UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

駄、駄、駄・・・光は東方から・新年は画面の奥の方から・・・

2021-12-31 00:48:24 | 日記
もたもたしておりますうちに大晦日になってしまいました

今年もだらだらとまとまりのない駄文日記におつきあいくださり、貴重な時間を無駄に費やしてくださったみなさんに、ご迷惑をお詫びするとともに、心からあつく御礼申しあげます。

ある作家の言によりますと、駄文の駄は駄犬の駄だそうでありますが、駄文の駄は無駄の駄でもあります。「駄」という漢字には何~んにもいい意味はありませんので、とても可哀そうな漢字です。でも、人生は結局のところ無駄の連続であるかもしれませんので大切な漢字でもあります。そういえば駄駄イズム(ダダイズム)なるものもかつてありましたね、あれは芸術をとおして無駄の極致を目指していたのでせうか?

などなど,駄弁はこのくらいにしまして、とにかく明日は新年です。

ところで、新年はどうやってやってくるでせうか、どこから来るのでせうか・・・・
むかし「朝はどこからくるでしょう」という歌がありましたが、その歌詞の内容は「光の国からくるかしら、いえいえそうではありません、朝は明るい家庭から」というまことに非科学的なものでした。これでは暗い家庭、あるいは必ずしも明るくはない某知人の家庭や苦労を抱えていて明るくなりようがない、それに独居老人などには朝が来ないことになるではありませんか!とんでもありません、そうではないのです、朝は光の国から、みんなに等しくやって来るのです!

新年は光に乗ってやってきます、光は東方から参ります。

今日の写真はわが庵の少し先にある湖をまたいでいる橋の袂から、東に方に向かって撮ったものです。

つまり、新年の光は、この橋の彼方、この画面の奥の方からやってまいります。よろしければクリックして新年の光が射してくる方向をご覧になって、新しき年に新たなる希望を託してくださいませ

コロナ禍が息を吹き返しつつあるようですが、みなさんに良き年が訪れますよう、お祈りいたします。最後に、新年、みなさんにいいことがありますよう、川崎洋という詩人の「喜び」という詩を紹介しておきます

喜び

 一生に一度くらいは
 ありきたりのそれと違う
 脳天を突き抜けるような
 超弩級の喜びが
 ありますように

 一人一人
 誰にでも皆に

 悲しみは
 願わずとも
 数え切れぬほどですから

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

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歴史の勉強:「テロ爆撃」という言葉を知っていますか?

2021-12-29 00:44:46 | 日記
過日、年末だというのにぶらぶら無為に日を過ごしてばかりではいけない、少しはまともなことをしなければと殊勝のなことを思いつき、では、たまにはまっとうな歴史書でもひもといてみようと決心、この12月に出版されたばかりの米国の歴史家ジョン・W・ダワーの著書「戦争の文化」(岩波書店:原著は2010年に米国で出版)のページを開いてみました。でも、上下巻、全600頁の大作・・・果たして死ぬまでに完読できるかどうか・・

この歴史家、日本の敗戦を描いた「敗北を抱きしめて」(岩波書店、2001年)の著者でもありますので、ご存知の方もおられることでありませう。

まえがきに当たる「プロローグ」と題された章をすこしばかり読み進めておりましたら、これまでまったく聞いたことがない言葉に出会い、えっ、どういうことだ、このような用語が、言葉があったのか、歴史家や専門家はそんな言葉を使っていたのかと、とても驚かされました。

それは「テロ爆撃(terror bombing)」という言葉です。この言葉について、まったく知らなかった驚くべき内容の説明が付されていました。その部分を以下に引用します

『9・11事件後に、「グラウンド・ゼロ」がアメリカの犠牲を示唆する言葉へと変貌していく過程は、二つの点で私を驚かせた。ひとつは原子爆弾の開発から使用にいたる歴史的過程にまったく思いをはせることなく、無造作にこの言葉が勝手な意味で使われていったことである。もうひとつは、戦略爆撃に関する公文書や学術書では「テロ爆撃:terror bombing」は見慣れた言葉で、私のような歴史家も長いこと当然のように使ってきたが、第二次大戦については、ある意味では埋もれていたということである。広島・長崎以前に焼夷弾の絨毯爆撃を受けた六十余の日本の都市に対して「テロ爆撃」がどのように実行されたか。私はそれをきちんと調べたことがなかった』

(注:「グランド・ゼロ」というのは、元々はネバダ砂漠でかつて行われた世界初の核実験の跡地を指す言葉であり、その後、広島と長崎の原爆投下における爆心地や核実験における爆心地を指す言葉として用いれるようになりました。そして9・11事件後、米国では旅客機の激突により崩壊したニューヨークの世界貿易センタービルの跡地を指す言葉としても用いられるようになっています)。

GGIが驚いたのは上記の文章の中の《戦略爆撃に関する公文書や学術書では「テロ爆撃:terror bombing」は見慣れた言葉で、私のような歴史家も長いこと当然のように使ってきた》という部分です。えっ、そんな言葉があって、これまで公文書や学術書で使われてきたんだって!ほんとか?!

公文書や学術書で使われていたとされる言葉ですから、マスコミあたりによる勝手な造語ではなく、それなりの根拠があって使われている言葉なのでありませう・・・

「戦略爆撃」に関して使われていた言葉とのこですが、「戦略爆撃」というのは敵国や敵の占領地にある軍事施設、港湾、油田などを狙って空爆を行うことや敵国の都市に対して無差別に空爆を行うことを意味する言葉です。専門家には聞きなれた言葉である、あるいは使い慣れた言葉とされている「テロ爆撃」という言葉はおそらく特に敵地に対する無差別攻撃のことを指しているものとおもわれます。つまり、この「テロ爆撃」という言葉は、戦略爆撃における敵国の都市への無差別爆撃は一般市民の殺戮を前提としたものであるためテロ行為に等しい、ということを意味する言葉であろうと思われます。

ダワー氏は、「しかし第二次大戦については(この「テロ爆撃」という言葉は)ある意味で埋もれていた」としています。「ある意味で埋もれていた」の意味は定かではありませんが、これは二次大戦における戦略爆撃に関しては、この言葉はあまり用いられなかった、あるいは意識的には用いられていなかったという意味なのでせうか・・・

先の大戦において、私たち日本人は日本の都市に対する米軍による無差別爆撃を単に「空襲」と称していました。そして、そのことに何も疑問を感じていませんでした。しかしながら、ダワー氏の言に従うならば、日本国内で単に「空襲」とされていた爆撃は、米軍による空爆は「テロ爆撃」であったのです。当時の日本人は誰も「テロ爆撃」であるとは、思いもしていなかったのですが、無差別爆撃の典型である「東京大空襲」(1945年3月10日、一晩で死者およそ10万人、被災者およそ100万人)は、その爆撃の実態は、その凄まじさは、まさに「東京大テロ爆撃」というべきものだったのです。東京大空襲は広島・長崎への原爆投下を除けば、再々規模の「テロ爆撃」でした。

ダワー氏が《広島・長崎以前に焼夷弾の絨毯爆撃を受けた六十余の日本の都市に対して「テロ爆撃」がどのように実行されたか》と記しているのを目にして、また彼が日本語版の序文のなかで「このテロ爆撃の頂点が原爆投下であった」と記しているのを目にして、何も分っていなかっていなかったのだあ、私たちは・・・とGGIはいささかショックでありました。「テロ攻撃」といえば、私たち日本人の多くは、9・11同時多発テロや9・11以後の中近東あたりで、ときには欧州の都市など、海外で起きる事件などをすぐに連想してしまい、まるで他人事、無縁のことのように考えていますが、そうではなかったのです・・・

戦後、米国が始めた勝つことができなかった戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン・イラク戦争など、それに何とか勝つことができた湾岸戦争における米軍による空爆も、大半が「テロ爆撃」であったと言ってよいでありませう。

もちろん、「テロ爆撃」を行っていたのは米軍だけではありません、かつてのわが日本軍も日中戦争において重慶に「テロ爆撃」を敢行しており、かつての英国もドイツも「テロ爆撃」の実績があります。かつての我が日本軍の場合は、大型の爆撃機をあまり持っていなかったため、日本軍による「テロ爆撃」はそれほど多くはないものと思われますが、その代わりに、わが地上軍が戦地において本来戦闘とは無関係な多数の民間人に対して殺戮を行っていたという意味において、中国・韓国をはじめアジア諸国において「テロ爆撃」に等しいテロ行為とも言うべき戦闘を行った実績がたっぷりあることは言うまでもありませぬ・・・

蛇足ではない蛇足:日本の都市への「テロ爆撃」の指揮をとり実行した米軍のカーチス・ルメイ少将(当時)は、戦後1964年に、航空自衛隊の育成に功績があったとして、日本政府から上等の勲章、勲一等旭日大綬章を上等の勲章をもらっています。彼は後に当時を振り返って、「もし米国が負けていたら、私は戦犯になっていただろう」と語っています・・・

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

今日の写真は合計十回に及んだ、当時の日本では単に「空襲」と称されていた「テロ空爆」により焼失した帝都・東京の地域を示した地図を撮ったものです。以前の日記、2021年6月28日の日記に掲載した写真です。赤色で示されている部分が爆撃により焼失した地域を意味しています

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年末、街角で難問に遭遇してしまうの記・・・・・

2021-12-26 01:45:48 | 日記
うかうかと日々を過ごしているうちに今年も残り少なってしまいました

GGIは独居老人であります。ですから、年末だからと言って新年の準備に忙しいなどというケッコウなことはまったくありませぬ。かようなしだいで先日我が城下町、旧東海道をぶらついておりましたら、思いがけず難問に遭遇してしまいました。超芸術のトマソン物件に遭遇したのであれば、歓迎することあっても困惑することはないのですが、難問にぶつかりますと当然ながら困惑してしまいます、思わずつぶやいてしまいました

「こんな人目につくところに難問なんか置いておくなよなあ、困ってしまうやないか・・・」

今日の写真はこの難問を撮ったものです。以前の日記で何度か紹介しております近くのお寺の門の脇に設けられている掲示板です。この難問を提示された方、このお寺の住職さんは中学・高校でGGIの一年上の先輩、ときおり私的なことをお願いしたりいたします。クリックしてご覧になり、どうか掲示されている内容をしかとご覧になってくださいませ

掲示板の貼り紙さん曰く

本尊とは何か
ほんとうに尊い
ことである
物ではなく
尊いことである

いかがせうか、あなたはこの一文、どのような意味であるのか、おわかりになるでせうか?
どうやら「わっかるかなあ、わかんねえだろうなあ」などとふざけていられるような問題ではないようです・・・

GGIはこの張り紙をチラッと目にして、何やら難問そうでありますので、急いて見て見ぬふりをして遠ざかりました

「本尊は物ではない」・・・このような形而上学的な難問には君子でなくても危うきに近寄らないほうが無難でありませう・・・

本尊は物ではない・・・とするとお寺の本堂、その広々とした空間のまんまんなかに鎮座されていらっしゃる仏像、あれは本尊でないのか、本尊でないとすれば、あれは何なのだ・・・仏像はモノであるのか、それともモノではないのか・・・モノでないとしたら何なのだ・・・十字架のようなもなのか、何かの表象であるのか・・・それに尊いというのはどのようなことを意味しているのだ・・・ほんとうに尊いってどのように尊いんだ・・・信仰や信心とは無縁の衆生、さまよえる魂の持ち主であるGGIにとりましては分からないことだらけです・・・

本尊とは何か、これは仏教徒にみなさんにとって根源的な問いかもしれません・・・

などと愚考をめぐらしているうちに、GGIの脳内で本尊問題があらぬ方向へ飛び火・・・
では、テンノウとは何なのか・・・テンノウが物ではないことは確かだが、これも本尊問題と同様に、あるいは本尊問題以上に、市井の一市民にとりましては難問・・・日本の市民に特有の難問です・・・

日本国憲法第一条に曰く:天皇は、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく・・・

参考にこの条文の元になったものと考えられる英文を記しておきます

The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.

天皇は国民統合の象徴である・・・象徴・・・国民統合の象徴とはいったいどういうことなのか、それに果たして国民は統合されているのか、されているとしたら誰が統合したのか、・・・象徴とは何なのか・・・象徴はモノではない、しかし生身の人間が象徴であり得るのか、象徴の本質はどのようなものなのか・・・テンノウは日本という国の本尊みたいなものなのか・・・本尊のようなものであるとしたら、日本教の信者でない市民にとっては一体何なんだ・・・・

などと、できの悪い脳細胞が迷走しているうちに今年も暮れていくのです

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

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全員一致が米国式民主主義、多数決が日本式民主主義・・・

2021-12-22 01:16:33 | 日記
今日は良くない話です。

12月10日の日記に、コロナ禍のために死刑執行が二年近く停止されているため、法務省の幹部は、そろそろ、このコロナ禍が沈静化しているあいだに、死刑執行を再開させようと考えているのではないか、近年法務省は死刑制度を維持することを意図して、少なくとも年に1回は執行することを方針としているため、これから年末までの期間は死刑執行の危険水域であると書きました、が、残念ながらこの予想が昨日12月21日、見事に的中してしまいました・・・

昨日正午のニュース、いきなりテレビのアナウンサーが「今日午前、古川禎久法務大臣の命令により、大阪拘置所で1名に対して、東京拘置所において2名に対して、死刑が執行されました」と報じていました。やっぱり・・・

GGIは死刑制度には反対です。ですから、すぐに抗議の一文を関係者に送ることにしました。岸田君と古川君に、いつまで死刑を続けるつもりなのだ、米国では全米で半数以上の州が死刑をすでに廃止しているぞ、バイデン大統領も連邦レベルの死刑を廃止し州レベルの死刑廃止も推進することを公約に掲げているから、近い将来、日本は先進国で唯一の死刑を廃止していない国になってしまうぞ、わが憲法の第36条には「公務員によろ残虐な刑罰は、絶対にこれを禁じる」と明記されているぞ、憲法において、「絶対に禁じる」と規定されている条項はこの第36条だけだぞ!、70年も前の、多くの国が当たり前のように死刑を執行していたころの死刑合憲判決なんか今では意味を失っているのは明明白白ではないかと、実名を記した丁寧なるお手紙をしたためてファックスで送りました。ついでにコピーを報道各社の支局にも送ってはおきましたが・・・でも、残念ながらゴマメの歯ぎしりに過ぎないでありませう・・・

首相と法相にファックスを送ってから、そのことを電話で知人と話しておりましたら、知人曰く「先日17日に起きた大阪で雑居ビル内のクリニックが放火されて多数の人たちが命を絶たれた事件、この事件で世間が騒いでいるあいだに、ドサクサまぎれに、死刑を執行したのじゃない?」。事の真相は定かでありませぬが、大量殺人事件の騒ぎの合間に意図的に行われた国家による殺人であるとすと、これはかなりブラックな、いやブラック過ぎる話であります・・・

ところで、死刑の執行は死刑判決に基づいて行われるのですが、死刑判決はどのような制度に基づき下されるのでしょうか。

日本では殺人などの重い犯罪に関しては、地方裁判所におけるいわゆる「裁判員裁判」で死刑判決が下されます。一般の市民が裁判員として参加する裁判です(ただし、高裁、最高裁における裁判は職業裁判官だけで行われます)。裁判員の数は全部で9人ですが、このうちの3人は職業裁判官、6名が一般の市民ということになっています。

有罪か無罪かの決定、有罪である場合に科すべき刑罰(量刑)の決定は、これら9人による多数決により下されます。死刑判決を下す場合も同様です。多数決ですから5人以上が死刑に賛成であれば死刑判決が下されることになります。ただし、この5人の中に最低一人の職業裁判官が含まれていなければならないとされています。しかし、要するに決定方法は多数決でありますから、場合によっては、たった一人の差で、死刑になったり、死刑を免れることになったりします。ですから、市民の裁判員の責任は極めて重いといえます。自分の一票が1人の生身の人間の生死を決することになるかもしれない・・・

このため、裁判員を経験したことがある人のなかには、自分の一票が人の命を左右することになりかねないという重圧に苦しんだと語る方や、苦しい思いをしたため二度と裁判員の経験はしたくないと語る方がいます。

米国でも、日本の場合とは少し内容が異なるのですが、似たような裁判制度が存在しています。「陪審員制度」と称されるものです。日本の裁判における市民の裁判員に相当するのが陪審員です。陪審員は12人、全員が民間人です。米国の場合は、原則として陪審員は有罪か無罪かの決定のみに関与します。どれぐらいの刑罰を科すべきかという、いわゆる「量刑」の決定には関与しません。量刑は職業裁判官が決めます。この点が日本の裁判員裁判と大きく異なっています。

ただし、陪審員裁判の場合、死刑判決の可否に関してだけは例外です。死刑を科すか否かは陪審員が判断を下します。職業裁判官を交えずに陪審員だけで決定が下されます。しかしながら、陪審員だけによる決定ではあるのですが、死刑判決を下す場合は陪審員の全員一致が必要とされます。これが日本の裁判員裁判と決定的に異なる点ですです。米国では、1票の差で死刑になったり、死刑を免れたりすることはありません。賛成が一名だけ多かったからといって死刑判決を下されることはありません。陪審員の中に誰か一人でも死刑に反対の人がいたならば死刑判決を下すことはできないのです。

このように米国の陪審裁判において死刑に関しては全員一致が必要とされているのは、死刑に関しては、誤審をできるかぎり防ぐために、「スーパー・デュー・プロセス」と称される非常に厳格な法的手続きが定められていることによるものであろうと考えられます。この厳格な法的手続きに関しては2015年6月26日の日記に若干書いておきましたので、よろしければ、お読みになってください。

かつて、死刑に関しては陪審員の全員一致が必要ということを題材にしたアメリカ映画がありました。「十人の怒れる男」と題された作品です。ご記憶の方もおられるのではないでせうか。シドニー・ルメット監督(1957年)、主演はヘンリー・フォンダ。被告は無罪であると信じる陪審員の一人が死刑に賛成する他の陪審員をあいてに孤軍奮闘、一人一人を説き伏せて遂に無罪判決を下すに至るという、なかなか力作の映画でありました・・・

ところで、みなさん、どのようにお考えになるでせうか、果たして、死刑は多数決で決めるのが正しいのでせうか?それとも全員一致で決めるのが正しいのでせうか?

日本式民主主義が正しいのでせうか、それとも米国式民主義が正しいのでしょうか、いったいどちらが理に、民主主義の理念に適っているのでありませうか?

バイデン大統領は前述のように死刑廃止を大統領選の公約に掲げており、各州における廃止(すでに全五十州のうち23州が廃止、3州が知事の判断により執行を停止しています)も推進するとしていますが、まず陪審員制度の欠点に関してその是正を図るとしています。このため司法長官が去る8月1日に「死刑の適用には恣意性があり、非白人に差別的な影響を及ぼす」とする文書を公表し、死刑を巡る施策や手続きの見直しが完了するまでは死刑執行を停止するとしました。「死刑の適用には恣意性があり」というのは黒人が被告であり、陪審員が白人の場合、死刑判決に傾きやすいという、人種的偏見の問題を意味しています。

昨日、死刑執行直後の記者会見において、わが法務大臣は「世論は死刑制度を支持している、
多くの人々が凶悪犯に関しては死刑もやむをえないと考えている」として、今後も死刑を廃止する意図がないことを表明していました。つまり人々の大半(最近の調査では8割以上が)が支持しているから死刑は止めない、としているのです。法務大臣は、死刑は多数決によると考えているのでありませう・・・

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・

今日の写真は数々の死刑囚の弁護人を務めてきた安田好弘弁士の活動を描いたドキュメンタリー映画「死刑弁護人」(東海テレビ製作)のポスターの一部を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧になってくださいませ

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米国式民主主義:42年後に冤罪で無罪、だが損害賠賠償なし、けれども市民が・・・

2021-12-20 01:10:30 | 日記
11月25日に、BBCが以下のような見出しのニュースを報じていました

《服役42年超の黒人男性、冤罪認定で釈放 米ミズーリ州》

冤罪事件についてのニュースです。程度の差はありますが、どこの国でも現実には「冤罪」なるものがれっきとして存在しています。日本はもちろんのことですが、日本と同様、米国でも冤罪事件は決して少なくありません。

米ミズーリ州で11月23日、3人を殺害したとして42年以上服役していた男性が、冤罪(えんざい)であることを認められ即日釈放されたというニュースです。冤罪が認められたのはケヴィン・ストリックランドさん(62)という黒人男性、彼はミズーリ州カンザスシティで2男女3人を射殺したとして1978年18歳のときに逮捕され、翌年6月に有罪判決が言い渡されました。

1989年から冤罪について記録しているデータベース「National Registry of Exonerations」によると、アメリカで不当な服役として認められたものとしては、7番目の長さとのこと。

釈放されたストリックランド氏さんは「こんな日が来るなんて思わなかった」と語っています。あまりにも遅きに失しているとはいえ、まことに喜ばしいことです。しかしながら、このあとが問題なのです。というのは、冤罪であることが確定した場合は服役させられていた期間に応じた額の損害賠償金が国から支払われるのですが、ストリックランドさんの場合は賠償金は支払われない可能性が大きいのです。この点についてBBCは以下のように報じています。

《ただ、同州法に基づき、ストリックランド氏が損害賠償の支払いを受けられる可能性は低い。ストリックランド氏の釈放を求めて数カ月にわたり活動してきた市民団体「ミッドウェスト・イノセンス・プロジェクト(中西部無実計画、MIP)」の法務責任者は声明で、「裁判官が証拠を見れば必ずや、ストリックランド氏が無実だと認めると、我々は確信していた。彼が失った43年間を返してあげることは、誰にもできない。そして、彼から奪った時間に対して一銭も支払わない州に、彼は戻ることになる。これは正義とは言えない」と付け加えた。MIPによると、ミズーリ州による補償と対象となるのは、目撃者の証言ではなく、DNAの証拠によって無罪となった受刑者のみ》

賠償というのは公務員の過ちに対して国に支払義務がある、日本で言われるところの国家賠償に相当するものです。この記事を読んだならば、無罪となっても一銭も損害賠償を行わないなんて、ミズーリ州の法律は何とデタラメなんだろうと誰もが思うことでありませう。米国というのは何とデタラメに国なんだ、国家が犯した過ちに対して何も償わないとは・・・・このデタラメぶりのどこが民主主義なんだよお~と思っておりましたら、しばらくして11月の末になって。BBCによる続報がネットに掲載されました。

見出しは

「冤罪で42年超服役、釈放された男性の支援、1億7千万円カンパ」

《米ミズーリ州で、3人を殺害したとして42年以上服役した後に冤罪(えんざい)を認められ釈放された男性を支援するため、男性の弁護人が募金活動を開始したところ、日本時間29日未明までに150万ドル以上(約1億7000万円)が集まった・・・釈放されたストリックランド氏は1万5487日間を獄中で過ごした。冤罪で服役していた期間としてはミズーリ州で最長だが、同州法に基づき、ストリックランド氏には損害賠償の支払いを受ける権利がない。そこで、ストリックランド氏の弁護人は同氏の生活費を支援しようと、クラウドファンディング募金サイト「GoFundMe」で募金活動を始めた。募金額は、日本時間29日午前1時時点で151万1440ドルに達した。

ストリックランド氏の釈放を求めて数カ月にわたり活動してきた市民団体「ミッドウェスト・イノセンス・プロジェクト(中西部無実計画、MIP)」の弁護士は、寄付をした2万7000人以上の見知らぬ人たちを称賛した。弁護士によると、ミズーリ州による補償の対象となるのは、目撃者の証言ではなく、DNAの証拠によって無罪となった受刑者のみ。MIPの法務責任者は「この制度の破綻した部分を、この州の制度が変えるまでは、ここのコミュニティが介入してその穴を埋める」と述べた。》

すごいですねえ、素晴らしい!この人物が釈放されたのは11月23日でしたから、わずか一週間足らずの間にこれだけの募金が集まったのです。法律の出鱈目さかげんを見逃しておくわけにはいかない、なんとかしなくてはと行動した市民がこんなにたくさんいたのです。国はデタラメであっても市民はしっかりしている・・・これも米国式民主主義の優れた一側面であろうとGGIは深く感じ入りました。

と申しますのは、同じようなデタラメなことが日本で起きても、はたして米国におけるように多数の市民がこのような短期間のうちに敏感に反応するかは、少なからず疑問ではないかと思われるからです・・・・

注:BBCの記事中に出てくる「イノセンス・プロジェクト(Innocence Project)」というのは、主にDNA鑑定によって冤罪であることの証明を行うことを目的とした、1992年、米国の司法省と米国会上院との共同研究をもとに、米国の大学において活動が開始された非営利機関のことです。これまでに冤罪の証明に数々の実績を挙げています。カナダ、英国、オーストラリア、ニュージーランドなどにも同様の組織が存在しているとされています。日本でも数年前に立命館大学などの関係者を中心に同様のことを目的とした組織「えん罪救援センター」(イノセンス・プロジェクト・ジャパン)が立ちあげられています。

今日の写真は本文と関係ありませんが、よろしければクリックしてご覧ください。昨日の朝日新聞の俳句の欄に以下の句が紹介されていました。

《ゴッホならどう描く銀杏散り敷くを》 さいたま市 岩間 喜久子 (大串章 選)

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・

グッドナイト・グッドラック
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