わが庵、来客の多くは、玄関で声がしたと思ったらさっさとわが庵の第二応接室すなわち居間へ上り込んできますが、わが庵には一応は「一等応接室」と称している正式の?応接間もございます。先日その一等応接室の棚を整理していましたら、埃をかぶった古い紙袋が出てきました。これは何だろうを袋の表書きを見てみましたら・・・未知との遭遇でありました・・・
《復刻版 戦災焼失区域表示 帝都近傍図》
復刻:東京空襲を記録する会
発行:日地出版株式会社(旧社名:日本地図株式会社)定価400円
袋の中から、大きな地図が出てきました。新聞紙4ページ分の大きさの「戦災焼失区域表示
帝都近傍図」と題された地図と説明の資料が出てきました・・・
この地図、GGIが自ら入手した記憶はありませぬ。おそらくかつて「軍国少年」であったと自称している長兄あたりがくれたのでありませう。
貴重な地図でありますので、一等応接間の壁に飾ることにいたしました。今日の写真は壁に飾ったこの地図を撮ったものです。すこしピンボケで申し訳ありませんが、どうかクリックしてとくとご覧になってくださいませ
赤い色で示されている部分が先の大戦において米軍の東京空襲(空爆)により焼失した地域です。昨今は、かつて1940年に予定されていた東京オリンピックが中止されたことがあったことなんかすっかり忘れて、さあコロナなんか吹き飛ばしてオリンピックだなどと人騒がせな動きが盛んな東京、この大都市は、かつては「帝都」すなわち大日本帝国の首都でありました。ご覧の通り、帝都の中心部はほとんどが焼失しています。
一番大規模な空爆は「東京大空襲」の名で知られる昭和20年(1945年)3月10日の空爆です。しかし東京は3月10日以外にも何度も何度も繰り返し爆撃されていたことを、地図に付されていた資料を目にして初めて知りました。おもなものだけで16回も東京空爆が行われており、そのうちのほとんどが敗戦の年すなわち昭和20年の1月から5月末にかけて行われていました。B29の名前で知られた当時最新の爆撃機300機による30月10日の「大空襲」では、家屋約37万2000戸が一晩で焼失、死者・行方不明者はおよそ10万人、被災者はおよそ100万人とされています・・・最近の大きな自然あるいは人為的な災害による犠牲者・被害者の数をはるかに上回る数字です。
そして、初期の空爆はともかく、ほとんどが市民を巻き込んだいわゆる「無差別爆撃」でありました。大規模な無差別爆撃としては、日中戦争における日本軍による重慶爆撃、スペイン内戦におけるドイツ空軍によるゲルニカの爆撃、連合軍(主に英軍)によるドイツの古都ドレスデンの爆撃などが広く知られていますが、「東京大空襲」は歴史上最大の無差別爆撃であると言えるでありませう。全国の主要都市における空爆の犠牲者は合計約46万人とされています
当初、米軍は高度1万メートルの高空からピンポイントで軍事施設を爆撃するという作戦で本土空爆を開始したのですが、この方法では目的通りに軍事施設を破壊することができなかったため途中で方針を転換、より低空からの無差別爆撃を実行に移しました。
この非人道的な作戦の指揮を執ったのはカーチス・ルメイ大将、後に佐藤栄作首相は航空自衛隊の育成に功があったとして彼に勲一等旭日章を与えています・・・
東京大空襲に際しては、米軍爆撃はまずはじめに円を描くような形で爆撃を行って円の外側に逃げられないようにしてから円の内側を徹底して爆撃したとされています。これはほんとうであれば、まさに人道に対する罪そのものに他ならないというべきでありませう
昭和天皇は東京大空襲の8日後の3月18日に、御つきの者を従えて焼け跡の視察を行っています。行方不明の知人を探して焼け跡をさまよっていて、天皇の視察に偶然遭遇した作家の故・堀田善衛氏は「方丈記私記」に、そのときに受けた絶望的ともいえる衝撃について、とても優れた忘れることができない一文を遺しています(いつであったか、この日記か別の日記でこの堀田氏の一文について記した記憶があるのですが見つかりませぬ。見つかりましたらご紹介いたしたいと思います)。
地図の中心部に、周囲が焼けているのにほとんど消失していない円形の区域があります。その周囲に小さな水路(堀)があることから、この区域は皇居であることがわかります。米軍のB29爆撃機の大編隊、皇居を爆撃しようとおもえばいつでも容易に爆撃することができたはずですが、意図的に皇居を避けて爆撃を行っていたことが、この地図から読み取れます。
この地図の説明書には地図を作成・出版した地図会社の社長さんの一文が添えられていましたので以下に紹介しておきます
「帝都戦災焼失地図の思い出」
植野 録夫
東京も戦後40年を経てしまった。今回、日地出版から、帝都戦災焼失図の復刻版を領布するにあたって何か想い出をとの依頼があり、あらためて拡げてみると、当時の苦しかった毎日の生活、地図を作るために日夜苦労したことなどが、今となっては懐かしくさえ思い出されてくる。
昭和20年の夏、戦争に敗れ、一面の廃墟と化してしまった東京、その中でも地図の出版の仕事は続けなければならなかった。地図出版の第一号は、戦争の経過、結果を地図の上につかみ出すことから踏み出された。即ち、陸軍戦力喪失図、海軍艦船喪失図の出版であり、次いで、東京、名古屋、大阪、神戸の戦災焼失図が企画されていった。特に「帝都」東京が一体どの位戦災を受けているか、それをはっきりさせることは当時の東京の混乱を収拾し、復員者や疎開者の不安を解消するためにも必要なことであった。
しかし、いざ作業を進めてみると、どこがどれだけやられ、どこが焼け残っているか、皆目見当もつかなかったが、焼失図出版の意味と地図出版社の使命感が私どもをふるいたたせ、10月頃から現地調査にとりかかった。調査の指揮をとったのは地図部員の林崎祝氏であった。氏は毎日地下足袋をはき、まだ満足な交通機関もなく、戦後の余燼くすぶる東京の廃墟の中を歩き続けた。二カ月にわたってこうした調査が続けられ、昭和20年もおしせまった12月にようやく発行された。
発売後の反響は大きかった。東京での評判はもちろんであったが、地方の注文は東京のそれを上まわり、また進駐してきたGHQ(連合軍最高司令官総司令部)からも大量の注文を受けた。
ふたたび地図に目を転じると、焼失区域として赤く塗られている焼失区域も薄く青い色の疎開区域(注参照)も、現在は道路や公園になり、また高層ビルが林立し、首都東京の威容を取り戻している
(元日本地図株式会社々長)
これは歴史の証言ともいうべき貴重な地図です。元日本地図株式会社のみなさま、この歴史の証言となる貴重な地図を作製・出版してくださったことに一市民として心から感謝申し上げます
注:「薄く青い色の疎開区域」はこの写真からははっきりとは判別できませんが、区域というよりは線状に青色というよりもグレーに近い色で示さている部分が疎開区域ではないかと思われます。
とりあえず、なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・
グッドナイト・グッドラック!
《復刻版 戦災焼失区域表示 帝都近傍図》
復刻:東京空襲を記録する会
発行:日地出版株式会社(旧社名:日本地図株式会社)定価400円
袋の中から、大きな地図が出てきました。新聞紙4ページ分の大きさの「戦災焼失区域表示
帝都近傍図」と題された地図と説明の資料が出てきました・・・
この地図、GGIが自ら入手した記憶はありませぬ。おそらくかつて「軍国少年」であったと自称している長兄あたりがくれたのでありませう。
貴重な地図でありますので、一等応接間の壁に飾ることにいたしました。今日の写真は壁に飾ったこの地図を撮ったものです。すこしピンボケで申し訳ありませんが、どうかクリックしてとくとご覧になってくださいませ
赤い色で示されている部分が先の大戦において米軍の東京空襲(空爆)により焼失した地域です。昨今は、かつて1940年に予定されていた東京オリンピックが中止されたことがあったことなんかすっかり忘れて、さあコロナなんか吹き飛ばしてオリンピックだなどと人騒がせな動きが盛んな東京、この大都市は、かつては「帝都」すなわち大日本帝国の首都でありました。ご覧の通り、帝都の中心部はほとんどが焼失しています。
一番大規模な空爆は「東京大空襲」の名で知られる昭和20年(1945年)3月10日の空爆です。しかし東京は3月10日以外にも何度も何度も繰り返し爆撃されていたことを、地図に付されていた資料を目にして初めて知りました。おもなものだけで16回も東京空爆が行われており、そのうちのほとんどが敗戦の年すなわち昭和20年の1月から5月末にかけて行われていました。B29の名前で知られた当時最新の爆撃機300機による30月10日の「大空襲」では、家屋約37万2000戸が一晩で焼失、死者・行方不明者はおよそ10万人、被災者はおよそ100万人とされています・・・最近の大きな自然あるいは人為的な災害による犠牲者・被害者の数をはるかに上回る数字です。
そして、初期の空爆はともかく、ほとんどが市民を巻き込んだいわゆる「無差別爆撃」でありました。大規模な無差別爆撃としては、日中戦争における日本軍による重慶爆撃、スペイン内戦におけるドイツ空軍によるゲルニカの爆撃、連合軍(主に英軍)によるドイツの古都ドレスデンの爆撃などが広く知られていますが、「東京大空襲」は歴史上最大の無差別爆撃であると言えるでありませう。全国の主要都市における空爆の犠牲者は合計約46万人とされています
当初、米軍は高度1万メートルの高空からピンポイントで軍事施設を爆撃するという作戦で本土空爆を開始したのですが、この方法では目的通りに軍事施設を破壊することができなかったため途中で方針を転換、より低空からの無差別爆撃を実行に移しました。
この非人道的な作戦の指揮を執ったのはカーチス・ルメイ大将、後に佐藤栄作首相は航空自衛隊の育成に功があったとして彼に勲一等旭日章を与えています・・・
東京大空襲に際しては、米軍爆撃はまずはじめに円を描くような形で爆撃を行って円の外側に逃げられないようにしてから円の内側を徹底して爆撃したとされています。これはほんとうであれば、まさに人道に対する罪そのものに他ならないというべきでありませう
昭和天皇は東京大空襲の8日後の3月18日に、御つきの者を従えて焼け跡の視察を行っています。行方不明の知人を探して焼け跡をさまよっていて、天皇の視察に偶然遭遇した作家の故・堀田善衛氏は「方丈記私記」に、そのときに受けた絶望的ともいえる衝撃について、とても優れた忘れることができない一文を遺しています(いつであったか、この日記か別の日記でこの堀田氏の一文について記した記憶があるのですが見つかりませぬ。見つかりましたらご紹介いたしたいと思います)。
地図の中心部に、周囲が焼けているのにほとんど消失していない円形の区域があります。その周囲に小さな水路(堀)があることから、この区域は皇居であることがわかります。米軍のB29爆撃機の大編隊、皇居を爆撃しようとおもえばいつでも容易に爆撃することができたはずですが、意図的に皇居を避けて爆撃を行っていたことが、この地図から読み取れます。
この地図の説明書には地図を作成・出版した地図会社の社長さんの一文が添えられていましたので以下に紹介しておきます
「帝都戦災焼失地図の思い出」
植野 録夫
東京も戦後40年を経てしまった。今回、日地出版から、帝都戦災焼失図の復刻版を領布するにあたって何か想い出をとの依頼があり、あらためて拡げてみると、当時の苦しかった毎日の生活、地図を作るために日夜苦労したことなどが、今となっては懐かしくさえ思い出されてくる。
昭和20年の夏、戦争に敗れ、一面の廃墟と化してしまった東京、その中でも地図の出版の仕事は続けなければならなかった。地図出版の第一号は、戦争の経過、結果を地図の上につかみ出すことから踏み出された。即ち、陸軍戦力喪失図、海軍艦船喪失図の出版であり、次いで、東京、名古屋、大阪、神戸の戦災焼失図が企画されていった。特に「帝都」東京が一体どの位戦災を受けているか、それをはっきりさせることは当時の東京の混乱を収拾し、復員者や疎開者の不安を解消するためにも必要なことであった。
しかし、いざ作業を進めてみると、どこがどれだけやられ、どこが焼け残っているか、皆目見当もつかなかったが、焼失図出版の意味と地図出版社の使命感が私どもをふるいたたせ、10月頃から現地調査にとりかかった。調査の指揮をとったのは地図部員の林崎祝氏であった。氏は毎日地下足袋をはき、まだ満足な交通機関もなく、戦後の余燼くすぶる東京の廃墟の中を歩き続けた。二カ月にわたってこうした調査が続けられ、昭和20年もおしせまった12月にようやく発行された。
発売後の反響は大きかった。東京での評判はもちろんであったが、地方の注文は東京のそれを上まわり、また進駐してきたGHQ(連合軍最高司令官総司令部)からも大量の注文を受けた。
ふたたび地図に目を転じると、焼失区域として赤く塗られている焼失区域も薄く青い色の疎開区域(注参照)も、現在は道路や公園になり、また高層ビルが林立し、首都東京の威容を取り戻している
(元日本地図株式会社々長)
これは歴史の証言ともいうべき貴重な地図です。元日本地図株式会社のみなさま、この歴史の証言となる貴重な地図を作製・出版してくださったことに一市民として心から感謝申し上げます
注:「薄く青い色の疎開区域」はこの写真からははっきりとは判別できませんが、区域というよりは線状に青色というよりもグレーに近い色で示さている部分が疎開区域ではないかと思われます。
とりあえず、なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・
グッドナイト・グッドラック!