■ 擬態 その2を書こうと思うが、考えがまとまっているわけではない。
「透明」とは存在を隠蔽する究極的な状態なわけだが、少しその概念を広義に捉えて、「周辺環境、自然と連続的に繋がる状態」としてもいいのかも知れない。
建築というリアルなモノに「透明」などという状態はあり得ないわけで、緑化による周辺の環境への同化という隠蔽的な擬態、あるいは自然への連続性が現実的な「透明」ということだろう。
この国では人々は自然と親和的な関係を保って暮らしてきた。その住まい、民家は自然素材だけで出来ていた。構造は木、基礎は石、屋根は草、壁は土、床は木または草(タタミ)。建具は木と和紙で出来ている。それで全てだ。
隠蔽的な建築の民家 透明な存在 高知県梼原町にて
自然素材だけで出来ている民家は自然と一体的な存在、連続的な存在だ。つまり透明な存在と見なしていい(写真参照)。
きのこは生育環境がきちんと整ったところでないと育たないという。民家もきのこのような存在だ。地元で採れる自然材料のみを使い、地元の人たちだけで造る。自然に完全に同化した存在、自然と連続的に繋がる透明な存在。
民家は自然の一部だ。私が民家に惹かれ続けてきたのは自然に全く違和感なく溶け込んだその姿、日本人の自然観が反映されたその姿の美しさなのだ、と思う。
繰り返し取り上げている藤森さんの建築も民家と同様に自然と連続的に繋がる「透明な建築」だと、訳のわからないこと(でもないと思うが・・・)を書いて今回は終わりにする。
注:所謂「透明な建築」とは要するに壁面が透明、つまりガラスでできた建築のことだと、ちょっと乱暴だが、言い切ってしまう。しかしその存在は決して透明ではない。むしろよく目立つ。 今回のように周辺環境に溶け込むという意味で使う透明、透明な建築とは異なる。