UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

後期高齢者向け?現代史講座:あの戦争は「天災」だったのでせうか?・・・

2020-02-27 02:10:26 | 日記
野坂昭如(1930年生まれ)という作家がいました。彼は先年、日米開戦の日の翌日にあたる2015年12月9日に亡くなりましたが、彼の著作のなかに《「終戦日記」を読む》という作品(NHK出版2005年、朝日文庫)があります。

この作品、本の帯には以下のように記されています。

《「読む」のではなく、ぼくにとって、もう一度、あの時代を生きる、少し辛い作業だった-昭和20年8月5日、広島の女学生・森脇瑶子さんは「一生懸命がんばろうと思う」と日記に書き、その翌日、原子爆弾の犠牲となった・・・あの時代、大人たちは何を考え、どう生きてきたのか-山田風太郎、高見淳、大仏次郎、永井荷風、渡辺一夫、德川夢声、中野重治、海野十三、伊藤整らの日記を読む》

つまり、野坂氏のこの作品は、「終戦」を目前にして、作家らや様々な市民が先の戦争をどのように捉えていたのかを、様々な人の手になる「終戦日記」を読むことにより追ったものです。

ところがこの本、「まえがき」にいきなりかなり考え込まされることが書かれています。

《・・・また、同じころから(昭和32年ごろ)、戦時中四十台だった方に、いつごろから日本は負けると感じなさったか、不躾を承知で、誰彼なしに伺い、また戦争に至るまで、戦中戦後、いろいろな立場で、書いた本を乱読、これは今でも続いている。ことさら特別なぼくの感慨でもないが、つくづく、日本人は戦争を知らなかったと思う。四面海もて囲まれているお国柄と、国境を接しているヨーロッパじゃまるで違う。知らなかったことは、また、最前線で、銃を手に、敵と対峙した兵士は確かに戦った。内地じゃ、戦争は空襲が始めるまではよそごと、もちろん肉親を戦場で失った方々にとっては、戦争は悲しくも切実なことだ。ただ、小説で読むだけだが、遺族の受け止め方が欧米とはやはり違う。どう違うか明確にし得ないが、一言でいってしまうと、日本人は戦争を天災の類とみなしている。・・・・》

確かに日本本土への米軍による本格的空襲が始まったのは1944年末からですから、太平洋戦争が始まった1941年末から三年間は、あの戦争の大半の期間は、つまり日本の敗色が歴然となるまでは、本土にいた日本人にとっては、野坂氏が言うように「戦争はよそごと」で言えるでありませう・・・

実は野坂氏のこの作品、ずいぶん以前に一度読んだことがあるのですが、そのときも、またこのたびあらためて読み直したときも、「まえがき」の上記の部分がとても気になりました。とりわけ、最後の一文、「日本人は戦争を天災の類とみなしている」という部分です。はたして、そうなのだろうか・・・そう言い切れるものだろうか・・・でも、そうかもしれない・・・

などとぼんやり考えておりましたら、先日、歴史学者が著した、最近出版された「天皇と軍隊の近代史」(加藤陽子、勁草書房、2019年)という本を読んでいて、偶然、まるでこの野坂氏の指摘を裏付けるかのような記述がなされているのを目にして、少なからず驚き、やはりそうなのかと、考えさせられてしましました。

この本の中に、「オラドゥール・スール・グラヌとヒロシマ」と題された箇所があるのですが、そこに野坂氏が指摘を想起させることが書かれていたのです。オラドゥール・スール・グラヌというのはフランスの小さな町の名前です。

二次大戦中に、オラドゥール・スール・グラヌ・グラヌという小さな町で、1944年(昭和19年)6月10日 、町民1574人のうち642人がナチス親衛隊により虐殺される事件が起きました。生存者の証言に基づいてフランス政府は、1953年、虐殺に関与したドイツ人将校以外の14人のアルザス出身のフランス人に対して、死刑と強制労働の判決をいったん下したものの、後に全員に特赦を認めました。これに憤った住民は政府と対立しましたが、89年、ミッテラン大統領が記憶のための資料館建設に着手することで両者の対立は解消に向かい、十年後にシラク大統領の時代に資料館が開館しました。かつての惨劇の跡を示している史跡の入り口には「憶えておいて」という、死者から生者へのメッセージが掲げられています。

このメッセージについて、著者の加藤陽子氏はこの虐殺事件について以下のように記しています。

《次に、日本の戦争に対する記憶の特質を考えるために、フランスにおける戦争の記憶について、歴史民俗学の立場から研究を見てみましょう(関沢2020、167~177)・・・・フランスの(大虐殺事件の)例からは、死者から生者へのメッセージが正確に写し取られていることが確認されますが、この点、日本ではどうでしょうか。ただちに想起されるのは、広島市平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑の碑文「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」ではないでしょうか。日本の場合、生者から死者へ向けて発せられる言葉は、誓いと祈りの言葉となっています。誓いと祈りの言葉で原爆を記憶しようという日本側の態度は、外部からの視線で捉えるとき、日本人が原爆を風水害など天災のようなものとみているのではないかとの想念を誘うことになります。
 たとえば58年、第四回原水爆禁止世界大会に出席するため、広島・長崎を訪れたドイツの哲学者ギュンター・アンダースは、日記に次のように書きました(アンダース、1960、111)。
 
 かれらは(被曝者を指す、引用者注)一様に、咎めるべき者については語らず、出来事が人間によって起こされてという点について沈黙する。そして一様に、このうえない犯罪の被害者となったにも関わらず、ほんの少しの怨嗟も抱いていない―これは私からすればあまりに行き過ぎていて、理解を通り越してしまう(中略) あの破局について、かれらは一様にそれが地震や隕石の落下、あるいは津波でもあるかのように語るのだ。

ついでながら申し上げますと、昭和天皇は1975年10月31日の記者会見において、広島に原爆が投下されてことについて、「遺憾に思うが戦争中のことでありますから、広島市民には気の毒だと思うが、やむを得ない事と、私は思っています」と答えています・・・「戦争中だからやむを得なかった」という言、戦争に深くかかわっていたはずであるのに、この天皇の言、まるであの戦争は他人事という感をぬぐえませぬ。天皇までもが、あの戦争を、原爆の投下を天災の如きものと感じていたのでありませうか・・・

加藤陽子氏は「誓いと祈りの言葉で原爆を記憶しようという日本側の態度は、外部からの視線で捉えるとき、日本人が原爆を風水害など天災のようなものとみているのではないかとの想念を誘うことになります」と書いていますが、確かに、毎年八月十五日に政府が主催して行われている戦没使者追悼式典と、同じく政府主催で三月十一日に行われる東日本大地震犠牲追悼式、この二つの式典、式典の形式も、式典の雰囲気も、そこで述べられる追悼の辞も、そっくりと言ってよいぐらい酷似していることを考えますと、「戦争(原爆)を天災のようなものとみているのではないとの想念を誘う」と言う指摘は当を得たものであるとGGIは思います。

そういえば、GGIの一家は岐阜県の大垣で空襲にあって逃げ惑ったた後、終戦を日を迎えたのですが、当時9歳であった、大日本帝国の勝利を信じていたわが長兄がそのことのを以下のように語っていたのを思い出しました

「天皇の放送、玉音放送、何を言っているのか意味ははっきりわからんかったが、日本が負けたことは分った。あの日の晩、大人たちは《もう灯火管制はない、今夜から何も心配せずに電燈とつけられる》と明るく喜んでいた。負けたのに喜んでいるので、オレは腹がたった・・・」

つまり大人たちは、「負けた」という感覚よりも、米軍にやられたという感覚よりも、とにかくようやく終わった、戦争と言う名の天災は終わった、まるで台風一過のごとく、安堵する気持ちの方がつよかったのであませう・・・・

みなさん、あの戦争は果たして「天災」だったのでありませうか?

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・・
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四方は静けき夜の窓辺・・・

2020-02-25 01:06:47 | 日記
数日前の深夜、わが庵の一等応接室からわがガーデンを眺めようと思い、北向きの窓のカーテンを開けましたら、寒い夜でしたので窓ガラスがうっすら曇っていました。

この曇ったガラス窓を眺めていましたら、ニューヨークの写真家、ソール・ライターさんの言葉を思い出しました

ソール・ライターさんというのは2月16日夜、ETVの「日曜美術館」で紹介されていた、長年にわたりニューヨークの下町、街の様子を、そこで生きる人々の日常を写真に撮り続けていたことでしられる写真家です。2月18日の日記に彼のことを書いておりますので、関心のある方はご覧になってくださいませ。

この番組でライターさんは次のように語っていました

「雨粒に包まれた窓の方が、私にとっては、有名人の写真より面白い」

この彼の言葉を思い出して、そうだよなあ、窓というのは撮り方によっていろいろな表情を見せてくれる写真向きの素材かもしれないなあと思い至り、さっそくライターさんをまねて、すこし曇った窓ガラスを通して見えるわがガーデンの様子を撮ってみました

今日の写真は、寒い深夜、窓越しにとったわがガーデンの夜景です。よろしければクリックしてご覧くださいませ

わが深夜のガーデン、何か浄化されたかのように静寂に満ちております・・・

GGIとしてはなかなかグッドな写真が撮れたと思いたいのですが、みなさんはどのようにお感じになるでせうか・・・・

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!
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街ブラ日記:アカはすてきだ!アカはキライだ!・・・あるいは言葉の問題

2020-02-22 01:36:40 | 日記
先日、湖岸の大通りをぶらついておりましたら「レッド・バロン」というオートバイ屋さんの店先に真っ赤なオートバイが鎮座しておりました。この真っ赤さんを引き立てるように、隣のお店との境界の壁も真っ赤に塗られていました

今日の写真はこの真っ赤なオートバイと真っ赤な壁を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧くださいませ。

このアカとアカ、強烈に共鳴しあって、目にもあざやかであります。GGI、アカはやっぱりステキだ!と叫んでしまいました。色の好みは、感じ方は、ひと様々です。また同じ色であっても、たとえば周囲の色彩とマッチしていませんと、自分が好きである色彩でもさえない色だなあと感じてしまうこともあります。ですから、この写真のアカを目にして、アカはキライだ!と思う人もいることでありませう。

ところでGGIの年代の方であれば、アカという言葉については、「あいつはアカだ」とか、「あいつはアカとちがうか?」などという表現を一時代前にはよく耳にされたのではないでしょうか。えっ、何ですか?しょっちゅう言っていたというのですか、お行儀が悪いですねえ。それどころか、「アカ」はいまでも死語ではない、あちこちで今でもリッパに流通している、アカ・ウイルスは今はやっているコロナウイルスよりもずっと強力であり、日本全土に蔓延しているとおっしゃるのですか?そうかもしれませんねえ・・・

歴史的には、戦前も強力なアカ・ウイルスは存在ていましたが、戦後も、とりわけ冷戦時代に入ってから、「アカ狩り」すなわち「レッド・パージ」ということばが日本でも米国でも社会を席巻していたことがあります

ここまで書きますと、もうお分かりかと思いますが、「アカ」という言葉は、この日本では(米国でも)共産党の蔑称であります。これははっきり申し上げて差別用語の一種です。アカ呼ばわりは当世風に申しますとヘイト表現と言ってもよいでありませう。また、「アカ嫌い」という表現もありますね。要するに何が何でも共産党がキライな人のことです。

などと書いておりましたら、先日あった京都市長選のときのことを思いだしました。候補者は三人、自・公・国・民・立憲、社民に応援された、すなわち与野党相乗りであるものの実質的に自民党であるところの現職の候補者、共産党と「れいわ新選組」が応援していた弁護士の候補者、それにもう一人、前京都市議会議員の候補者でありました

選挙の後半戦になって、与野党相乗り候補者の陣営が京都新聞や朝日新聞などに意見広告を出しました。広告に曰く

《京都に「共産党」の市長はいらない》

この攻撃的な広告は少なからず物議をかもしました。共産党はもちろん不快感を表明、差別的な文言でないかという批判がある一方で、「いや共産党だって《安倍政権打倒》などと名指しで言っているのだから、別に法的には問題はない」との声もありました。

たしかに違法ではないかもしれませんが、政権与党がある特定の野党を名指しで批判する意見広告を出すのはこれまでになかったことです。かなり異例かつ異常、極めて攻撃的なネガティブ・キャンペーンであることは事実です。これが見落とすことができないこの意見広告の大きな特徴です。

しかし、それ以上にGGIが気になるのは、この広告、かなり巧妙と申しますかズルイと申しますか小汚いと申しますか、ありていにもうしあげれば、根性がひん曲がったものであるということです。

と申しますのは《共産党の市長はいらない》という表現は平たくありていに申しますと「アカの市長なんかいらん」ということを誰にでも容易に連想させるものであるからです。つまりこの広告の真の狙いは差別用語というべき「アカ」を誰にでもが想起させることであったのです。まことに巧妙な手法です。アカなんかを市長にしてもいいのか!というのこがこの広告の真意です

つまり「アカ」なんか消え失せろといメッセージを伝えることをこの広告は狙ったのです。「アカ嫌い」の人々はこの広告を見て、よくぞ言ってくれたと手を叩いたことでありませう。つまり、この広告、「アカ嫌い」という明治以来、日本人の精神構造に潜在的に存在してる劣情に、差別的感情に、訴えたものなのです。このようは巧妙な手法に訴えてでも勝ちたいというひん曲がった根性の持ち主たちがこの広告を生み出したといってよいでありませう・・・

法的に違法じゃないからいいじゃないか、という考えは言論の自由をはじめとした民主主義の精神を腐らせます。法に触れるものではないにしても、民主主義の社会においては、このような差別的な言葉をすぐに誰にでも連想させる広告を出すことは、フェアな行為とは言い難いのではないでせうか。

と申しますのは、「日本共産党」は議会に議席を持つ、法的にもその存在を認められている、いわゆる「合法政党」であるからです。つまり「公党」であるからです。この広告は「共産党(の市長)はいらない」というコピーの文面は共産党の存在そのものの否定していることを意味しています。しかし、公党であるところの政党の存在自体を不特定多数に向けて広告という媒体を使って否定することは、自分と考えの異なるものの存在を認めることを基盤としている、まともな民主主義社会とは相いれない行為であることは自明です。したがって、この広告は、ある公党の存在そのものを否定するものであるという意味において、違法ではないにしても法の下での平等という精神に著しく欠けるものであると言わざるを得ません。

共産党を非難したいのであれば、共産党の政策あるいは行動などを批判すべきであり、たとえば「○○○○を公約に掲げるような共産党の市長はいならい」とでもすべきでありませう

この広告、もしキャッチコピーが《京都にアカの市長はいらない》というものであったならば、京都新聞さんの広告部さんも朝日新聞さんの広告部もおそらく腰が引けたことでありませう・・・

閑話休題、「アカ」問題と言えば、かつてあの赤瀬川原平先生は「アカ問題」で大騒動の震源地になったことがあります。先生は朝日新聞がかつて発行していた「朝日ジャーナル」という高級週刊誌の見開きのページに「櫻画報」という明治の反骨のジャーナリスト宮武外骨ふうの名作風刺マンガを連載していたのですが、この連載漫画にあるとき戦前の小学校の教科書のパロディーを描いて、以下のようなセリフを書き添えました

「アカイアカイ、アサヒ、アサヒ、ピンク色のアサヒなんて・・・」

天下の大朝日をひやかした、なかなかブラックなセリフを付けたところ、大騒ぎになってしまったのです。GGIはワッハッハと大笑いしたのですが、朝日新聞社の上層部は大あわて、「朝日ジャーナル」の編集長や編集陣は更迭され、赤瀬川氏は降板させられたのであります。その後、「朝日ジャーナル」の編集長には筑紫徹也氏が就任、その結果、「朝日ジャーナル」は平凡な「良識ある」週刊誌に堕落してしまい、やがて姿を消してしまいました・・・

えっ?何ですか、話はわかった、それでGGIはアカが好きなのか、それともアカは嫌いなのか、どっちだとおっしゃるのですか

そうですねえ・・・GGIは組織というモノがあまり好きではありませんので政党のシンボルカラーはどれも好きではありませぬ、組織や政党を意味するものではない、イラク戦争のときに反戦のフラッグとして欧米で大流行した市民の旗「レインボー・フラッグ」の七色の虹の色は大好きではありますが・・・・

でも、強いて申し上げれば、ごく最近はピンク、といっても朝日のピンクではなくショッキング・ピンクがちょっといいかもしれないなあと思ったりしています。わが庵の垣根に貼られているショッキング・ピンクのポスター、結構気に入っています。海のものとも山のものともまだ言いかねる新党「れいわ」さんのポスターです。

淀川長治さん、やはり、言葉って恐いですねえ、恐いですねえ、恐いですねえ・・

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街ブラ日記:お~い、どこへ行くんや?京都や、オマエはどこへ行くんや?石山寺や

2020-02-20 01:31:53 | 日記
昨日、久しぶりに市立図書館に本を借りにいきました。野坂昭如の「《終戦日記》を読む」という本です。この本、以前手元にあったのですが、庵にやってきた某知人に「この本お薦めです」と言いましたら、「そうか、それなら貰っていこう」と持っていってしまったのです。まだ全部はちゃんと読んでいませんでしたので、あらためて読もうと図書館に借りに行ったのです

図書館は京阪電鉄石坂線の浜大津駅の近くにあります。はじめ図書館にこの本を所蔵しているかどうか電話で問いあわせたときに「文庫本があります」という返事だったのですが、実物を目にしたら文庫本ではなくハードカバー(NHK出版)でありましたので、これはよかった、ラッキー!とGGIはご満悦、軽い足取りで帰途につき、浜大津駅へと向かいました。

エスカレータで登って駅への陸橋を歩いておりましたら、下のプラットホームから京都の三条に向かう電車がゆっくりと出てきました。この電車、かつてこの日記に書いたのですが「世界一長い路面電車」です。しばらく眺めておりましたら、彼方から別の電車がやってきます。霊峰比叡の麓、坂本の町を出て浜大津を経て石山寺へと向かう電車です。

これは鉄チャンと称される鉄道ファンなら大喜びしそうな光景だなあと思い、GGIは鉄チャンではないのですが、これはラッキー!絶好のシャッターチャンス、「オレはやっぱり行いがいいんだ」と確信してデジカメでパチパチパチ・・・・

今日の写真は何枚も撮った写真の中の一枚です。鉄チャンである方はヨダレを垂らしてご覧ください。鉄チャンなんかどうでもよろしいという方は鼻水を垂らしてご覧くださいませ・・・

湖都すなわち大津市のことをご存知ない方のために若干の説明をさせていただきます。

湖都市内を北から南へ、天台宗のヘッドクオーター延暦寺がある坂本の町から浜大津を経て紫式部さんがかつてご滞在なさった石山寺まで、京阪電鉄さんの石坂線が走っており、浜大津駅からは京都と湖都を結ぶ京津線が出ております。

この駅がユニークなのは駅の周辺は大きな通り、広々とした交差点に占拠されているということです。このため電車が浜大津駅に近づいたり、浜大津駅から出て行くときには、道路の上を通っていかなければなりません。つまりこの駅の付近に近づくと電車は急遽「路面電車」に化けなければならないのです。

路面電車でありますから、道路の交通信号に従わなければなりません。つまり道路の信号が赤であると止まらなければならないのです。

今日の写真、画面の右側から左側へとカーブを切っている空色の電車は画面右下にある浜大津駅を出て京の都の三条に向かう、四両連結の世界最長の路面電車です。しかし、一キロほど行きますと路面からそれて突然谷間を走りはじめ登山電車の様相を呈し、三条近くまでいきますと今度は地下に潜って地下鉄へと姿を変えるという、とても忙しい電車です。

緑色の電車はこちらに浜大津駅へと向かってきているのですが、これは坂本発石山寺行き二両連結の電車です。

この二つの電車の様子を観察しておりましたら、どちらの電車も交差点に近づいたら徐行、信号を確かめ、車が来ないことを確認してから再び走りはじめました

二つの電車が最も接近したときに、両方の電車が何か声を掛け合っておりました。

お~い、どこへ行くんや?
京都や、オマエはどこへ行くんや?
石山寺や
石山寺ってどこや?
オマエ、そんなことも知らんのか、紫式部やないか
よう聞こえん、ムラサキがどうしたんや?
もうええ・・・オレ忙しいんや、じゃあ、またな・・・

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鏡の中の鏡・・・あるいは写真家ソール・ライターさんについて・・・

2020-02-18 01:03:41 | 日記
一昨日、2月16日の夜、ETVの「日曜美術館」という番組を見ました。首都圏で暮らす現代美術に強い某老知人から「ソール・ライターという米国の写真家を特集した番組です、なかなかいいですよ、お薦めです」というメールが来ていたのを思い出して観てみたのです。

GGIはこの写真家のことはまったく知りませんでした。1923年生まれ、2013年に没したニューヨークの写真家です。長いあいだファッションメラマンとしても働いていたとのことですが、その一方で、マンハッタンの街など自分の住まい周辺の光景を撮っていたことでも知られているようです。

「日曜美術館」ではこのニューヨークの街角、そこで生きる人々などの日常を撮った写真を紹介する番組、いま東京で彼の作品展が開催されているとのことでありました。

彼の写真の大半は、住み慣れた街角で目にした何気ない光景を、人々の姿を、ユニークなアングルと細やかな心で捕えたものです。この番組、いつものことですが、司会者やゲストの評論家などによる余計なおしゃべり時間が長く、肝心の作品をしっかり視聴者に見せる努力に欠けていることが欠点。このため、この日もソール・ライターの作品を十分に見ることはできたとはとても言い難いのですが、それでもGGI、まったく気取りのない、自然体の、いい写真家だなあと気に入ってしまいました。,彼の写真からは、大都会で生きる人々の暮らしの息遣いが伝わってきます。

彼はビルのガラス窓やショーウインドーのガラスに映っている街の光景を撮るのが好きだった、との説明がありました。

GGI、この説明を耳にして、おもわず「そうだよなあ」とうなづいてしまいました。とても嬉しかったからです。と申しますのは、実はGGIも、外出するときの必需品はデジカメ、わが湖畔の街をぶらつきながらトマソン物件をさがしたり、気まぐれにいろんな写真を撮るのですが、ソール・ライターさんと同様、ガラスに写っている光景を撮るのが好きなのです。

まったく余計なことですが、GGIはまた、『さざ波や志賀の都』であった湖畔の街で暮らしておりますので世界唯一の「さざなみフォトグラファー」であり、そのうえ世界で数少ない「水たまり写真家」でもあります(水たまりがステキなことはあの「超芸術トマソン」の創始者、赤瀬川原平先生の写真集に教えてもらいました)・・・

かようなしだいで、昨日のお昼前、日本で一番見晴のいいコンビニでコーヒーを飲んでから、さっそくソール・ライターさんを見習おうと街を彷徨しました。

そうしましたら、心がけが良かったのでありませう、まるでGGIに撮られるのを待っていたのではないかと思われる光景に遭遇してしまいました!

ほんとうです。今日の写真はGGIを待っていたにちがいない光景を撮ったものです。すぐ近くのビルの一階にある某住宅会社のガラス張りのショールームを撮ったものです。不思議な光景が写っています。どうかクリックして、しかとご覧になってください。

冬の木立が幻想的な光景を呈しています。

今日の写真を眺めていて、GGIはなんとなくミヒャエル・エンデの小説に「鏡の中の鏡」という作品があったことを想い出してしまいました。

いい写真が撮れた(と勝手に思っております)ので、これからはしばらく、ソール・ライターさんを見習って暮らしていこうかなどと気まぐれ且つ勝手なことを思っております

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

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