氏が言うように「戦争はよそごと」で言えるでありませう・・・
実は野坂氏のこの作品、ずいぶん以前に一度読んだことがあるのですが、そのときも、またこのたびあらためて読み直したときも、「まえがき」の上記の部分がとても気になりました。とりわけ、最後の一文、「日本人は戦争を天災の類とみなしている」という部分です。はたして、そうなのだろうか・・・そう言い切れるものだろうか・・・でも、そうかもしれない・・・
などとぼんやり考えておりましたら、先日、歴史学者が著した、最近出版された「天皇と軍隊の近代史」(加藤陽子、勁草書房、2019年)という本を読んでいて、偶然、まるでこの野坂氏の指摘を裏付けるかのような記述がなされているのを目にして、少なからず驚き、やはりそうなのかと、考えさせられてしましました。
この本の中に、「オラドゥール・スール・グラヌとヒロシマ」と題された箇所があるのですが、そこに野坂氏が指摘を想起させることが書かれていたのです。オラドゥール・スール・グラヌというのはフランスの小さな町の名前です。
二次大戦中に、オラドゥール・スール・グラヌ・グラヌという小さな町で、1944年(昭和19年)6月10日 、町民1574人のうち642人がナチス親衛隊により虐殺される事件が起きました。生存者の証言に基づいてフランス政府は、1953年、虐殺に関与したドイツ人将校以外の14人のアルザス出身のフランス人に対して、死刑と強制労働の判決をいったん下したものの、後に全員に特赦を認めました。これに憤った住民は政府と対立しましたが、89年、ミッテラン大統領が記憶のための資料館建設に着手することで両者の対立は解消に向かい、十年後にシラク大統領の時代に資料館が開館しました。かつての惨劇の跡を示している史跡の入り口には「憶えておいて」という、死者から生者へのメッセージが掲げられています。
このメッセージについて、著者の加藤陽子氏はこの虐殺事件について以下のように記しています。
《次に、日本の戦争に対する記憶の特質を考えるために、フランスにおける戦争の記憶について、歴史民俗学の立場から研究を見てみましょう(関沢2020、167~177)・・・・フランスの(大虐殺事件の)例からは、死者から生者へのメッセージが正確に写し取られていることが確認されますが、この点、日本ではどうでしょうか。ただちに想起されるのは、広島市平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑の碑文「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」ではないでしょうか。日本の場合、生者から死者へ向けて発せられる言葉は、誓いと祈りの言葉となっています。誓いと祈りの言葉で原爆を記憶しようという日本側の態度は、外部からの視線で捉えるとき、日本人が原爆を風水害など天災のようなものとみているのではないかとの想念を誘うことになります。
たとえば58年、第四回原水爆禁止世界大会に出席するため、広島・長崎を訪れたドイツの哲学者ギュンター・アンダースは、日記に次のように書きました(アンダース、1960、111)。
かれらは(被曝者を指す、引用者注)一様に、咎めるべき者については語らず、出来事が人間によって起こされてという点について沈黙する。そして一様に、このうえない犯罪の被害者となったにも関わらず、ほんの少しの怨嗟も抱いていない―これは私からすればあまりに行き過ぎていて、理解を通り越してしまう(中略) あの破局について、かれらは一様にそれが地震や隕石の落下、あるいは津波でもあるかのように語るのだ。
ついでながら申し上げますと、昭和天皇は1975年10月31日の記者会見において、広島に原爆が投下されてことについて、「遺憾に思うが戦争中のことでありますから、広島市民には気の毒だと思うが、やむを得ない事と、私は思っています」と答えています・・・「戦争中だからやむを得なかった」という言、戦争に深くかかわっていたはずであるのに、この天皇の言、まるであの戦争は他人事という感をぬぐえませぬ。天皇までもが、あの戦争を、原爆の投下を天災の如きものと感じていたのでありませうか・・・
加藤陽子氏は「誓いと祈りの言葉で原爆を記憶しようという日本側の態度は、外部からの視線で捉えるとき、日本人が原爆を風水害など天災のようなものとみているのではないかとの想念を誘うことになります」と書いていますが、確かに、毎年八月十五日に政府が主催して行われている戦没使者追悼式典と、同じく政府主催で三月十一日に行われる東日本大地震犠牲追悼式、この二つの式典、式典の形式も、式典の雰囲気も、そこで述べられる追悼の辞も、そっくりと言ってよいぐらい酷似していることを考えますと、「戦争(原爆)を天災のようなものとみているのではないとの想念を誘う」と言う指摘は当を得たものであるとGGIは思います。
そういえば、GGIの一家は岐阜県の大垣で空襲にあって逃げ惑ったた後、終戦を日を迎えたのですが、当時9歳であった、大日本帝国の勝利を信じていたわが長兄がそのことのを以下のように語っていたのを思い出しました
「天皇の放送、玉音放送、何を言っているのか意味ははっきりわからんかったが、日本が負けたことは分った。あの日の晩、大人たちは《もう灯火管制はない、今夜から何も心配せずに電燈とつけられる》と明るく喜んでいた。負けたのに喜んでいるので、オレは腹がたった・・・」
つまり大人たちは、「負けた」という感覚よりも、米軍にやられたという感覚よりも、とにかくようやく終わった、戦争と言う名の天災は終わった、まるで台風一過のごとく、安堵する気持ちの方がつよかったのであませう・・・・
みなさん、あの戦争は果たして「天災」だったのでありませうか?
なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・
グッドナイト・・
この作品、本の帯には以下のように記されています。
《「読む」のではなく、ぼくにとって、もう一度、あの時代を生きる、少し辛い作業だった-昭和20年8月5日、広島の女学生・森脇瑶子さんは「一生懸命がんばろうと思う」と日記に書き、その翌日、原子爆弾の犠牲となった・・・あの時代、大人たちは何を考え、どう生きてきたのか-山田風太郎、高見淳、大仏次郎、永井荷風、渡辺一夫、德川夢声、中野重治、海野十三、伊藤整らの日記を読む》
つまり、野坂氏のこの作品は、「終戦」を目前にして、作家らや様々な市民が先の戦争をどのように捉えていたのかを、様々な人の手になる「終戦日記」を読むことにより追ったものです。
ところがこの本、「まえがき」にいきなりかなり考え込まされることが書かれています。
《・・・また、同じころから(昭和32年ごろ)、戦時中四十台だった方に、いつごろから日本は負けると感じなさったか、不躾を承知で、誰彼なしに伺い、また戦争に至るまで、戦中戦後、いろいろな立場で、書いた本を乱読、これは今でも続いている。ことさら特別なぼくの感慨でもないが、つくづく、日本人は戦争を知らなかったと思う。四面海もて囲まれているお国柄と、国境を接しているヨーロッパじゃまるで違う。知らなかったことは、また、最前線で、銃を手に、敵と対峙した兵士は確かに戦った。内地じゃ、戦争は空襲が始めるまではよそごと、もちろん肉親を戦場で失った方々にとっては、戦争は悲しくも切実なことだ。ただ、小説で読むだけだが、遺族の受け止め方が欧米とはやはり違う。どう違うか明確にし得ないが、一言でいってしまうと、日本人は戦争を天災の類とみなしている。・・・・》
確かに日本本土への米軍による本格的空襲が始まったのは1944年末からですから、太平洋戦争が始まった1941年末から三年間は、あの戦争の大半の期間は、つまり日本の敗色が歴然となるまでは、本土にいた日本人にとっては、野坂氏が言うように「戦争はよそごと」で言えるでありませう・・・
実は野坂氏のこの作品、ずいぶん以前に一度読んだことがあるのですが、そのときも、またこのたびあらためて読み直したときも、「まえがき」の上記の部分がとても気になりました。とりわけ、最後の一文、「日本人は戦争を天災の類とみなしている」という部分です。はたして、そうなのだろうか・・・そう言い切れるものだろうか・・・でも、そうかもしれない・・・
などとぼんやり考えておりましたら、先日、歴史学者が著した、最近出版された「天皇と軍隊の近代史」(加藤陽子、勁草書房、2019年)という本を読んでいて、偶然、まるでこの野坂氏の指摘を裏付けるかのような記述がなされているのを目にして、少なからず驚き、やはりそうなのかと、考えさせられてしましました。
この本の中に、「オラドゥール・スール・グラヌとヒロシマ」と題された箇所があるのですが、そこに野坂氏が指摘を想起させることが書かれていたのです。オラドゥール・スール・グラヌというのはフランスの小さな町の名前です。
二次大戦中に、オラドゥール・スール・グラヌ・グラヌという小さな町で、1944年(昭和19年)6月10日 、町民1574人のうち642人がナチス親衛隊により虐殺される事件が起きました。生存者の証言に基づいてフランス政府は、1953年、虐殺に関与したドイツ人将校以外の14人のアルザス出身のフランス人に対して、死刑と強制労働の判決をいったん下したものの、後に全員に特赦を認めました。これに憤った住民は政府と対立しましたが、89年、ミッテラン大統領が記憶のための資料館建設に着手することで両者の対立は解消に向かい、十年後にシラク大統領の時代に資料館が開館しました。かつての惨劇の跡を示している史跡の入り口には「憶えておいて」という、死者から生者へのメッセージが掲げられています。
このメッセージについて、著者の加藤陽子氏はこの虐殺事件について以下のように記しています。
《次に、日本の戦争に対する記憶の特質を考えるために、フランスにおける戦争の記憶について、歴史民俗学の立場から研究を見てみましょう(関沢2020、167~177)・・・・フランスの(大虐殺事件の)例からは、死者から生者へのメッセージが正確に写し取られていることが確認されますが、この点、日本ではどうでしょうか。ただちに想起されるのは、広島市平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑の碑文「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」ではないでしょうか。日本の場合、生者から死者へ向けて発せられる言葉は、誓いと祈りの言葉となっています。誓いと祈りの言葉で原爆を記憶しようという日本側の態度は、外部からの視線で捉えるとき、日本人が原爆を風水害など天災のようなものとみているのではないかとの想念を誘うことになります。
たとえば58年、第四回原水爆禁止世界大会に出席するため、広島・長崎を訪れたドイツの哲学者ギュンター・アンダースは、日記に次のように書きました(アンダース、1960、111)。
かれらは(被曝者を指す、引用者注)一様に、咎めるべき者については語らず、出来事が人間によって起こされてという点について沈黙する。そして一様に、このうえない犯罪の被害者となったにも関わらず、ほんの少しの怨嗟も抱いていない―これは私からすればあまりに行き過ぎていて、理解を通り越してしまう(中略) あの破局について、かれらは一様にそれが地震や隕石の落下、あるいは津波でもあるかのように語るのだ。
ついでながら申し上げますと、昭和天皇は1975年10月31日の記者会見において、広島に原爆が投下されてことについて、「遺憾に思うが戦争中のことでありますから、広島市民には気の毒だと思うが、やむを得ない事と、私は思っています」と答えています・・・「戦争中だからやむを得なかった」という言、戦争に深くかかわっていたはずであるのに、この天皇の言、まるであの戦争は他人事という感をぬぐえませぬ。天皇までもが、あの戦争を、原爆の投下を天災の如きものと感じていたのでありませうか・・・
加藤陽子氏は「誓いと祈りの言葉で原爆を記憶しようという日本側の態度は、外部からの視線で捉えるとき、日本人が原爆を風水害など天災のようなものとみているのではないかとの想念を誘うことになります」と書いていますが、確かに、毎年八月十五日に政府が主催して行われている戦没使者追悼式典と、同じく政府主催で三月十一日に行われる東日本大地震犠牲追悼式、この二つの式典、式典の形式も、式典の雰囲気も、そこで述べられる追悼の辞も、そっくりと言ってよいぐらい酷似していることを考えますと、「戦争(原爆)を天災のようなものとみているのではないとの想念を誘う」と言う指摘は当を得たものであるとGGIは思います。
そういえば、GGIの一家は岐阜県の大垣で空襲にあって逃げ惑ったた後、終戦を日を迎えたのですが、当時9歳であった、大日本帝国の勝利を信じていたわが長兄がそのことのを以下のように語っていたのを思い出しました
「天皇の放送、玉音放送、何を言っているのか意味ははっきりわからんかったが、日本が負けたことは分った。あの日の晩、大人たちは《もう灯火管制はない、今夜から何も心配せずに電燈とつけられる》と明るく喜んでいた。負けたのに喜んでいるので、オレは腹がたった・・・」
つまり大人たちは、「負けた」という感覚よりも、米軍にやられたという感覚よりも、とにかくようやく終わった、戦争と言う名の天災は終わった、まるで台風一過のごとく、安堵する気持ちの方がつよかったのであませう・・・・
みなさん、あの戦争は果たして「天災」だったのでありませうか?
なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・
グッドナイト・・