オーム真理教の浅原彰晃教祖ら幹部7人が一挙に処刑されてから、昨日で4日が経ちました。この間、メディアを通じて学者や作家、評論家、法曹関係者など様々な立場のかたのいろいろな発言が伝えられています。
いちいちこれらの発言をていねいに読んだわけではないのですが、強くGGIの印象に残ったのは昨日7月10日の朝日新聞に掲載されていた「精神世界 無関心な私たち / オウム事件、言葉にする努力を放棄」と題された作家の高村薫氏の一文です。冒頭の一文は以下のとおりです。
「たとえ凄惨な無差別テロを引き起こしたカルト集団の幹部たちであっても、いざ七名も一度に死刑が執行されてみれば、さすがに気持ちがふさぐ」
正直な感想だと思います。死刑に賛成であっても反対であっても、このたびの執行、多くの方々はなんとも表現のしようがない重苦しい気分になったのではないでせうか・・・
GGIは死刑に反対しています。しかし、ヘンな言い方になりますが、これまで年に一度か二度、一度に一人か、あるいは別々の拘置所で二人、死刑が執行されたことを知ったときには、正直申しまして「またか・・・いつまでやるつもりなんだ、死刑廃止行進国のこの日本は・・・」とうんざりしたやり切れない気分になることはあっても、このたびのように、これほどまでに重苦しい気分になることはありませんでした。
警察庁のある幹部は「十三人を一気に処刑したら《大量虐殺》だと海外から強く非難されることになるだろう」と言っていたそうです・・・
高村薫氏の一文、ネットにも掲載されていますが、有料ですのでほんの少ししかネットでは読むことができません。全文を書き写すと長くなりますので、冒頭の一文に続いている前半部分だけを以下に写しておきます。
「死刑制度の是非は別にして、かくも重大な反社会的行為が身近で行われていた数年間、日本社会はいったい何をしていたのだろうか。私たちはオウム真理教の何を恐れ、何を断罪したのだろうか。教祖らの死刑執行を受けてあらためてそんな自問に駆られる傍らには、教団の反社会性を看過し続けた私たちの無力と無関心、さらに一方的なカルト宗教批判に終始したことへの自省や後悔が含まれている。また教祖らの逮捕から二十三年、日本社会がこの稀有の事件を十分に理解することを放置したままこの日を迎えたことへの絶望も含まれている。
裁判では、宗教教義と犯罪行為の関連性は慎重に排除され、一連の事件はあくまで一般の刑法犯として扱われたが、その結果、神仏や教祖への帰依が反社会的行為に結びつく過程は見えなくなり、宗教の犯罪という側面は手つかずに残された。どんなに異様でも、オウム真理教は紛れもなく宗教である。それがたまたま俗世の事情で犯罪集団化したのか、それとも教義と信仰に導かれた宗教の犯罪だったのかは、まさにオウム事件の核心部分であったのに、司法も国民もそこを迂回してしまったのである。」
たしかにそうだよなあ、でも宗教関係者のなかにさえ、あれは宗教なんかじゃないという拒絶感が存在していそうに思えるしなあ、などとぼんやり考えておりましたら、このたびの大量処刑に関連したメールが一通とどいていました。
GGIは知人らと協力して一昨年の12月に「望むのは死刑ですか」と題されたドキュメンタリーの上映会を行いました。死刑問題の討論映画ともいうべき、なかなかユニークな作品です。この上映会のときのことはかつてこの日記に書いているのですが、メールの主はこのドキュメンタリーの制作に携わっていた人物でした。
メールには、浅原彰晃死刑囚の娘さんである松本麗華さんという女性が死刑執行後に、ネットに一文を掲載しているので一読してほしい、転載・転送は自由、と記されていました。浅原死刑囚の遺体の引き取りを巡る現在の思いをつづったものです
「いま家族としてお願いしたいこと-死刑執行後の一連の動きと報道をめぐって」と題された一文です。
よろしければご一読くださり、この浅原死刑囚の娘さんの一文を自由に転載・転送なさってください。
なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・
今日の写真は本文とは関係ありませぬ、湖の上に広がる夏空を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧くださいませ
グッドナイト・グッドラック!
いちいちこれらの発言をていねいに読んだわけではないのですが、強くGGIの印象に残ったのは昨日7月10日の朝日新聞に掲載されていた「精神世界 無関心な私たち / オウム事件、言葉にする努力を放棄」と題された作家の高村薫氏の一文です。冒頭の一文は以下のとおりです。
「たとえ凄惨な無差別テロを引き起こしたカルト集団の幹部たちであっても、いざ七名も一度に死刑が執行されてみれば、さすがに気持ちがふさぐ」
正直な感想だと思います。死刑に賛成であっても反対であっても、このたびの執行、多くの方々はなんとも表現のしようがない重苦しい気分になったのではないでせうか・・・
GGIは死刑に反対しています。しかし、ヘンな言い方になりますが、これまで年に一度か二度、一度に一人か、あるいは別々の拘置所で二人、死刑が執行されたことを知ったときには、正直申しまして「またか・・・いつまでやるつもりなんだ、死刑廃止行進国のこの日本は・・・」とうんざりしたやり切れない気分になることはあっても、このたびのように、これほどまでに重苦しい気分になることはありませんでした。
警察庁のある幹部は「十三人を一気に処刑したら《大量虐殺》だと海外から強く非難されることになるだろう」と言っていたそうです・・・
高村薫氏の一文、ネットにも掲載されていますが、有料ですのでほんの少ししかネットでは読むことができません。全文を書き写すと長くなりますので、冒頭の一文に続いている前半部分だけを以下に写しておきます。
「死刑制度の是非は別にして、かくも重大な反社会的行為が身近で行われていた数年間、日本社会はいったい何をしていたのだろうか。私たちはオウム真理教の何を恐れ、何を断罪したのだろうか。教祖らの死刑執行を受けてあらためてそんな自問に駆られる傍らには、教団の反社会性を看過し続けた私たちの無力と無関心、さらに一方的なカルト宗教批判に終始したことへの自省や後悔が含まれている。また教祖らの逮捕から二十三年、日本社会がこの稀有の事件を十分に理解することを放置したままこの日を迎えたことへの絶望も含まれている。
裁判では、宗教教義と犯罪行為の関連性は慎重に排除され、一連の事件はあくまで一般の刑法犯として扱われたが、その結果、神仏や教祖への帰依が反社会的行為に結びつく過程は見えなくなり、宗教の犯罪という側面は手つかずに残された。どんなに異様でも、オウム真理教は紛れもなく宗教である。それがたまたま俗世の事情で犯罪集団化したのか、それとも教義と信仰に導かれた宗教の犯罪だったのかは、まさにオウム事件の核心部分であったのに、司法も国民もそこを迂回してしまったのである。」
たしかにそうだよなあ、でも宗教関係者のなかにさえ、あれは宗教なんかじゃないという拒絶感が存在していそうに思えるしなあ、などとぼんやり考えておりましたら、このたびの大量処刑に関連したメールが一通とどいていました。
GGIは知人らと協力して一昨年の12月に「望むのは死刑ですか」と題されたドキュメンタリーの上映会を行いました。死刑問題の討論映画ともいうべき、なかなかユニークな作品です。この上映会のときのことはかつてこの日記に書いているのですが、メールの主はこのドキュメンタリーの制作に携わっていた人物でした。
メールには、浅原彰晃死刑囚の娘さんである松本麗華さんという女性が死刑執行後に、ネットに一文を掲載しているので一読してほしい、転載・転送は自由、と記されていました。浅原死刑囚の遺体の引き取りを巡る現在の思いをつづったものです
「いま家族としてお願いしたいこと-死刑執行後の一連の動きと報道をめぐって」と題された一文です。
よろしければご一読くださり、この浅原死刑囚の娘さんの一文を自由に転載・転送なさってください。
なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・
今日の写真は本文とは関係ありませぬ、湖の上に広がる夏空を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧くださいませ
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