UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

猛烈残暑御見舞:入道雲さんがご挨拶です

2020-08-22 00:57:59 | 日記
暑い日が続きますね、このように暑い日にグダグダしたヘタクソな私どもの意味不明の駄文をご覧になっても、只々暑さいや増すだけでございますので、今日はごくかんたんな平凡なる日記でございます

昨日の夕方、久しぶりにわが庵にやってきた某知人と二人で、わが湖畔の迎賓館で静かにドイツビールを楽しみました。白ビールを中ジョッキで一杯、黒ビールを小ジョッキで一杯、それに小さなグラスでドイツの焼酎「シュナップス」なるものを一杯・・・

湖を覆う青空には入道雲さんが元気いっぱい、もくもくもくもく、もくもくもくもく、やがて夕日に照らされて徐々に赤く染まり、静かに夕闇のなかに吸い込まれていきました

今日の写真は元気の見本のような入道雲さんを撮ったものです。よろしければクリックしてご覧になり、湖畔の夏をちょっぴりお楽しみくださいませ

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・

グッドナイト・グッドラック!

八月や六日九日十五日(その五):続「戦後日本の平和と繁栄」ってほんと?

2020-08-19 02:03:57 | 日記
今日の日記は前回の続きです。前回の日記の最後に、毎年8月15日に行われる戦没者追悼式典において天皇も首相も、きまったように「戦後日本の平和と繁栄」と式辞で述べているけれども、はたしてそんな簡単に、戦後の日本は平和のうちに繁栄したなんて言ってよいものであろうか、と記しました。

歴史はそう単純なものではありません。日本の戦後史もその例外ではありません。そこで、まことにおせっかいでありますが、ごく簡単に「戦後日本の平和と繁栄」に関連する歴史的事実を以下に簡単に記しておくことにいたします。すべて、皆さんがすでにご存知のはずのことばかりです。

【朝鮮戦争】(1950年6月~1953年7月)死者:南北朝鮮で計約400万人

【ベトナム戦争】(1964年~1973年)死者:約300万人(米兵死者約6万人)

【湾岸戦争】(1991年1月~2月)日本は戦費110億ドル(約1兆円)を負担、死者2万~3万

【イラク戦争】(2003年3月~現在)。日本は自衛隊を「非戦闘地域」に派遣、死者は民間人が約21万人、兵士たちを含めると約29万人(2020年8月18日現在の「イラク・ボディ・カウント」による調査:ただしこれらは複数のメディアで確認された死者のみであり、英国の医学雑誌「ランセット」は実数はこの数倍以上に達しているものと推測しています)

戦後、日本はこれらの米国による戦争すべてに関わってきました。朝鮮戦争とベトナム戦争、死者の数は先の大戦における日本人死者の数と同様、数百万人のレベルであることから、大平洋戦争とは異なり、狭い地域で戦われたこの二つの戦争が、いかに激しいものであったかが理解されます。

朝鮮戦争では、日本は戦場から至近距離、日本の米軍基地はまさに前進基地同然、米兵たちは日本の基地から直接戦場に向かいました。日本人のなかに戦線に赴くことを米軍から強要された人たちがいたばかりでなく、日本の産業界は実質的に米軍の兵站を担っており、日本で製造された銃弾・砲弾が戦場を飛び交いました。

ベトナム戦争では沖縄の米軍基地から飛び立った米軍機が直接ベトナム本土を爆撃、「オキナワ」はベトナム人にとっては恐怖の代名詞でありました。

横須賀を母港とする米軍の艦艇がベトナムの戦場へ出撃、ベトナムから沖縄を経て横須賀に帰還する途中の空母が沖縄近海に小型核兵器(水爆)を搭載した戦闘機を海中に落っことしたままにするというトンデモナイことも起きました。戦場で米軍が空からばら撒いた、発癌性のダイオーキシンが含まれている枯葉剤(除草剤の一種:沖縄の基地に備蓄されていました)により奇形児が生まれるなど多くのベトナム人の健康が害されました。未だにベトナムの国土は広範に枯葉剤で汚染されたまま、五十年近くを経て、ようやく数年前に米国の協力を得て除染作業が始まったばかりです。

湾岸戦争では、当時のローマ法王は「これは新たな十字軍である」と強く反対していました。しかし、日本政府は米国に要求されて戦費の一部、約1兆円を負担しました。GGIがバチカンの日本大使館宛てに、湾岸戦争を止めさせてくださいと法王に願う手紙を出したところ、「法王はあなたに代わって神にお祈りになりました」とする正式の返事がきました。返事には、法王は湾岸戦争に明確に反対していると報じる英字新聞の記事と法王の近影が添えられていました。それ以来、GGIはキリスト教徒でも何でない異国の一市民に応えてくれた法王に敬意を表することにしています。

いまだに終わりが見えない、現法王が「これは第三次世界大戦である」としたイラク戦争、国連安保理でドビルパン仏外相の開戦を認めないとする熱弁に拍手がわき起こり、開戦が否決された瞬間を、GGIは偶然、深夜のライブ中継で目撃しました。安保理で拍手が鳴り響くことなど、これまでにないことだと報じらていました。しかし、日本は英国と共に米国支持を世界に先駆けて宣言しました。それだけではなく、「カネを出すだけではダメ、血を流せ」などヤクザもどきの野蛮なことを言われて、日本は自衛隊をイラク本土の「非戦闘地域」に派遣しました。

駐屯地のすぐ近くに着弾するなど危険な状況に置かれたこともあったのですが、幸い自衛隊員に死傷者が出ることはありませんでした。しかし、イラクで空自の輸送機が米兵を運んでいたことが明らかになり、後にこの行為は違憲であるとの判断が名古屋高裁で下されました。開戦当時の英国の首相であったブレアは後に英国会で、「イラクは大量破壊兵器を保有している」というフェイクな情報を根拠にイラク戦争に賛成し協力したことの責任を問われました。しかしながら、当時の日本の首相、小泉純一郎がその責任を問われることはまったくありませんでした・・・

このように、日米安保条約に基づいて在日米軍の存在を認めることにより、日本は戦後これらの米国の戦争に積極的に協力してきました。戦後まもなく起きた朝鮮戦争から現在にいたるまで、日本は戦後一貫して米国の戦争に深く関わってきたのです。すなわち、朝鮮戦争から現在まで、数百万人もの人々の死に日本は関わってきたのです。

確かに、日本は戦後「国権の発動」たる戦争は行っていません。しかしながら、日本がこれほど多くの人々の死に関わって来たという事実をを少しも省みないで、ノホホンと「戦後日本は平和だった」などと言うことが許されるのでしょうか・・・

次に戦後日本の「繁栄」について、若干の歴史的説明を記しておきませう。勤勉な日本人の努力が戦後日本経済の復興と繁栄に大きく寄与しているのは確かです。しかしながら、日本経済の復興と繁栄は日本人の努力だけによるものではありません

まず記しておかなければならないのは、敗戦で焼け野原になった中で日本経済復興の起爆剤になったのは、いわゆる「戦争特需」であったということです。朝鮮戦争による特需、「朝鮮特需」です。敗戦から5年後、朝鮮戦争の勃発によって、米軍などからの日本国内の各種企業に対する発注が急増、この受注によって輸出が伸び、日本経済は敗戦による不況から脱することができたのです。朝鮮特需が敗戦日本の経済復興の起爆剤になったのです。ありていに申し上げれば、隣人の大不幸をタネに、日本は経済復興への道をスタートすることができたのです。

また「ベトナム特需」も日本経済の成長に大きな役割を果たしていました。ベトナム戦争による特需により、日本経済は昭和40年代の低迷から脱して高度成長へと向かうことができたのです。またしても、他人の不幸をタネに日本経済は成長したのです。

また、いま中国は国際的に評判が悪いため、多くの日本人はとっくに忘れているのではないかと思われるのですが、日中国交回復に際して中国側が賠償請求権を放棄したことも日本経済の「繁栄」に役立っていました。

1972年、日中国交樹立にあたり、周恩来首相は日本に対する戦争賠償請求の権利を放棄すると日本側に伝えました。周恩来は、第一次大戦後、非常な額の戦争賠償を請求されてドイツ経済は疲弊、人々は厳しい生活を余儀なくさせられ、その結果がヒットラーの出現につながったとして、「日本側に膨大な(数千億ドル?)額の戦争賠償を請求したならば、日本はその重みに耐えかねて、第一次大戦後のドイツを同じことになりかねない」と、請求権を放棄する理由を説明したとされています。でも、周恩来氏の英断に感謝する日本人は、いまではほとんどいないのではないでせうか。まことに恥ずかしきことです。

日本経済の繁栄はもちろん日本人の努力によるとことが大でありますが、その背景には以上のような事情があったこともしっかり認識しておくべきでありませう・・・・

というわけで、もう一度申し上げます

「戦後日本の平和と繁栄」ってほんとうですか?

今日の写真は今年の戦没者追悼式典の会場の様子です。テレビの画面から借用しました。よろしければクリックしてご覧くださいませ

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!

八月や六日九日十五日(その四):「戦後日本の平和と繁栄」ってほんと?

2020-08-17 01:06:55 | 日記
昨日は終戦記念日、この日はGGI、毎年午前八時にわがファザーの墓参りをすることになっております。わがファザーは、中年になってからなぜかカトリックの信者となりましたので、墓はJR駅の近くの高台にあるカトリック教会の墓地にあります。この墓地で毎年8月15日に墓前礼拝が行われますので末席を汚しにいくわけです。

これまで一度も欠席したことがないのですが、今年はコロナ禍のために墓前礼拝は中止となりました。でも、GGIはまことに我ながら感心なことに、墓前礼拝はなくても墓参りだけはしておこうと固く心に誓い、前日にお花を用意しておきました。

しかしながら翌十五日も猛暑継続、テレビさんなんかが「危険な暑さ」とおどかしますので、ひとりで墓参りにいってあえなく熱中症で・・・なとどいうことになったらたいへんだよなあ、という口実を思いついて、人一倍薄志弱行のGGI、墓参りは中止することにして、お昼にテレビでぼんやりと戦没者追悼式典の様子を眺めておりました。残念ながら、天皇のあいさつもアベ君のあいさつも変り映えのしないものでありました

毎年のことですがこの式典、白と黄色の菊だけのデッカイ祭壇、なんだか陰気くさくて、決まりきったあいさつが続くだけで、テレビの画面からは「追悼」の気持ちはまるで伝わってきませぬ・・・

午後は一段と猛暑、あまり暑いので夕方になって近くのスーパーに買い物を兼ねて涼みにでかけました。エアコンのよく聞いた店内でコーヒーをすすりながらしばらく鎮座しておりましたら、空が曇ってきて、いくぶん暑さもおさまってきたようでありました。そこで珍しくGGI、久しぶりに大決断、

そうだ、やっぱり墓参りに行こう!

もう午後5時半を回っていましたが急いで帰宅、花を持って墓地へでかけました。着いたのは午後6時頃、いつもであれば新しい花が飾られたお墓が目につくのですが、やはりコロナ禍のせいでしょうか、人影はほとんどなく、花が飾られているお墓は多くはありません・・・

これではちょっと寂しいなあなどと思いながらファザーの墓の前に立ちました。そうしましたら、寂しいどころの騒ぎではありませんでした・・・・夏草がお墓をすっかり覆っているのです、植物パワーにしてやられました。わが庵の夏草のパワーぶりは毎日気になっていたのですが、お墓が夏草に埋もれるなんて、恥ずかしながらなったくの想定外でありました。

草を抜くための道具は、軍手もハサミも、なんにも持ってきませんでした。この夏草を全部抜くのはGGIには不可能、大妥協して花立ての周囲だけを素手で抜くことにしました。

今日の写真はGGIの労働の成果を撮ったものです。首都圏で暮らす我が同胞たちよ、今年もGGIが代表して墓参りをしておいたぞ、お主ら、これが目に入らぬか!これがその証拠写真だ!感謝してもしなくてもいいけれど、クリックして、しかとこの証拠写真を確認されよ!

墓石を覆う夏草を目にしたとたん、芭蕉さんの句を思い出しました

《夏草や兵(つわもの)どもの夢のあと》

次いで、何の脈絡もなく、万葉集にある大伴家持の長歌を歌詞とした、戦前の軍歌あるいは歌謡曲あるいは準国家であるとされていた「海行かば」という歌が心に浮かびました。水漬く屍かあ・・・草生す屍かあ・・・

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(む)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへり見はせじ

大伴家持は奈良時代、8世紀に生きた人だけれど、この歌詞の前半、それから12世紀を経た先の大戦における日本の兵士たちの悲惨な死をまるで予言していたみいだなあ、

先の大戦における日本兵死者約220万人のうちの少なくとも約6割、140万人は、「戦死」したのではなく「戦病死」、すなわち後方支援なく、戦うための銃弾や武器もなく、食糧もなく、戦う以前に飢えと病で死んでいった、つまりただただ「水漬く屍」となり、あるいは「草生す屍」となって死んでいった・・・・

しかも先の大戦から75年も経たというのに、100万人以上もの遺体がいまだにかつての戦地で依然として「水漬く屍」、「草生す屍」のまま放置されっぱなし・・・

(参考:厚生労働省によれば、2009年3月現在、第2次世界大戦において海外で戦死した旧日本軍軍人・軍属・民間人約240万人のうち、日本に送還された遺体は約半数の約125万柱となっている。残りの約115万柱については、海没したとされる約30万柱を含め、現在もなお海外に残されたままである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BA%E9%AA%A8%E5%8F%8E%E9%9B%86%E4%BA%8B%E6%A5%AD )

などとちょっぴり歴史を振り返りながら、急な墓地の坂道をくだってブラブラ帰ってきましたら日はすっかり暮れていました。わが庭の夏草をかき分けかき分け玄関にたどり着いたら午後の7時半を回っておりました。

遅い夕食をボソボソ食べながら夕刊を見ていましたら、戦没者追悼式典での新天皇の「おことば」と安倍首相の式辞の内容が報じられていました。

何となく目をとおしていましたら新天皇は
「終戦以来75年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられました・・」

一方、安倍首相は
「今日私たちが享受している平和と繁栄は・・・」

これらのフレーズ、前後の文脈は異なるものの、天皇と安倍首相は、戦後の日本、今日の日本は「平和であり繁栄している」という認識で一致していることを意味しています。これまでの追悼式典でも、天皇と首相の両者とも、今日の日本が平和と繁栄の下にあると述べています。夕刊で「平和と繁栄」というお決まりのフレーズを目にして、「おい、そんな簡単に日本は平和であり繁栄していると言っていいのか、ちょっとは戦後史を勉強したほうがいいんじゃないか」と箸をとめて、思わずひとり呟いたのでありました・・・

(この日記、つづくかもしれません)

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・

グッドナイト・グッドラック!

猛暑御見舞:八重葎庵の芙蓉さんがご挨拶です

2020-08-14 00:58:39 | 日記
みなさん、猛暑の日々が続きますね、私たちはただいま八重葎庵の雑草園に全面展開中の芙蓉でございます。まずは今日の写真をご覧になってくださいませ。私どもの涼しげな優雅な姿をクリックしてご覧いただければ幸いに存じます。

連日の猛暑で八重葎庵の室内も、連日35度近くにまで達しています。このためテレビさんなどが「とくに高齢者の方は熱中症に注意しませう、こまめに水分を摂取しませう、クーラーをつかって室温を28度以下にしませう」などとご親切にアドバイスなさってくださっているのですが、庵主のGGIさまは高齢者を幼児あつかいしているようなこのアナウンスが御気に召さないようで、「余計なお世話」とうそぶいておられます。

GGIさまは、「クーラーなどという、部屋の中は冷やすかわりに熱くなった室内の空気を外に排出して知らん顔しているという、自己チューの見本のような非文明の利器なんか恥ずかしくて使えるか」とのたまわって、年に数度しかご使用になりません。

それに、夏になって今年初めてクーラーを使おうとすると準備がタイヘンでございます。クーラーの排気口の周りに草々が密集、わんさかと生い茂っているからでございます。ですからクーラーを動かそうとすればまず雑草退治をしなければならないのですが、肉体労働と相性が悪いGGIさまにとりましては大仕事でございます。でも、先日、さすがの暑さに負けて、GGIさま、意を決して大きな剪定鋏を草々に向かって振り回しておられました、

かようなしだいで、GGIさまはひたすら扇風機党であられます。旧八重葎庵もそうでしたが、新八重葎庵もいたるところにガラス戸や窓、風通しは良好、ですから湖からの風が吹いてきますと、至るとこで白いカーテンが八重葎庵を出たり入ったり、見た目はとても涼しそうなのですが、この猛暑の日々、ただ涼しそうに見えるだけでございます

芙蓉の木、築戦前の旧八重葎時代にも大きな木が一本あったのですが、十年少々まえ、新八重葎庵建立の工事のときにバッサリ切られてしまいました。でも、私たち芙蓉は、これではGGIさんにお気の毒と思って、工事中にあちこちに芙蓉のタネをばら撒いておいたのでございます。そのおかげで、今では4本か5本に増えて、夏から秋にかけて庭いっぱいにバッコ、八重葎庵は芙蓉庵と化しているのでございます。優美な芙蓉庵は、八重葎庵とは異なり、GGIさま様に過ぎたる庵でございますが、GGIさまはそのことにお気づきになっていないようです・・・

私たちの花言葉は「繊細の美」「しとやかな恋人」、GGIさんにはふさわしからぬ花言葉でございます。そのことをGGIさんに申し上げますと「君たち何言うてるんや、オレなあ、こう見えても結構繊細なんやでぇ、オレの日記読んだら分るやろ」などと申します。

私たち芙蓉の花は、みなさんご存知かと思いますが、一日花でございます。花の命は文字通り短いのでございます。ですから、夕暮れになると私たちは眠りにつくのでございます。ところがGGIさんはなかなかのおバカさんでございますから、毎日々々、同じ花がずっと咲いているのだと思い込んでいるのでございます。

一度、GGIさんの無知ぶりをご指摘したことがあるのですが、GGIさまは「そんな細かいこと気にせんでええ、毎日夕方には命を終えて翌朝に復活するなんてステキやないか、あのキリストさんだって毎日復活するというわけにはいかんやろ」などと訳の分からないことをおっしゃっていました

《 大らかに風うけとめて芙蓉さく 》  谷村幸子

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!

八月や六日九日十五日(その3):「当然、君は原爆資料館行くべきだ・・・」

2020-08-11 01:04:53 | 日記
昨8月9日、75年前に原爆を投下された長崎で平和祈念式典が行われました。NHKが午前10時50分から式典の様子を中継しており、原爆が投下された午前11時2分、GGIもみなさんと一緒に起立、テレビの画面に向かって黙祷いたしました。

長崎市長の田上富久さんによる平和宣言、日本政府が一日も早く核兵器禁止条約へ参加することを求める落ち着いた調子のスピーチは好感が持てるものでした。しかし、式典に参加して長崎市長のスピーチを聞いていた安倍首相は終始無表情、退屈そうと申しますか居心地がわるそうと申しますか、何やらお疲れのようでありました・・・

安倍首相は式典のあと長崎市内のホテルで「被曝者代表から要望を聞く会」に出席、次いで記者会見を行い、午後3時15分発の日航機で帰京、5時34分には自宅、と報じられていました。

安倍首相のあいさつは、核兵器禁止条約のことにはまったくふれず、条約加盟国と核保有国との間を取り持って核兵器廃絶に向けて努力するという、広島での記念式典のときのあいさつとほぼ同じ、実質的な内容を伴っていない空疎なものでした。とにかく挨拶しなければならないから一応しておくという熱意にも説得力に欠ける、形式的なものでありました。米国の核の傘の下にある日本としては核兵器廃絶に向けての具体的で積極的発言はそう簡単にはできないということなのでありませう。GGI、べつにアベ君の態度を肯定するわけではないのですが、そのような現実、日米同盟のことを考えると対外的に核兵器廃絶を強く主張することは容易ではない状況にあるということに関してはまったく理解できないわけではありませぬ・・・

しかし、そのような状況にあろうとも、安倍首相には、首相として、自らの意思によりできることはあるのです。できることはあるのにしないのであれば、それは怠慢でしかありません。

では、安倍首相に今できることは何でありませうか?・・・以下の新聞記事をご覧ください。

8月9日付けの毎日新聞デジタル版は「安倍首相、長崎原爆資料館を訪問せず」という見出しの記事を掲載していました。記事の内容は以下のとおりです。

《長崎の被爆者5団体は9日、長崎市で安倍晋三首相らと面談し、長崎原爆資料館を訪問するよう求めた。安倍首相はこの日も含め9回長崎に来たが、資料館を訪れたことはなく、5団体は初めて政府要望書に盛り込んだ。しかし、安倍首相からの回答はなかった。
5団体は、核兵器禁止条約への署名・批准も要望したが、安倍首相は核保有国と非核国との「橋渡しに努める」と繰り返すだけだった。
 安倍首相はこの日の平和祈念式典でも、広島と同様に核兵器禁止条約には言及せず「立場の異なる国々の橋渡しに努める」と述べるにとどまった。長崎の被爆者5団体は、被爆の実相を見なければ首相が主張する「橋渡し」はできないとして、長崎原爆資料館を訪問するように求めた。
 しかし、安倍首相はその要望に触れないまま「お時間となりました」と司会が言った後、席を立って会場を後にした。例年ならば、会場を出る前に被爆者がいる方に歩み寄って言葉を交わしていたが、今年はそれもなかった。
 安倍首相は面談で「核兵器使用の惨禍と非人道性を深く知る我が国」などと述べたが、長崎原爆被災者協議会の田中重光会長(79)は「長崎の原爆の実情を知らない。見に行く機会はあったはず」と憤る。長崎県被爆者手帳友の会の朝長万左男会長(77)は「原爆に対する当事者意識がない」と突き放した。県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長(80)は「原爆がいかに悲惨であるか、その目で見てほしかった」と唇をかんだ。》

アベ君よ、9回も長崎を訪問しながら、一度も原爆資料館に足を運ばないとは・・・君はいったい何を考えているのだ。今回は、被曝者の代表たちから正式に要望されていたにもかかわらず、君は行かなかった、被爆者の要望を無視して・・・

忙しくて暇がなかったというのですか?冗談はいけません、あなたは午後3時過ぎには長崎を離れ、午後5時半にはもう自宅に着いているのです。原爆資料館を訪れるよりステイ・ホームを望んでいたのですか?時間はあったはず。なかったとしても翌日の10日は祝日、ですから一泊して原爆資料館を訪れ長崎の悲劇的な惨状について時間をかけて勉強することもできたはず。そうすれば君が核兵器廃絶を願っていると国民は理解し、多少なりとも君を信頼するかもしれないのです。

アベ君、自らの意思でできることが目の前にあるのに何故しようとしないのですか?なぜ9回も機会があったのに一度も長崎原爆資料館を訪問しなかったのですか・・・・

君は式典で核兵器廃絶のために架け橋になりたいと言いながら、なぜ資料館を訪れるのをこれほどまでに嫌がるのですか?嫌がる理由は何なのですか?

原爆資料館の訪問を堅くなに拒否するという君の行為、いろいろリクツがあるのかもしれません。しかし、結局は単なる幼稚な我がままに過ぎません。君は唯一の核被爆国である日本の首相です。日本を代表する政治家です。そのような政治家に我がままは許されません。自分の考えがどうであろうとも、好むと好まぬとに関わらず、君は一国を率いる政治家として、人間としての責務を負っているのです。ですから

『当然、君は長崎原爆資料館を訪問すべきだ』

と堀田善衛氏をまねて言っておきます。

今日の写真は田上・長崎市長のスピーチの内容が頭の中を素通りしている最中の安倍首相の様子をテレビ画面から撮ったものです。ピンボケですがよろしければクリックしてご覧くださいませ

付けたし:12日付けの朝日新聞、川柳欄に以下の句が紹介されていました。テレビに大写しになったアベ君の様子を詠んだもの。作者の観察眼に脱帽です。

 《その貌(かお)は疲労肌荒れ精気なし》 福岡県 河原公輔

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・

グッドナイト・グッドラック!