UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

知ったかぶり日本文化講座:夕日に輝く桜花は、大和心ではないのでせうか?

2021-03-28 22:52:51 | 日記
数日前、某知人が山桜を観にいこうと申しました

GGIは桜を観にわざわざ山の中にでかけるほどの風流人ではありませぬ。それほど行きたいとは思わなかったのですが、義理人情や同調圧力など諸般の事情により優柔不断名人のGGI、押し切られてしまいました

かようなしだいで、一昨日の午後、湖国から京の都へと通じる峠を風流人たちに引かれて善光寺参りならぬ桜観とあいなりました。

もう、ほぼ満開でありました。密集して咲いている桜も悪くはないのですが、山中の一本桜もなかなか趣があり、また西日に輝く桜もなかなか華麗でありました

今日の写真は湖国から京の都へ通じている人工水路「疎水」の脇に咲いていた、西日のなかに浮かぶ桜花を撮ったものです。まだお花見をしておられない方はぜひクリックしてご覧になってくださいませ

ところで、桜の花といえば、江戸時代の国学者、本居宣長がキザなことを申しております

敷島の やまと心を 人とはば 朝日に匂ふ 山さくら花

大和心、大和心ってもっともらしく言われているけれど、いざ「大和心」っていったい何のことや尋ねられると困ってしまうよなあ、でもあえて言うならば、まあ朝の光のなかで心地よい香りを放って光り輝いている山桜の花みたいなものやなあ

と宣長氏は言っているのですが、みなさん、この宣長氏の答、どうお考えでしょうか?宣長さん、あなたは世界に冠たる日本人すなわち我が「大和民族」のバックボーンを成しているのは「大和心」であると確信しておられるのではないのですか。もしそうであるならば、このような春霞のごとく曖昧模糊としたお答え、これは果たしてまともな答になっていると言えるのでありませうか?

これがまともな答になっているとお考えであれば、それは昨今の無能な政治家や高級官僚たちがわけの分らない、ひとを欺く答弁をして澄ましているのとと同じことではないでせうか?彼らが特技とする、ヒトを煙に巻くための、意味なき、内容なき、その場しのぎの答弁となんら変わるところがないのではないでせうか・・・

宣長さん、あなたは大和心なるものは朝日に輝く桜花のように「華麗」なもの、このうえなく美しきものであるとでも言いたいのかもしれませんが、そんなことでは「大和心とは何か」ということの説明にはまったくなっておりませぬ。宣長さん、大国学者であるあなたは、小手先でごまかすようなことはせず、「大和心」の真髄とは何か、もっと明確な言葉で語るべきです

朝日に輝く桜花が大和心であるならば夕日に輝く桜花も「大和心」であるのであろうか、あるいは夕日に輝く桜花は「大和心」とは縁なきものであるのであろうかなどと、GGIは愚考に愚考を重ねました。いくら考えても、結局「大和心」などというものは訳の分からないもの、意味不明なもの、つまり玉ねぎの皮をいくらむいていっても何も出てこないがごとく、いくら核心に迫ろうとしても捉えどころのない、中身のない空虚なものではないか、というのが浅学の徒GGIの結論でございます。そうです、「大和心」の中核を占めているのは「空虚」なのです・・・

まあ、宣長さん、困り果てていいかげんな答で済ましてしまったのであろうと同情はいたしますが、でもあなたの言葉、影響が大きいのですよ、後の世に与えた影響の大きさが問題なのです・・・

と申しますのは、この中身のない空虚な「大和心」は後に大変身を遂げることになるからです。時を経るにつれ、やがて「大和魂」なる勇ましき存在へと大変身を遂げ、このため開国後、世界の列強にならんと欲する近代戦において、とりわけ先の大戦において、食料も弾薬も尽きたなかでわが兵士たちは「玉砕」することにより大和魂を見せることを強いられることになったのです。あげくの果て「大和魂」は生身の人間を兵器に仕立て揚げ、「神風特攻隊」などと称して、数多くの若者を意味なき死に追いやることになった、というのが浅学GGIの歴史解釈であります。宣長さん、あなたが苦し紛れに出来心で「大和心=朝日に匂う桜の花」と口から出まかせにいいかげんなことを言ったものですから、その後、日本人の精神、その内部において、桜花は欠かすことのできない、わけもなく大きな存在と化してしまったのですよ

宣長さんは「そんなこと言われてもなあ、そんなことにまで責任を負えと言われてもなあ・・・」とおっしゃるかもしれませんが、その証拠の一つして、以下のような句も作られているのです

《散る桜 残る桜も 散る桜》  

GGI、はじめてこの句を目にしたとき、これは特攻隊で死ぬことを求められた青年の辞世の句ではないかと思ってしまいました。と申しますのは、この句が想起させるのは「散華」(さんげ)という言葉であるからなのです。この言葉、もともとは仏の供養のために花を撒く(散らす)という意味なのですが、いつのころからか「大和魂」の歴史的帰結であるところの「玉砕」による戦死を美化するための言葉に転じてしまいました。帝、大君の兵であるわが日本軍兵士、最後は「大和魂」を発揮して「花と散る」というわけです。ここでいう「花」とは、もちろん「大和心」の中核をなす「桜花」であります、華麗に散る桜花のごとくわが兵士の死は美しい・・・・

たとえば、先の大戦中に流行った歌に、GGIもよく記憶している「同期の桜」と題された歌(作詞:西条八十)がありますが、この歌のテーマは一言で申し上げれば「散華」です。一番の歌詞だけ紹介しておきませう

貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため

つまりこの戦時流行歌は「散華のすすめ」なのです。

この歌を聴いてみたい方はユーチューブをご覧になってください

などと書きましたが、実はあとで知ったのですが、これは特攻隊の青年の句作ではなく、世に広く知られている良寛さんの辞世の句でありました。浅学GGI、お恥ずかしい限りでございます。でもあの良寛さんも桜花のごとく散りたかったのかもしれませんね・・・・

まあ、今日はGGIの気まぐれで宣長さんにからんでしまいましたが、それでも風に舞い散る桜の花びらを目にしますと思わず見とれてしまいますね

《久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るなむ》  紀友則

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

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長年の謎がやっと解けたような気がしたのでおいしいビールを飲みました・・・

2021-03-25 01:15:23 | 日記
当地、湖都の膳所城址公園、桜が咲きはじめましたと申しますか、咲き出したと思ったらすぐに満開になりそうな勢いです

昨日の午後、某用件のためにこの公園の近くにある公共施設に出かけました。用事を済ませたら午後5時、大通りの向こうに見える公園の桜が咲き出しているようです。いっしょにいた知人の1人が「天気がいいし、ちょっと公園の桜を見てから帰りませうか」とのたまひましたので付きあうことにしました。

桜、確かにすぐにでも満開になりそうな勢いで咲いてはいたのですが、桜は毎年観ておりますので、まあ結構な景色ではあるけれど、正直言って、わあ!よく咲いたなあと大感激するほどのものではないなあ、などとぼんやり思っておりましたら・・・・

GGIのこの気持ちを見抜いたのでありませうか、この知人、GGIの気持ちをゆり動かす誘惑の言葉を発しました

「GGIよ、桜を観たらここから湖畔沿いにあるいていって君の迎賓館で暮れなずむ湖を眺めながらドイツビールなんかどう?」

そうしましたらGGIが返事しないうちに、もう一人の市外から来た知人が答えてしまいました

「そうしませう、そうしませう、善は急ぎませう!」

多数決でありましたのでGGI、ポケットに手をいれてお金の所在を確かめてから従うことにしました

桜を後にして湖岸沿いの公園をあるいておりましたら、柳が気持ちよさそうに風に揺れているのが目に入りました。柳の若葉というのでせうか、新芽というのでせうか、その爽やかな明るい色彩に感心して眺めておりましたら、「そうかあ、このような様子のことを言うんだなあ」と、永年の謎が少し解けたように思いました

むかしむかし、そのむかし、日本が戦争に敗けてしまって帝都東京から首都東京に変身を開始したころに「夢多き東京」という歌が大流行しておりました(作詞:サトウ・ハチロー 作曲:古関 裕而)

歌詞は以下のとおりです

柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
誰を待つ心 可愛いガラス窓
かすむは春の青空か あの屋根は
かがやく 聖路加か
はるかに 朝の虹も出た
誰を待つ心 淡き夢の町 東京

ガキンチョであったGGI、そのころ悪ガキたちについて、焼け跡だらけの東京の街を毎日のようにほっつき歩いていたりしていたのですが、この歌詞の最初の部分「柳あおめる」の意味がよく分りませんでした。「あおめる」って何だろうというわけです。その後もず~と昨日になるまでは、わが潜在意識の底に「あおめる」って何だろうという思いが存在しつづけていたのです。そして優に半世紀以上を経て昨日、湖畔の柳が風に、薫風にそよぐ様子を目にして、「そうかあ、そうなのだ・・・これが、柳あおめるかあ、青めるなんだあ、なるほどなあ」と初めて実感したのでありました

などというGGIのヘタクソな説明よりも、今日の写真をクリックしてしかとご覧くださいませ。「柳青める」様子が、春風に気持ちよさそうにたなびいている様子がお分かりいだだけるでありませう

この歌詞で、もうひとつ、大きくなるまで何のことかまったくわからなかったのは「輝く聖路加か」の部分です。アホガキのGGI、「輝くせいろかか」っていったい何のことや、まるでチンプンカンプン、「せいろかか」って、なんだかどもってしまいそうな言葉、いったい何のことやというわけです。長じてすこしカシコクなってから、ああ、そうかあ、高層建築だらけの今の東京都ちがって、見通しのよい東京、「あの光って見える高い建物は聖路加病院の聖堂だろうか」といった意味なのだとやっと納得がいったのでありました。

この歌を聞いてみたい方はユーチューブをご覧くださいませ

最後に、付録として「柳青める」と詠った泣き虫・啄木の短歌を紹介しておきます。故郷の北上川を想って詠んだ句です

《やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けと如くに》

ほんとうに啄木さん、泣くのがすきですね・・・砂浜でカニとたわむれて泣いたり、老母をおんぶして泣いたり・・・

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

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知ったかぶり方言教室:「えらいさんが来るとえらいえらいなあ・・・」

2021-03-21 22:43:19 | 日記
一昨日、湖岸の大通りをあるいておりましたら、関電湖国支店のビルの筋向い、広い歩道にダークスーツに身を固めた一団が何やらうろうろしておりました。完成したばかりの新しいマンションの前です。建てたのは「関電不動産」という会社、

このマンションの建築工事が始まったとき、工事現場に《建築主は「関電不動産」です》という看板がかかっていましたので、GGIは、関電さんて物持ちなのだなあ、何かとお騒がせの原発を持っていてあっちこっちにお金をばら撒いているだけではなく、あっちこっちに土地を所有しているので不動産会社まで持っているのだあ、と感心してしまいました

歩道のダークスーツのみなさん、今日はマンション完成記念のセレモニーか何かがあったのでせうか、みなさんキチンとした姿でブラブラしながら何かを、誰かを待っているようであります

なんだろうと思ってしばしGGIも何かを待っておりましたら、やがてマンションのガレージから黒塗りの大型車、いかにも高級車然とした乗用車が二台、そろりそろりと出てまいりました。

すると、まず先頭の高級車に向かってダークスーツ氏何人もが突進、車を取り囲むようにして中に乗っている人物に向かって深々とお辞儀をしました。最敬礼です。

これらのダークスーツ氏らの最敬礼、テレビに映った何か不祥事の記者会見でおなじくダークスーツの諸氏が謝罪の頭を下げている場面とくらべてもあまりお目にかからないリッパなものでしたので、思わず感心してしまいまいた。国会議員なんか、何かのことで謝罪しなければならない場合であっても、アベ君や菅君で分りますように、まかり間違ってもこの様な最敬礼はいたしませぬ、チョコンと形だけ頭を傾けるに過ぎませぬ

今日の写真はこの最敬礼氏たちの姿を撮ったものです。どうかクリックしてご覧になり、最敬礼ぶりをしかと観察なさってください。写真に写っている左側の最敬礼氏なんかきちんと伸ばした両手をピシッとお尻につけて見事な姿勢です・・・

この最敬礼氏たちはいずれ出世するかもしれませぬ、そうでない場合は謝罪要員として重宝がられるかもしれませんぬ。

他に、ただ突っ立っているだけの何人ものダークスーツ氏がおりました。彼らはやや手持無沙汰ふう、何か小声でさんざめいております。

「ほんまに、えらいさんが来るとえらいえらいなあ・・・」
「ほんまやなあ、えらいこっちゃ・・・」

みなさん、彼らはさかんに「えらい」を連発しておりますが、何を言っているのかお分かりでせうか

まず、「えらいさん」は全国どこでも使う表現ですのでお分かりでせう。「お偉いさん」のことであります。これは会社や役所なんかの「えらい」ひとを指す言葉ですが、言った本人は必ずしもほんとうに「偉い」などとは思っていないと申しますか、偉いとされる人物を茶化すと申しますか、揶揄する意味合いを有している表現です。たとえば「うちのえらいさん、頼りにならん、どこがえらいんや」などと言ったりすることが珍しくありませぬ。

さて、そのつぎの「えらいえらいなあ」は少しわかりにくいですね。「えらい」は関西では広く使われる言葉ですので、関西の方はすぐにお分かりになるではないかと思います。二回「えらい」という言葉が繰り返されていますが二回目の「えらいなあ」の「えらい」は「疲れる、しんどい」という意味であり、関西では多用される表現です。

一回目の「えらい」、これはちょっと複雑であります。本来であれば「すごく」「とても」「非常に」などと言う意味で「えらく」と表現するべきところなのですが、関西では「すごく」という表現はあまり用いられていないようであり、「すごく」などという意味であっても「えらく」ではなく「えらい」で済ませてしまう傾向が強いようです。

たとえば、お店が混んでいる場合、「この店、えらい混んでるなあ」とは言っても「えらく混んでるなあ」とはあまりいいません。このような場合、あるいは「えらく」とはいわず「えろう」などと言ったりすることも多いようです。「この店、えろう混んでるなあ」というわけです。他に「えろう」は、たとえば「昨夜の雨、えろう降ってたなあ」というふうに使いますね・・・

後ろに来る単語が名詞ならば「えらく」ではなく当然形容詞の「えらい」になります。たとえば「昨日はえらい雨やったなあ」。でも標準語ではこのような場合「えらい」は使いませんね。「すごい雨だった」とか表現するでありませう

関西弁では「すごい、非常な」と言った意味で「えらい」はよく使われます。たとえば関西では「あいつ、えらいアホやでぇ」とか「これはえらい事件や!」などと言ったりしますが、このような使い方は標準語ではしませんね。標準語なら「あいつ、すごいバカや、これはすごい事件や」などとなるでありませう

さて、つかれた、しんどい、という意味での「えらい」、このような場合、定かではないのですが、わが湖国では「えらいなあ」などと丁寧にいわずに「ああ、えらぁ」などと言ったりすることがあります。「ああ、しんどい」という意味で「ああ、しんど」といったするのと同じでありませう。

最後の「えらいこっちゃ」の「えらい」はいろいろな意味を含んでおります。「大変や、骨ががおれるなあ、しんどいことや」などなど、なんかあっても、場合によっては「えらいこっちゃ」の一言で事をうやむやにすることができる場合もある、便利な言葉です

かようなしだいで、今日の日記の表題を翻訳しますと「ほんまにえらいかどうかは知らんけど、偉いさんが来るとすごく疲れてしまうなあ」「ほんまに、やってられんなあ」という意味でございます。

GGIの説明はかなりいいかげんなものですので、もっと正確にお勉強をしたいと思われる方は、學校の先生向けに書かれたものと思われる《関西弁の「えらい」についての考察》と題されているサイトがありますので、どうかご覧になってください。

では今日の授業を終わります

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・
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ブラウン管のテレビなんかありませんか?ありま~す!

2021-03-19 01:46:31 | 日記
昨日の午後、電話がかかって来ました、一昨日、冠婚葬祭屋さんから電話がかかってきましたときは「うちは間に合っています」などとヘンな返事をしてすぐに電話を切ったのですが、昨日の電話の主は粘ります、お宅にお宝ものなんか眠っていませんか、それに古くなって使っていないパソコンとか、なんとかかんとかなどはありませんか、などと粘ります。どうやらリサイクル屋さんか廃品回収屋さんのようです

めんどうくさいので「最近、その類のゴミはまとめて捨ててしまったのでありましぇ~ん」と答ました。これはウソではありません、右腕大骨折で日常生活に大不便をきたしていたころ、わが庵の内部、ゴミ屋敷に転じる危機にさらされており、ウンザリして、大きな車を持っている知人に息子さんに頼んで大型のガラクタの類を市のごみ処分場に捨ててもらったのです

そこまで説明しても電話の主はまだ粘るのであります

あのう・・じゃあ・・・ブラウン管式のテレビなんかありません?

オオオー!この質問はアタリです!まるでわが庵の内部を知っているかのような質問です

そこでGGIはウソつきではありませんので正直に答えてあげました

ありまっせ~!

あるんですか、じゃあそのテレビを・・・

あきましぇ~ん、まだ使っているので~す、まだまだ見えるので~す

ここでやっと電話の主はあきらめてくれました

まことにワッハッハであります。というわけで、今日の写真はわが庵のお宝であるところのブラウン管式のテレビを撮ったものです。どうかクリックしてご覧になり、しかとご確認くださいませ。どうです、ちゃんと見えているでせう!

画面の大きさは新聞の一頁分の大きさに満たない、A4の用紙2枚より少し大きいぐらいです。いつからこのテレビさんのお世話になっているのか定かではありませんが、地上波が地デジに切り替わる以前から・・いや、軽く20年以上・・・いや30年、いや平成の御代が始まる前からあったから30年以上・・・

地デジに切り替わったときは、果たしてどうしたものか、勝手にそっちの都合で変えられても困るんだよなあ、新しいテレビを買わないといけないのか、総務省や放送業界や家電メーカーの陰謀じゃないの?まだ見えるのにもったいない、などと迷いました。

実は、わがテレビさんは当初はアンテナを利用していたのですが、途中からケーブルを利用しております。

ある年の秋、アンテナが台風で築戦前のオンボロ家屋の屋根から吹き飛ばされて庭先に墜落してグンニャリ、直しにきてくれたた電気屋さんと電気工事屋さんに相談しましたら、壊れて地面にだらしなくへたり込んでいるアンテナを横目に二人は何やらしばし密談、次いで曰く、「あのですねえ、GGIさん、5年に一回アンテナが吹き飛ばされるとしたらケーブルにした方がお得です」と謎めいたことを申しました。どのような計算でそのようなことになるのかGGIには分りかねたのですが、日ごろなにかと世話になっている電気屋さんですので、ケーブルに切り替えることにOKしたのです

かようなしだいで、ケーブルテレビ屋さんに電話しましたら「大丈夫ですよ、いまのままでも見えるようにできますよ」との答、すぐに庵にやってきて何やらゴソゴソしておりました

「はい、これでオッケーです。ほらビデオのチャンネルを使って見えるようにしておきました。ただ地デジは横長の画面ですので、いままでの画面の上下を少しちょん切っておきました」

まことに結構、上下をちょん切られたために画面はさらに小さくなってしまいましたがこれで十分であります

GGIはながらテレビであり、ちゃんとテレビの正面に座ってじっと画面に見入ることはほとんどありませんのでこれで十分、このままテレビの寿命か若しくはGGIの受命が尽きるまでひたすら現状維持でいく所存でございます

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・

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俳句短歌勝手にきまぐれ時評・・・

2021-03-16 01:29:05 | 日記
以前にも書きましたがGGIは俳句や短歌を作る才はまったくございませぬ、でも俳句や短歌を目にしてあれこれ勝手なことを無責任に夢想するのは好きでございます。

ですから気が向きますと、日曜日の朝日新聞に掲載される「朝日歌壇・俳壇」を結構熱心に眺めたりいたします。

どのようなものが優れた作品であるのか、その判断基準はひとによって実に様々です。その証拠に、この歌壇・俳壇はいずれも4人の選者により一回にそれぞれ十の作品、合計40の作品が選ばれているのですが、選び出されたこれらの40の作品のうち同一の作品が複数の選者により重複して選び出されていることはほとんどありませぬ。たまに一つか二つの同一の作品がを複数の選者により選び出されている程度です

GGIの場合は勝手かつ気まぐれに、優れた作品であるか否か、あるいは表現力がどうのこうのという、できの良し悪しはあまり重視しておりませぬ、そのようなことより、これは強く心に残ってしまうなあと思ってしまう作品を是としております。

心に強く残る作品というのはどのような作品かと申しますと、その一つは、詠む技術が上手とか下手ということではなく、詠まれている内容を目にして、とっても「それがどうした!」と済ますわけにはいかないような作品です。もう一つは、詠まれている内容ははっきり言ってどうでもいいものであり、まったく思わず「それがどうした!」と言いたくなる内容のものではあるけれど、でも、思わず笑ってしまうと申しますか上等のユーモアに包まれている作品です。

かようなしだいで、GGIが気になった、あるいは気にいった俳句や短歌をこれまでもときおり紹介してきましたが、今日はその最新版でございます。

《仕事なく 家賃払えぬ身となりぬ 路上生活送る寒さよ》
         
                調布市 豊宜光(3月7日の朝日歌壇:馬場あき子選)

GGI、この句を目にして思わず「ウッ」となってしまいました。とっても「それがどうした」などという気にはなりませぬ、そんなこと言えませぬ・・・「路上生活送る寒さよ」っていうけれど、とっても「寒さよ」どころの話ではないよなあ・・・大丈夫かあ・・・この先、いったいどうするんだ・・・「寒さよ」どころではないことは文字通り身に滲みるほど分っているけれど・・・それでも、この句の作者、ただ「寒さよ」というしかなかったんだあ・・・表現が下手だの上手だのいう次元の問題ではないよなあ・・・

短歌では、このような「それがどうした」では済まされない作品を決して多くはないのですが、ときおり目にすることがあります。一方、わずか十七文字の俳句の場合は、GGIの独断と偏見によれば「それがどうした」と言いたくなる内容の句がほとんどであります。失礼ながら芭蕉さんの句も含めてそうだと申し上げたらバチがあたったりするでありませうか・・・

しかしながら、ごくごく稀にではりますが、あることはあるのです。思わず絶句してしまうような、とっても「それがどうした」では済まされない作品があるのです。たとえば、かつて2018年8月13日の日記で紹介したことがあるのですが

《水爆が沈んでをりぬ夏の海》 (取手市、御厨 安幸)

2018年8月12日の朝日俳壇に掲載されていた作品です。

水爆が夏の海に沈んでる?いったい何のことだ?この作品を目にしても何のことか分からない方がおられるのではないでせうか。この作品について選者は『某年、水爆搭載機空母より滑落』と説明しています。これだけではいまひとつ分りませんので若干の説明を加えますと、

ベトナム戦争初期、1965年、ベトナムの戦場を後にして那覇港を経て横須賀に向かっていた米空母「タイコンデロガ」の甲板から水爆を搭載していた戦闘機が海中に滑落、回収不可能、そのため今でも、沖縄から奄美あたりの夏の明るい陽光に輝く南の海、そのどこかに水爆が沈んだままであることを読んだ句です。この作品、とても「それがどうした」というわけにはいきませぬ、夏の句ではありますが寒気がいたします。半世紀以上を経た今でも沈んだままであるのですから・・・

この事件、当初極秘にされていたのですが、ずいぶん後になってばれてしまい、その結果、米軍が勝手にオキナワに核兵器を持ち込んでいたことが暴露されてしまいました

次に、読まれている内容はどうでもいいことだけれど、思わず笑ってしまう最新の作品を紹介いたしませう

この日曜日、3月14日の朝日俳壇に掲載されていた作品です

《根拠なき自信湧きたる朝寝かな》    (京田辺市 加藤草児)

ほんとうに、どうでもええやないか、それがどうしたんや!と思わず突っ込みを入れたくなる句です、でも、思わず笑ってしまいます、《根拠なき自信》というのがいいですね!GGIも覚えがありまする、GGI、根拠なき自信だけで生きてきたみたいなものでありますから・・・

選者は「なんだか力がみなぎるような気がする。これこそ朝寝の功徳」と評しております。でもねえ、選者様、力がみなぎる「ような気がする」だけなのですよ。気だけなのです。朝寝から覚めて数時間も経ちますと、根拠はないのですから、モクモクと「湧きたる自信」の雲は胡散霧消しかねないのです・・・

知らなかったのですが、春眠暁を覚えずなどと言いますから、きっと「朝寝」というのは春の季語なんですね。

今日の写真はわが庵の花だよりです。ただいま満開、ただし桜ではなく杏です。よろしければクリックしてご覧くださいませ。昨日、通りかかった人が「杏の花ですか、きれいですね」と声をかけていきました

《杏咲く家と少しは知られけり》  小谷部東吾 掲載誌「 濱」(1999年 )

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