竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 七六 高市黒人を鑑賞する

2014年07月19日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 七六 高市黒人を鑑賞する

 今回は高市黒人の歌を鑑賞したいと思います。
 最初に、この高市黒人の人物像を探りますと、有名な和歌を扱うHP「千人万首」では、次のような解説で紹介される人物です。

持統・文武朝頃の歌人。伝不詳。高市氏は県主(あがたぬし)氏族の一つで、古来大和国高市県(今の奈良県高市郡・橿原市の一部)を管掌した。大宝元年(701)の太上天皇吉野宮行幸、同二年の参河国行幸に従駕して歌を詠む。すべての歌が旅先での作と思われる。下級の地方官人であったとみる説が有力。万葉集に十八首収められた作は、すべて短歌である。

 非常にあっさりとした解説です。『万葉集』での時代区分を実作ベースとした時、この高市黒人は柿本人麻呂と同時代に位置し、『万葉集』に載る作品群では最初期に区分される人物です。その分、歴史に於いて人物が不明となり、人物紹介があっさりしたものとならざるを得ないのでしょう。
 追加参考として、高市黒人は「連(むらじ)」と云う氏族の階級を示す「姓(かばね)」を保持します。この「連」と云う姓を持つ高市連は『新撰姓氏録』に従うと天津日子根命の子孫を称する天孫系氏族の一つで、その出身は大和国高市県(今の奈良県高市郡から橿原市の一部)を管掌した高市県主です。その「県主」の姓は、天武天皇の定めた「八色の姓」の制度により、その嫡流だけに天武天皇十二年(683)になって「連」と云う階級を示す「姓」が賜与されています。つまり、これらの史実から高市黒人は高市県主の直系の子孫となります。
 さらに、天武天皇朝の左大臣、持統天皇朝の太政大臣を務めた高市皇子の養育を担当する「壬生」をその「高市皇子」なる呼称から高市県主が務めたと推定されます。およそ、高市黒人は天武・持統天皇朝では高市皇子との深い関係があったと想像することは許されるでしょう。これは、柿本人麻呂が高市皇子へ壮大な挽歌を捧げた姿から人麻呂と高市皇子との深い関係が想像されるとき、高市皇子を通じて高市黒人と人麻呂とは何らかの交流があったと推定することが許されるのと同等です。

 さて、「万葉集の歌をどのように解釈するか」と云う問題を提起するとき、現代では高市黒人の歌とされる集歌32の歌が例題としてよく取り上げられます。高市黒人の歌の鑑賞では最初にその歌を最初に紹介します。

高市古人感傷近江舊堵作謌 或書云、高市連黒人
標訓 高市古人の近江の旧堵(きゅうと)を感傷(いたみ)て作れる謌 或る書(ふみ)に云はく「高市連黒人」といへり
集歌32 古 人尓和礼有哉 樂浪乃 故京乎 見者悲寸
訓読 古(いにしへ)し人に吾(わ)れあれや楽浪(ささなみ)の故(ふるき)京(みやこ)を見れば悲しき
私訳 当時の古い時代の人間だからか、私の今は。この楽浪の故き京を見ると悲しくなる。

集歌33 樂浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛
訓読 楽浪(ささなみ)の国つ御神(みかみ)の心(うら)さびて荒れたる京(みやこ)見れば悲しも
私訳 楽浪の国を守る国つ御神の神威も衰えて、この荒廃した京を見ると悲しくなる。

 この歌は柿本人麻呂が詠う集歌29から31までの「過近江荒都時、柿本朝臣人麿作歌」と標題を持つ歌群の次に載せられ、テーマは近江国大津にあった天智天皇朝の大津宮の荒廃を詠うものです。そこから、高市黒人と柿本人麻呂とは同時期に旧都大津宮を訪れたのではないかとも推測されています。
 こうした時、集歌32の歌の初句「古人尓和礼有哉」について、平安時代初期のように「古人尓 和礼有哉」と区切ると「ふるひとに われはあらむや」と訓むことになり、現代風に「古 人尓和礼有哉」と区切ると「いにしへし ひとにわれあれや」と訓むことになります。今日の万葉集伝本の研究では、原初万葉集ではまだ標題は整っておらず、現代に伝わる『万葉集』が編纂された時代に多くの標題が付け加えられ整備されたと推定します。この背景から集歌32の歌は「古人尓 和礼有哉(ふるひとに われはあらむや)」と訓み、「私は古人と云う名前を持っているから、このように古びた都を見ると・・・」と解釈したと考えられます。この解釈が標題の「高市古人感傷近江舊堵作謌」と云うことになります。
 およそ、この集歌32の原歌「古人尓和礼有哉樂浪乃故京乎見者悲寸」をどのように区切り・読み解くかにより、万葉集編纂の歴史への解釈や態度が変わると云う興味深い歌です。現代の解釈は平安初期に編纂された『万葉集』に載る標題に対して、さらに後に万葉集研究者が付けられた「或書云、高市連黒人」と云う注釈を尊重して、「古 人尓和礼有哉(いにしへし ひとにわれあれ)」とします。これにより、「高市古人」なる人物は誤解釈からの名前であるから、存在しない人物と扱われることになりました。
 参考として、「古 人尓和礼有哉(いにしへし ひとにわれあれ)」との解釈では高市黒人は天智天皇朝の大津宮の繁栄を体感した同時代人となりますし、同様に柿本人麻呂もまた同時代人であったと解釈することになります。およそ、歌から年齢推定のヒントが得られると云う例題になる歌でもあります。
 『万葉集』には高市黒人の名を持つ同時期に詠われたのではないかと思われる歌があります。この歌の作者は、およそ、大津宮の繁栄と荒廃の当事者である意識があります。

高市連黒人近江舊都謌一首
標訓 高市連黒人の近江(あふみ)の舊都(ふるきみやこ)の謌一首
集歌305 如是故尓 不見跡云物乎 樂浪乃 舊都乎 令見乍本名
訓読 かく故(ゆゑ)に見じと云ふものを楽浪(ささなみ)の旧(ふる)き都を見せつつもとな
私訳 このような思いになるから見たくないと云うのに、近江楽浪の古き都を無理に見せて。
右謌、或本曰少辨作也。未審此少弁者也
注訓 右の謌は、或る本に曰はく「少辨の作なり」といへり。未だ此の少弁なる者は審(つばび)らかならず。


 次の歌は、紹介だけです。

二年壬寅、太上天皇幸于参河國時謌
標訓 (大宝)二年(702)壬寅、太上天皇の参河の國に幸(いでま)しし時の謌
集歌58 何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
訓読 何処(いづく)にか船(ふね)泊(は)てすらむ安礼(あれ)の崎榜(こ)ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟(をふね)
私訳 どこの湊に船を泊めているのだろうか。安礼のを、帆を操り廻って行った側舷もない小さな舟は。
右一首高市連黒人
注訓 右の一首は、高市連黒人

 次に紹介する集歌70の歌は、歌よりもその歌に使われた漢字の訓みとその文字が示す地名について遊んでみました。思い入れがありますので、くどいです。

太上天皇幸于吉野宮時、高市連黒人作謌
標訓 太上天皇の吉野宮に幸(いでま)しし時に、高市連黒人の作れる謌
集歌70 倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流
訓読 大和には鳴きにか来らむ呼子(よぶこ)鳥(とり)象(ころ)の中山呼びぞ越ゆなる
私訳 大和には鳴きながらここから飛んで行くのでしょう。呼子鳥とも呼ばれるカッコウよ。秋津野の小路にある丘から「カツコヒ、カツコヒ」と想い人を呼びながら越えて行きました。
注意 当時、流行した博打の一種である樗蒲(ちょぼ、かりうち)で、その出目である一伏三起を「ころ」と云い「象」と記すます。なお、集歌70の歌の標の「太上天皇幸于吉野宮時」とは、持統太上天皇の吉野宮への御幸を示しますから、推定で大宝元年(701)六月の吉野宮への御幸の時を示すのではないかと考えています。

 ここで、標準的な解説をしますと、集歌70の歌での「象」は「きさ」と訓みます。
 これは地名で「象潟」を「きさかた」と訓むところと同じです。この地名である象潟が歴史に現れるのは『延喜式』(927年)が古い例です。ただ、この時の表記は「蚶方(きさかた)」または「蚶形(きさかた)」であって、「象潟」ではありません。あくまで、「蚶」は赤貝の古名である「キサガイ」からの「キサ」です。ではどうして、象を「きさ」と読むようになったのかと云いますと、古語で年輪として現れる木目を橒(きさ)と云います。そして、平安時代に象牙の横断面の成長痕が木目に似ていることから象牙のことを「きさのき」と呼んでいたことから、言語研究者は物品としての「象牙」が先に日本に輸入され、言葉としての「ぞうげ」は後から入って来たとします。そして、漢語発音を嫌った平安時代に「象牙」を「きさのき」と呼称していたことから奈良時代以前もそのように呼んでいたのであろうとします。同じような無理やりの当て字の例として『日本書紀』に載る水の精霊を「水神罔象」と記し、これを「此云美都波(みつは)」と訓まします。この和語に対する無理やりの当て字の由来は中国書『准南子』の載る説話で水の精霊を「罔象」と記しているところに拠ります。集歌32の歌と同じように平安時代人は「象」を「きさ」と訓んだとするのが良いようで、万葉人がそのように訓んだか、どうかは、また、別な話です。このような背景があるためか、平安時代に編纂された『和名抄』には「象 和名 伎左」と記述されています。ただ、同時に奈良時代に大流行した博打に使われる用語では「象」と記して「ころ」とも訓みますから、この『万葉集』に載る文字「象」を木目調での意味合いでの「きさ」と訓むのか、博打からの洒落で「ころ」と訓むのかの判定は難しいところです。
 おまけとして『日本書紀』天智天皇紀を引用して「象牙」を「きさのき」と呼称していたと解説するものがありますが、それは為にする想像の解説です。『日本書紀』には「是月、天皇遣使奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀香及諸珍財於法興寺仏」と記述するだけで、先に紹介した「罔象此云美都波」のような補足表記はありません。他文献から「象牙」の訓みが確定するまで、『日本書紀』の記事は漢語発音すべき扱いのものです。「一般人は漢文で表記された原文を読めない、読まない」として現代訳文と称して創訳する悪習は、もう、止めるべきです。

 次の覊旅謌八首は歌で詠われる地名と黒人の生きた時代を想像しますと、大宝二年の持統太上天皇の三河国への御幸の時に詠われたものであろうと考えられます。この時の御幸の工程は行宮を伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の五国に造営し、往きは船で三河に直接に至り、帰りは尾張・美濃・伊勢・伊賀と陸路を辿っています。美濃の行宮から伊勢の行宮までには五日を要していますから、この時、不破関を越え北近江の地を訪れた可能性があります。さらに伊勢からの帰京において、伊賀行宮からは御幸の一行とは別行動を取り、何らかの理由で旧大津宮を訪れてから帰京した可能性も否定できません。
 このように旅程や旅の動機を想像しますと、古くからその地名について多くの提案がなされてきた覊旅謌八首に載る集歌272の歌で詠われる「四極山」は、御幸の一行が大船で三河へ直航したとしますと、当時の大船の港である大伴御津に関係するであろうと想像することが可能となります。およそ、賀茂真淵は四極山について摂津説(大阪市住吉区)を唱え、歌で詠われる笠縫島は摂津国笠縫邑(現在の大阪市東成区深江)としますから、御幸の旅程からするとこの説が本来と思われます。
 こうした時、『万葉集』巻九に高市謌一首との標題を持つ集歌1718の歌があります。詠う地名が近江国高島であり、高市の名を持ちますから、時にこの歌は高市黒人のもので、それも大宝二年の持統太上天皇の三河国への御幸の時に詠われたものであるかもしれません。

高市連黒人覊旅謌八首
標訓 高市連黒人の覊旅(たび)の謌八首
集歌270 客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽呆舡 奥榜所見  (呆はネ+呆の当字)
訓読 旅にせに物恋しきに山下(やました)し赤(あけ)のそほ船沖榜ぐそ見ゆ
私訳 旅路にあって物恋しいときに、ふと気が付くと、山の裾野に赤丹に塗った官の船が、いつの間にか沖合を帆走していくのを見た。
注意 原文の「赤乃曽呆舡」は、一般には「赤乃曽保船」と表記します。

集歌271 櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡
訓読 桜田部(さくらたへ)鶴(たづ)鳴き渡る年魚市(あゆち)潟(かた)潮干(しほひ)にけらし鶴(たづ)鳴き渡る
私訳 桜田辺り、鶴が鳴き飛び渡る年魚市の干潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴き飛び渡る。

集歌272 四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小舟
訓読 四極山(しはつやま)うち越え見れば笠縫(かさぬひ)し島榜(こ)ぎ隠(かく)る棚なし小舟
私訳 四極山のその山を苦労して越えて眺めると、笠縫にある嶋を帆走して嶋にその姿を隠す、側舷もない小さな舟よ。

集歌273 礒前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴 (未詳)
訓読 磯し前(さき)榜(こ)ぎ廻(た)み行けば近江(あふみ)海(うみ)八十(やそ)し湊(みなと)に鶴(たづ)さはに鳴く (未だ詳(つばび)らかならず)
私訳 磯の岬を帆走して回り行くと、近江の海にある数多くの湊に鶴がしきりに鳴く。

集歌274 吾船者 枚乃湖尓 榜将泊 奥部莫避 左夜深去来
訓読 吾が船は比良(ひら)の湖(みなと)に榜(こ)ぎ泊(は)てむ沖へな避(さか)りさ夜更けにけり
私訳 私が乗る船は比良の湊に榜ぎ行き泊まろう。沖には決して離れて行くな。夜も更けたことです。

集歌275 何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者
訓読 いづくにか吾し宿(やど)らむ高島の勝野(かちの)し原にこの日暮(く)れなば
私訳 どこに今夜は私は宿を取りましょう。高嶋の勝野の野原で、この日が暮れてしまったら。

集歌276 妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴
訓読 妹もかもひとりなるかも三河なる二見(ふたみ)し道ゆ別れかねつる
私訳 一夜妻も私と同じように一人なのだろうか、そう思うと、この三河の昨夜の宿の辺りを振り返って見る道から別れ去りかねている。
一本云 水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去
一本(あるほん)に曰はく、
訓読 三河(みかは)の二見(ふたみ)し道ゆ別れなば吾背も吾も一人かも行かむ
私訳 三河にある再び会うと云うその二見の道で別れたならば、私の愛しい貴女も私も独りだけでこれらかを生きて行くのでしょう。

集歌277 速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去奚留鴨
訓読 速(はや)来ても見てましものを山背(やましろ)し高(たか)し槻群(つきむら)散りにけるかも
私訳 何が無くても早くやって来ても眺めましたものを、山城の背の高い槻の群落の黄葉は散ってしまったようです。

参考歌
高市謌一首
標訓 高市(たけち)の歌一首
集歌1718 足利思伐 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓濫鴨
訓読 率(あとも)ひて榜(こ)ぎ行く舟は高島(たかしま)し阿渡(あと)し水門(みなと)に泊(は)てるらむかも
私訳 船人を率いて帆を操り行く舟は、高島の阿渡の湊に停泊するのでしょうか。

 次に紹介する歌もまた覊旅謌です。集歌279の歌で詠われる「猪名野」は兵庫県伊丹市の猪名川と武庫川の間の台地の古名ですし、「名次山」は兵庫県西宮市名次町付近の丘をしまします。また集歌280の歌で登場する「真野」は兵庫県神戸市長田区真野町付近とします。
 高市黒人は天皇や大王の御幸に扈従する人物ですので、この覊旅謌も御幸に関係する可能性があります。そうした時、高市黒人は都に残した妻と歌の交換をしていますから、御幸先での滞在は便りを運搬した使者の旅程を考慮しますと旬(十日)単位の滞在と思われます。そうしますと、文武天皇三年の難波宮への御幸がその候補になるかもしれません。御幸は正月二十七日から二月二十日の間に渡って行われています
 参考として、集歌280と281との歌で詠われる白菅を葉裏の白い菅とする考えと冬枯れの菅と見る考えがありますが、ここでは「スゲ」の冬枯れの風情と見ています。このように想像しますと、この歌群の後に配置される集歌283の歌も文武天皇三年の難波宮への御幸の時に詠われたのではないかと想定することも可能となります。

高市連黒人謌二首
標訓 高市連黒人の謌二首
集歌279 吾妹兒二 猪名野者令見都 名次山 角松原 何時可将示
訓読 吾妹子(わぎもこ)に猪名野(ゐなの)は見せつ名次山(なすぎやま)角(つの)松原しいつか示さむ
私訳 私の愛しい貴女に猪名野は見せました。次は名次山にある角の松原をいつか見せましょう。

集歌280 去来兒等 倭部早 白菅乃 真野乃榛原 手折而将歸
訓読 いざ児ども大和へ早く白(しら)菅(すげ)の真野の榛原(はりはら)手折(たお)りて行かむ
私訳 さあ皆の者、大和へ早く帰ろう。白菅の生える真野の榛原で枝を手折って帰り行こう。

黒人妻答謌一首
標訓 黒人の妻の答へたる謌一首
集歌281 白菅乃 真野之榛原 徃左来左 君社見良目 真野乃榛原
訓読 白(しら)菅(すげ)の真野の榛原(はりはら)往(ゆ)くさ来(く)さ君こそ見らめ真野の榛原(はりはら)
私訳 白菅の生える真野の榛原を行きも帰りも貴方は眺めたのですね。その真野の榛原を。

参考歌
高市連黒人謌一首
標訓 高市連黒人の謌一首
集歌283 墨吉乃 得名津尓立而 見渡者 六兒乃泊従 出流船人
訓読 墨吉(すみのえ)の得名津(えなつ)に立ちて見わたせば武庫(むこ)の泊(とまり)ゆ出(い)づる船人(ふなひと)
私訳 住吉の得名の津に立って見渡すと、武庫の湊からやって来た船人が見える。


 さて、先に集歌1718の歌は高市黒人の歌で大宝二年の持統太上天皇の三河国への御幸の時に詠われたものと想像しました。この歌は巻九に載り、集歌1711の歌の左注と集歌1725の歌の左中の解釈によっては、柿本人麻呂歌集に収録された歌であり、人麻呂の活躍時代と同時代または先行する時代の歌と考えることが出来ます。およそ、この想定から集歌1718の歌の標題で示す高市は高市黒人であり、その高市黒人は柿本人麻呂と同時代の人物で、人麻呂と同様に御幸に扈従し、歌を残すような身分の人であったと考えるようです。

高市謌一首
標訓 高市(たけち)の歌一首
集歌1718 足利思伐 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓濫鴨
訓読 率(あとも)ひて榜(こ)ぎ行く舟は高島(たかしま)し阿渡(あと)し水門(みなと)に泊(は)てるらむかも
私訳 船人を率いて帆を操り行く舟は、高島の阿渡の湊に停泊するのでしょうか。

参考
集歌1711 百傳之 八十之嶋廻乎 榜雖来 粟小嶋者 雖見不足可聞
訓読 百づたし八十(やそ)し島廻(しまみ)を漕ぎ来れど粟(あは)し小島は見れど飽かぬかも
私訳 百へと続く八十、その沢山の島の周りを漕ぎ来るが、粟の小島は何度見ても見飽きることはありません。
右二首、或云、柿本朝臣人麻呂作。
注訓 右の二首は、或は「柿本朝臣人麻呂の作なり」といへり。

麻呂謌一首
標訓 麻呂(まろ)の歌一首
集歌1725 古之 賢人之 遊兼 吉野川原 雖見不飽鴨
訓読 古(いにしへ)し賢(か)しこき人し遊びけむ吉野し川原見れど飽かぬかも
私訳 昔の高貴な御方がおいでになった吉野の川原は、美しく眺めていても見飽きることがありません。
右、柿本朝臣人麻呂之謌集出。
注訓 右は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。


 最後となりますが、巻十七に集歌4016の歌が載せられています。詠われる地名を「婦負の野」とすると、越中国婦負郡ですから、現在の富山市付近となります。これが現代の通説となっています。ただし、昔、このような歌があったと越中国での宴会で披露されたとしますと「賣比能野能」は「比賣能野能」をもじった歌であったかもしれません。そうした時、高市黒人は文武天皇三年正月、難波宮への御幸の折に、「猪名野」を訪れていたと考えられますから、その先、姫路にも足を伸ばした可能性は捨てきれません。なお、文武天皇三年二月一日は西暦699年3月10日ですから、文武天皇三年正月二七日から二月二二日までの難波宮への御幸の間に雪が降った可能性は否定できません。

高市連黒人謌一首  年月不審
標訓 高市連黒人の謌一首  年月は審(つばひ)らかならず
集歌4016 賣比能野能 須々吉於之奈倍 布流由伎尓 夜度加流家敷之 可奈之久於毛倍遊
訓読 婦負(めひ)の野の薄(すすき)押し靡(な)べ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ
私訳 婦負の野の薄を押し倒して靡かせ降る雪に、宿を借りる今日は、悲しく感じられます。
右、傳誦此謌三國真人五百國是也
左注 右は、此の謌を傳(つた)へ誦(よ)めるは三國真人五百國、是なる。
「もじり」想定の時、
原文 比賣能野能 須々吉於之奈倍 布流由伎尓 夜度加流家敷之 可奈之久於毛倍遊
試訓 比賣(ひめ)の野の薄(すすき)押し靡(な)べ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ
試訳 姫路の野の薄を押し倒して靡かせ降る雪に、宿を借りる今日は、悲しく感じられます。


 以上、高市黒人の歌を鑑賞してきました。歌は基本的に天皇御幸での歌ですから、彼は朝廷に努める中央官庁の役人です。だだ、身分は低かったのではないでしょうか。
 そうした時、万葉歌と云う漢字と万葉仮名とを使って歌を創作出来る能力等を勘案しますと、彼は高市県主系の家系ですので宮中神事に関係する神祇官でも大史(正八位上)小史(従八位上)相当の階級であったのではないでしょうか。まず、従来に想定されている地方官ではありません。詠われる歌の状況や背景を正しく鑑賞しますと、高市黒人が富山や大分を訪れた可能性は無くなるのではないでしょうか。
 このように彼が詠う歌を鑑賞すると、高市黒人の人物像が明確になるようです。高い可能性で藤原京に勤める大史(正八位上)または小史(従八位上)相当の神祇官で、折々の天皇御幸に扈従し、宴や友人に和歌を披露するような風流人であったと考えられます。

 ご来場のお方に、ここでのものは大人の与太話でありますので、読み捨てでお願い致します。
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