良寛は越後一なる絶景の
夕日の丘に記念館建つ 樋田哲仙
良寛の生誕地出雲崎町は海と山の間にへばりつくような小さな町である。良寛記念館は小高い山の上の夕日の丘公園にある。越後一の絶景と記した碑が建ち、出雲崎の町並みを見下ろす。記念館には良寛の遺墨の外に画壇の巨匠文谷兆兆、河合玉堂の絵や村上三島の書も展示されていて、楽しめることができた。
夕日の丘に記念館建つ 樋田哲仙
良寛の生誕地出雲崎町は海と山の間にへばりつくような小さな町である。良寛記念館は小高い山の上の夕日の丘公園にある。越後一の絶景と記した碑が建ち、出雲崎の町並みを見下ろす。記念館には良寛の遺墨の外に画壇の巨匠文谷兆兆、河合玉堂の絵や村上三島の書も展示されていて、楽しめることができた。
荒海の音の間近に聞こえ来る
生誕の地に良寛堂建つ 樋田哲仙
出雲崎の名主橘屋の長男として生まれ良寛(山本栄蔵)は18歳の時家を出て、22歳で出会った備前圓通寺の国仙和尚の元34歳まで修行し、国へ帰る。現在生誕地に良寛堂が建てられている。地蔵堂に毛の生えた程度の大きさの堂で中は覗けなかった。冬場は寂しく荒海の音だけがやたらに大きく聞こえたであろう。
生誕の地に良寛堂建つ 樋田哲仙
出雲崎の名主橘屋の長男として生まれ良寛(山本栄蔵)は18歳の時家を出て、22歳で出会った備前圓通寺の国仙和尚の元34歳まで修行し、国へ帰る。現在生誕地に良寛堂が建てられている。地蔵堂に毛の生えた程度の大きさの堂で中は覗けなかった。冬場は寂しく荒海の音だけがやたらに大きく聞こえたであろう。
良寛を知れば知るほどわが目にて
長き苦節の五合庵をば 樋田哲仙
良寛はは岡山圓通寺の国仙和尚の元11年間修行したた後、越後の出雲崎に戻る。近くの国上山(313)中腹の五合庵に住し、20年間暮らした。この庵をわが目で確かめたくの旅である。冬は雪の寒さ、夏は藪蚊の襲来、低山では谷川もなく水はどうしたかと思うと、常人にはできない暮らしであっただろう。庵を目にした感動はいつまでも想い出されるに違いない。
長き苦節の五合庵をば 樋田哲仙
良寛はは岡山圓通寺の国仙和尚の元11年間修行したた後、越後の出雲崎に戻る。近くの国上山(313)中腹の五合庵に住し、20年間暮らした。この庵をわが目で確かめたくの旅である。冬は雪の寒さ、夏は藪蚊の襲来、低山では谷川もなく水はどうしたかと思うと、常人にはできない暮らしであっただろう。庵を目にした感動はいつまでも想い出されるに違いない。
越後路はなにわともあれ良寛の
史跡巡りて喜びの旅 樋田哲仙
5月の大型連休を利用して越後路を巡った。良寛和尚の史跡が主目的である。良寛はよくしられた高僧と思いきや、そうではなかった。特に若者は縁遠い。曹洞宗の禅僧良寛が20年間住した五合庵はどんなところか訪ねたいのだが、そこは国情寺の境内地で、まず、この寺へゆかなければならなかった。
史跡巡りて喜びの旅 樋田哲仙
5月の大型連休を利用して越後路を巡った。良寛和尚の史跡が主目的である。良寛はよくしられた高僧と思いきや、そうではなかった。特に若者は縁遠い。曹洞宗の禅僧良寛が20年間住した五合庵はどんなところか訪ねたいのだが、そこは国情寺の境内地で、まず、この寺へゆかなければならなかった。
盆栽は樹木の縮図広大な
世界を見せて弥彦の展示 樋田哲仙
弥彦神社楼門と本殿を結ぶ両側の回廊に見事な盆栽が数十鉢が展示されていた。値段のつけようがない年期の入った代物の代物ばかり。樹木の伝統芸術は静かに守り続けらている。トショウ、ゴヨウマツ、カエデが主で、中にはフジの花を咲かせているものもあった。どの鉢にも感服させられてしまった。
世界を見せて弥彦の展示 樋田哲仙
弥彦神社楼門と本殿を結ぶ両側の回廊に見事な盆栽が数十鉢が展示されていた。値段のつけようがない年期の入った代物の代物ばかり。樹木の伝統芸術は静かに守り続けらている。トショウ、ゴヨウマツ、カエデが主で、中にはフジの花を咲かせているものもあった。どの鉢にも感服させられてしまった。