ブログ 「ごまめの歯軋り」

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政治資金規制法の運用がおかしい

2011年03月05日 | 時事問題
asahi.com 2011年3月5日3時20分
前原外相に進退論 外国人から献金受領 4年で20万円
 前原誠司外相は4日の参院予算委員会で、京都市内の在日韓国人の女性から政治献金を受け取っていたことを明らかにした。政治資金規正法は外国人からの寄付を禁じており、献金を受けた経緯や前原氏側の認識次第では同法違反の罰則にも問われかねない。自民、公明両党は外相辞任を要求し、民主党内からも辞任論が出はじめた。進退問題に発展する可能性もある。
 4日の参院予算委で、自民党の西田昌司氏が献金の事実関係を質問したのに対し、前原氏は「中学2年生の時に(京都市の)山科に引っ越した。(献金者は)近くで焼き肉屋の経営をする在日(韓国人)の方だ。返金し、(政治資金)収支報告書を訂正したい」と認めた。

在日韓国人の知り合いが1年に5万円ずつ寄付していることのどこがおかしいのだろうか。こんなほほえましい話は涙なしに聞くことは出来ない。おそらく前原氏がどこかでこの人を援助したのであろう。この寄付金はそのお返しであろう。お歳暮お中元ぐらいの意味であろう。政治家になったらそのことぐらいは気をつけるべきではあるが、関西(九州も)の市民は在日韓国人と深い関係を持って生活している。政治資金規正法や選挙法など、在日を排除し差別している法がおかしい。税金を納め日本の法に従って生活している人に対して、このような国粋的な法律条項は失礼である。

前田耕作著 「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 岩波新書

2011年03月05日 | 書評
仏教の原義を求めて、長安からガンダーラへの旅 第13回 最終回

5) ガンダーラに向かう道 (2)
 ここで北に引き返す慧性法師と別れ、玄奘は再び東南して山と谷を越えて濫波国(ランバーカ)を目指した。濫波国(ランバーカ)はカーピシーと同じ規模の国でカーピシーの支配下にあった。イラン高原を降りたところにあり気候は温暖でオレンジ・稲などが植わっている。伽藍は十余箇所、僧はみな大乗を学んでいた。異教の祀伽藍は仏教伽藍の数倍もあった。アショーカ王の法律「ランパーカー法勅」はかってここがアケメネス朝ペルシャ、マウリア朝インドの文化の混淆地であったことを示している。濫波国(ランバーカ)をさらに東南すると那掲羅曷国(ナガラハル)(現在のジェララバード)に入る。当時カーピシーの支配下にあった。5世紀初め法顕らは那掲羅曷国(ナガラハル)からハッダ城を訪れた。当時は仏塔も荒れ放題で僧の数は僅かであるという。アショーカ王が建てたといわれる塔があり、「燃灯仏」の説話で有名である。ここで修行中の釈迦は「燃灯仏」のお告げにより「釈迦牟尼仏」となられたという。玄奘はさらに南下してハッダ城仁向かった。ハッダには多くの塔スト-パが存在していたが、19世紀ヨーロッパから来た人間が片ぱしから塔を破壊し、埋蔵物を盗んだ。中でも大英博物館にある「ピーマランの黄金の舎利容器」は秘宝である。バーク・ガイ遺跡、ガル・ナオ、グンディ、タパ・イ・カリハー、プラテス遺跡などは発掘され、ヨーロッパに持ち去られた。現地の国の人はイスラム教であり、ヨーロッパ人はキリスト教であり、誰にも遠慮することなく破壊略奪の限りが尽くされた。最近1965年頃から再び盗掘が凄まじくなってのを契機に、国際的にハッダ城を保存する動きが出てきたのは遅すぎるとはいえ幸いなことかもしれない。中国の西域求法僧たちがインドを訪れる前にかならずカンダーラを目指した。カニシカ王の仏教興隆の居城があったところであり、無著・世親の大乗教学の中心地であり、それだけにサンスクリット語(梵語)の典籍も多く、それらを学習するメッカでもあった。しかし本書はハッダ城で終わりを迎える。著者はガンダーラは別途改めて書きたいというがいつのことやら。中途半端な、何か変な終わり方だ。
(完)

文藝散歩 森鴎外著 「渋江抽斎」 中公文庫

2011年03月05日 | 書評
伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび 第22回

抽斎没後、五百を中心とした渋江氏の物語 (11)
*抽斎没後24年は明治15年(1881年)である。
保は京浜毎日新聞に寄稿した。山田脩は電信学校を卒業して工部省技手となり電信局に勤務した。矢嶋優は札幌にあって渋江氏に復籍した。優の妻蝶が没した。34歳であった。
*抽斎没後25年は明治16年(1882年)である。
保(27歳)は愛知県中学校を辞め、東京田町に移って慶応義塾攻玉舎の教師となった。烏森に家を借り、母(68歳)と水木の3人で住んだ。この年の暮に東京に帰っていた優(49歳)が心臓病で没した。
*抽斎没後26年は明治17年(1883年)である。
2月に母五百が烏森の家で没した。2月9日に脳梗塞で倒れ14日に69歳で死亡した。五百は60歳を超えて英文を勉強し始めたという。五百は若いときに学問のある夫を持ちたいと願って、数多くあった縁談より渋江抽斎を選んだのだ。保は京浜毎日新聞社編集員となった。この辺で本書は終ってもいいはずであったのだが、森鴎外はさらに保と勝久について記述を続けるのである。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「悠々自適」

2011年03月05日 | 漢詩・自由詩
春雨霏霏花気微     春雨霏霏 花気微なり

垂糸老骨釣魚磯     糸を垂れる老骨 釣魚の磯

凌寒酌酒有衣食     寒を凌ぎ酒を酌む 衣食は有り
 
歳歳加齢無是非     歳歳齢を加ふ 是非も無し


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(韻:五微 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 バルトーク 「ピアノ協奏曲、第1番、第2番」

2011年03月05日 | 音楽
バルトーク 「ピアノ協奏曲、第1番、第2番」
ピアノ:マウリツィオ・ポリーニ
クラウディオ・アバド指揮 シカゴ交響楽団
ADD 1971 ドイチェ・グラモフォン

古典音楽の西欧側からの破壊(無調性)はオーストリア楽派(シェーンベルグ、アルバンベルグ)だとすると、非西欧からの破壊活動はスラブ音楽である。ピアノは打楽器だとして、管弦楽は伴奏ではなく独立したパートであるとすると、ピアノ協奏曲と名をつける方がおかしい。ピアノ協奏曲と理解して聞こうとする人の頭を破壊する音楽は支離滅裂であろう。