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■ まだまだ本の話。
『落城・足摺岬』田宮虎彦(新潮文庫1965年25刷) ずいぶん昔の本だからパラフィン紙のカバーが劣化している。この文庫本は表題2作の他に5作を納める短編集。いつ読んだのか不明だが高校生の頃か。
『足摺岬』はおよそ30頁の短編。実に暗いトーンのストーリーだが、どうもぼくにはこのような小説を好む傾向があるらしい。今読んでいる荷風の『夢の女』もタイトルのイメージに反し、薄幸の若い女性が主人公で、ストーリーが暗い。
『足摺岬』は再読したい。
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■ まだまだ本の話。
『落城・足摺岬』田宮虎彦(新潮文庫1965年25刷) ずいぶん昔の本だからパラフィン紙のカバーが劣化している。この文庫本は表題2作の他に5作を納める短編集。いつ読んだのか不明だが高校生の頃か。
『足摺岬』はおよそ30頁の短編。実に暗いトーンのストーリーだが、どうもぼくにはこのような小説を好む傾向があるらしい。今読んでいる荷風の『夢の女』もタイトルのイメージに反し、薄幸の若い女性が主人公で、ストーリーが暗い。
『足摺岬』は再読したい。
撮影日2020.06.21
■ 辰野町横川の双体道祖神。像に横から光が当たり、より立体的に見えている。正面からの光だと、陰影に欠け、平面的にしか見えない。
仲睦まじい夫婦の立像で、お互いに相手の肩に手を掛け、杯と酒器をもう片方の手に持っている。酒器像と呼ばれる道祖神。
像の上に月と日を彫ってある。下の写真のように青面金剛像を彫った石仏には月と日が像の上にあることが少なくない。この月と日は何を意味しているのだろう。庚申の夜の祈りに関連して時間の経過、日替わりを願うものではないか。いや、もっと深い宗教的な意味があるだろう。
ではこのような月と日がなぜ道祖神に彫ってあるのだろう・・・。まあ、民間信仰はいろんなものが混淆しているだろうから、別に不思議なことでもないか(と、片づけてしまっては知識も深まらない)。
東京都江戸川区東瑞江にて 撮影2014年7月
本稿の道祖神は2011年8月にも載せている。
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■ 『人生論ノート』三木 清(新潮文庫1974年49刷) 20代で読んだ本は、ぼくを木に喩えるなら、枝葉ではなく、幹になっているような気がする、ただ何となく。
**ハイデッカーに師事し、哲学者、社会評論家、文学者として昭和初期における華々しい存在であった三木 清の、肌のぬくもりさえ感じさせる珠玉の名論文集。**(カバー裏面の紹介文より)
あちこちに傍線を引いてあるから、この本も読んだのであろう。目次の「娯楽について」と「希望について」に△印をつけてある。
今なら「旅について」に印をつけ、次の一節(136頁)に傍線を引き、やはりそうだよな、と再確認というか、再認識するだろう。**何処から何処へ、ということは、人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へいくのであるか。これがつねに人生の根本的な謎である。そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として変わることがないであろう。(中略)人生は未知のものへの漂泊である。
ああ、46年ぶりの再読なり。