評価=
すすきの屋台団地は1985年にはまだその一部だが存在していたことは確かだ。プラザ合意が1985年だからその後の地価の狂乱に合わせ消滅していったのだろう。当時はまだ20代の前半、屋台団地のお世話になることはなかったが、「歴史をこの目に」と後輩と二人で中に入った。カウンターだけの小さな室内には40代半ばのお姉さんが一人。冷やかしであることを告げ、ビールをお願いした。出されたのがめったに見ることがなかったビールの小瓶。不自然に細いその形を若い方なら見たこともないだろう。500円を支払った記憶がある。その当時まだ鴨々川や創成川の東には沢山の街娼がいた。街灯の下を避けるように立つ姿に彼女たちの抱える闇を想像したものだ。そして社会も寛容性を持ってその存在を容認していた。一種のセーフティネットと見てていたのだろ。しかしほどなくして、テレホンクラブが出現、街娼は姿を消し、性の廉価化とアンモラルが始まる
すすきの屋台団地は1985年にはまだその一部だが存在していたことは確かだ。プラザ合意が1985年だからその後の地価の狂乱に合わせ消滅していったのだろう。当時はまだ20代の前半、屋台団地のお世話になることはなかったが、「歴史をこの目に」と後輩と二人で中に入った。カウンターだけの小さな室内には40代半ばのお姉さんが一人。冷やかしであることを告げ、ビールをお願いした。出されたのがめったに見ることがなかったビールの小瓶。不自然に細いその形を若い方なら見たこともないだろう。500円を支払った記憶がある。その当時まだ鴨々川や創成川の東には沢山の街娼がいた。街灯の下を避けるように立つ姿に彼女たちの抱える闇を想像したものだ。そして社会も寛容性を持ってその存在を容認していた。一種のセーフティネットと見てていたのだろ。しかしほどなくして、テレホンクラブが出現、街娼は姿を消し、性の廉価化とアンモラルが始まる