好天に誘はれるのか人溢る
藤満開となりし連休 樋田哲仙
泉南市の熊野古道沿いに一民家でありながらフジで有名な家がある。樹齢30有余年のの大木が毎年新聞各紙やテレビで報道され電車を利用して遠くからも見物に来る人もおり、大変な賑わいを見せる。「ふじ保存会」も結成されて満開の時季にはイベントも開催れる。今年は大型連休前半で満開となった。
藤満開となりし連休 樋田哲仙
泉南市の熊野古道沿いに一民家でありながらフジで有名な家がある。樹齢30有余年のの大木が毎年新聞各紙やテレビで報道され電車を利用して遠くからも見物に来る人もおり、大変な賑わいを見せる。「ふじ保存会」も結成されて満開の時季にはイベントも開催れる。今年は大型連休前半で満開となった。
神宮の号を冠する境内は
風格ありて他を寄せ付けず 樋田哲仙
吉野山に登り始めて、すぐに、神宮の鳥居が出てくる。それをくぐらず直進すると間もなく神宮の駐車場が出てくる。その方が早い。建造物の屋根がすべて銅版葺きで整然としている。明治22年後醍醐天皇を祀るために建造された。社格は元官幣大社。神宮号を冠するは近畿では近江神宮、橿原神宮などががある。
風格ありて他を寄せ付けず 樋田哲仙
吉野山に登り始めて、すぐに、神宮の鳥居が出てくる。それをくぐらず直進すると間もなく神宮の駐車場が出てくる。その方が早い。建造物の屋根がすべて銅版葺きで整然としている。明治22年後醍醐天皇を祀るために建造された。社格は元官幣大社。神宮号を冠するは近畿では近江神宮、橿原神宮などががある。
人麻呂のかぎろふ歌に曲つけし
人が自ら歌ふ吉野に 樋田哲仙
吉野神宮へようやくたどりつくと境内ににはほとんど人はいなかったが、60歳前後の一人の女性がシダレザクラの下で思慮深く立っている。話しかけると万葉集が好きで人麻呂のかぎろいの歌に自分で曲をつけて歌っていたという。聞かせてほしいと願うと披露してくれた。素晴らしい。一人旅をする人は教養人が多いことに気付いた。
人が自ら歌ふ吉野に 樋田哲仙
吉野神宮へようやくたどりつくと境内ににはほとんど人はいなかったが、60歳前後の一人の女性がシダレザクラの下で思慮深く立っている。話しかけると万葉集が好きで人麻呂のかぎろいの歌に自分で曲をつけて歌っていたという。聞かせてほしいと願うと披露してくれた。素晴らしい。一人旅をする人は教養人が多いことに気付いた。
思ふとも恋ふとも逢はむものなれや
結h(ゆ)ふ手もたゆく解くる下紐 詠み人知らず
どんなに思おうが、恋層そうが、あの人だけは逢えないのだ。だが今夜は結びなおす手が痛いほどで、下紐が解けるのではないか。
結h(ゆ)ふ手もたゆく解くる下紐 詠み人知らず
どんなに思おうが、恋層そうが、あの人だけは逢えないのだ。だが今夜は結びなおす手が痛いほどで、下紐が解けるのではないか。
ゆとりなき吉野の旅を振り返る
ここもあそこも寄りたきものと 樋田哲仙ん「
ゆとりのない今回の吉野行は無念が残る。往復で5時間かかるところへ渋滞で大きく時間のロスとなった。桜の時季の吉野は大変である。如意輪寺では庫裏の唐破風の茅葺と瓦葺、大きな煙台を観察しただけである。裏山の後醍醐天皇陵の塔尾陵には寄れなかった。何のための吉野であったのかと振り返る。
ここもあそこも寄りたきものと 樋田哲仙ん「
ゆとりのない今回の吉野行は無念が残る。往復で5時間かかるところへ渋滞で大きく時間のロスとなった。桜の時季の吉野は大変である。如意輪寺では庫裏の唐破風の茅葺と瓦葺、大きな煙台を観察しただけである。裏山の後醍醐天皇陵の塔尾陵には寄れなかった。何のための吉野であったのかと振り返る。
人知れぬ思いや謎を葦垣の
まぢかけれど逢ふよしもがな 詠み人知らず
「人知れぬ思い」だなんて言葉はきれいだが、何の意味がある・・・と。そう思って積極的に出たいと思うのだが、しかし、間近い葦の垣根と同じで、間近に住んでいても。逢引の機会もない。
まぢかけれど逢ふよしもがな 詠み人知らず
「人知れぬ思い」だなんて言葉はきれいだが、何の意味がある・・・と。そう思って積極的に出たいと思うのだが、しかし、間近い葦の垣根と同じで、間近に住んでいても。逢引の機会もない。
正行(まさつら)が扉に辞世書きし寺
戦国の世より名を響かせて 樋田哲仙
渋滞に巻き込まれた吉野行は時間に追われて、如意輪寺では何も見ていない結果となった。本堂は扉が閉まっていて入れない。入山料は庫裏を見るだけだ。それではもったいないので境内から建物を見るだけであった。後でパンフレットで知ったことだが、多宝塔があったらしい。惜しいことをした。この寺は楠木正成の子正行が四条畷の戦いに備え、一族郎党を引き連れて出発する際、死を覚悟して辞世の歌を扉に書き残したことで有名である。
戦国の世より名を響かせて 樋田哲仙
渋滞に巻き込まれた吉野行は時間に追われて、如意輪寺では何も見ていない結果となった。本堂は扉が閉まっていて入れない。入山料は庫裏を見るだけだ。それではもったいないので境内から建物を見るだけであった。後でパンフレットで知ったことだが、多宝塔があったらしい。惜しいことをした。この寺は楠木正成の子正行が四条畷の戦いに備え、一族郎党を引き連れて出発する際、死を覚悟して辞世の歌を扉に書き残したことで有名である。