知らぬ地を迷ふことなくナビにより
訪れたるは円隆寺かな 樋田哲仙
西舞鶴駅近くの愛宕山麓に奈良時代の僧行基の創建による真言宗御室派円隆寺がある。ナビ頼みで容易に目的地へ到着した。重厚な本堂は大きく頑健である。重要文化財には阿弥陀仏坐像、薬師如来坐像とあるが、扉が閉まり拝観はできなかった。最隆盛期には70の塔頭を擁した古刹である。
訪れたるは円隆寺かな 樋田哲仙
西舞鶴駅近くの愛宕山麓に奈良時代の僧行基の創建による真言宗御室派円隆寺がある。ナビ頼みで容易に目的地へ到着した。重厚な本堂は大きく頑健である。重要文化財には阿弥陀仏坐像、薬師如来坐像とあるが、扉が閉まり拝観はできなかった。最隆盛期には70の塔頭を擁した古刹である。
遠くから野辺に目につく緋の花は
近寄るまでもなく彼岸花 樋田哲仙
今年は少し遅れながら、といっても2,3日の遅れ程度だが彼岸には間違いなくヒガンバナは咲く。道端や畦道を真っ赤に染め上げる。枯草が藻勢いよく燃え上がるように咲く。茎だけが伸びあがり頂に花をつける。咲き終わってかr派が伸びる変り種である。見た目にも毒々しいが球根には毒がある。あまり摘み取って家へ帰る気にはならない
近寄るまでもなく彼岸花 樋田哲仙
今年は少し遅れながら、といっても2,3日の遅れ程度だが彼岸には間違いなくヒガンバナは咲く。道端や畦道を真っ赤に染め上げる。枯草が藻勢いよく燃え上がるように咲く。茎だけが伸びあがり頂に花をつける。咲き終わってかr派が伸びる変り種である。見た目にも毒々しいが球根には毒がある。あまり摘み取って家へ帰る気にはならない
揃ひたる穂は一面に輝きて
生石高原見頃とぞなる 樋田哲仙
生石高原のススキは2年ぶりとなる。前回は10月中旬に訪ねて遅すぎ、精彩のない穂が頂を覆っていて写真には適さなかった記憶から、今年はお彼岸の中日に出かけた。出そろったばかりの艶やかな穂が秋風になびく。若者の活気に満ちた肌と老人のしわだらけの肌の差がある。関西ではススキの観賞はお彼岸のころと心に銘記しておこう。
生石高原見頃とぞなる 樋田哲仙
生石高原のススキは2年ぶりとなる。前回は10月中旬に訪ねて遅すぎ、精彩のない穂が頂を覆っていて写真には適さなかった記憶から、今年はお彼岸の中日に出かけた。出そろったばかりの艶やかな穂が秋風になびく。若者の活気に満ちた肌と老人のしわだらけの肌の差がある。関西ではススキの観賞はお彼岸のころと心に銘記しておこう。
山里は冬ぞさびしさまさりける
人目も草もかれぬと思へば 源宗于朝臣
山里に住んでみると、寂しさが一段と感じられるのは、やはり冬であった。今までは多少でも見かけた人目も離れ、生命を持った草もおのずと枯れてゆくのだと思うと。
この歌は百人一首第二十八番に収めれている。
人目も草もかれぬと思へば 源宗于朝臣
山里に住んでみると、寂しさが一段と感じられるのは、やはり冬であった。今までは多少でも見かけた人目も離れ、生命を持った草もおのずと枯れてゆくのだと思うと。
この歌は百人一首第二十八番に収めれている。
渡りたき舞鶴港の奥の奥
鶴の羽ばたくイメージの橋 樋田哲仙
舞鶴港はリアス式海岸で東西に分けられる。東の方が主だったスポットが多い。舞鶴クレインブリッジは引揚桟橋に近く平湾にかかる長さ735m、高さ92mの鶴の羽ばたくイメージに作られた白い橋である。名所の一つでぜひ渡りたく予定通り車で通行したが、爽快感はありながらあっという間の時間で物足りなさがあった。これは仕方がない。
鶴の羽ばたくイメージの橋 樋田哲仙
舞鶴港はリアス式海岸で東西に分けられる。東の方が主だったスポットが多い。舞鶴クレインブリッジは引揚桟橋に近く平湾にかかる長さ735m、高さ92mの鶴の羽ばたくイメージに作られた白い橋である。名所の一つでぜひ渡りたく予定通り車で通行したが、爽快感はありながらあっという間の時間で物足りなさがあった。これは仕方がない。
境内に入りて二度目をふと気づく
寺の歩みの苦笑ひかな 樋田哲仙
関西花の寺二十五ケ寺の一つ舞鶴の金剛院はバスツアーで訪ねたことがある。バスでは道中がわからず到着して降車するだけだ。バスの旅は気楽なものだ。マイカーでは道中をしっかりと移動するから、その差は大きい。初めての寺と思って訪ねると山門まで来て気づいた。こんなときは驚きえを通り越して苦笑い。反面懐かしさも蘇り季節が違えば眺めも違う。金剛院は思わぬ再度の訪問である。
寺の歩みの苦笑ひかな 樋田哲仙
関西花の寺二十五ケ寺の一つ舞鶴の金剛院はバスツアーで訪ねたことがある。バスでは道中がわからず到着して降車するだけだ。バスの旅は気楽なものだ。マイカーでは道中をしっかりと移動するから、その差は大きい。初めての寺と思って訪ねると山門まで来て気づいた。こんなときは驚きえを通り越して苦笑い。反面懐かしさも蘇り季節が違えば眺めも違う。金剛院は思わぬ再度の訪問である。