ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

線量限界とは ガン発生との関連において

2011年03月17日 | 時事問題
館野之男 著「放射線と健康」確率的影響について(ガン発生との関係から線量限界を定義する) 
 
 何年か先に病気になるかもしれない確率をリスクという。1927年マラーはX線がショウジョウバエに突然変異を起こすことを発見し、突然変異の発生率とX線量の間に正比例の関係があると報告した。この遺伝子影響はつぎの3つの特徴を持つ。
①線量に正比例する(シーベルトで表現)。職業人、一般人に関係なく総線量に比例した影響が出現する。
②線量率には影響されない。(グレイで表現)
③直線的閾値なし仮説(LNT)
 このLNT仮説という考え方はリスク論としては画期的であり、被爆総線量で管理できる点で優れた理論を提供した。しかし1974年ICRPは遺伝障害の防止を放射線防護の主目的から外した。これより低線量放射線防護は「遺伝子からガンへ」の時代に入った。1974年原爆被爆者報告によると、白血病以外に食道、胃、泌尿器、肺、甲状腺、乳ガン、リンパ腫などの固形ガンによる死亡例が増加し、白血病の4~6倍の死亡例であった。
ICRPは1977年に確率的影響を次のように定義した。
①LNT仮説を当てはめてもよい影響を確率的影響という。
②それにより分類されるのは遺伝影響と発ガンである。
③発ガンは低線量の放射線防護で一番重要な問題である。 1990年ICRPはガン死亡率の見積りを以下に示した。

放射線従事者
  致死的がん発生:4.0 非致死的がん発生:0.8 遺伝影響:0.8  総量限界:100ミリシーベルト/5年
公衆
致死的がん発生:3.0 非致死的がん発生:1.0 遺伝影響:1.0 総量限界:1ミリシーベルト/1年

一般的な職業者の職業上の危険による年平均的死亡率は1万分の1以下である。そこで放射線による平均死亡率も1万分の1以下とするための線量限界としては余命損失から5年間平均値として20ミリシーベルト/年、公衆の被爆は一生涯として1ミリシーベルト/年と設定された。

本日の原発関連情報
本日17日午前9時の東海村近辺の測定値は200から600nGy/h(30-50が定常値)で昨日よりかなり低下した。またアメリカの専門家が推奨する半径80km以内の避難とは、北へは白石、西へは猪苗代湖、南へは茨城県高萩、東北新幹線では白石である。

asahi.com 2011年3月17日4時41分
米軍、原発80キロ以内に立ち入り禁止 国防総省
 【ワシントン=望月洋嗣】米国防総省のラパン副報道官は16日、東日本大震災の救援活動にあたる米海軍などの要員に対し、福島第一原発の半径約80キロ以内への立ち入りを禁止したことを明らかにした。「救援活動に際しての米兵の安全を確保するため」としている。


読書ノート ぺートル・ベックマン著 田尾陽一訳「πの歴史」 ちくま学芸文庫

2011年03月17日 | 書評
円周率πの計算精度を上げる歴史から数学の幅広い展開へ 第3回

 インドでは5世紀の書「シッダーンタ」はπ=3.1416を得ているが、これはアルキメデスの多角形法によっているようだ。インドのブラフマーグプタは698年π=√10=3.162277を得ているが、アルキメデスの384角形から得たπ=√98694/100=3.14156(有効精度5桁)をかなり粗くした近似である。中国では後漢の130年にπ=3.1622を得ているが、これはインドと同じやり方を起源に持つようだ。3世紀魏の劉微はアルキメデスの3072角形よりπ=3.14159を得た。精度は6桁もあった。5世紀には祖沖之は3.1415926<π<3.1425927を得ている(精度は7桁)が、これは西洋では16世紀になるまで到達できなかった値である。当時の書物ではπの計算に殆ど根拠や証明らしきものは記されていないので、結果だけを信じるしかない。特に日本や中国の東洋の数学は営業秘密のように手法や証明は記さないのが常であった。これは芸事のように秘伝であって科学ではない。だから論じることができない。πの実用精度はコンピュータでは2倍精度定数として17桁のπ=3.14159265358979324が用いられている。この2倍精度計算は必要な時だけで、π=4arctangent1を計算している。17桁以上を計算することは実用上、科学上の価値は無い。

文藝散歩 坪内稔典著 「正岡子規ー言葉と生きる」 岩波新書

2011年03月17日 | 書評
言葉に生きた明治の群像 子規評伝 第5回

3) 記者時代(明治28年まで)

 明治25年12月子規は大学を中退して、新聞「日本」に入社した。紙上で「俳句時事評」を執筆した。俳句で政治風刺をやる趣向であった。子規の批評の特徴は最初に過激な断を下すことである。26年の「芭蕉雑談」では「芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以って埋め・・・可なる者を求むるも寥寥晨星の如しと」と言い放ち、後の「歌詠みに与ふる書」においては「紀貫之は下手な歌詠みにて古今集はくだらぬ集にて有之候」という。子規を弁護して言えば、これは芭蕉全部の否定ではなく、芭蕉を宗祖とあがめる宗匠を批判した文脈である。そしてあとの文章で「老健勇邁の俳句をものにして俄然頭角を現はせし芭蕉は実に文学上の破天荒と謂つべし」と芭蕉をほめているのである。子規も「文学上の破天荒」を目指していたのである。連俳を排し五七五の発句のみを文学とし、もっぱら「俳文」を評価した。そして子規は「奥の細道」は荘重に過ぎ、むしろ滑稽諧謔の勝ったものを俳文のよさとした。明治27年子規は新聞「小日本」の編集責任者となった。月給も40円に上がった。そして故郷から母と妹を呼んだ。子規は新聞「小日本」に自作の小説「月の都」を卯の花舎の名前で連載した。この小説は幸田露伴の「風流仏」に影響されて、美辞麗句の多い文章は散文よりも浄瑠璃や謡の詞章に近い。江戸趣味に溢れた文には子規の面目は無い。そもそも新聞「日本」は政府の欧化主義に反発して国民主義を主張した新聞で、伝統的な詩を革新すべく試みられた。この「小日本」は僅か5ヶ月で廃刊になった。世は日清戦争に忙しく、子規は世に取り残された。寂寥感から子規は小旅行をし、新聞「日本」に郊外散歩の記「間遊半日」を掲載した。これが写生の始まりである。子規は絵の手ほどきを近所に住む洋画家中村不折から受け、「子規庵写生帖」となっていく。「死はますます近づきぬ、文学はようやく桂境に入りぬ」と28年友人への書簡に述べている。日清戦争への従軍が実現することになり、必死の思いは河東碧梧桐と高浜虚子に宛てた手紙に「僕の志を遂げ」と要求するのである。彼らには重荷になり高浜虚子は辞退する。この必死の思いは「墨汁一滴」、「仰臥漫録」、「病床六尺」となって結実した。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「被害甚大」

2011年03月17日 | 漢詩・自由詩
大地鳴震無盡時     大地鳴震 盡くる時無く

累累災禍竟難支     累累たる災禍 竟に支え難し

人亡何咎神明鑑     人亡するは何の咎ありてか 神明鑑む
 
悲涙双双天地知     悲涙双双 天地知れ


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(韻:四支 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)